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明治150年記念〈教育に関するシンポジウム〉[2018年12月19日(Wed)]

DSCN9360-A.jpg
「教育に関するシンポジウム」(2018.12.19文科省3F講堂)

明治150年を寿ぎたいのは誰か

◆政府主導の明治150年記念行事がさまざま開かれた2018年、文部科学省では「教育に関するシンポジウム」というのが開かれた(「教育シンポジウム」と簡潔にすればいいのに、なぜわざわざ「に関する」と長たらしいタイトルにしたのだろう)。

パネリストによる短いレポートには興味深いものもあったが、学者お二人による基調講演2つには全く感心しなかった。
「明治150年」に気を遣うあまり、この国の近代化に伴う負の歴史について語ることを全面的に回避したからである。

◆シンポジウム第二部のテーマは〈初等中等教育〉で、基調講演は小川正人・放送大教授による
「我が国の初等中等教育の成果と未来に求められる教育」。
最初に近代日本の教育の歴史を概観したが、教育行政が内務省の一般行政に組み込まれていったことと、各地の教育会の自立的な取り組みがあったことに言及していながら、治安維持法下の1930年代、教育弾圧事件が次々起こったこと、内務省が1930年代末から国民精神動員の中心となったことなどには全く触れない(特高の元締めは内務省であった)。

氏の専門は教育行政学のようだが、まさか歴史、とりわけ庶民の歴史に注意を払わなくても良い、と考えているわけではあるまい。
教育は学びたい人間とそれを支える人間がいて成り立つ営みなのだから、学ぶ主体を欠いて教育行政(学)が成り立つはずはない。

◆戦前の初等教育が尋常小学校から高等小、実業補習学校、そして青年学校(1939年)と整備されていく歴史にも触れているが、そうした中等教育の拡充の理由を「社会経済の発展からの要請と国民の上級学校への進学希望の増大」(レジュメより)と述べるのみで、教育分野に強力に作用した国家意思の存在(「教育勅語」はその威力を最大に発揮したものの一つであろう)について、意図的に語らずに済ましている。
学校が国家主義を注入し国民を戦争に駆り立てていった歴史について全く触れないで戦後の教育委員会制度について語れるはずがないではないか。

かくして歴史の隠蔽と改竄が進む。

*******

戦争    高階 杞一

黒板に
私は愛と書く
先生が教えてくださったとおりに

黒板に
私は夢と書く
先生が教えてくださったとおりに

黒板に
私は友達と書く
先生が教えてくださったとおりに

黒板消しはいらない

爆弾が落ちてきて
それらを一瞬のうちに
消す


『高階杞一詩集』(ハルキ文庫、2015年)より


辺見庸――〈誠実の凄み〉について[2018年12月19日(Wed)]

DSCN8571レディ・エマ・ハミルトン.JPG
「レディ・エマ・ハミルトン」という名の英国産の薔薇。

*******

辺見庸講演「存在と非在/狂気と正気のあわいを見つめて――『月』はなぜ書かれたのか」を聴く。(紀伊國屋ホール)
開演前のホールには11月16日の講演で言及があったバーバーの「弦楽のためのアダージョ」が流れていた。クラリネットによるものとカルテットによるものと。

◆講演は、いま世界が(この国も含めて)「すがれている」のではないか、下降し収縮する時代に私たちは生きているのではないか、という指摘に始まった。「末枯れる」=木などが枯れていくことを表すことばだ。

休憩を挟まず2時間半。しかしなおも語り尽くしたというのでない。時に伝え得ているか確かめるように間を置き、心を占め続けているものの像を目交(まなかい)に浮かべるようにして語った。
書き留めたことばのいくつかは改めて紹介したい。

◆電車の行き帰りに読んだ『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』から一節を――

ぼくは徒労だらけの、まちがいだらけの人生でしたけれども、いろいろな場所で、人の誠実ということにはそれはそれは教えられました。それはぼくが他者からあたえられた、照りかえされた誠実の凄みです。死にゆく人に夜半につきそい、痰を取りつづける看護師の形相、痛がるがん患者の背中を何時間もさすりつづける人のまなざし……やさしさやいつくしみともちがう、もっと荘厳な目の色の深さを見たことがあります。
ぼくはひとりになったときに、顔が自然にふっと赤らむ、つまり赤面することがあるのです。赤面するのは、多くを語らない彼女およびかれらにたいして自分が恥ずかしくなるからです。どんな宗教の持ち主であれ、あるいは無信仰、無思想の人であれ、よく語るぼくは恥ずかしいとおもうのです。かれらの心ばえというものに、高邁な思想も哲学も政治信条も勝てないとおもう。結局、僕は百万言積みあげたような複雑な理屈、行動のともなわない華麗な理屈よりも、その心ばえが圧倒すると思うのです。
そういう陰徳というか、額縁にはいることのない絵というか、人間の底光りするような、あるいは底光りとさえ気づかれないような徳というのか、そういうものがこれから世の中に見えてくるのかこないのか。自分はどうするのか。それはすごく、いつにもなく関心があります。
 


辺見庸『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』第五章〈人智は光るのか〉より(角川文庫、2010年)。
 *2009年2月放送のETV特集、講演をもとに再構成、加筆したもの。



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