辺見庸『月』―〈在る〉を問う[2018年11月18日(Sun)]
◆『月』1より「きーちゃん」のモノローグ
わたし(たち)を、しごと(学術研究、医療、宗教、清掃、介助その他)いがいのひつようと動機でみたがるひとは、ごくまれである。おおかたのひとは、わたしをほんとうはみたがらない。とおもう。視界にいれたがらない。視界にはいる回数を、可能なら、なるたけへらしたいとおもわれている。であろう。できればいっしょうみずにすめばいいと、おもわれている。みるがわにだって、かっとうがある。みるのをいとうきもちと、そうであってはいけないというきもち。みるのをいとうのをさとられたくないきもち……。嫌悪と反嫌悪。さすがにそう公言はされないけれども、からだや体液に触れることも内心、忌まれているかもしれない。わかる。わかります。わかりますとも。わたし(たち)はいっぱんに〈わからない存在〉と括られたりするけれども、それぞれ、なにかしらわかっていることもないではない。この園には、そんなひとが、わたしだけではなく、たくさんいる。渾身のユーモアをもって、いってみようか。わたし(たち)はだんじて、ぜつめつ危惧種ではない。スマトラオランウータンのように、ぜつめつを危惧されてはいない。ちっとも。むしろぜつめつを期待されているかもしれない。ともあれ、わたしはここに、在る。いる。
(p.9)
◆11月16日の辺見庸講演より
〈『月』をなぜ小説として書いたか〉について
TVやノンフィクションにはできないこと――死者をして語らしめることができない。沈黙する者に語らしめることはできない。
植物には意識がないのかどうか。意識がないとみなされているものには本当に意識がないのか?
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◆ベッドの上に横たわって介護を受ける立場の「きーちゃん」のことば、「みるがわにだってかっとうがある」は、当然、「見られる」ものたちが抱えている葛藤を示してもいる。
であるから、この段の「みる」は「みられる」に悉く反転させて置き直すことができる(オセロの駒のように)。すなわち「みられるのをいとうきもちとそうであってはいけないというきもち」「みられるのをいとうのをさとられたくないきもち」というように。
これらは、主体と客体の境はアイマイなものだとか、彼我の違いは相対的なものだ、とかいうような閑文字をもてあそんでいるのではあるまい。
〈絶滅を…期待されている〉のが自分ではない、と果たして確信をもって言い切れるか、あなたは?
そう問いを突きつけている。
死者をして語らしめようとするこの小説は、読む者ののど元で〈「生きてる」と思っているあなたは本当に「生きてる」のか? 絶滅を期待されているのではないか〉と、審問しているのだと思う。