CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 2018年10月 | Main | 2018年12月 »
<< 2018年11月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
日別アーカイブ
辺見庸「月」1プロローグより[2018年11月17日(Sat)]

辺見庸「月」1より

わたしは、いた。あたしは、いる。まだ。いる。在る。そのことにちょっとだけ気おちする。ほんのちょっとだけ。たいがい馴れている。どんなことにだって、馴れる。ほんとうだ、たいしたことじゃない。たいしたことなんかない。

(1 プロローグ 夢/マスカットグリーンの膜/わたしはなぜここにいるのか/絶滅危惧種でもないのに)p.5

◆ベッドの上で、見えず動けず、ことばを発することも表情で訴えることもできない「きーちゃん」が、しかし、思っていることだ。

続く6頁にも次のように語られる。

わたしはまだいる。在る。つづいている。なぜ、在るのか。どうしてなくなっていないのだろう。さっき在った煙のように、どうしていま消えていないのか。ふっ。たいしたことではない。在ったものが、ひきつづき、まだ在るだけのことだ。


◆11月16日の講演で辺見庸氏は「月」について次のように語った。

この小説でやりたかったことはオントロジー(存在論)。
「在る」ということは何なんだ。
「在る」ことのゼロ地点に立つこと。

それと反対の「無い」とはどういうことか?
「在る」のは「無い」よりいい、と一般に考えがちだが、本当にそうなのか?
「在る」というのは本当に良いことなのか?
「生きている」ことは本当に良いことなのか?
 


◆冒頭、「きーちゃん」のことばは、生きて在る者のことばだ。
〈まだ。いる。在る。〉の「まだ」がその証明だ。
だが、「きーちゃん」には同時に死への願望がある。
〈まだ…在る。そのことにちょっとだけ気おちする。〉

◆だが、小説のラストから、この冒頭にもう一度戻って読むならば、この最初の「きーちゃん」はこの世界の住人として語っているのだろうか? という疑問に襲われる。

ついで、我々もここの住人なのか?と問いをぶつけないわけにはいかなくなる。


| 次へ
検索
検索語句
最新コメント
根来珠青
銃剣道 歴史に目をふさぐおぞましさ (03/29) 当ブログ管理人
ジャーナリスト・安田純平さん解放との報【追記】 (10/26) 3億円で買える銃と弾
ジャーナリスト・安田純平さん解放との報【追記】 (10/25) マキシミリアナ・マリア・コルベ
コルベ神父のこと その2 (06/23)
若き音楽家リュカ・ドウバルグ (06/09)
タグクラウド
プロフィール

岡本清弘さんの画像
http://blog.canpan.info/poepoesongs/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/poepoesongs/index2_0.xml