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堀田善衛「暗黒の詠唱と合唱」より[2018年11月12日(Mon)]

辺見庸『月』に対置しうる一編の詩を、と探していて出会った堀田善衞の作品がある。
「暗黒の詠唱と合唱」と題する17の部分から成る長編詩。
その冒頭2連を引く。


「暗黒の詠唱と合唱」より  堀田 善衞

  詠唱

夜――
――私が背後に聞き入るもの
孤独から死へ低まってゆく
冷たい溶岩の流れ 氷河のやうに
ついそこの戸口のところまで黒く光つて押し寄せて来てゐるもの
町々が粉砕され
赤黒い血も子供もその悲惨も
何百万の死者も堤防にはなりえなかつたもの
夜の深まるにつれて一層黒々と力をまし
木を倒し湖を埋め獣を追ひ家を潰しその破片をのせたまま
われらのすべてを呑み込まん勢ひで鈍く近迫して来てゐるもの
名もない黒い 私が背後に聞き入るもの

  合唱

聞け! われらの歌を音楽を
われらの歌 ただ単音の
アーアーアーアーアー
無窮電音のやうなこの歌を
われらの歌は耳を圧する黒いものの近迫に押し出され息詰まるその果てに
アーアーアーアーアーと叫び
われらの頭蓋の後ろについた眼を蒙らまし恐怖を殺ろし
夜の暗闇に一筋の稲妻でも生まうとして叫び出る……
一声のアー呑み込まれても
一声のアー新に歌ひ出る
一声は一声に重なり永遠につらなるこのアー
アーアーアーアーアー……



◆1949年の秋に発表されたこの詩に戦争の濃い影が落ちているのは当然のことだが、敗戦を上海で迎えた堀田善衞は、敗戦後2年余りを現地に留め置かれて中国国民党の対日政策のための雑誌編集や翻訳の仕事を受け持たされたという。小説「時間」(南京事件を扱った)などの小説の視点の定め方には、この詩に言う〈われらの頭蓋の後ろについた眼を蒙(く)らま〉されまいという一念がこめられているだろう。

◆詩の各部は「詠唱/合唱」のほか、それを俯瞰する位置から語る「声」とで構成されている。「声」は「自ら歌ふものは他の合唱(うた)を聞きえず……」などと批評の言を吐き、詠唱する「私」が暗黒の溶岩流に呑み込まれるのを予告するかのようである。

しかし「私」は、抗うように促す「合唱」に励まされるようにして溶岩流をさかのぼり、その源泉へと向かう意思を宣言する。

  合唱

刃向へ 刃向へ……
せめて刃向へ……


  詠唱

私は愛する
私が生まれたことを
私が生まれたとき
楽園の地獄の暗黒の洞窟の祭壇の番人がつけた生命の条(すぢ) 傷
私はこの条(すぢ) 傷を愛する
この条(すぢ)をたどつて
生誕の死の洞窟の奥底へ
生誕に回(かへ)り死にかへり
暗黒の表が溶岩流の流れ出る光源へ

        (第14連)

◆「源に回(かへ)り死にかへり」とは誕生以前に回帰するという意味だろう。それは「死」の状態に戻ることに等しいように見えるが、実は同じではない。その「死」の地点から再び生き始めることが「私」によって意欲されているからだ。

〈回生〉、それは単に生をリピートすることではない。そこまでの「生」の記憶を携えて「死にかへる」こと⇒「生誕に回(かへ)る」ことである。

続く連で合唱が〈……稲妻の追憶よ〉と歌うのは、そのことを示している。

◆辺見庸の「月」においても「記憶/追憶」は重要な鍵であるようだ。
そのように小説「月」に堀田善衞の「暗黒の詠唱と合唱」を対置させてみると、二つの作品は、読む者を真ん中に置いて引き合いながら周回する二つの月であるように思われてきた。

 *『堀田善衞詩集 一九四二〜一九六六』(集英社、1999年)によった。



辺見庸『月』と井上有一の〈月〉[2018年11月12日(Mon)]

◆不覚にも眠ってしまった。
辺見庸『月』が本として成り、市の図書館に入ったばかりのそれを手にした日に、相棒とテもなく眠りに落ちてしまっていた。

◆小説『月』に出会ったのは角川の『本と旅人』の去年の12月号。すでに連載2回目に入っていた。〈さとくん〉の名を見出し、やまゆり園事件に衝き動かされて小説が書き始められたと知って、身震いが来た。

◆1年が経ち、辺見氏のブログで、カバーに採用されたしぶきを上げた「月」の一字を見たとき、井上有一の書だ、と気づいて再び身震いが来た。

◆実際に一冊の本となった今、井上有一の書は、それ以外あり得ない選択だった。
(装丁:鈴木成一デザイン室)

帯の鮮紅の衝撃があり、ついで帯を取り払うとネガが反転するようにモノクロームの姿に一変することを目撃すると、一瞬であると同時に、足元から湿った砂が崩れてどこまで続くか分からないような時間の感覚があるだろう。
(「だろう」と想像するほかないのは、鮮紅がしぶきを上げている帯の方は外された姿で図書館に配架されていたから。これは丸ごと手にすべき本だ。)

★2018年10月3日の記事〈D懇談 ◎『月』カバー最終調整その他〉
http://yo-hemmi.net/archives/201810-1.html


◆連載中『本と旅人』を購読しながら読み通すことはできなかった。
通読した人はどう読んだだろう。
一冊になったところで読んだ人は何を思って生きて行くだろう。
どちらも読んでまた読み直しつつある人はどんな言葉を吐くだろう。

訊いてみたいが、訊く余力も答える余力もお互いにあるかどうか。

◆今週16日には氏の講演がある(八重洲ブックセンター)。
その日まで「平地人を戦慄せしめよ」(柳田国男『遠野物語』序)という言葉をつぶやき続けているだろうという気がする。

文字も小説も〈存念が跳ね上がり、のたうつ書〉。

◆小説が描くやまゆり園事件の相模原市津久井、井上有一が書と格闘した湘南の地、この2ヵ所を三角形の二つの頂点として線で結び、残る一つの頂点を大口病院(横浜市神奈川区)に置くならば、やまゆり園事件後に世をどよめかしたもうひとつの事件の地・座間もその三角形の中に含まれてしまう。

暗合を意味あり気に喋々するつもりはないが、これらの事件のいずれもが、この三角形とその周辺を生活圏として来た若者たちによって引き起こされたことを考えずに済ますことはできないだろう。

この地の空気や水や飯を体内に取り込んで来た者として、たたみかけるように凄惨な事件を次々突きつけられて、小説『月』へのとば口から動けないままこの一年思っているのは、そういうことだ。

『月』のある1頁を盗み見するように読みかけて、閉じる。
やっぱり、そこに居るじゃないか、己が。

むろん、この三角形で画した土地に縁もゆかりもない人、ここに棲息する人間と直に相渉らない人が『月』を読んでも、同じように感じるだろう。つまり『月』の中には今の日本人も地球の向こう側の人間も描かれていると思うのだが、本のそこここでまず見出すのは、己自身の幾つもの分身だ。

◆その塩辛い苦さに耐えるために、〈月〉の書を遺した書家・井上有一が茅ヶ崎や寒川の小学校や中学校で教鞭をとった人間でもあることを思い出しておく。
どのような声の人であったかは知らないのだが、(写真で見る限り)丸太のような大筆を抱えた金剛力士のような体軀の井上が、教師として子どもたちの前に立つ人間であったことを思い出して置く。

井上有一を知っているにせよ知らないにせよ、その後輩たちは今も各地の教場で子どもたちのために奮闘しているだろうから、彼らもこの本を手にして読み、戦慄することを願う。

辺見庸『月』の帯とカバーからはみ出しながらしぶきを上げている「月」が照り返すものに眼を凝らし、おののき、月を再びにらむ勁さを育てて夜明けをたぐり寄せられるよう願う。



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