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寺山はつ・修司母子の敗戦の日[2018年08月15日(Wed)]

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空蟬ふたつ


1945年7月28日の青森空襲から敗戦の玉音放送まで
――寺山はつ・寺山修司母子の回想から

寺山はつ「寺山修司のいる風景――母の蛍」より

母子二人にとっては平和な毎日でしたが、世間では敗戦色が濃くなり、毎夜のように空襲警報や警戒警報がはげしく鳴って、帯をほどいてゆっくり寝るということはなく、いつでも逃げ出せる態勢でいなければなりませんでした。
ついに本物の大空襲となりました。夜の九時頃、空襲警報となり、修ちゃんは、大事にしている本や教科書をランドセルにつめ、それをレインコートで包んで防空壕に持って入り、じっと息を殺していました。
まもなく外が騒がしくなり、防空壕に入っている人は危ないから出て逃げなさいと、町内の防空班長がメガホンで怒鳴っているのが聞こえました。ランドセルはここに置いたほうが安全だと思ってそのままにして外に出て見ると、あたり一面、火の海でした。
驚いて、さあ逃げなければと思うのですが、どっちに逃げていいかわからないほど、火と煙がすごいのです。一瞬どうしていいかわからなくて、頭の上でつぎつぎに爆発する焼夷弾を見上げて立っていると、修ちゃんに「頭の上で破裂するのは、遠くに流れて行くから心配ないよ」と言われました。ああそうか、と私は何となくはっとしましたが、逃げようにも煙で何も見えず、前を走る人のかかとだけを目印にして修ちゃんの手をひいて走り出し、ただひたすら走りに走りました。
途中で修ちゃんが、「もう走れないから、すわって休もう」と言います。「とんでもない。ここにいたら死んじゃうよ。修ちゃんが死んだら、パパが帰って来てがっかりするでしょう」と私が言うと、修ちゃんは立ち上がって煙の中をまた走り出しました。もう一時間も走ったと感じるくらい長く走りつづけ、やっと呼吸がちょっとらくになったなあと思って、頭を上げて見ると、火が遠くに見えており、煙が少しあるくらいだったので、はっとして立ち止まりました。あたりを見回すと、そこは町はずれの学校の校庭で、校舎は焼けずに残っていたのです。よく見ると大勢の人たちが逃げて来ていて、そこで夜が明けるのを待つことになりました。私たちでさえ逃げのびられたのだから、あまり死人や怪我人はいないんじゃないかと思ったのでしたが、夜も明け、火も静まったふうなので、みなそれぞれ自分の家の方向にむかい帰りはじめ、私も自分の家の方向にむかいましたが、驚いたのは、途中死骸がそちこちにころがっていて、目もあてられない悲惨な状態でした。
私たちの家があったと思われる場所へ着いてみると、見覚えのある時計の焼けこげがあり、ここがわが家だと確信できました。まっ先に、防空壕の位置を確かめて、ランドセルを掘り出してみますと、形はそのままでしたが、まっ黒く、炭のように焼けていました。修ちゃんも私も、ただただ茫然としてそこにすわりこんで、しばらく動けませんでした。


*寺山はつ「寺山修司のいる風景――母の蛍」(中公文庫、1991年)より


寺山修司エッセイ選「私という謎」より

青森が空襲になってから、ひと月もたたぬうちに、戦争は終った。あっけない終り方で、勝ったのか負けたのか、私にもよくわからなかった。
玉音放送がラジオから流れでたときには、焼跡に立っていた。つかまえたばかりの唖蟬を、汗ばんだ手にぎゅっとにぎりしめていたが、苦しそうにあえぐ蝉の息づかいが、私の心臓にまでずきずきと、ひびいてきた。あとになってから、
「あのとき、蟬をにぎりしめていたのは、右手だったろうか?それとも左手だったろうか?」と、考えてみたこともあったが、それはいかにも曖昧なのだ。八月十五日の玉音放送を、どこで聞いたか?
という質問へ、さまざまの答えが集められた。先生は訊いた。
「玉音放送を、きみはどこにいて聞いたのか?」と。
それはまるで「きみは、どこで死んだのか?」と聞き糺しているような感じでさえあった。だが、本当は「きみは、どこで生まれたのか?」「きみは、どこで死んだのか?」と、時の回路に架橋をこころみるほど、あの瞬間が人生のクライシス・モメントだったとは思えないのだ。
「先生、ぼくは玉音放送がはじまったとき便所でしゃがんでいました」と答えた石橋にしても、玉音放送以前の空襲で焼死してしまったカマキリにしても、その答が決して、彼らなりの戦争論や平和論になるとは思えなかった。どこにいたとしても、そんなことは問題ではない。時間は人たちのあいだで、まったくべつべつのかたちで時を刻みはじめていて、もう決して同じ歴史の流れのなかに回収できないのだ、と子供心にも私は感じていたのだった。

  かくれんぼをする
  私が鬼になって
  暗い階段の下で目かくしをする
  すると目かくししている間に外界にだけ何年かが過ぎ去ってしまい
  「もういいかい」という私のボーイソプラノにはね返ってくるのは
  「もういいよ」
  というしゃがれた大人の声なのだ

私は一生かくれんぼの鬼になって、彼等との時間の差をちぢめようと追いかけつづけるのだが、歴史はいつも残酷で、私はいつまでも国民学校三年生のままなのだ。



*寺山修司エッセイ選「私という謎」(講談社文芸文庫、2002年)より。

◆寺山修司(1935-83)が焼夷弾の中を母と逃げ惑ったのは9歳の時。
父・八郎のセレベス島での戦病死が伝えられたのは敗戦後の9月2日。受け取った「遺骨」は一枚の枯葉と石ころ。遺品として親子3人で写した写真が入っていた。
4年前の1941年7月、父の出征を青森駅で見送ったときに幼い修司が渡したものだった。


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