浜田知明の版画(4)[2018年04月19日(Thu)]
◆人間の愚かさを諷刺する浜田知明(1917〜)の目はおのれ自身の内部の混沌をも素材にせざるを得ない。
1964年に渡欧し翌年帰国した浜田は、ヨーロッパの印象を作品に刻みながらも、高度成長を遂げたこの国に生きる人間たちに危ういものを感じていたかも知れない。
今回の「浜田知明 100年のまなざし展」(町田市立国際版画美術館。4月8日に終了)では、「ややノイローゼ気味」など、自身の葛藤を見つめ、それを戯画化することで乗り越えようとした作品群に出会うことができた。
「ややノイローゼ気味」1975年
◆帯のようなものは首くくりのアイテム、すなわち希死念慮の表現。
全身の縞模様は、渦や、迷路のような線で描かれた顔の連作と共通する。堂々めぐりを続ける思考や先を見通せない不安と苦悶の表現だろう。
不思議なのは右腕がないかのように描かれていること。
試みてはみるが決行できないということを暗示するのか。
「気にしない、気にしない」1976年
「何とかなるさ」1976年
◆取り換え可能な頭や(上図)、宙に浮いた右目(下図)の代わりにはめる義眼はどれにしようかとお手玉をするヒト。
これらの人物群もまた自画像といってよい。
どれも世界を知覚する己の目や頭の働きを絶対視するな、と自分に言い聞かせているように思える。
観念の詐術にはまらないために最も頼りになるのは「手」であるのだが、その手が動かない苦悩を表現した作品もある。
「かげ」1977年
◆光に向かって戸口に立つ一人の男。
長く後方に伸びた影が彼の内面を表す。
作品を創り出すはずの両手は棒で串刺しになっている。
だが、頭上のヒモを摑んで縊(くび)れ死ぬことも叶わないのだ。
*作品は『浜田知明作品集 COMPLETE 1993』(写真:高山宏。求龍堂、1993年)によった。