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牟礼慶子の詩(3)[2018年02月28日(Wed)]

遠くの庭  牟礼慶子

もしも私が知らなければ
その場所はもともとなかったことになる
もしも私が聞かなければ
その声はことばとして生まれることがない

ああ 空高く枝を揺する楡の木
背後に茂り合う楡の木
遙か彼方には隠れている楡の木
見える木から見えない木まで
すべての木の身ぶりを
こんなにも大切に思うわけは
遠くの庭に用意されている一本の木
未知の友から送られてくる
親密な挨拶なのかもわからないから

どこかもっと遠くの庭で
はげしくかぶりを振り続けている私
その一本の木はまだ誰も見つけない

詩集『ことばの冠』(花神社、1989年)所収

◆最終連、どこか遠くの庭で一本の木になっている「私」は「かぶりを振り続けている」とイメージされている。この詩句だけでなく「遠くの庭」の詩全体が、だいぶ前に取り上げたリルケの「秋」を連想させる。
★もう一度抄出しておくと――
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/72


秋  リルケ (茅野蕭々・訳)

葉が落ちる、遠くからのように落ちる、
大空の遠い園が枯れるように、
物を否定する身振で落ちる。


◆「物を否定する身振」が「かぶりを振る」という同様の表現に置き換えられているだけでなく、「遠い園」という詩句も牟礼のこの詩の題「遠くの庭」にほぼ重なる。
違いは、リルケの「秋」では世界を俯瞰する超越的な存在の視線が意識されているのに対して、牟礼の「遠くの園」ではあくまでも地上に身を置いて、木の身ぶりとそれが語る「声」に全身を傾けていることだ。
「魂」は我が身を離れて木の枝や葉かげに浮遊するが、木の背丈を超えた高い場所で抽象や観念に変ずることはない。同じくリルケに親炙した鮎川信夫やその畏友・森川義信(1918-42。ビルマで戦病死)との違いは、「庭」という画された場を設定していることだろう。
区切られた「庭」に身をおいて、そこから離れることを自らに禁じた生き方に見える。

◆牟礼は20年余り勤めた中学校教員を40代半ばで退職している。
同居していた義母の「女なのに外に働きに出るなんてみっともない。旦那様の稼ぎが悪いと近所で噂されます。」という考えに抗しきれなかったためという。(牟礼慶子公式サイト「来歴」による⇒http://murekeiko.com/mure.html

◆女性が職業をもって生きることへの世間の風当たりをやり過ごす知恵であったかもしれない。
ただ、制約があるぶん、想像力はより強靱に鍛えられることになる。
世俗的な断念は、「庭」の向こうに耳目が向かうことを妨げない。
その耳と目は、「遠くの庭で」確かに一本の木として枝を伸ばし葉を広げている「私」がいることをありありと感じている。そうしてその木が語る沈黙のことばを全身で聴こうとする。
「もしも私が聞かなければ/その声はことばとして生まれることがない」と信ずるゆえに。

牟礼慶子ことばの冠.jpg

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