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角田柳作という人(5)[2018年01月08日(Mon)]

角田柳作というひと

長田弘『詩人の紙碑』(朝日選書、1996年)のあとがきで、その後に知り得た「角田柳作先生」について追記している。
『図書』に載せた文章への司馬遼太郎の私信のほかに、角田の謦咳に接した人たちからの貴重な資料も長田のもとに寄せられた。
そのなかに、追悼文集としてまとめられた『RYUSAKU TSUNODA SENSEI』という英文の私家版回想録があり、そこに貴重な詩が載っていた――

思いがけなかったのは、「角田柳作先生」の詩が、最後の詩として、その本におさめられていたことです。
「角田柳作先生」の詩は漢詩で、一九六四年に八十七歳にして日本への帰国をのぞみ、ニューヨークを発つ直前に書かれたもので、墨筆のまま載っており、付せられたローマ字の読み下しによって書き下すと――乾坤ハ孤節ヲ樹ツルニ餘リ有リ。且ツ悦ブ、青空東海ニ連ナルヲ。鵬翼一夜、七千里。清風明月、イザ帰リナン。そして、次のように、詩は英語に書きあらためられています。

In this world
There still is room
For this solitary walking-care――
And I rejoice.
Azure skies stretch
Across the Eastern seas.
But one night on phoenix’ wings
Can span
Seven thousand ri
With fresh winds and a bright moon
I may return. (Poem,Fall 1964)

けれども、帰国の機上で、ハワイへ向かう途次、「角田柳作先生」は亡くなります。ただ、その九年前、一九五五年に日本を訪ねた「角田柳作先生」が母校の(前橋中学)前橋高校で講演していたことを、「司馬遼太郎氏への手紙」を読まれた、同校出身で生徒としてその講演を聴いた宮下恒雄氏の手紙で知りました。


◆前橋高校同窓会誌第二十号(1981年)に再録された、講演の速記録を長田は紹介する。

そのとき「角田柳作先生」は生徒たちに、「三」ということの大切さを説いています。「最小限度に物を考えるとき、どの位まで切りつめることが出来るかというと、一つでいいという考え方がある。二つでなければならないという考え方がある。私は少なくとも三つなければならないと考える考え方をとる。ものを考えることは生一本に考えることではなく、自分の反対の人と二つを考えるということでもない」。さらにもう一つ、三つ目を考えることができなければいけない、と。
そして「人の世の光」について語って、「世の光と云うのはどこから来るかと云うと、三つのエルから来る。法(Law)、愛(Live)、行(Labor)です」と言い、「ロー、ラヴ、アンド、レイバーの相対性」をみずから持して、その心持ちで通してゆくときに、われわれの生活というものがはっきりしてくるのだ、と語りかけます。座右の言葉だったという次の端的な言葉が、「角田柳作先生」の気韻を伝えています。

Only relativity,not in absolute isolation,will the three L’s be
the light of life.

「角田柳作先生」にとって、人の世とはすなわち、Life のことであり、のこされた講演を読んでつよくのこるのは、詩人ミルトンにまなんで、「自分の心の奥にもっていることは世界のはしに達するほど明らかにいい表すこと」を、人生の「要求」とした人の気概です。

(略)
太平洋戦争中、ニューヨークの「角田柳作先生」は黙々と日々を送り、ただハドソン河畔に起って夕陽を眺めるのを好んだ、といいます。敵と味方しか認めない戦争は、「三」を求める考え方、生き方を斥けます。日米開戦とともに抑留されて、裁判を受けた「角田柳作先生」にまなんだドナルド・キーン氏の回想(そのもともとの英文も『RYUSAKU TSUNODA SENSEI』におさめられています)から、次の場面を象徴的に抽きだしています。
尋問に対する「角田柳作先生」の毅然とした態度にうたれて、裁判官は、最後に、「あなたは詩人か(”Mr.Tsunoda, are you a poet? ”)」と問うのです。


◆「詩心」をもって昭和という時代を生きた人々を中心に誌した『詩人の紙碑』は、戦争の時代に生きた彼らのことばから私たちが受け取る遺産と負債の双方を確かめる長田弘の意思をかたちにしたものだ。

太平洋を挟む日米の学舎で多くの若者にとってのmentorであった角田柳作の、「三」を求める続ける生き方、「あれかこれか/敵か味方か」の二分法でなくその相対性を理会して「三」の可能性を複数の異なる存在たちの関係性の上に追求する生き方を書いたのは、母校ゆかりの人の生涯を紙碑に刻むという以上に、平成以後の生き難い時代をことばによって生きる手がかりとなることを示したかったに違いない。
角田の「鵬翼」は一夜にして七千里を渡るであろうけれど、七千里の外にも人間は生きているのだし、光の当たる面だけが月の姿でないことも現代の我々は知っている。
遺産の恩恵に与ることまれにして暗がりで息を潜めている人たちの所に想像を及ぼすことができなければならないだろう。
そうしてその人たちに語りかけ、分かち持つことばがそこには必要だし、求めるところにそのことばはきっと生まれるだろう。

「角田柳作先生」同様にアメリカやヨーロッパ、そして日本で、歴史の恵みと負債の両方を見てきた長田弘にとって3.11後のふるさと福島を目の当たりにしたことは、上に述べた言葉への信念を根底から揺さぶったはずだが、その気持ちを失わせるまでには至らなかったように思う。

★「角田柳作先生」の三つのLについては
http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/tsunoda/preview-j.htm

★早稲田大学の「角田柳作WEB展」は下から。
詳細な年譜のほか貴重な写真を載せている。
その墨跡も謙抑的でありつつ気概の人であった「角田柳作先生」の人なりを良く伝えている。
http://www.wul.waseda.ac.jp/tsunoda_web/index.html


角田柳作という人(4)[2018年01月08日(Mon)]

明治41年9月の角田事件

◆福島中学の青年教師・角田柳作について。

長田弘『詩人の詩碑』(朝日選書、1996年)の巻頭に『「角田柳作先生」のこと― 司馬遼太郎氏への手紙』とする文章がある(初出は1994年の『図書』)。自らについてはほとんど語ることのなかった角田の、若かりし日の「事件」を伝えている。

司馬が『ニューヨーク散歩』で角田柳作の気概を筆に表したことに応える形で、長田は母校・福島高校の前身である旧制福島中学で教鞭をとっていた時代の角田柳作先生について、母校の80周年記念誌『福高八十年史』(同高校記念誌刊行小委員会編集、1978年刊)から紹介しているのである。特に「角田事件」について。

◆角田は1903(明治36)年4月に福島中学に着任したがその5年後の秋のことである。

明治四十一年(一九〇八)九月、当時の東宮(後の大正天皇)が来校参観の折、英語の授業(5年級)を披瀝。しかし、その翌月、「角田柳作先生」は突如、転任となります。「角田事件」として福中(福島中学)の伝説となる出来事が起きたのはそのときで、それは年表には、史料に拠って、次のように記されています。

「1908 (明治41)10・1 教諭角田柳作、宮城県仙台第一中学校教諭に転任のため、告別式挙行。角田柳作教諭の仙台一中転任の報に接した全校生の大半が、同教諭の留任を嘆願のため、5年生一同を実行委員として、留任運動推進のため秘密会を決議す」


*皇太子の来校は東北地方巡行の一環として各地の中学校を訪問したもので、県知事が随行、授業のほか、図画・習字などの生徒作品を見学し御真影下賜のセレモニーも含むものであったようだ。
この行啓が「角田事件」の発端になった、というのである。
長田が紹介する『福高八十年史』の記述を引く――

角田事件
授業を台覧に供する予定の組が、都合により取り止めになった。張合抜けした生徒らの一人が不服として、奉迎送へ参加せず早退してしまった。学校当局では、その生徒の処置に苦慮した末、諭旨転校に処したとの噂、またその処置に異存のあった角田柳作教諭も、仙台一中へ転出するにいたったとの噂が、生徒にも伝わったように記憶しています。
ところが、角田先生を惜しむ五年生らが留任運動を策し、ある日昼の休憩時間に、全員を信夫山公園広場へ集合させ、留任要請運動を提案、決議しようとした。これに対し四年生の森徳治(後に海軍少将)が独り決然立って、運動反対の慎重論を主張、その後、運動は挫折しました(中十回卒服部実「編集委員会宛メモ」)。
これがいわゆる角田事件である。角田柳作は仙台一中(明治四十一年十月三日〜四十二年三月三十日)で教鞭をとり、明治四十二年ハワイに渡る。

台覧…皇族など身分の高い人が見ることの尊敬語。同様の人が来る、臨席することは「台臨」と言った。

◆ちなみに皇太子の東北巡行は十日後の9月23日、青森県立弘前中学におよんだ。同校の後身・弘前高校の「鏡ケ丘百年史」(同校記念誌作成委員会編、1983年刊)によれば、校内見学はわずか50分。その間に4教室の授業、撃剣と柔道の見学、図画、作文、英習字の陳列作品室に加えて、予定にはなかった寄宿舎自修室の見学も行ったことを記す。この訪問を迎えるべく「綿密周到な準備が数十日前より行われ、至誠を尽くして奉迎」し、「当日は、一同斎戒沐浴して、門前に整列し、粛然として、鶴駕を迎へまつりぬ」とある。学校をあげての一大事業の観がある。 「鶴駕」…皇太子の車

◆福島中学の場合も同様であったと想像される。それほどの労と時間を費やしたのに、都合により取り止めになったクラスの拍子抜けした気分や不服は容易に想像できる。しかるに不服に思って早退した生徒が「諭旨転校」という処分を突きつけられたことに唖然とする。
1889(明治32)年の中学校令以後新設が進み10年後の明治1909(明治42)年に全国の中学校数はようやく303校を数えるに至るが、地方では一県に数校を数える程度であったはずで、他の学校を探せと宣告されても途方に暮れるしかなかったはずである。
角田柳作がこの処置に承服できずに異を唱えたことは生徒たちの間にも噂として広まっていった。(そのこともあってか)学校側は角田の異議申立を非とみなして他県への強制的な異動を慌ただしく(その月の内に!)決めて行った。
理不尽な話である。留任を求めて生徒たちが動いたことは角田柳作に寄せる信望が厚かった証拠である。

◆長田が紹介する「福高八十年史」の続きを抄録しておく。

斎藤勇(三回卒)はその思い出のなかで「角田柳作先生の御恩を忘れることができない。先生は正しい発音で読み、訳はすばらしく正確であった。私はこの博学の先生からすすめられて色々の本を読んだ」と語っている。
このように先生を敬慕していた生徒たちが、突然仙台一中へ先生が転出することを知ったとき「離別の悲しみに堪へず、徒なる此秋の憾に泣き」告別の式では「感慨無量涙滴々頼を伝ふて止ま」なかった。
このとき「先生壇上に於て多くを言はれず、只一言『自重せよ』とのみ」と、信夫草(十一号)**は伝えている。

斎藤勇(たけし。1887-1982)…英文学者。英文学・英詩をかじった人でこの名を知らない人は殆どいないだろう。
**…同校の校友会誌。



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