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中原中也の「サーカス」の朗読[2017年12月25日(Mon)]

171225六会駅前イルミナシオン.jpg

◆六会日大前駅前ロータリーのイリュミネーション。あちこちに豪華なツリーや電飾を見かける季節。一日の仕事を終えて地元駅に帰ってきた人を迎えるにはこれくらいの落ち着いた感じが好ましい。

*******

佐々木幹郎「中原中也 沈黙の音楽」は、副題にある通り、中也の詩を目で読むのでなしに、朗読して味わう詩であることに注意を向けさせる。

前回記事の「劫々」(ゴウゴウorコウコウorキョウキョウ)を中也自身は「ゴウゴウ」と読んだ、と推定したことが一つ。

もう一つ、声楽家・照井瀴三「詩の朗読」が示す「サーカス」の朗読法を次のように書いている。

「サーカス」は文字の上では七五調の歌謡のリズムが踏まえられているとわたしは先に書いたが、照井が紹介する「サーカス」の朗読法では、七五調にはなっていない。
例えば第一連は「幾|時代かが|ありまし|て/茶色い|戦争|ありまし|た」というふうに記されている。二、五、四、一/ 四、四、四、一という変則的な音のリズムである。意味の文脈を壊し、屈折させることによって、七五調を壊しているのだ。たぶん、中也がそのように朗読会で読み、それを照井は記憶していてそのまま紹介したのだと思われる。北川冬彦が書いている「一種異様な調子」は、この変則的な音のリズムのことを言うのであろう。これは友人たちの間で「サーカス」を何度も朗読しているうちに、中原中也が会得した言葉の伝え方であったと思われる。七五調の旋律的なリズムよりも、意味の文脈を思わぬところで切断させ、間を置いて、さらに続きを朗読したとき、人々は、その異様さに首を傾げて、耳をそばだてる。
詩の朗読は、つねに一回限りの身体的パフォーマンスであって、演劇に限りなく近い。詩とその言葉を使った歌曲(音楽)がそれぞれ別の作品であるように、朗読者が文字に書かれた詩を声にするとき、その声は文字表記のリズムを軽々と裏切る。文字化された詩に対して、詩の朗読は別の作品と考えたほうがいい。
(佐々木幹郎「中原中也 沈黙の音楽」第5章『山羊の歌』から『在りし日の歌』まで、p.189-190)

◆全8連から成る詩「サーカス」は、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」を除いて七五調で一貫させている。〈天井に 朱きいろいで〉で始まる『朝の歌』の五七調とは対照的である。

七五調と五七調ではどう違うのか。
平たくいえば、七五調は先へ先へと転がり進むリズムを生むのに対して、五七調は、「五七」のまとまりを感じさせて、そのつど小休止するという違いがある。(その昔、古文で万葉集は五七調中心で荘重、新古今集は七五調が多く流麗、という単純化した特色として習った人も多いだろう。)

◆しかし、この定型的なリズムに乗っているだけだと、詩のことばはとっかかりがないまま消えていってしまう。何か心地よいものを聞いたな、という印象を受けただけで終わり、となりかねない。
照井の(そして恐らく中也自身の)「幾|時代かが|ありまし|て/茶色い|戦争|ありまし|た」という風に分節した読み方は、それぞれの詩のことばに「モノの手応え」と言うべき重さを与え、それらのモノとモノとがかかかずらい合うことで生まれる、摩擦や衝突、離反、はたまた親和、時になずみ、もたれかかりさえもするさまを、聴く人に感じさせるものであるようだ。

草野心平の回想によれば中也の朗読は「ハスキーな低音で、しかも胸に沁みこむようなさびしさとキリモミのような痛烈さがあった」というのだが、聴いてみたかった。


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