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色川大吉の「日本の歴史 21」[2017年12月02日(Sat)]

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◆なつかしい本に再会した。
中央公論社でシリーズとして出ていた「日本の歴史」だ。
今は中公文庫でも読めるロングセラーである。
同社が手がけた「日本の文学」(青い表紙)「世界の文学」(赤い表紙)などと同じ判型(表紙が120×176mmのサイズ)で、ビニルカバーで函入りという体裁が共通。「世界の思想」「日本の詩」というシリーズも体裁は同じである。

◆高校時代、日本史の予習のつもりで学校の図書館から借りて読んだ。
開くと所どころに赤ペンの書き込みがあった。表記の間違いを正しているだけでなく数字なども定規で抹消線を引いた上で訂正が施されていた。
高校の先生とは大したもんだ、歴史なら歴史の専門家として配架する書物にチェックの眼を注いでいるのだろうと信じ込んだ。細字の楷書で書き込まれた訂正が神々しく見えたほどだ。

*出版社が印刷後に判明した誤記について訂正書きをはさむことがある。それを見ながら図書館担当の教職員が逐次書き込むのだ、ということを知ったのは随分後のことである。
今回108円ナリで買った上の本にも、版元のお詫び訂正書きが一枚挟んであった。一つ前の配本である第20巻について、2箇所の訂正・追記を、本文用紙より一回り小さい用紙に印刷してある。細やかな配慮と言える。

◆さて昭和41(1966)発行の「日本の歴史」の第21巻〈近代国家の出発〉。執筆者は色川大吉氏。
これは感動の一冊であった。
人々の視点に立った歴史が記されていたからである。
おぼろな記憶では幕末を描いた第19巻「開国と攘夷」も第20巻「明治維新」もそれぞれ別の執筆者であったが民衆の歴史という方針は共通であり、それが歴史研究者たちの常識として確立されつつあることが伝わってきた。

色川氏はこれを上梓後の1968年、西多摩郡五日市町(現在のあきる野市)の深沢家の土蔵から「五日市憲法」を見出した人だが、そのことを知るのももっとずっと後の話。

◆改めて、この第21巻、最初を読むと、冒頭は「地方巡幸」と題して1878年の明治天皇北陸巡幸を取り上げるのだが、書き出しに登場するのは榎本武揚である。

東の国へ 
シベリアの曠野を二台の馬車がよこぎっていた。
一八七八年(明治十一)七月二十三日、皇帝に別れを告げてペテルブルグを出発した榎本武揚は、モスクワよりボルガを下り、カザンからペルムまでの一千露里を馬車でとばし、ウラルの山脈を越え、トムスク、イルクーツクをへてシベリア官道数万キロを突っ走った。
ザ・バイカルを行くときは、八月末だというのにすでに秋色深く、満目蕭条、陽が落ちると気温は零下に下がった。


小説を思わせる滑り出しである。

◆本が出た1966年といえば、東京オリンピック後の高度経済成長をヒタ走る一方で、四日市ぜんそくなど公害が深刻さを増していた時期だ。ビートルズが来日し、高校では長髪などを認めよという生徒たちの要求があちこちで上がった。
彼らの親たちは戦後復興を牽引してきた世代である。歴史書を手にするに当たって自分たちの来し方を確認する気持ちにも誘われたであろう。「日本の歴史」シリーズが世に迎えられる素地は十分あったはずだ。

東に帰る榎本武揚の姿に、大陸から引き揚げてきた自分を重ねて読む人たちも少なからずいたに違いない。

幕府側の人間であった榎本武揚の一命を救って新政府に活躍の場を与えてくれた黒田清隆への恩義を記しつつも、榎本の「シベリア日記」に一貫して中国蔑視、「脱亜」の発想があることを色川氏は指摘する。
その意図は、復興の担い手である読者に、遅れた者たちへの見下した眼差しを温存したまま、敗戦の経験を真に生かしていないのではないかと、読者に自己点検を求めるところにあったと言えるだろう。


学徒出陣と色川大吉[2017年12月02日(Sat)]

◆1941年12月1日、御前会議で対米英蘭開戦が決定された日である。
大本営は作戦開始命令を発した。
12月2日、陸海軍総長は武力発動の時期を上奏(天皇に申し上げること)、12月8日午前零時以後発動の裁可を得て、機動部隊に「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電報が発信された。無論、駐米の野村・来栖大使はアメリカ側とギリギリまで折衝を続けていたが、もはや引き返せないところに踏み込んでいた。

◆その2年後の1941年12月には徴兵が猶予されていた文科系学生の一斉入隊が始まった。
総動員セレモニーとして学徒出陣式が明治神宮外苑で行われたのはそれに先立つ10月21日のことだ。
歴史家・色川大吉(1925〜)は大学に入ったばかりで、先輩学生たちの分列行進をスタンドで見送った。

「わだつみの友へ」の中で次のように回想している。

忘れもしない昭和十八年の十月二十一日、明治神宮外苑競技場のスタンドで、私は降りしきる秋雨に濡れ、数万の学友たちの分列行進を見送っていた。かれらはいちように大人びた沈痛な顔をし、黒い制服にゲートルをまき、銃剣のついた三八式歩兵銃をかついで、東条首相の前を行進していった。
スタンドは満員で、女子学生が多く、なかには急いで結婚した新妻たちの姿も見うけられた。そこに女たちの姿が多かったということが、かれらの心をいっそう悲壮なものにしていたであろう。
かれらは日本の国難を救う″民族の華〃として称揚された。東条英機の「死して悠久の大義に生きよ」の叫びや、「天地正大の気、粋然として神州に鍾(あつま)る」との藤田東湖の詩による訓示、文相の和歌の朗詠などが行なわれ、″防人″のつもりの学徒を、葉隠れ武士の″出陣″の儀式に擬して壮行するという、国をあげての日本浪曼派ぶりの演出であった。


戦局は――

一九四三年、その年は、日本軍の南方撤退からはじまって、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死、日本軍のアッツ島での全滅、同盟国イタリアの降伏と、戦局は日ごとに悪化していた。そのため東条内閣は、不足した飛行要員などの補充に、速成のきく大学生の動員を考え、九月二十二日、文科系学生の徴兵猶予を停止し、十二月一日をもっていっせいに入隊することを命じたのである。

色川自身は学徒出陣の決定をどう受けとめたか。

当時、東京大学文学部に入学したばかりの私には、これは青天の霹靂であった。自分の人生が突如大ナタをふるって断ち切られた想いであり、その先には「死」しか見あたらなかった。私たちはまだ、はたちになったか、ならないかの少年なのに、もう老人のように〃末期の眼″で自分自身や周囲を見まわすようになっていった。翌年戦死した、ある法学部の学友はこう語っている。
「一体私は陛下のために銃をとるのだろうか。あるいは祖国のために、又は肉親のために、つねに私の故郷であった日本の自然のために、銃をとるのであろうか。だがいまの私には、これらのために自己の死を賭するという事が解決されないのだ」と。
この心の解決の問題が当時の学生たちを最も苦しめていた。この解決を求めて私たちは読書し、もだえ、苦しんだのである。


◆学徒出陣式の数日前、階段教室である教授が教壇で短刀を抜き放って憂国の和歌を誦じ、終わって「しばらくお別れです」「いや、永久にお別れです」と言って教室を出て行くという出来事もあった。学生を支えるはずの知性が国難のかけ声に陶酔して分別を失い煽動的なパフォーマンスに走った例と見える。

若者は愛に飢えている。美にもろい。この心性を利用して、かれらを自分の意図に従わせようとする政治家は残酷である。それに力を貸す詩人や思想家も許しがたい。私はいまでも、あの時代をおおっていた一種名状しがたい悲痛な陶酔感といつたもの、悲壮美といったものをありありと想い浮かべることができる。なにかといえば国家の危機を誇張し、民族の伝統や運命的な一体感を強調して、冷酷な殺し合いのための軍隊への入隊を、″防人″ の別れや詩的な中世武士の″出陣″ のように幻覚させ、進んで若者を″死地におもむかしめた〃人びとのことを想い浮かべる。
その人びとはいまなお生きていて指導者の座に居すわり、活発な発言をしているが、その人びとの罪は″万死に値する″と私は思う。

*引用はすべて「学徒出陣二十五年に」による。

◆1943年に色川とともに東大文学部に入学した学友たち401名。そのうち、実に171名もの若者が卒業していないという。多くは戦地に散ったのだろう。また幸いに命を戦後につないだ者たちも学舎に復帰することが叶わなかった人が少なくなかったと想像される。戦争が若者たちの運命を全く狂わせたのである。

色川大吉わだつみの友へ.jpg
色川大吉「わだつみの友へ」岩波同時代ライブラリー、1993年

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