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「りゅうりぇんれんの物語」その後[2017年02月23日(Thu)]

茨木のり子「りゅうりぇんれんの物語」が最初に載ったのは(初代の)詩誌「ユリイカ」だと書いたが、詩集としては1965年の第三詩集「鎮魂歌」に収められた。この詩集も童話屋から新装版が出ている。

鎮魂歌表紙IMG-A.jpg

◆2001年秋の新装版あとがきで、この詩とりゅうりぇんれんのその後の闘いについても触れているので引いておく。

人間の記憶の風化はおそろしく迅い。今頃になって、「これは現実にあった話なんですか?」と、半信半疑の様子で、質問してくる人が多くなった。
やはり書いておいてよかったのかもしれない。
りゅうりぇんれん氏は、二〇〇〇年九月、八七歳で逝かれた。損害賠償を求めた訴訟がやっと今年勝訴となり、「国は原告に二千万支払え」という判決が下ったのに、またもや控訴となって、裁判は子息に引きつがれている。
なにしろ強制連行のシンボルであり、生き証人であり、彼のうしろには無念の白骨累々なのである。
一九四五年八月十五日の日本国の負けっぷりの悪さが、今に尾を引いていると思い知らされることが多い。五十六年間という歳月は何だったのだろうか。

1996年、りゅうりぇんれんは日本政府に謝罪と損害賠償を求めて東京地裁に提訴したが2000年に判決を聞くことなく死去。裁判は息子の劉煥新(リュウホアンシン)が引き継いだ。2001年、一審の勝訴判決を得たものの、2005年、高裁では逆転敗訴したため上告。だが、2007年4月、最高裁は上告棄却の決定を下した。
強制連行の事実を認めたものの、国は賠償責任を負わないという「国家無答責」の法理を当てはめ、法的な救済はないまま終結したのである。

この裁判における東京高裁判決の問題点について、法学館憲法研究所戦後補償裁判(24)―劉連仁訴訟控訴審判決の項に詳細な分析がある。
http://www.jicl.jp/now/saiban/backnumber/sengo_24.html


◆このあとがきからさらに十数年を経て「日本国の負けっぷりの悪さ」がなお尾を引いているばかりか、戦争責任を問うアジアからの声を無視し、記憶を封じ込めることに血道を上げている感さえある。
99年のドイツの政府・民間による強制労働被害者への補償や、アメリカの日系アメリカ人強制収容への補償などは良く知られているが、オーストリアやオランダにおいても同様の努力がなされてきた。
対照的に、日本が戦争責任をきちんと果たしてこなかったこと、誠意ある謝罪と補償を示さぬまま今に至っていることの悪しき影響は、折にふれ噴出する。

◆今週号(2/24号)の「週刊金曜日」に「学費補助を打ち切られた15歳の訴え」と題する成田俊一氏の記事が載った。
黒岩祐治神奈川県知事による、朝鮮学校生への学費補助ストップの暴挙を取り上げたものだ。

東京や埼玉、大阪(府・市)など補助金交付を停止している自治体はほかにもあるが、いずれも拉致問題という政治的理由を絡めた民族差別であり、自国の言語や文化を学ぶ権利の保障した子どもの権利条約違反である。子どもたちへのイジメにほかならない。
日本国籍の有無にかかわらず、子どもたちが学ぶ権利を侵してはならない。
彼ら若い世代が伸びやかに成長することが拉致問題を真に解決し、平和と安定をアジアにもたらすはずではないか。

◆国内の炭鉱などで強制的に働かせた朝鮮人は1000万人、敗戦時点で国内に居た朝鮮の人々は200万人と言われる。在日の人々の存在は朝鮮半島を植民地化した歴史を抜きにしては語れない。
根こぎに拉致し来たった人々の数は中国の人々よりはるかに多いことを忘れてはならない。
それによって生じた災禍・悲劇は、日本が深く関わったことによって生じたことどもであり、この100年余りの歴史である。

その上で、茨木のり子は、100年どころではない歴史的なきずなに思いを向けねばと、次のような詩をわれわれに遺してくれた。

紀元前からあらわれて次第に形を整えてきた
漢民族のきれいな古譚(こたん)
かつて万葉人の愛した素材も
もとはといえば高句麗・百済経由ではるばると
伝えられたものではなかったか
文字 織物 鉄 革 陶器
馬飼い 絵描き 紙 酒つくり
衣縫い 鍛冶屋 学者に奴隷
どれほど多くのものが齎(もたら)されたことだろう
古い恩師の後裔たちは
あちらでもこちらでも 今はさりげなく敬遠されて
夕涼みの者をさえ 尾行かと恐れている


◆夫と二人の七夕の宵、夕涼みに草ぼうぼうの道を歩いていたら、焼酎の匂いをぷんぷんさせてステテコ姿で現れた朝鮮の人。
「アンタラ! ワシノ跡 ツケテキタノ?」と警戒心をあらわに、問う。
夫が「今夜は七夕でしょう? だから星を眺めにきたんですよ」と説明すると……
ステテコ氏は「タナバタ? たなばた……アアソウナノ ワシハマタ ワシノ跡ツケテキタカ思ッテ……
トモ……失礼シマシタ」とわびて、おとなしく帰って行った。
その背中をみながら詩人は思ったのだ――

わたしの心はわけのわからぬ哀しみでいっぱいだ
つめたい銀河を仰ぐとき
これからは きっと 纏(まと)わりつくだろう
からだを通って発散した強い焼酎の匂いが
ふっと

(「七夕」より。詩集「鎮魂歌」所収)

◆この詩集から10年後、最愛の夫が星の列に加わってしまってから、詩人はハングルを習い始めようと思い立つ。
朝鮮のことばを学びながら、この七夕の夜のことを幾たびか思い出していたのではなかったか。

織姫と彦星の年一度の逢瀬のためにかささぎが羽を広げて橋になるという中国の言い伝えもまた朝鮮を経てこの国に伝わったものであるゆえに。
(百人一首の「かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」など)

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