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「統帥権の超越」という悪魔的解釈[2017年09月14日(Thu)]

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違憲行為に感度を鈍らせない

◆13日の朝日新聞朝刊によれば、臨時国会を開くべしという要請を依然として無視する憲法違反を続けたままで、再び首相は9条について改憲案を出す意向だという。
私人同士で約束を守る・守らないというレベルの話ではなく、憲法遵守義務を負う立場の人間が批判に耳目をふさいだまま、不法でないように憲法を変える、と言っているのだから、それは端的に言って法治国家を廃絶すると言っているに等しい。

朝日新聞は、自民党内に異論もあり、それが表に出てくるのは首相の求心力低下の表れだと指摘する。しかし党内議論を取り上げることは、「熟議」が展開されているかのような印象を国民に振りまく。9条をいじることは憲法全体の瓦解を招くとする学者たちの警告を無視したまま犯してきた「違憲」の行為が常態化することで、我々の危険への感度が鈍磨し、ついには無感覚になる恐れの方が強い。

【朝日、14日朝刊】憲法9条、首相案の条文提示へ 自民、意見はまとまらず
http://www.asahi.com/articles/ASK9D51Z0K9DUTFK00M.html


14日夕刊にも「米イージス艦に給油 海自艦、安保法受け新任務」という記事を載せている。そもそもこの給油が適法なのか、疑念を伝えないと、既成事実を積み重ねる政権の思惑に加担するだけになってしまう。

【朝日、14日夕刊】米イージス艦に給油 海自艦、安保法受け新任務
http://www.asahi.com/articles/DA3S13133140.html


◆以上、二つの記事が載っているのは判で押したように、1面の左上。つまり、トップでなく二番手扱いであることに社の姿勢が伺える。とりわけ、14日夕刊の1面トップは「五輪24年パリ・28年ロス」という次回・次々回の開催都市が決まったというニュース。五輪がそんなに国民的関心事かというと全くそんなことはあるまい。

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「統帥権超越」という「魔術的解釈」

◆司馬遼太郎『この国のかたち 四』は1992年〜93年に月刊誌「文藝春秋」に載ったもの。
文春文庫版の134頁「統帥権(三)」の末尾に次のように記している。

結局、統帥のみだれが、明治十年(一八七七年)の西南戦争という未曾有の内乱をひきおこした。
そのみだれは、隔世遺伝のように、昭和の陸軍に遺伝した。
昭和陸軍軍閥は、昭和六、七年以後暴発をつづけ、ついに国をほろぼしたがその出発は明治初年の薩摩系近衛兵の政治化にあったといっていい。

維新政府に不満の西郷隆盛が陸軍大将および近衛兵を統轄する職を辞して薩摩に帰ったことに呼応して薩摩系の将校の大半が辞表を出したこと。

◆「隔世遺伝のように/遺伝」というだけでは、「遺伝」だからしかたがない、と諦めているように聞こえる。しかし、軍をどう統率するかは紛れもなく人事=人間の判断・意志に属することのはず。

◆統帥権については4回にわたり紙数を費やしている。
幕末の尊皇攘夷から明治に入って維新政府のあつめた近衛兵、山県有朋による陸軍の創設、西南戦争とその後始末への反省から軍人勅諭の起草・公布をたどり、一旦以下のようにくくる。

ともかくも、『軍人勅諭』および憲法による日本陸軍のあり方や機能は、明治時代いっぱいは世界史の常識からみても、妥当に作動した。このことは、元老の山県有朋や伊藤博文が健在だったということと無縁ではない。
すくなくとも、明治二十年以後、明治時代いっぱいは、統帥権が他の国家機能(政府や議会から超越するなどという魔術的解釈は存在しなかった。

◆1945年の国家敗亡をもたらしたものが統帥権の魔術的解釈によるとして、その横行闊歩を可能にしたものがどこにあるのかという吟味が行われているか、という点について疑念が残る。

文民統制の時代でなかったことなど、いくつか触れてはいる。

だが、元老山県有朋や伊藤博文が健在の間はコントロールが効いていた、というのであるなら、制度が「人治」に頼っていただけだ、ということになる。
戦後70年余を過ぎて、戦争体験者がいなくなったからブレーキが効かなくなっている、という説明と同じことになってしまう。そう考えてくると、司馬の『この国のかたち 四』の「統帥権(一)〜(四)」の考察にかけているものが見えてくる。

統帥権の超越を「魔術的解釈」と表現するが、人間の生き死には見世物ではない。
「悪魔的解釈」と言い換えてもまだ生ぬるいだろう。


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