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銃剣道 歴史に目をふさぐおぞましさ[2017年04月02日(Sun)]

シトツ(刺突)の記憶

中学校学習指導要領の体育に銃剣道をねじ込んだ人々、天を恐れぬ愚か者ばかりだ。

どんなに「〜道」を付けたところで、戦時下に新兵「訓練」と称して銃剣を用いて行われた刺突の歴史を消すことはできない。

銃剣術「悲傷少年兵の戦歴」p56-A.jpg
  陸軍少年戦車兵の銃剣術訓練のようす 
   「悲傷 少年兵の戦歴」(毎日新聞社、1970年)より

◆写真に「"気""剣""体"ノ一致」と書き込みがある。現在、各地の銃剣道連盟のサイトには共通して〈有効な刺突は「心・気・体」が一致した場合のみ……〉と競技の判定基準が記されている。こうした戦時中の銃剣術「精神」が戦後「武道」に装いをあらためてのちも継承されていることがうかがえる。
なお、「銃剣術」から「銃剣道」へと呼称を統一したのは昭和15年(1940年)に紀元二千六百年を記念して行われた橿原神宮大会からだという。


辺見庸「1★9★3★7」では、実際の銃剣を使った「刺突訓練」について、いくらでも証言がある、として、〈第七章 ファシストと「脂瞼」〉に、二人の元日本兵の体験を引用する(p.24〜36)。

そのひとつ、〈7 シトツとツンコピン〉(完全版の角川文庫版の下巻p.24)では、「ツンコピン」とは「中国兵(チョンクオピン)」を侮って呼んだ言い方であることを説明した上で、次の様に前置きを記す。

「ツンコピン」の蔑称はしばしば、「シトツ」というニッポン語とセットにされて、もっぱら「皇軍」将兵によりつかわれていたのだ。「シトツ」とは「刺突」、すなわち、銃剣で人体を突き刺すこと。「シトツ」と「ツンコピン」のかんけいは、〈新兵がツンコピン」を「シトツ」する〉といった主語――目的語――述語のならびから理解されなければならない。ということは、ふつう白兵戦を意味するのではなく、おおくは中国軍の捕虜や民間人を立ち木や柱にしばりつけて、新兵がじゅんばんに銃剣で突き刺す「訓練」をさした。この訓練は「皇軍」新兵の「肝試し」や殺人訓練のためになされたという。(同書p.26)

その上で辺見が引用する井上俊夫『初めて人を殺す――老日本兵の戦争論』(岩波現代文庫、2005年)における「刺突訓練」のようすは、つぎのようだ。

こんなシーンがある。訓練にあたり、井上さんら二十三人の新兵をまえに、少尉があいさつする。「今からお前たちの度胸をつけ、実戦に役立つ兵士にするために、実物の人間を使った銃剣術の刺突訓練を実施する。相手ははわが軍に敵対した憎っくき中国兵(ツンコピン)だ。なんらためらう必要はない。日頃、銃剣術で習った通りに動作すればよろしい。」ついで軍曹がでてきて号令をかける。「気をつけ! 着け剣!」兵士等はいっせいに腰の帯剣をぬき、それを、天皇の下賜品であることをしめす菊の紋が銃身に彫られた三八式歩兵銃の筒先にとりつける。ニッポン兵とおなじ軍服の古着を着せられた男性中国人がひとリクスノキにしばりつけられ、かたことのニッポン語で「ワタシ、コロス、イケナイ!」と命ごいをしている。その中国人は捕虜になったとはいえ、井上さんのいた中隊の炊事場ではたらかされていたひとである。一番さいしょ刺突するものを井上さんたちの部隊では「一番槍」と言っていた。新兵らは十五メートルほどはなれた位置からじゅんばんに突進していき、中国人を銃剣で突き刺す。中国人が絶叫する。

このとき井上さんは「これも俺が男らしい男になるための、試練に違いない。」とじぶんに言いきかせ、無我夢中で銃剣を突きたてたのだった。
――だが、「訓練」のさなか、一人の例外がいた――

二十三人のなかに、ひとりだけ「かんにんしとくなあれ」と泣き声で刺突免除をうったえる新兵がいたのだが、上官に鼻血がでるほど手ひどくうちすえられたあげく、むりやり銃剣をかまえさせられ、刺突の「まね」をさせられる。全員参加が鉄則だったらしい。
 (8 「かんにんしとくなあれ」)

◆辺見庸はもう一人の証言として奥村和一『私は「蟻の兵隊」だった』を引く。
「1★9★3★7」の第七章第9段を、そのまま転記しておく。
これを読めば、銃剣道を武道の一競技として採用などという発想がいかにおぞましい話か明らかではないか。

 9 ツケ、ヌケ、ツケ、ヌケ!

『私は「蟻の兵隊」だった――中国に残された日本兵』(岩波ジュニア新書) の著者で証言者の奥村和一さんもかつて、刺突訓練の参加者だった。新兵だった奥村さんが上官に「肝試し」をやると言われつれていかれたのは山西省寧武の荒れ地。そこに軍服ではない普段着の中国人数十人がじゅずつなぎにされて連行されてきている。「皇軍」将校が、かれら生きた中国人を相手に軍刀の「試し斬り」をしている。血がにおいたつほど凄惨なその場面は、刺突訓練の心理にこだわりたいので、ここでは省略する。奥村さんがかたる。

 そうして、こんどは私たちに「肝試し」が命じられました。正確にはこれを「刺突訓練」と呼んでいました。銃剣で、後ろ手にしばられ立たされている中国人を突き刺すのです。目隠しもされていない彼らは、目を開いてこちらをにらみつけているので、こわくてこわくてたまらない。しかし、「かかれっ」と上官の声がかかるのです。私は目が開けられず、目をつむったまま、当てずっぽうに刺すものだから、どこを刺しているのかわかりません。しまいに、心臓にスパッと入った。そうしたら「よーし」と言われて、「合格」になったのです。こうして、私は「人間を一個の物体として処理する」殺人者に仕立て上げられたのでした。
(同書「戦地、中国へ」)

井上さんが記述した光景にさらに細部がくわわる。古年兵たちが刺突訓練中の新兵にかけ声をかけたというのだ。「突け、抜け」「突け、抜け」と。ツケ、ヌケ、ツケ、ヌケ! 菊の紋も血にぬれたろう。熱した集団のただなかにいると、おそらく全景を客観的にみることができず、ことの異様さに気づくことは、ほぼ困難か不可能なのではないか。「かんにんしとくなあれ」の新兵は、わたしの目には、集団的狂気のなかでかろうじて正気を失っていない、もっともまっとうな人物なのだが、あのとき、あの場にあっては、もっともだらしのない「非国民」とみなされたことはうたがいない。若い読者は「まさか!」と言うかもしれない。わたしは「まさか!」とおもわない。そのとき、その場にあったら、わたしは「かんにんしとくなあれ」と言えたか。まったく自信がない。たぶん、言えなかったろう。言わなかっただろう。わたしも〈これが戦争というものだ〉〈これは試練だ〉とじぶんを言いくるめて、銃剣をかまえて一個の人間の生体にむかい、目をつぶり、ワーッとさけんで突っこんでいったか、あるいは、ツケ、ヌケ、ツケ、ヌケ!……と、運動部の合宿練習よろしく新兵にはげしいかけ声をかけていただろう。戦争という圧倒的な全景にあって、正気とはなにか、個人とはなにか。それは、いまはまだ″非戦争″状態かもしれないが、げんざい=日常という圧倒的な全景にあって、正気とはなにか、個人とはなにかと自問するのとおなじく、即答のきわめて困難な難問中の難問なのである。


◆現在「銃剣道」は武術として別のものだ、という主張が当然ある。武道9種目の一つ「なぎなた」もかつては実際に武器として使われた歴史がある、という反論もあるだろう。
だが、しかし、かつて皇軍兵士として「刺突」をした人々が銃剣を持ったのと同じ手で書き遺した数多くの記録が我々の眼の前にあり、読む者はそこになまなましい感覚を呼び起こされる以上、単に過ぎたことと済ますことはできない。

何より、この「訓練」による無惨な犠牲者について、家族、係累や目撃者およびその子孫に記憶され語り継がれたことどもを消し去ることはできようはずがない。

奥村和一私は蟻の兵隊だった-A.jpg
奥村和一(1924〜2011)・酒井誠『私は「蟻の兵隊」だった』(岩波ジュニア新書、2006年)
*引用箇所はp.21〜の「教育の仕上げ――刺突訓練」のくだりだ。
辺見が省いた将校らによる「試し斬り」は22ページに出てくる。
文科大臣以下、文科省・教育課程の面々、佐藤正久参院議員らの「銃剣道」を入れよ、と動いた人々すべてに、これを読んで感想を伺いたいものだ。中学教育課程部会を初めとする中教審委員の人々も、「関知しなかった」では済まされないはずだ。

辺見庸「1★9★3★7」完全版(下)-A.jpg
 辺見庸『1★9★3★7』完全版(下) 角川文庫、2016年



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第一次世界大戦後のドイツと似ている。ワイマール憲法は外から押しつけられた憲法だから従う必要がないという中高年齢者の懐古意識がやがてヒトラーのナチスを蔓延らせ、ドイツを滅亡の淵に追い込んだ流れを作ったと言われている。今の日本でも、日本会議という訳のわからない復古主義の人たちが戦前の日本社会への回帰を目指しているが、戦前の頭の異常な人たちが犯した過ちと同じことを繰り返すのは間違いない。第二次世界大戦後のフランスでは、ナチスに加担した人たちがことごとく市民の手によって粛正されたということが伝えられているが、その数およそ15000人に上るという。日本では、愛国心という錦の御旗さえあげれば他人に危害を加えても大目に見られていたという場面があちこちで見られたようだが、終戦後にそれらの人々が民衆によって粛正されたという話は、あまり聞かない。判断力が欠如しているから、正しく怒ることができないのであろう。自分の頭で考えることができない人間の集団が高い文化を築けるとは思えない。このままでは、世界相手の経済競争にも負け、物作りにも後れをとり、さりとて打つ手を見いだせず、国内での階級固定にのみ汲々として世界史の記録の片隅に葬り去られる公算が大きい。
Posted by:根来珠青  at 2019年03月29日(Fri) 21:49

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