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茨木のり子「りゅうりぇんれんの物語」(5)[2017年02月21日(Tue)]

もの思うツグミDSCN9823-A.jpg
境川のほとりで哲学するツグミ

◆◇◆◇◆◇◆

茨木のり子「りゅうりぇんれんの物語」 (5)

強制連行をめぐって

◆外務省の記録に残るだけでも3万8935名にのぼる華人労務者は日本国内135の事業所に送り込まれた。

支援者の懸命の調査でようやくりゅうりぇんれんの身元が記録の中に見出され、やっと帰国に向けて動き出した。
りゅうりぇんれんのことは国会でも取り上げられていった。
詩の第27連、444行目から先を読む。

不屈な生命力をもって生き抜いた
りゅうりぇんれんの名が 或る日
くっきりと炙(あぶり)出しのように浮んできた
「劉連仁 山東(シャントン)省諸(チュウチョン)城県第七区紫溝(チャイコウ)の人
 昭和十九年九月 北海道明治鉱業会社
 昭和鉱業所で労働に従事
 昭和二十年無断退去 現在なお内地残留」

昭和三十三年三月りゅうりぇんれんは雨にけむる東京についた
罪もない 兵士でもない 百姓を
こんなひどい目にあわせた
「華人労務者移入方針」
かつてこの案を練った商工大臣が
今は総理大臣となっている不思議な首都へ

ぬらりくらりとした政府
言いぬけばかりを考える官僚のくらげども
そして贖罪と友好の意識に燃えた
名もないひとびと
際だつ層の渦まきのなかで
りゅうりぇんれんは悟っていった
おいらが何の役にもたたないうちに
中国はすばらしい変貌を遂げていた
おいらが今 日本で見聞きし怒るものは
かつての祖国にも在ったもの
おいらの国では歴史のなかに畳みこまれてしまったものが
この国じゃ
これから闘われるものとして
渦まいているんだな

◆昭和17年11月27日の「華人労務者内地移入ニ関スル件」という閣議決定は建前の上では労務契約を結ぶことや給与・食事についても定めがあった(前回記事のリンク文書参照)が、それらはほとんど守られなかった。一日にわずか一個の饅頭、給与の支払いなどなし。

中国人労務者移入計画の責任者は、先に満州支配に辣腕をふるい、日米開戦時の東条内閣の商工大臣として入閣した岸信介であったが、その同じ人間が、A級戦犯としての処断を免れて復権し、今は総理大臣の椅子におさまっている面妖な国。

国会の会議録から、劉連仁問題をめぐる岸信介総理大臣の答弁を引こう。
★第28回国会 予算委員会(昭和33年3月29日)会議録 http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/028/0514/02803290514020a.html

*******

〈○国務大臣(岸信介君):十七年の東条内閣当時において、華人の労務者を日本に連れてきて何するということについて閣議決定があったではないかという御指摘でございます。これは私正確な記憶ではございませんが、当時、日本の労務者が足りなかったので、華人労務者を連れてくる。しかし、これはすべて契約によって当の本人が受諾してくる、任意の者を連れてくるという建前であったと、明瞭にそういうふうに記憶いたしております。劉君が果してそういう何で来られたのか、あるいはそうでなしに、先ほど来言われるように、不当に逮捕され、もしくは連行されて来られたものであるかどうかということは、私事実としてはっきりいたさないのでありますが当時の何はそういうことであったと私は考えておる次第であります。それから政府がこれに対してどうするか、具体的にどうするかというお尋ねでございます。これはいろいろ今おあげになりました法規等、いろいろ条約等の関係をおあげになりましたが、私はそれらにつきましては、いろいろなまた法律上の解釈があろうかと思います。たとえば、中華民国との平和条約締結ということ自体をどういうふうに見るかというような法律の解釈としてはいろいろの議論があろうかと思いますが、そういう法律的の議論ではなしに、やはり人道的の立場から、劉君の立場というものをわれわれは考えて、それがやはり日本政府のもとにおいて、日本領土内においてそういうことが行われそういうような事態に劉君があって、そうして相当なつらい思いをして、山に穴居生活をずっと続けておったという事態に対する私は人道的の立場から、同君に対する慰労なり、慰安なりあらゆる方法を尽したい、こういうふうな気持が政府の考えでございます。まだ具体的にどういうことをするのだというお話につきましては、十分関係の当局とも今申しました心持を具現するように、私としてはそれぞれの方面に措置することにいたします。〉
  (下線、太字は引用者)
*******

◆下線を引いた部分、アイマイ語法やズラし、すりかえが連発される。
血は水よりも濃し、と言うが、69年後の国会に彼を尊崇する孫が同様の答弁を倦むことなく繰り返すさまを見聞きすると、むべなるかなと思わずにはいられない。

とりわけ、太字下線部の「しかし、これはすべて契約によって当の本人が受諾してくる、任意の者を連れてくるという建前であったと、明瞭にそういうふうに記憶いたしております。」と言ってのけていることに唖然とする。
「本人の受諾・同意による契約」は「建前」であった、と公式に証言しているのである。
実際には、強制連行があったことを認めた発言であることは明らかだろう。
そうして、「明瞭にそういうふうに記憶」している、とまで言ってのけているのである。

ところが、岸総理は「人道的な見地」で措置したいと逃げてしまっている。
質問者の追及も甘いと言わざるを得ない。
この10日後、りゅうりぇんれんが白山丸で帰国するその前日の4月9日、参議院の外務委員会においても強制労働か否かで質疑が続いた。
しかし、結局3月29日の首相答弁から後退したやりとりで強制連行の事実については尻切れに終わってしまう。
「この国じゃ/これから闘われるもの」が、「いつになっても闘われない」まま、ズルズルだらだらニュルニュル続いている、ということか。


★昭和33年4月9日衆議院 外務委員会議録
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/028/0082/02804090082020.pdf

◆会議録12ページの首相答弁:

○岸国務大臣 政府として当時の事情を明らかにするような資料がございませんし、それを確かめる方法が実は現在としてはないのであります。あの閣議決定の趣旨は、そういう本人の意思に反してこれを強制連行するという趣旨でないことは、あの閣議のなんでも明らかでありますが、しかし事実問題として、強制して連れてきたのか、あるいは本人が承諾して来たのか、これを確かめるすべがございませんので、政府として責任をもってどうだということを今の時代になって明らかにすることはとうていできないと思います。〉

◆この逃げの答弁に対して質問者の田中稔男委員(日本社会党)は、外務省が作成してGHQに提出した「華人労務者事情調査報告書」が存在することを述べ、その文書が現存するか質している。だが岸首相は、松本瀧藏・外務政務次官に「調べたが、現在それはない」と答えさせた上で、「資料が政府側にないので事実が明瞭でない」と言い抜けてしまう。「劉君」への「慰労」をどうするのか、という次の質問に移らせているのだ。

まるで、南スーダン派遣の自衛隊日報をめぐる今国会のやりとりにそのまま重なるような当時の国会審議であるのだが、事実の確認をなおざりにされ、野党側も追及し切れない。

◆政府は、早く劉連仁が中国に帰り、事態が沈静化するのを願ったのだろう。
劉連仁の宿舎に、愛知揆一・内閣官房長官の名で「慰労」の手紙と慰労金10万円を掛川厳・日本赤十字外事課長に持って行かせていた(4月8日)。

「穴から穴へ13年 劉連仁と強制連行」を著した作家・早乙女勝元は、劉連仁を支え続けた席占明および劉連仁その人に直接会って、当時の事情を聴き取っている。

席占明の証言:「手紙には、山の中でご苦労であった、とか、近いうち中国へ行く船があるからお帰りなさい、と。ところが『戦時中日本に入国され』とだけで、まるで自分好きできたように書いてある。しかも、すみませんの一語もない。馬鹿にしている。これは受け取れん、と。それでお金は突き返した」 

りゅうりぇんれんは「我不要!」と拒否し、手紙だけは受け取った。

人間としての誇りを奪ったことに謝罪の言葉を惜しみ、カネで解決しようとする。
ふざけるな!だ。

だが、もう、りゅうりぇんれんは「めいふぁーず」(没法子:しかたがない)などと諦めたりしない。
日本を発つにあたり、「私の日本政府に対する賠償を含む一切の請求権は、将来中華人民共和国政府を通じて行使するまで、これを留保する」と声明を発表した。

◆その言葉通り、1996年、東京地裁に提訴する。
拉致の事実の口をつぐみ、謝罪を拒む日本政府を許すことは人間の誇りにかけてできなかったのである。

◆りゅりぇんれんの帰還を読もう。
第30連から――

*******

東京で受けた一番すばらしい贈物
それは妻の趙玉蘭(チャオユイラン)と息子とが
生きているという知らせ
しかも妻は東洋風に二夫にまみえず
りゅうりぇんれんだけを抱きしめて生きていてくれた
息子は十四
何時の日か父にあい会うことのあるようにと
尋児(シュンアル)と名づけられていた

尋児(シュンアル) 尋児(シュンアル)
りゅうりぇんれんは誰よりも息子に会いたかった
三十三年四月
白山丸は一路故国に向かって進んだ
かつては家畜のように船倉に積まれてきた海を
帰りは特別二等船室の客となって
波を踏んで帰る
飛ぶように
波を踏んで帰る
なつかしい故郷の山河がみえてくる
蓬来(ファンライ) 若かりし日 油しぼりをして働いたところ
塘沽(タンクー)
長い長い旅路の終り
十四年の終着の港

ひしめく出迎えのひとびとに囲まれ
三人目に握手した中年の女
それが妻の趙玉蘭(チャオユイラン)
りゅうりぇんれんは気付かずに前へ進む
別れた時 二十三歳の若妻は三十七歳になっていた
りゅうりぇんれんは気づかずに前へ進む
「おとっつぁん!」
抱きついた美少年 それこそは尋児(シュンアル)
髪の毛もつやつやと涼しげな男の子
読むことも 書くことも
みずからの意思を述べることも
衆よりすぐれ 村一番のインテリに育っていた


*******

◆昨日の朝日新聞夕刊の写真は、この場面をとらえていて胸を打つ。
40台半ばと思えぬほどに、りゅうりぇんれんの顔には深いしわが刻まれている。
妻は倒れかかりそうなほどに身を傾けて夫の右腕をつかんでいる。
一番手前、涙でくしゃくしゃの顔に袖を押し当て、横顔だけを見せている少年の髪は、つややかに輝いている。
父に必ず会えるようにと願って「尋児」と名づけられたわが子はすでに14歳、煥新(ホアンシン)と名を改め、利発で家族思いの少年に成長していた。

★20日夕刊の記事と写真は
(新聞と9条:414)平和主義の国で:14(2017年2月20日)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12805728.html?rm=150
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*******

早乙女勝元穴から穴へ13年_0003-A.jpg
早乙女勝元「穴から穴へ13年 劉連仁と強制連行」(草の根出版会、2000年)


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