放送・イベント動員=不自由度が増すばかり[2019年11月10日(Sun)]
驚いた
◆昭和最後の下血報道を思い出した。
即位祝賀パレードのTV中継、どのチャンネルも全く同じ映像だったからだ。
違いは各局のアナウンサーやコメンテーターのしゃべりぐらいのものだろう。
それとてどんな話が飛び出すか、などと関心を誘う可能性は全く無い想定内の話柄に終始するだろうと予測は付くから、最初から音無しでTVを点けてみたのだが。
◆この国に報道の自由なぞないと先刻承知ながら、代表撮影の映像を延々流すだけの窮屈さに対して、個別の映像を確保しようと手を尽くすメディアの矜恃というものはないのか、と思う。
生放送中の各局スタッフは画面に顔こそ出さないものの、手足を縛られた状態であることを延々30分以上も世界中に伝えたに等しい。
パレードの中継自体は「報道番組」とは言えまい。しかし、このあとストレートニュースであれ、報道特集的番組であれ、同じ映像を何度も使い回すことになるわけだ。
してみれば、この先もどの局も去勢状態の屈辱にまみれ続けるのは間違いない。
沿道の見物に対しても、自撮り棒の使用やベランダからの撮影は禁止、という戒厳令同然のお達しが布告されていたようだから、この社会の不自由度を肝に銘じるには格好のイベントだった言える。
◆明日は新聞休刊日ということで、祝賀行列の記事は夕刊まで先送りになるが、まさか「代表撮影」とキャプション付きの写真を載せるなんてことはあるまいね。
もっとも、写真こそ自社カメラマン撮影によるものを載せたとしても、見出しを始め肝心の記事は、どの社も大差ないものが麗々しく一面を埋めるのだろうと想像されて、気鬱は解消しようもない。
――それが我々の「身の丈に合った」報道の姿ということか?
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◆藤沢の白旗神社(義経を祀る)は、即位と義経・弁慶没後830年にあたり銅像を建立したこととを記念して藤沢一中〜白旗神社までの祝賀パレードを実施した。
行列告知の看板が立つ白旗交差点
放送のコメントも提灯文字も屋上屋を架す敬語のオンパレード。
日本語が不自由度を増す日々。
近隣のいくつかの神社の氏子と神輿が動員された。
だが、ほんらい氏神信仰と皇室とは歴史的に直列でつながるものではない。
明治政府の国家神道という国策が威令をもって推進された結果に過ぎない。
近代前半=敗戦までの70年ほどの間に馴致させれた習慣からいまだに脱しきれないのでは、ご先祖様に申し訳ない話だ。
義経・弁慶主従らの仮装行列もあった。
白旗神社に登場した義経・弁慶主従の像。
彫刻制作は奈部雅昭氏。