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移民と国策―猪俣弥八の生涯から思うこと(3)[2019年05月22日(Wed)]

アメリカへの日本人移民

◆困難に立ち向かう人々のために尽くそうとする猪俣弥八の志を中途で断ち切ったのは彼のもとで働いていた邦人の凶弾であった。

「湘南社」を中心にした民権散歩で教わったもう一人の人物、後藤𤄃(ごとうかつ。旧姓小早川。1861-1889)のハワイにおける非業の死が思い合わされる。
後藤の場合は、商売敵の反発がリンチ事件に発展したということだった。
猪俣弥八よりは3年早く海を渡り、ハワイに地歩を固めつつあった後藤もまた、移民として働く同胞たちの待遇改善に奔走した人であった。
「人はパンのみで生くるにあらず」と聖書は教えるにしても、今日の糧を口にすることが叶わぬ者の空腹を充たすことは難しい。

*拙ブログ「大磯をあるく(2) 2017年2月28日」参照
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/433

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◆(閑話休題)日本政府は改正入管法(今年4月施行)の定める「特定技能者」を、人手不足に悩む福島原発廃炉作業に外国人労働者を従事させられるとの方針を打ち出した。ノドから手が出るほど働き手が欲しい東電だが、「当面は」受け入れない方針を発表した。被曝の恐れや言語の不自由から起こりうる作業の危険を理由としているが、説明になっていない。では日本人の作業従事者には危険はない、と言いたいのか?被曝の恐れに常に身をさらして働いているではないか。

政府は事実上の移民を、移民ではないと強弁してきたが、来日して働く労働者自身やその家族への眼差しを示したことは一度もない。産業界・財界に都合が良いように移民政策をいじり、彼らを人間として遇せず、道具として利用することだけが大手を振っている。外国人だろうが、日本人であろうが働く者を人間として処遇しない点も今に始まったことではない。

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◆さて、アメリカへの移民だけに限ってみても、日本人移民は日米政府両政府の国策に翻弄されてきた実態がある。
今の私たちが忘れがちなことは、近代日本150年の最初の100年間、日本は多くの移民を海外に送り出した国であるという事実である。
その1世紀にわたる移民史を殖産興業〜欧米列強に伍し海外侵略〜その失敗とどん底からの復興の歴史(敗戦後の高度成長期まで)と重ね合わせれば、国策に翻弄されつつも必死にそれを乗り越えようとした普通の人々の物語が浮かび上がってくると思う。
日本は、1945年の敗戦後も60年代に高度経済成長を果たすまではブラジルなど南米中心に移民を送り続けた。現在はその子孫たちを含め海外から逆に日本へと働きに来るようになったわけである。

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100年にわたり移民を送り出してきた日本

◆明治の民権運動は、国の体裁と軍備を整えるための重税を担わされた国民の苦悶が原動力の一つであった。
文明とともにもたらされた欧米の人権思想がそれに形を与えた。意欲にあふれた青年たちと、伝導の使命に燃えた宣教師たちとの出会いが普遍的なもののために生きる道の門を開いた。
猪俣弥八や後藤𤄃の渡航とその後の生き方は、理念に基づく実践にほかならない。

◆無論、疲弊した農村の子弟にとっては、働き口を求めての移住であり、良い条件を求めて海外に向かう者が増大する。
アメリカの国策の変更によって、中国人移民が禁止され、それに代わる位置を日本からの移民が占めることとなった。

*1890年には中国人移民10万7千人余りに対して日本人移民は2千人余りでしかなかったが、1910年にはともに7万人強と肩を並べ、1920年には中国人移民6万人余りに対して日本人移民が11万人強と、逆転している。(貴堂嘉之「移民国家アメリカの歴史」p.149 岩波新書、2018年)

一方、日本政府からすれば、国内の産業だけでは養えぬ口を海外に求めさせることにしたわけで、特に日露戦争後はその必要が増した。

◆弥八らの渡米にも、彼らの内発的理由とともに外的条件と国の政策(時にそれは無策に等しい場合もある)が関わっているのは言うまでもない。

ちなみに、弥八が渡米した1888年の日本人移民入国数は404人であったが、亡くなった1902年には14,270人を数えている(飯野正子「もうひとつの日米関係史 紛争と協調のなかの日系アメリカ人」p.14有斐閣、2000年)。

弥八の命を奪った日本人も、この膨れあがった移民たちの一人であったのだろうか。
渡米後の暮らしぶりや凶行に至る事情は判然としないが、初期の日本人移民たちの仕事や住環境の劣悪さを物語る証言や記録は多い。

◆弥八が体を張って日本人娼家の廃止運動に取り組んだことは先述したが、ユウジ・イチオカ「一世 黎明期アメリカ移民の物語り」(刀水書房、1992年)には、欺されて荷物同然に貨物船に閉じ込められ売られてきた女たちなど、さまざまな例を載せている(同書p.35〜48)。国策に便乗して人身売買で稼ぐ業者たちが存在したわけである。

◆アメリカ側の対応も常に歓迎一色だったわけではない。
弥八没後のことだが、1907年の移民法改正や第一次大戦後の排日運動には常に人種主義がつきまとったし、黄禍論を選挙に利用する政治家さえ出現した。1913年の外国人土地法によって日本人の土地所有が禁じられ、1920年には借地権すらも奪われていく。

決定的であったのは1924年の移民法(事実上の「排日移民法」)だった。
アメリカへの道が閉ざされたことが日本の大陸進出(中国侵略・満蒙経営)やアジア各地への侵略を促すことになって行く。「王道楽土」を謳った満州への移民政策はまさに国策として進められることになったわけである。

石坂(北村)美那・石坂公歴(まさつぐ)姉弟

◆そうした近代日本の歴史を参看するうちに猪俣弥八と同じ1868年生まれの民権家、石坂公歴(まさつぐ)の名が目に留まった。多摩の自由民権運動をリードした石坂昌孝の子で、若き民権家として北村透谷(1868-1894)とも親しく交わった人物で、姉の美那は北村透谷の妻であった。
公歴は、父・昌孝の大阪事件連座や自由党の解散など民権運動の退潮を見るに及んで1886年に渡米。愛国有志同盟を結成、新聞「新日本」を発行して彼の地から日本政府批判の筆を執った。
だがその後は職につけず北米各地を転々とし、日米開戦時には日系人収容所に入れられ1944年、マンザナの日系人収容所で死去したという。

大阪事件…1885年,自由党左派が企てた、クーデターによる朝鮮の内政改革の試み。

◆石坂公歴の生涯は、弥八とは別の意味で不運の人生という印象がある。
山田風太郎『明治波濤歌』に若き日の石坂公歴が描かれているという。

また透谷に嫁した姉・美那(1865-1942)は、1894年の透谷の自死後、思い立って渡米、あしかけ9年の留学生活を送った人という。帰国後は英語教師となり、透谷の詩作品の英訳も進めたという。透谷がキリスト教に向かい、受洗するに至ったのは、美那の存在を抜きにして考えることはできない。

そうした姉と弟の人生が、太平洋をまたいで交錯しつつ別様の軌跡を描いて行ったこことになる。

まさに波濤を越えた人々の往来とそれぞれの波瀾万丈の生涯から学ぶことは尽きない。

猪俣弥八、石坂姉弟とも、民権運動の興隆とその余燼まで閲してそれを生涯に生かそうとした人々だが、地に足を着けた農の家に生まれたという点が共通する。決して数奇な人生ということではない。

◆無論、彼らは土地の名望家というべき恵まれた環境に育った。
一方で、貧窮からの脱出を夢見て海を渡りながら、思うに任せず苦界の淵に呻吟する女たちがおり、これを食いものにする者たちも存在した。
さらには、頼るべき同胞の命を奪うところまで追い詰められた人間すら現れたこともまた事実である。
異郷に活路を求めて身を粉にして働いても報われること少ない人々が圧倒的に多かったであろう。

だが、同時に彼らの困苦に目を留めて生計(たつき)の確保に砕身した後藤𤄃や猪俣弥八のような人々が確かに存在した。
それも単に同胞が苦しんでいるから、という理由ではなく、困難に直面している人が日本人であれ何人であれ、彼らが幸福に近づけるよう努めることが信仰や理想の実践であり己の生き方として自然なことだ、という確信があったからではなかろうか。
端的に言えば「博愛」ということになるが、それを観念でなく、目に見え手の触れることのできるものとして踏み行うこと(具体的には「労働することの喜び」を日々に行うこと)―ーそれが外からやってきたキリスト教や欧米の思想が日本人にもたらした最大の恵みではなかっただろうか。
猪俣弥八はそのことをアメリカで行いつつあった、という風に思われる。

いわば恵与されたものを、恵与の源流にさかのぼって確かめつつ、他者のための我が行いとして踏み行うこと、それが弥八の生き方であったのではなかろうか。

◆さて、この恵与されたものを、アジアの各地に棲む人々のために踏み行うべく(かつて日本にやって来た宣教師たちと同じ理想と使命感を燃やして)海を渡った日本人は、果たしてどれだけいただろうか? 

いや、海を渡るまでもない。これからこの島国に生路と活躍の場を求めてやって来る人たちのために、私たちは弥八のように向き合うことができるであろうか?

*******

*石坂公歴、北村美那の生涯については下記報告を参照した。
なお、タイトルは「石」とあり、父・昌孝についても「石阪」「石坂」が混在している。
下記報告タイトルは「石阪」を用いているのをそのまま転記した。

鶴巻孝雄「石阪公歴のアメリカ便り−公歴・美那・透谷関係史料の紹介−」
(町田市での透谷展の報告集『民権ブックス7 北村透谷と多摩の人びと』(1995年)所収の解説をネット上に公開したもの
http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/toukoku/t-kourekisyokann.htm



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