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イチローとスミレと漱石と[2019年03月24日(Sun)]

イチロー選手の引退会見、異国でかみしめた孤独とそこから得たものがこの先の人生で意味を持って来るだろう、と締めくくった奥の深いコメントを聴きながら、119年前に海を渡った漱石の孤独を想像した。
イチローが渡米したのは27歳、漱石の渡英は33歳であった。

***

DSCN0347.JPG
スミレ。舗道のすきまからまことに小さな花をもたげて、たくましい。

***

漱石の俳句の中でも良く知られた〈菫程な小さき人に生れたし〉は、こうした在来種のスミレをイメージして詠んだものだろう。熊本にいた明治30(1897)年の2月、子規へ送った句稿40句中の一句である。

◆明治28年、松山にいた漱石の下宿(愚陀仏庵)を子規が訪ねて以降、漱石の俳句熱は一気に高まった。翌明治29年4月に熊本の第五高等学校に赴任、その地で所帯を持ってからも東京の子規に句稿を送り、子規はこれを添削して秀句は自らの帳面『承露盤』に書き留め、新聞紙上で論評した。

明治32年秋までに、句稿が子規に送付されること35度に及んだが、明治33年、英国留学に伴い漱石の句作が大幅に減ったのはやむを得まい。
呻吟・懊悩の倫敦時代と言われる。
子規の病状については日本から送られてくる「ホトギス」誌などでも知り、再会することは叶うまいと覚悟を固めざるを得なかった。
畏友・正岡子規の訃報をロンドンで聞いたのは明治35(1902)年、帰国の準備を始めたころであった。
同年12月、帰国に向けて再び異文化に心と体を切り替える孤独な作業を進めながら、ようやく手向けの句を高浜虚子宛の手紙にしたためる。
以下の五句である。

 
  倫敦にて子規の訃を聞きて

筒袖や秋の柩にしたがはず
手向くべき線香もなくて暮の秋
霧黄なる市に動くや影法師
きりぎりすの昔を忍び帰るべし
招かざる薄に帰り来る人ぞ


◆冒頭句の「筒袖」(=洋服)とは、懸命に身と心を「洋」に合わせようとして過ごして来た日々を自嘲的に述べたものだろう。友の野辺送りに連なることの叶わないのは、異郷にあるだけでなく友と共有する言葉から遠ざかっているからだ、という含意があるようだ。
同じ手紙には「かく筒袖姿にてビステキのみ食ひ居候者には容易に俳想なるもの出現仕らず昨夜ストーヴの傍にて左の駄句を得申候得たると申すよりは寧ろ無理やりに得さしめたる次第に候へば只申訳の為め御笑草として御覧に入候近頃の如く半ば西洋人にて半日本人にては甚だ妙ちきりんなものに候」と書いている。戯画化しながら2年余りの英国留学を総括した偽らざる感懐でもあっただろう。

*句は1967年刊の岩波版漱石全集第12巻、書簡は1928年刊の岩波版全集第18巻に拠った。
伝記的事項は荒正人による『漱石文学全集 別巻』(集英社、1974年)を参照した。

★なお、3句目の「霧黄なる」ロンドン風景については、正に漱石が留学していた頃に繰り返しロンドンを訪れていたモネ「テムズ河のチャリング・クロス橋」および「霧の中の太陽」を参照してみて欲しい。

モネの描いた霧のロンドンと2人の日本人】[2018年9月18日の記事]
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/990


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http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1177
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