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辺見庸「わたしとマリオ・ジャコメッリ」[2018年12月16日(Sun)]

倒錯した状況に鼻先まで浸かって

◆教育の市場化の問題を考えながら辺見庸「私とマリオ・ジャコメッリ」(2009年)を読んだ。
10年前の「新日曜美術館」がもとになっている本だが、芸術表現のみならず文化・政治・社会と人間疎外について考えさせる。白い紙に思考のまとまりごとに墨滴を点じていったことばたち、
という体裁の本だが、問題意識は著者の体温を感じさせ10年後の今もなまなましい。
われわれにおいて、成長も気づきもほとんど無かった10年だったと悟るだけでも読む意味がある。

人間のために、人間が生きてゆくための、商品やマーケットは生まれた。ところが、商品やマーケットのために人間が存在するのが、現在の世界である。

そうした倒錯した世界を異様だと感じないほうが異様である。ところが現実には、CMの世界のほうを正常だと感じ、CMがないと逆に寂しくなるというひとがずいぶん存在する。それが生理的に身についているひとがずいぶん存在する。異様が正常になろうとしているのである。
 

 *以上、4章《資本、メディア、そして意識》p.87、〈倒錯した状況のなかで〉より

現代は芸術としての映像とコマーシャルの映像がまったくの等価になり、区別のなくなった時代である。そこでは資本の管理下、どちらも等しく「金銭」に換算される。端的にいえば〈表現は金〉なのである。ニュース映像と権力宣伝にも境界がない。あらゆる表現は政治的であり、コストパフォーマンスが計られている。もっとも非政治的に見えるものほど政治的である。発声さえも、視線さえもすでにして政治的なのである。
 *4章《資本、メディア、そして意識》p.95、〈表現者はいかにして資本と権力から自由であり得るか〉より


◆では、現代のそうした倒錯した状況に対して、ジャコメッリの写真は何を表現しているのか。
また、そうしてその映像表現の根にあるものは何か。

かれの映像はいわば内宇宙を撮る映像であり、外宇宙にでていく必要はなかったのだ。 *p.45

ジャコメッリは、静物、海辺の子どもたち、樹木、神学生、農地、町のひとびと、海、ホスピスの老人たちなど、いかなる「実在」の対象を撮ろうが、すべて自分の内面の異空間として表現する。その映像は異界のようにまがまがしく、幻夢のようにとらえどころがなく、識閾のようにはかなく漂う。このリアリストとしての逆説はすべて、実在というものに対する無意識下の不信に根ざしているのではないか。
 *2章《「時間」との永遠のたたかい》p.40、〈表現者はいかにして資本と権力から自由であり得るか〉より

辺見「私とマリオ・ジャコメッリ」.jpg
辺見庸「私とマリオ・ジャコメッリ」(NHK出版、2009年)
*表紙はジャコメッリの連作「スカンノ」(1957-59年)のうちの1枚。
中央の少年の顔だけがくっきりとしている不思議な作品である。



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