辺見庸『月』――さとくんの発心[2018年11月23日(Fri)]
ビワの花にキタテハ
*******
◆辺見庸『月』 12より
「さとくん」が「とても偉いひと」に〈世の中をよくするために貢献したい〉という内容の手紙を書きおくったという。それを受けて園に背広にネクタイの二人連れの男たちが来て「さとくん」のことを訊いていたというのだ。
そう言えば「さとくん」から、電車で白杖のおんなのひとが集団痴漢に遭っているのを救おうとしたという事件のことを聞かされてもいた。残念ながら逆にかんたんにのされてしまい、他の乗客は誰も助けてくれなかったのだが――
なぜなのだろうか。あたしにはどんなことも深刻にはおもえない。この世ではいかなることも深刻におもわれてはいないのじゃないか。ひとがなんにん殺されようと。のっぴきならないということは、なにもない。理不尽。リフジン。無残。ムザン。ことばだけはいくらでもある。干からびたゲロのように。いつからそうなったのだろう。いちいち深刻にうけとめるのは、なにごとにつけ、おかしいようにおもわれる。まるで筋ちがいのように。話しているさとくんじしんもあまり深刻そうではない。おきたできごともさっぱり深刻ではないようだ。深刻さがたちまち脱臼する。複雑骨折する。話すそばからそうなる。芯がどこにもない。漫才だ。だれもが、なにごとにつけ、ほんとうは真剣ではないようにおもわれる。真剣な声は、真剣なふりの声とまったく同じだ。なんだか気味がわるい。どこか戯(たわ)けていて、これいじょうはむりなほど徹底的にわるずれしているくせに、まったくそうではないように、ぜんいんがよそうでもなくよそおう。ぜんいんがさりげなく、できごととのかかわりあいを避けようとしている。あらゆる存在とことばが疲弊している。困憊(こんぱい)して、引きつけをおこしている。
さとくんは、それでも、ものごとにかかわろうとした。身びいきかな。あたしはそうおもう。かかわるって大変なことだ。さとくんは「境界」から一歩踏みだした。踏みだそうとした。そうじゃないのかな。不首尾ではあったが、とにかく踏みだした。
(略)
おどろいたのは、さとくんがはなしてくれたこと、つまり、電車のできごとの顛末ではなかった。さとくんはかならずしもナイーヴなのではなかった。ただ純朴なのではない。すなおすぎるバカでもない。そのことになぜだかはっとした。かれは「世の中をよくしたいんだ……」というようになった。「そのためにはどうすればいいか、かんがえはじめているんだ」
わたしは瀕死のちいさな蝶をおもった。ルリシジミではなく、翅の透明なスカシジャノメが一頭、あたしのなかをおろおろと飛んでいた。電車の窓のそとは瑠璃紺の海だった。カゲロウが低く飛んでいた。
*『月』12 さとくんの発心〈よの中をよくするために貢献したい〉〈そのためにはどうすればいいか……〉より(p.109〜111)
**下線部、原文は傍点
◆現実のやまゆり園事件では植松聖被告の優生思想が焦点化されて来た。
しかし小説『月』の「さとくん」は上のような青年として描かれていく。
語り手のきーちゃんは彼に好感を抱いてさえいる。
「〇〇のために良かれ」と思うことは誰にもある。しかも、思うだけでなく「善きこと」と信じて実行することすらしばしばある。とすれば、我々はおのがじしの中の「さとくん」に注意深く眼をこらさなければならない。