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再びの9・19、戦争法・共謀罪廃止を求める[2017年09月19日(Tue)]

戦争法・共謀罪は廃止しかない

◆戦争法強行採決から2年の19日、「戦争法・共謀罪の廃止と安倍内閣退陣を求める大集会」が国会議事堂正門前で開かれた。

首相による国家の私物化がとどまることを知らない。

◆これに先立つ院内集会での山口二郎法政大教授の講演で国家「私物化」の危機として指摘されたこと――
1.私的な人間関係の優遇(森友・加計疑惑)
2.官僚の私物化(国民全体の奉仕者でなく政府や自民党の奉仕者に)
3.共謀罪等で政府批判弾圧へ

◆その結果、法が支配するのではなく、人が支配する前近代的な「家産国家」というべき専制国家になりつつある。
政府内では規律が崩壊し、政府に対する国民の疑問や批判は共謀罪によって罰し、異論そのものを封じ込める。罪刑法定主義を否定した権力濫用の姿である。

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山口二郎氏(参議院院内集会で)

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◆国会前の集会ではどの登壇者からも野党共闘の必要が訴えられた。
2年前の戦争法強行以後、参院選、自治体の首長選で野党共闘は着実に成果を上げてきた。
しかし未だ十分ではない。

疑惑隠しのための解散・総選挙で大義名分はない。「消費税の使途変更」などという思いつきまで飛びだした。追い込まれている証拠とも言えるが、呆れさせて国民の政治参加・投票への意欲を削ぐ作戦と見えなくもない。
猫ダマしのような奇手にごまかされて、いつの間にか改憲発議を許していたなどという事態は願い下げだ。

◆安倍首相は国連総会に臨むにあたって米紙に寄せたメッセージの中で「対話を呼び掛けても無駄骨に終わるに違いない。北朝鮮の目には諸外国が屈したとさえ映りかねない」と書いたとされる。

対話の道を閉ざして挑発するとは神経を疑う。
こうした危険なメッセージをブチ上げる理由は一つしか思いつかない。
有事を誘発させることで政権延命と改憲を実現させる破れかぶれの一手だということだ。

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私物化を許してはならない

◆集会第2部で、地元今治市で、加計疑惑追及に精力的に取り組んで来た黒川氏の訴えがあった。
「今治市だけの問題ではない、告発・追及に全国からの支援を!」という呼びかけは説得力があった。

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納税者である私たちには、自分たちの血税がどう使われているか、監視する責任がある。
「加計隠し・森友隠し」が首相夫妻以下、取り巻き、官僚、翼賛メディア総ぐるみの国富私物化事件であることを黙認していてはならない。

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〈さようなら原発 さようなら戦争〉全国集会[2017年09月18日(Mon)]

ともに生きる未来を!
〈さようなら原発 さようなら戦争〉全国集会

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◆代々木公園は33度を超えたようだ。
「台風でアベが去ったような秋晴れ」(鎌田慧氏スピーチ)のもと、冷やして持参した麦茶が会場で開会宣言を聞くころにはホット・ティーになっていた。
デジカメも構えているのが大変なほどに熱い。
集まった人たちの熱気のおかげでもある。

◆大阪から子どもたちと一緒に避難したお母さん――
今この国は平和ですが、この6年半、私は二人の子どもを抱えて、平和の裡に生きて居ると思ったことは一度もありません。
憲法の平和的に生存する権利を実現させる方向に舵を切っていないことを証明し続けている6年半です。平和に生きる権利を皆さんとともに勝ちとって行きたい。


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◆総がかり行動・福山真劫氏――
北朝鮮の核問題は平壌宣言、六者協議声明に則って平和裡の話し合いによって核廃止の実現を。
明日19日は戦争法2周年。アベ改憲NO!、沖縄との連帯を!
解散・総選挙をチャンスに!

今後の取り組みが呼びかけられた。
★〈9条改憲NO! 全国統一3000万署名〉がスタートした。
★〈辺野古新基地建設を許さない10.4集会〉(日比谷野外音楽堂10月4日18:30〜)
★11月3日には憲法大集会が予定されている。


◆沖縄から、山城博治さんが駆けつけた。圧倒的なことばのつぶてを連射する人。

皆さん、怒りを示そうではありませんか。
怒りを持ち続けましょう。

アベ政治の延命のためにこの国を核戦争の餌食にしてはいかんでしょう!

衆院解散、堂々と受けて立とうじゃないですか。
戦争となれば発火点となるのが私たちの島。
負けるわけにはいかないのです。

政治のこのような緊張を持った日はないと思う。
身震いするような戦慄、身震いするようなよろこびを感じます。

ゆるやかに、しなやかに、したたかに、断固として頑張って参りましょう!


◆スピーチのあと、「今こそ立ち上がろう」を歌った。
「美しき五月のパリ」を原曲とする、不屈の闘いの歌である。

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★山城さんのスピーチが早速Youtubeにアップされている。
https://www.youtube.com/watch?v=zUXZJ1LGzNc

◆集会のしめくくりは博治さんのリードで「We Shall Overcome 」の大合唱となった。
「勝利を我らに」として知られる60年代からのプロテストソングだが、邦題は祈りのニュアンスを帯びて弱いと感じるかも知れない(もともとは賛美歌)。
原題「私たちは打ち勝つ」ということば通り、信仰・信念を静かに燃やし、不屈の歩みで困難を乗り越えることを誓う。
歌の終わり「私は固く信じる、いつの日か必ず打ち勝つことを」の「信じる」とは、己を信じ、ことばを信じ、同じ思いの人間を信じる、という意味だろう。
これをともに歌うことは連帯の一歩を前に踏み出す行為である。

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◆明日、9月19日(火)は、18時半から下記の大集会もある。
国会議事堂正門前で不屈の連帯を!

戦争法強行採決から2年、
戦争法・共謀罪の廃止と安倍内閣退陣を求める大集会


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原発事故が奪ったものは暮らしとそれを支える日々の糧とふるさと。
デモに動き出す人の列に負けない長い横断幕のメッセージは強烈だ。

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二手に分かれたデモのうち、表参道のケヤキ並木を進む人たち。


円生に会った――こまつ座「円生と志ん生」 [2017年09月17日(Sun)]

円生に会った――こまつ座「円生と志ん生」

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◆こまつ座第119回公演「円生と志ん生」を観た。
夜公演なので早めの夕食をとってから出かけた。メニューは久しぶりの豚(トン)汁。切らしていたゴボウとサツマイモを買いに行ってまで豚汁にしたのは、劇中、「豚汁のうまそうな匂い」というセリフがあったためだ。行き倒れになりかける志ん生には申し訳ないと思いつつ腹に収めて新宿に向かったのだが、休憩はさんで3時間ほどの芝居にはちょうど良い腹ごしらえだった。

◆戯曲も、芝居そのものもテンポ良く進む。井上ひさしおなじみの音楽劇であるのと、セリフに無駄がないせいだろう。
劇中歌の最初は第2場「桃太郎気分でネ……」(原曲は宇野誠一郎が「それからのブンとフン」のために書いた「悪魔ソング」)。歌詞は次の通り。

大将も政治家も
いくさ いくさと いいたがる
まわりのやつらは ボンクラだけど
わが帝国は 神の国
思い込んだらまっしぐら
一流国家になるために
ハガキで兵隊 呼び寄せる
当の国民は ため息


下線部「神の国」は、森喜朗の「日本の国、まさに天皇を中心にしている神の国であるということを国民のみなさんにしっかり承知していただく」という発言(総理大臣だった2000年5月の神道政治連盟国会議員懇談会でのスピーチ)への諷刺であること、言うまでもない。

◆印象に残るシーンはたくさんある。

第四場、大連最大の遊郭街・逢坂町の娼妓置屋「福助」での女性たちと志ん生・円生のあたたかな交流。昭和20(1945)年12月、吹雪の夜、という設定が効いている。
戦犯狩りの機関銃の音が迫る中、逃げる二人にかける置屋のおかあさんの真情あふれることば――「生きているんですよ」。

第六場、古道具屋にいる二人の前に現れた若い四人の母親たち(実は幽霊たち)がわが子に渡してほしいとおしゃぶりや人形を差し出しながら語る身の上ばなし。

国に置き去りにされ難民と化した人々の苦難が21世紀の現在に至るまで間断することなく続いていることを思わないわけにはいかない。


円生がそこにいた!

★この第六場は落語「火焔太鼓」をふまえるが、その冒頭、円生が一心に噺(はなし)の練習をしているところ、しゃべりも表情も全く円生その人がそこにいる、と思って、びっくりした。
六代目三遊亭円生こと山崎松尾を演じているのは大森博史
(Tvで見ただけだが)我が記憶にある噺家・円生が、いま目の前にいる、と思ったのである。

第四場で、志ん生(こと美濃部孝蔵:ラサール石井演ず)が円生(松尾)に、「松っちゃんの上下の移り替え(噺家が二人の人物を演じ分けるために顔を左右に振り分けること)は大きすぎるんだよ。」と指摘して、即興でそれぞれやってみるシーンがある。
二つは、どちらも噺の練習をしている場面であるわけだが、松っちゃん(円生)は全く別人になっているのだ。
実在の人間を演じるのだから役者・大森博史としてビデオや録音で円生を研究したことと思うが、単に「真似」ているのではなかった。
「物真似」ならその人の特徴を誇張するあざとさがあるものだが、それとは違う。
第六場冒頭の噺の練習場面はごく短いものだが、噺をする間、噺家・円生が現前していたのである。

◆「噺」をしている場面は、井上作品にしばしば用いられる「劇中劇」の部分に相当する。
間にはさまった第五場〈行方知れず〉は、二人が食うや食わずの放浪生活の中で噺家として工夫を重ねる数ヶ月を短いエピソードで表現している。

その間に「松っちゃん」が「円生」に変容したことを大森博史は表現したわけだ。
むろん、その調子を続けるのでは芝居全体がぶちこわしになる。噺の一節を練習するこの場面につかのま登場させた、高座で口演中の三遊亭円生なのだ。

*ただし第九場(修道院)で、「笑い」について松尾(円生)が語るところは、説教調になるのを用心してか、セリフに抑制を効かせすぎたのではないかと感じた。

9月24日まで新宿南口・紀伊國屋サザンシアターにて公演中。



「帷幄上奏」の暴威[2017年09月16日(Sat)]

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稲穂を縁飾りのように彼岸花が彩る

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◆前回、司馬遼太郎の『この国のかたち 四』から「帷幄(いあく)上奏」という統帥権上の特権について書いたくだりを引いた。
統帥に関する作戦上の秘密を、統帥機関(陸軍は参謀総長、海軍は軍令部総長)が、首相などを経ず、じかに天皇に上奏することである。

司馬はこれに関して反対論や廃止論(西園寺内閣吉野作造)のあったことにここでは触れない。機密を擁する作戦を「いちいち政府や議会に漏らすわけにもいかないからこれも妥当な権能といっていい」と至って寛容である。そうして「ただ、この権能までが、昭和になると、平時の軍備についても適用されるという拡大解釈がなされるようになった。」と書く(前回記事参照)。

◆ラフに記述しているので若干補うと、帷幄上奏を行う者が陸・海軍の大臣や元帥らにまで拡げられ、上奏する内容も国外派兵や作戦計画ばかりでなく国内の演習計画や師団の配置、治安出動や上級将校の人事にまでわたるようになって行った。すなわち、平時と戦時の区別があいまいになっていったのである。

◆「帷幄」の意味は本来「野戦用のテント」、すなわち戦時下の作戦本部を指す言葉。平時の案件も帷幄上奏によって特別扱いを求めて行くことが濫用であることは明らかだ。
逆に言えば、国軍を持つとは、平時・戦時の区別のない状態で、三権の長も関与できないブラックの領域が広がってゆく危険性に常にさらされるということだ。
関与させる仕組みは本来憲法の中に組み込まれていなければならず、かつ実際に機能するか、ユルんでいるところはないか点検する仕組みも備えておかなければならないのは言うまでもない。
不足なら法によって補修・整備を施さねばならない。
明治憲法であれ現行憲法であれ、その点は同じで、「りっぱな憲法ができた」と満足しているだけではダメ、ということだ。

◆そのためには、精神神主義でない、合理的な分別とその徹底が必要で、言葉を裏切らず、法の骨抜きを許さない態度が広く我々に共有されている必要がある。
教育が大事な理由はそこにこそあるだろうが、政治屋に虫食いされタガをはめられて気息奄々である現状をどうしたものか。


「統帥権」に酔い痴れる者[2017年09月15日(Fri)]

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稔りぐあいを検分するコサギ。
田んぼの水を止め、刈り入れを待つ時節だが大雨と台風の襲来が気にかかる。

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統帥権乱用の「ばかな時代」


◆司馬遼太郎『この国のかたち 四』の「統帥権(四)」から。

統帥権がかつての日本をほろぼしたことについて書いている。
とくに、軍人勅諭(陸海軍軍人に賜はりたる勅諭。1882年)が作られた事情と、それがもたらしたものについて。
「御雇外国人G・E・ボアソナードが案じたように、…のち美濃部達吉(東大)や佐々木惣一(京大)のいわば政府公認の憲法解釈学に暗黙の摯肘(せいちゅう)を加えた」と書く。

とりわけ、「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」と、史実を扮飾してまで、統帥権を天皇に帰したこと。それは明治初年にしばしば統御困難な事態に走った軍に、統轄の網をかけるための虚構、といって悪ければ修辞であったものだ。
しかし一旦ありがたい「勅諭」として下賜されると独り歩きし始める。
むろん、「勅諭」に意志や手足が備わっているわけではないから、これに絶大な力を与えるのは人間の都合である。軍の権威にひれ伏させる口実として軍人たちは活用した。
「統帥権干犯」という言い方によって政府も国会もひれ伏させ、陸・海軍が特権的地位に立った。

統帥権には、
「帷幄(いあく)上奏」
という特権が統帥機関(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)にあたえられていた。
帷幄とは、『韓非子』にも出てくる古い漢語で、野戦用のテントのことをいう。統帥に関する作戦上の秘密は、陸軍の場合、参謀総長が、首相などを経ず、じかに天皇に上奏するということである。
参謀本部制は、元来、ドイツの制度である。それをまねて日本に設けたのは山県有朋で、明治十一年(一八七八年)に発足した。発足早々、ドイツ風に帷幄上奏権も設けられた。
作戦は機密を要する。いちいち政府や議会に漏らすわけにもいかないからこれも妥当な権能といっていい。
ただ、この権能までが、昭和になると、平時の軍備についても適用されるという拡大解釈がなされるようになった。
首相浜口雄幸が、そのために右翼のテロに遭った。


(略)

以後、昭和史は滅亡にむかってころがってゆく。
このころから、統帥権は、無限・無謬・神聖という神韻を帯びはじめる。他の三権(立法・行政・司法)から独立するばかりか、超越すると考えられはじめた。さらには、三権からの容喙(ようかい)もゆるさなかった。もう一ついえば国際紛争や戦争をおこすことについても他の国政機関に対し、帷幄上奏権があるために秘密にそれをおこすことができた。となれば、日本国の胎内にべつの国家――統帥権日本――ができたともいえる。
しかも統帥機能の長(たとえば参謀総長)は、首相ならびに国務大臣と同様、天皇に対し輔弼(ほひつ)の責任をもつ。天皇は、憲法上、無答責である。
である以上、統帥機関は、なにをやろうと自由になった。満洲事変、日中事変、ノモンハン事変など、すべて統帥権の発動であり、首相以下はあとで知っておどろくだけの滑稽な存在になった。それらの戦争状態を止めることすらできなくなった。″干犯″になるからである。統帥権の憲法上の解釈については、大正末年ごろから、議会その他ですこしばかりは論議された。
が、十分に論議がおこなわれていないまま、軍の解釈どおりになったのは、昭和十年(一九二五年)の美濃部事件によるといっていい。憲法学者美濃部達吉が″天皇機関説″の学説をもつとして右翼の攻撃をうけ、議会によって糾弾された事件である。結果として著書が発禁処分にされ、当人は貴族院議員を辞職した。
美濃部学説は、当時の世界ではごく常識的なもので、憲法をもつ法治国家は元首も法の下にある、というだけのことであった。
それが、議会で否定(議会が否定するなど滑稽なことだが)されることによって、以後、敗戦まで日本は″統帥権″国家になった。こんなばかな時代は、ながい日本史にはない。


◆「”統帥権”国家になった」といっても、自ずからそうなったはずはない。そのようになる理由と内的・外的な条件があったはずで、さらにもう一つ、人間のやることである以上、統帥権を行使した者の判断と意志が関与するのは当然の話だ。その乱用を阻むためになすべきことをしなかった者の不作為も勘定に入れないでは済まない。

「無限・無謬・神聖という神韻」という表現は統帥権の絶大な威力を説明するには都合が良いかも知れないが、「法治主義」の不徹底=「人治主義」への転落を繰り返さないためには参考にならない。
「司馬史観」という「酒精分のつよい」物語に酔っていては始まらないのである。

*「酒精分のつよい」という言い方、『この国のかたち 四』(文庫版142頁)だけでなく司馬の文章の随所に出てくるたとえを拝借した。「統帥(トウスイ)権」に導かれた表現だと想像している。同音異義語から連想をふくらませるのは言葉を扱う生きものの習慣病のようなものだが、司馬文では「香が立ちのぼる」とか「時の枕に寝かせた」などの意味を含ませていて、ただのダジャレでないことはいうまでもない。
気分良さに足もとをふらつかせてはいられないと自戒しつつ借用した。


「統帥権の超越」という悪魔的解釈[2017年09月14日(Thu)]

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違憲行為に感度を鈍らせない

◆13日の朝日新聞朝刊によれば、臨時国会を開くべしという要請を依然として無視する憲法違反を続けたままで、再び首相は9条について改憲案を出す意向だという。
私人同士で約束を守る・守らないというレベルの話ではなく、憲法遵守義務を負う立場の人間が批判に耳目をふさいだまま、不法でないように憲法を変える、と言っているのだから、それは端的に言って法治国家を廃絶すると言っているに等しい。

朝日新聞は、自民党内に異論もあり、それが表に出てくるのは首相の求心力低下の表れだと指摘する。しかし党内議論を取り上げることは、「熟議」が展開されているかのような印象を国民に振りまく。9条をいじることは憲法全体の瓦解を招くとする学者たちの警告を無視したまま犯してきた「違憲」の行為が常態化することで、我々の危険への感度が鈍磨し、ついには無感覚になる恐れの方が強い。

【朝日、14日朝刊】憲法9条、首相案の条文提示へ 自民、意見はまとまらず
http://www.asahi.com/articles/ASK9D51Z0K9DUTFK00M.html


14日夕刊にも「米イージス艦に給油 海自艦、安保法受け新任務」という記事を載せている。そもそもこの給油が適法なのか、疑念を伝えないと、既成事実を積み重ねる政権の思惑に加担するだけになってしまう。

【朝日、14日夕刊】米イージス艦に給油 海自艦、安保法受け新任務
http://www.asahi.com/articles/DA3S13133140.html


◆以上、二つの記事が載っているのは判で押したように、1面の左上。つまり、トップでなく二番手扱いであることに社の姿勢が伺える。とりわけ、14日夕刊の1面トップは「五輪24年パリ・28年ロス」という次回・次々回の開催都市が決まったというニュース。五輪がそんなに国民的関心事かというと全くそんなことはあるまい。

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「統帥権超越」という「魔術的解釈」

◆司馬遼太郎『この国のかたち 四』は1992年〜93年に月刊誌「文藝春秋」に載ったもの。
文春文庫版の134頁「統帥権(三)」の末尾に次のように記している。

結局、統帥のみだれが、明治十年(一八七七年)の西南戦争という未曾有の内乱をひきおこした。
そのみだれは、隔世遺伝のように、昭和の陸軍に遺伝した。
昭和陸軍軍閥は、昭和六、七年以後暴発をつづけ、ついに国をほろぼしたがその出発は明治初年の薩摩系近衛兵の政治化にあったといっていい。

維新政府に不満の西郷隆盛が陸軍大将および近衛兵を統轄する職を辞して薩摩に帰ったことに呼応して薩摩系の将校の大半が辞表を出したこと。

◆「隔世遺伝のように/遺伝」というだけでは、「遺伝」だからしかたがない、と諦めているように聞こえる。しかし、軍をどう統率するかは紛れもなく人事=人間の判断・意志に属することのはず。

◆統帥権については4回にわたり紙数を費やしている。
幕末の尊皇攘夷から明治に入って維新政府のあつめた近衛兵、山県有朋による陸軍の創設、西南戦争とその後始末への反省から軍人勅諭の起草・公布をたどり、一旦以下のようにくくる。

ともかくも、『軍人勅諭』および憲法による日本陸軍のあり方や機能は、明治時代いっぱいは世界史の常識からみても、妥当に作動した。このことは、元老の山県有朋や伊藤博文が健在だったということと無縁ではない。
すくなくとも、明治二十年以後、明治時代いっぱいは、統帥権が他の国家機能(政府や議会から超越するなどという魔術的解釈は存在しなかった。

◆1945年の国家敗亡をもたらしたものが統帥権の魔術的解釈によるとして、その横行闊歩を可能にしたものがどこにあるのかという吟味が行われているか、という点について疑念が残る。

文民統制の時代でなかったことなど、いくつか触れてはいる。

だが、元老山県有朋や伊藤博文が健在の間はコントロールが効いていた、というのであるなら、制度が「人治」に頼っていただけだ、ということになる。
戦後70年余を過ぎて、戦争体験者がいなくなったからブレーキが効かなくなっている、という説明と同じことになってしまう。そう考えてくると、司馬の『この国のかたち 四』の「統帥権(一)〜(四)」の考察にかけているものが見えてくる。

統帥権の超越を「魔術的解釈」と表現するが、人間の生き死には見世物ではない。
「悪魔的解釈」と言い換えてもまだ生ぬるいだろう。


旅人と葛の花[2017年09月13日(Wed)]

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葛(くず)の花。

◆はらはらと路傍に落ちるものの気配に驚いて見上げたら、樹にまつわりついた葛の落花だった。
この花を目にするたびに思い出すのは釈超空の有名な次の歌だ。

葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり。
(「海山のあひだ」大正14年)

釈超空(しゃくちょうくう)、本名折口信夫(おりくちしのぶ)(1887〜1953)のこの歌を何も分からぬまま読んでいたと思う。
歌に詠まれた葛の花は叢から旅人が通る山道に這い出ていた蔓に咲いていた花であって、上の写真のように樹を這い上ったものではない。

踏みしだかれた葛の花の鮮やかな色に、少し前にここを歩いていた旅人の存在を知る、という歌だが、この歌の磁力は、先を歩む一人に思いを向かわせている作者、そうしてその作者の息づかいや汗を感じるようにして作者の後ろにいる自分、という一筋のつながりを生々しく感じる点にある。

◆最初に感じたその印象があまり強いために、樹を這い上り覆い尽くした葛の姿はほとんど意識に留めないでいたことに思い当たった。花びらの地上に落ちる気配がこちらに及ぼした影響である。

◆もう一つ、先行する二人を同じ道を歩むものと重ねる味わい方とは別に、二人の違いに心を働かせることをして来なかったことに気づいた。

葛の花を踏みしだいた旅人は、足もとに目を遣ったにしても、そのまま歩み去ったと想像される。しかし、作者はこの花に気づいて足を停め、汗をぬぐいながらしばらくそこにたたずんだはずだ。
二人を単に同じ道を歩いている人、と捉えて終わり、でなく、歩み過ぎた人とその人の跡を認めてしばしたたずんだ人として、違いを捉えた上でその二人を重ねて観ることには明らかな違いがあるだろう、ということだ。
それが3人目である読者が存在することの意味だと思う。

*司馬遼太郎「この国のかたち 四」に「統帥権」のことが4回にわたり書かれている。
それを読み返しながら、そこに書いてないものを考えていた。
考えがまとまらないまま、人が書いたものを材料にあれこれ考えを巡らすことは、上の歌の、山道を前後して進む旅人たちの関係に似ているな、と思い当たって寄り道してしまった。


江戸期教育の多様さ[2017年09月12日(Tue)]

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シオカラトンボ

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江戸期の多様さ 

◆司馬遼太郎「この国のかたち 一」からもう少し引いておく。
〈江戸期の多様さ〉という章である(一部、前記事と重複)。

あたりまえのことをいうようだが、戦後社会は敗戦によって成立した。
それより前の明治憲法国家は、わずか四、二十年で病み、六十年に満たずしてほろんだ。
その末期については、すでにのべた。くりかえすと、国家の腹のなかに統帥権(というよりその無限的な拡大解釈と社会化、さらにはそれによる国家支配)という鬼胎(この稿での用語。以前に説明した)を生じ、国家そのものをほろばした。

私など、その鬼胎の時代から戦後社会にもどってきたとき、こんないい社会が自分の生きているうちにやって来ようとは思わなかった。それが〃与えられた自由″などとひねくれては思わず、むしろ日本人の気質や慣習に適った自由な社会だと思った。焼跡と食糧難の時代とはいえ、日本人たちの気分はあかるかったように思う。

しかしその社会も成熟しはじめたいまとなれば、それがこんにちの私どもを生んだ唯一の母胎であるといわれれば、そうでもないと言いたくなる。
いまの社会の特性を列挙すると、行政管理の精度は高いが平面的な統一性。また文化の均一性。さらにはひとびとが共有する価値意識の単純化。たとえば、国をあげて受験に熱中するという単純化へのおろかしさ。価値の多様状況こそ独創性のある思考や社会の活性を生むと思われるのに、逆の均一性への方向にのみ走りつづけているというばかばかしさ。これが、戦後社会が到達した光景というなら、日本はやがて衰弱するのではないか。

◆こうした不安から司馬が取り上げるのは江戸期の各藩の個性や多様さである。
とくに教育や学問について。

江戸中期から各藩が競って藩校をもったのに対して徳川将軍家はそれに相当する旗本たちへの教育機関を持たずじまい(性質を異にする昌平黌や幕末の講武所、洋学機関は除く)だったために、江戸の旗本・御家人の子弟はぶらぶら無学のまま生涯を送ることもできたという。
その例として勝小吉(勝海舟の父)のことばを引いた上で、それとは対照的な諸藩、維新を推し進めた佐賀・薩摩について筆が及ぶ――

江戸の直参(旗本・御家人)たちはのんきなものであった。
たとえば御家人勝小吉はその口語体の自伝『夢酔独言』のなかで、

おれほどの馬鹿な者は、世の中にもあんまり有るまいとおもう。故に孫やひこのために咄(はな)してきかせるが、能く能く不法もの、馬鹿者のいましめにするがいいぜ。

などと、放埒で小気味いい一生を送ったが、こういういなせな文化は、たとえば肥前佐賀(佐嘉)藩では逆立ちしても出来あがるまい。
佐賀藩では、江戸末期、人間の漬物でもつくるように家中の青少年を藩校という大桶に入れ、勉強漬けにしてしまっていた。こんにちと同様、六、七歳で小学に入れ、二十五、六歳でようやく卒業させた。
いうまでもなく、サムライの身分は家禄にある。ほぼ江戸初期の物価のなかできめられた禄高だから、江戸後期にはとてもそれでは食えなかった。このため、どの藩でも役につくことを望み、役料をもらうことで暮らしを立てていた。
むごいことに、佐賀藩にあっては、不出来のため学齢に即した段階へ進めない者に対しては役人にしないばかりか、家禄の十分の八を削ったのである。
その学問のありかたも、ばかげている。暗誦を重んじ、独創を否定した。

一藩の人物を悉く同一の模型に入れ、為めに倜儻不羈(てきとうふき)の気象を亡失せしめたり。

といったのは、旧佐賀藩士大隈重信である。さらに大隈は、はげしく言う、「佐賀藩の学制は、豊に余多の俊秀を駆りて凡庸たらしめし結果なしとせんや」(「大隈侯昔日譚」)
のち、かれが早稲田大学を興したのは、多分に佐賀の学制への憎悪がそうさせたと考えていい。

これに対し、おなじ九州でも薩摩藩は別国だった。むしろ意識的に学問を軽んじた。
暗黙のうちながら、藩士の教育など初等程度でよいとされた。あまり学問をすると理屈っぽくなり、峻烈果敢な士風が鈍磨するとさえおもわれていたらしい。
この藩は他藩にない青少年教育の制度をもっていた。郷中とよばれるもので、台湾の少数民族から日本の西日本一帯をおおっていた南方古俗ともいうべき若衆宿を、士族教育の場に吸いあげて制度化していたのである。
(略)
また江戸期は、大藩より小藩のほうが精度の高い学問をした。江戸末期の蘭学をになったのは、多くは越前大野、石州津和野、肥前大村、伊予宇和島といったような小藩であり、その出身者だった。
このように士族の教育制度という点からみても江戸期は微妙ながら多様だった。その多様さが―― すこし抽象的な言い方になるが―― 明治の統一期の内部的な豊富さと活力を生んだといえる。

 倜儻不羈(てきとうふき)…才気があってすぐれ、独立していること。

◆アベ政権下で教育再生実行会議座長を務める鎌田薫早大総長など、創立者・大隈侯の初志に照らして忸怩たるところないであろうか。



国家的妄動マニュアル[2017年09月11日(Mon)]

「具体的な行動」とは何か?

◆11日、アベ首相は自衛隊高級幹部会同*で防衛省・自衛隊の幹部約180名に対して「(北朝鮮の核・ミサイル開発に対し)具体的な行動をとっていかなければならない。」と訓示、また、防衛大綱の見直しを小野寺防衛大臣に指示したという。
 *「会同」とは会議のことらしく、「裁判官会同」「検事長会同」などの例があるようだ。エライ方々の集まりらしいので協議するより訓示・伝達の方が主なのだろう。

◆「また例によって”最高指揮官”風を吹かした訓示か」と聞き逃さず、微妙な表現の変化に注意を払わねばならない。ジワジワ踏み込んだ言い方になっているのだ。
通信傍受法(盗聴法)、戦争法制(安保法制)、共謀罪で鎧(よろ)われた現代の「参謀本部」(=官邸・国家安全保障会議)暴走の予兆と警戒すべきだろう。

「具体的な行動」とはいったい何なのか?ジャーナリズムは追及してもらいたい。
権力の暴走を抑止するためにメディアは監視を続けるべきだし、市民は投書や署名、請願、地元選出議員への要請など手を尽くしてNO WAR!の声を届けなければならない。

*********

国家的妄動にエネルギーを与えたものは

◆日露戦争後の日本国と日本人が調子狂いに走り、国家的妄動に向かったきっかけの一つとして、司馬遼太郎は1905年9月5日の日比谷焼打ち事件を挙げる。
日露戦争への過大な負担を強いられた国民が、ポーツマス条約に盛られた見返りが少ないとして不満を爆発させた事件である。

ここに、大群衆が登場する。
江戸期に、一揆はあったが、しかし政府批判という、いわば観念をかかげて任意にあつまった大群衆としては、講和条約反対の国民大会が日本史上最初の現象ではなかったろうか。
調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。「国民新聞」をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。ついに日比谷公園でひらかれた全国大会は、参集する者三万といわれた。かれらは暴徒化し、警察署二、交番二一九、教会一三、民家五三を焼き、一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布かざるをえなくなったほどであった。
私は、この大会と暴動こそ、むこう四十年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量に――たとえば参謀本部に――蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない。

むろん、戦争の実相を明かさなかった政府の秘密主義にも原因はある。また煽るのみで、真実を知ろうとしなかった新聞にも責任はあった。当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい。

*司馬遼太郎「この国のかたち 一」文春文庫p.45「”雑貨屋”の帝国主義」

◆日露戦争後わずか40年で亡国を迎えることになる統帥権の無限定な拡大を許したものの一つに群衆の熱気を挙げる。無論、政府・新聞の相乗作用があってのことだが。

◆司馬は「機密の中の”国家”」の章で、旧軍暴走の「マニュアル」本があった、と指摘する。

かつて、一冊の古本を見つけた。
『統帥綱領・統帥参考』という題の本である。(略)
軍はこの本を最高機密に属するものとし、特定の将校にしか閲覧をゆるさなかった。
特定の将校とは、統帥機関である参謀本部所属の将校のことである。(略)
『統帥参考』のなかに、憲法(註・明治憲法)に触れたくだりがある。おれたちは――という言葉づかいではむろんないが――じつは憲法外なのだ、と明快に自己規定しているのである。
「おれたち」
と、わざわざ卑俗に意訳したくなったのは、秘密結社のようなにおいがするからである。
当時、日本国民のたれもが憲法下にあったことはいうまでもない。天皇でさえ、憲法によって規定されていた。憲法によって天皇は政治に対し、個人として能動的な作用をすることはいっさいできず、例外的にそれをおこなったのは、敗戦のときのいわゆる”聖断”だけである。
であるのに、この本が閲覧できる”メンバーズ・クラブの会員たち”――参謀本部の将校――だけが”われわれの職務だけが憲法外におかれている”と言いかわし、それを秘密にし、そのことを明文化した本を”最高の機密、門外不出の書”(復刻本の編者の「まえがき」の用語。筆者名なし)とし、国民には洩らすことがなかった。しかも敗戦のとき、敵にも後世にも知られぬように配慮したのか、かれらの手で一冊のこらず焼きすてたのである。

*「この国のかたち 一」〈機密の中の”国家”〉、以下の引用も同じ。

参謀本部将校が「秘密結社」のようにして憲法を私議し、私的に合意して自分たちの権能を”憲法外”とみなしていたことに司馬は驚きを隠さない。「おれたちは憲法外だ」と言い放っているのは『統帥綱領・統帥参考』の次のような記述だ。

……之ヲ以テ、統帥権ノ本質ハ力(ちから)ニシテ、其作用ハ超法規的ナリ。

また、一般の国務と異なり、統帥権は「輔弼(ほひつ)ノ範囲外ニ独立ス」るものだと断定し、「従ッテ統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮竝(ならびに)之(これ)ガ結果ニ関シ、質問ヲ提起シ、弁明ヲ求メ、又ハ之ヲ批評シ、論難スルノ権利ヲ有セズ。」とまで言い切っているのだという。

その意味を司馬は次のように述べる。

平時・戦時とをとわず、統帥権は三権(立法・行政・司法)から独立しつづけている存在だとしているのである。
さらに言えば、国家をつぶそうがつぶすまいが、憲法下の国家に対して遠慮も何もする必要がない、といっているにひとしい。いわば、無法の宣言である。


◆2017年の今はどうなのか。
無論、日本国憲法は戦争放棄をうたい、言論の自由や参政権も保障されている。
だが、2017年時点での政府は、通信傍受法(盗聴法)改悪、特定秘密保護法、戦争法制(安保法制)や共謀罪法によって、憲法上のしばりをことごとく解除し、放恣専横が可能な状態になっていないか?
官邸や国家安全保障会議にかつての「参謀本部」のようなマニュアル本がしまわれており、国民の目も耳も及ばないところで日々熟読復誦されている、などということはないか?

司馬この国のかたち一統帥権_0001.jpg



統帥権という「鬼胎」[2017年09月10日(Sun)]

DSCN3144.JPG

*******

◆昨日9日は夜中まで厚木・横須賀間の飛行機がうるさかった。
今朝も朝のうちは電話が聞こえぬほど。米海軍機の厚木基地から岩国に移駐したはずの米機が厚木に再飛来しているのだと聞く。轟音が夜も続くのは夜間発着の訓練なのだという。
移駐が見かけだけで実態は変わらないどころか、北朝鮮建国記念日の9日前後の警戒維持を口実にした便乗訓練かつ「有事に慣れておきましょう」キャンペーンを華々しく展開しているように見える。かくしてヒートアップに慣れ、敵は半島北にあり、と思いこんでゆく。
おかげで本日ふたたび30℃越え。
日本国民はじわじわ釜ゆでにされる蛙なのだろうか?

*******

統帥権という「鬼胎」

◆井上ひさし「この国のかたち」のかたちからもう一つ、司馬遼太郎の造語について述べたくだりを。(「井上ひさしコレクション」日本の巻p.27)

名辞を厳密に扱おうとするこの態度はついに「司馬用語」を生む。たとえば、「鬼胎」がそうである。ふつうこれは「心配」という意味に用いられる。医師が使えば「子宮内の胎児がかかる病気」ということになるが、司馬文ではそのどちらでもない。人間が考えつくことのできる最悪の存在、その忌まわしい存在が生まれかかることを意味する。例文をご覧いただきたい。

〈明治憲法国家は、わずか四、五十年で病み、六十年に満たずしてほろんだ。……国家の腹のなかに統帥権(というよりその無限的な拡大解釈と社会化、さらにはそれによる国家支配)という鬼胎を生じ、国家そのものをほろばした。」(「江戸期の多様さ」)


◆「明治憲法国家」の代わりに「日本国憲法国家」を置いてその後の国の道行きが同じか同じでないか検討する意味は大いにある。
戦後の民主国家において「統帥権という鬼胎」はありえない、と長く安穏に浸っていられた。
しかし「この国のかたち」を司馬が書き始めた1986時点ですでに危うい兆候は姿を現していた。
それが執筆を引き受けた理由だろう。

連載し始めてまもなくの「”雑貨屋”の帝国主義」では、日露戦争から1945年の敗戦までの40年間を「巨大な青みどろの、ぬめった不定形のモノ=異胎(いたい)」と評してその正体を見定めようとする。
そうして問う――

「君は、生きているのか」
「おれ自身は死んだと思っている、しかし見る人によっては、生きているというだろう」

以下、次々とこの「異胎」に質問をぶつける。

・なぜ日露戦争勝利後、にわか作りの大海軍を、みずからの防衛に適した小さな海軍に戻さなかったのか。
・日韓併合で子々孫々までの恨みを買うことについて当時の指導者は想像していたか。
・1905〜45年の活動は世にいうところの帝国主義だったのか。

それらに関する検討ののちに次のことばにたどり着く。

要するに日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない。

司馬のよく知られた、日露以前と以後とがまるで別の国のようだという近代日本への観方を要約した一文。
当然、「いや同じ国だ」という立場からの司馬批判があるはずだが、この司馬のエッセイから30年余り後の我々としては、同じ国であり、別の国でもある、その両面をニラんだ上で、我々の分別に1グラムほどでも重みを加え、それも叶わないなら、坂の上の暗雲の見通しをいささかでも良いものにして備えとするぐらいはやっておかないと始まらないではないか。


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