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靖国神社の大燈籠を生み出したもの[2017年08月17日(Thu)]

球場のフェンスにスポンサー名が

◆高校野球・甲子園大会がたけなわだ。
テレビに映る球場のようすを見ていてあれッと思ったことが一つある。

フェンスの企業広告が隠されずにそのまま見えていることだ。
ずっと画面に映るホームベース後方にはさすがに企業名はなかったが、かつて高校野球大会の期間は見えないようにしていた内外野のフェンスは、企業名広告がしっかり見えている。いつからそうなったかは分からない。

◆今や球場の命名権も売買の対象になる時代だから、大会期間中、宣伝効果ゼロになるのではスポンサーが離れてしまうといった事情があったかどうか。
フェンス広告の料金は600万〜1100万円くらい。それなりの広告収入である。


「フコク生命」で思い出したこと

◆その中に「フコク生命」の文字があった。思い出したことが二つある。

◆一つは、実家の箪笥引き出しにしまってあった「富國」の生命保険証書。戦時中の発行のものだった。
敗戦でいろんなものがタダの紙切れになってしまったことは良く聞かされた。生命保険もその一つだったろう。
幸いわが家では、これが効能を発揮することはなかった。無事復員した父親とそれに嫁した母によって自分がこの世の空気を吸うべく生を享けたことがその証明である。

◆もう一つは、靖国神社参道に今もそびえ立つ一対の大燈籠だ。

DSCF0081.JPG

1935(昭和10)年に、フコク生命(富国生命保険相互会社が現在の正式名)の前身である富國徴兵保険が奉納したものである。
同社は1923(大正12)年の創業であるから、ほぼ昭和の戦争の時代とともに隆昌をみた生命保険会社であったといってよい。社名の通り、戦死に備えた生命保険である。成人男子全員に徴兵義務があった時代であるから、契約数はウナギのぼりだっただろう。
戦死者が増大する時期に約款通りに保険金を払い続けられたかどうか疑問だが、35年時点で、参道正面に巨大な燈籠を寄進できるほどに成長したことを物語る。

◆一対の大燈籠の台座には、右側に海軍、左側に陸軍の有名な場面をレリーフで描いてある。
海軍では日露戦争の東郷平八郎・三笠艦橋の場面。

DSCF0090.JPG

同じく日露戦争で戦死した広瀬中佐の図もある。
祖母がよく歌っていた「杉野はいずこ」の場面だ。
ここを訪れてこの歌を思い出す人は少なくないだろう。

左側の陸軍は「爆弾三勇士」(1932年、上海事変)などが描かれている。

DSCF0079.JPG

◆戦争は物語を生む。というより、物語を必要とする。
歴史や道徳に物語を多く載せた教科書を持ち込もうとする人々の真のねらいはそこにある。

燈籠にはめ込まれたレリーフは文字だけのもの各1枚を含めて陸・海各8枚ずつ。
日清・日露から35年までのわずか40年ほどの間に燈籠台座の各面を埋めるに十分なほどの物語が作られ、図像や音楽、読み物として流布していったわけである。
戦争継続がそれらを必要とした、ということでもある。

◆敗戦後、GHQによる撤去を恐れて、大燈籠のレリーフは見えないように板で覆われたという話がある。何やら、甲子園の企業名がかつて大会中は覆われていたことと似通う話ではある。
無論、人目に触れさせたくない意図は全く異なる。
甲子園では高校生のスポーツから企業の宣伝臭を遠ざける努力であったのに対して、燈籠のレリーフ隠しの方は、クサイものにフタ式の隠蔽に他ならない。
隠してやり過ごそうという発想には軍事体制への反省はかけらもない。
作品を芸術として守ろうとしたのであったなら、それを堂々主張すれば良かったはずだが、そうした努力があったという話は寡聞にして知らない。

◆レリーフが再び陽の目をみたのは占領の目を気にせずに済む時代になったことを意味していようけれど、過去の美談と栄光の物語を再び、という思惑の拠り所になるのならそれは願い下げだ。
レリーフが伝える「物語」を賛美してありがたがる精神が再登板したことになるからだ。

*******

遊就館で「ひめゆり」を連想したけれど

DSCF0031.JPG

◆加害の歴史が注意深く排除されていると指摘される靖国の遊就館の展示。
40年ほど前の見学では、血痕の着いた千人針の実物と、戦没者の遺書の数々が記憶に刻まれた。
汗を拭き拭き手狭な館内で遺品を見たことを覚えている。

現在の遊就館は冷房完備、ゼロ戦や回天を置いた広い展示スペースを擁する施設に変貌している。
中で目を引いたのはここに祀られた英霊たちの写真だ。

一見して、沖縄のひめゆり平和祈念資料館の展示風景を連想してしまう。
与える印象が似ているのだ。
だが、「ひめゆり」を模しているのだとすぐ気づく。そうして似て非なるものだと思わずにいられなくなる。

◆「ひめゆり」では、写真とその説明を見る者は、一人一人の短かい生涯を心にイメージしようとする。
だが、それらの中に、写真がなく学徒の名前とエピソードの説明だけの人がいる。
その前で私たちは、立ち尽くすほかなくなってしまう。
一枚の写真すら伝わらない若者がいることに全身が打たれたようになるのだ。

◆ここ「遊就館」の数多の写真たちは何を私たちに語りかけているのだろう。
受ける印象の違いは、数の多寡によるのではあるまい。
形を模して精神を学ばず、というところにその理由があるのではないか。


靖国の遺児ー2枚の写真[2017年08月16日(Wed)]

靖国の遺児ー2枚の写真

◆今日(2017.8.16)の朝日新聞朝刊の社会面を見て驚いた。
見覚えのある写真が載っていたからである。
戦時中の「写真週報」に、靖国の遺児として少年の写真が大きく載った。

写真週報表紙靖国の遺児八巻春夫少年163号(19410409号)cover-s.jpg
情報局編輯「写真週報」第163号(1941年4月9日号)
*国立公文書館デジタルアーカイブスより

◆同じ写真(と今まで思いこんでいた)を靖国神社編の「やすくにの祈り」という記録集で見て気になったことがあり、「写真週報」の実物を古本屋などで探した。昭和史の本などでこの表紙写真を載せたものは何点かあったが、小さい写真では良く分からない。
靖国神社なら元の写真もあるのではないかと思ったのである。

一昨年、靖国神社を訪れたついでに当たってみた。

◆「写真週報」は靖国神社の偕行文庫におおむね揃っており、実物のコピーを取ることができた。
ただし、オリジナルの写真の所在は確かめることはできなかった。
(記録集「やすくにの祈り」の編集に携わった人は退職されたとかいう説明で、同文庫ではそれ以上知ることはできなかった。)

◆最初に見て気になったのは「やすくにの祈り」に載った写真の方で、それは下の写真だ。

八巻少年(「やすくにの祈り」より)_0039 (2)-A.jpg
「やすくにの祈り−御創立百三十年記念 目で見る明治・大正・昭和・平成」
靖国神社編著、1999年

◆同書のp.128に次のキャプションとともに載っている。
〈軍人援護会から贈られた靖國神社参拝の記念品を受け取った山梨県の八巻春男君の頬に涙が伝った〉
*なお、この写真では「八巻春男」と記されているが、今日の朝日新聞記事では「春夫」と書いてある。現在も健在で、山梨県に住む八巻春夫さん(87歳)とのこと。
写真も「山梨県 八巻」と胸に縫い付けた名前がはっきり分かる。

◆これを最初に見て気になったのは、頰を伝った涙が余りに不自然に思われたことだ。
左目の目元から、真一文字に結んだ唇の横のあたりまで伝い流れた涙のすじがくっきりと映っており、涙の粒はガラス細工でも貼り付けたかと思われるほど大きく鮮明だ。

◆一方「写真週報」の表紙写真は、頰の涙は「やすくにの祈り」ほど鮮明ではない。印刷のためかよく分からないが、不自然の度合いは減じているように感じた。

この「やすくにの祈り」の写真は、表紙のタイトルなどはなく、「写真週報」からの複写ではない、オリジナルの写真を使用したと思われたが、それを見つけることはできなかったので、不自然さを解明できないモヤモヤを抱えたままだったのが、今朝の記事で撮影の様子が分かった。

◆朝日の記事は次のように87歳の八巻さんの証言を記す。

「お菓子をもらったときはなんとも言われない、感無量で、本当に涙が出ました。でも、撮影前、目薬をさされました」

いわゆるヤラセであったということだ。
国策のグラフ雑誌であった「写真週報」としては感涙が一目でわかる写真を撮りたかったということだろう。

◆中に収録した他の写真についても、編集側の操作が明らかにされている。
祖父母に見送られて家を発つ八巻少年が《おらあ、お父うをおぶって帰ってくる》と言ったことになっている。しかし、この「ことば」、本人は話した記憶がないという。

八巻少年への密着取材(実家での日常に始まり、列車での上京と靖国参拝、記念の品を受け取るまでを何枚かの写真で紹介している)によって、「父を失った、しかしけなげに生き抜く少年」を描き出すことが狙いだったということだ。

◆二つの写真を並べて見て初めて気づいたが、「やすくにの祈り」と「写真週報」とでは、八巻少年の仰ぎ見る角度が違う。手にした菓子折の角度や左手の陰影も微妙に違う。
(朝日の記事では、「皇后陛下から菓子を受け取った」とある。撮影者はそのすぐ右横でカメラを構えていたことになる。一方、99年公刊の「やすくにの祈り」の説明は「軍人援護会から贈られた靖國神社参拝の記念品」とあって、左にいるはずの皇后については言及していない。何らかの意図があるのかどうか。)
いずれにせよ、2葉の写真は、連続して何枚か撮った中の別のコマだったということになる。

実を言うと「やすくにの祈り」の写真(2枚目)の涙は、あとから加工したのではないかとさえ疑っていた。あざとさと表現したいほどの違和感は、「写真週報」では減じている。しかし相手を仰ぎ見る角度は「写真週報」の方が急であって、「恐れ多さ・かたじけなさ」を感じさせるのはこちらの方だろう。

いずれにせよ、それぞれの写真の採用にあたって編集者の意図が反映しているということになるだろう。

◆微妙な違いだが、どの写真をどのように扱うか、大人の都合と必要が美談の演出を決める。
時に物語の捏造すら行われる。今朝の朝日記事はそのことを伝えている。

では、撮影者は、少年の本当の涙をとらえたいと望まなかったのか?
そんなことはあるまい。

【朝日新聞8月16日朝刊】(見出しはデジタル版のもの)
文集は捏造、撮影前に目薬…「誉れの子」いまの思いは
http://digital.asahi.com/articles/ASK864STBK86UTIL00Z.html?rm=426




I彬の反戦川柳[2017年08月15日(Tue)]

DSCN2949.JPG
タカサゴユリという種類か。境川沿いのサイクリングロードに普通に咲いている。
緑色のめしべがハートのかたちに見える。

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I彬の反戦川柳


◆昨日14日のNHKスペシャルは731部隊を、旧ソ連の録音テープによって再検証したものだった。
著名な大学の医学者が多数、研究に関与していたこと、多額の研究費があてがわれていたことはやはり衝撃であった。

細菌戦の実験台にした捕虜たちを「マルタ」と呼んでいたとの元隊員の証言があった。

今の我々はそんな非道残虐をやるはずがない、とは思わない。
不穏な前兆だらけの現状では、またやってのけるに違いない、と用心するだけでは足りず、やってのける主体とやられる客体の双方に我が身を置いて考えないと悪行を阻むことはできない。

I彬(つるあきら。1909ー1938)の川柳「手と足をもいだ丸太にしてかへし」を思い出させる番組だった。

◆詩人のアーサー・ビナードがIの川柳十句を英訳している。

うち四句を対訳で紹介する。

****

高梁(こうりゃん)の実りヘ戦車と靴の鋲(びょう)

A field of kaoliang sorghum ready for harvest―
our tanks and hobnails plow through.



屍のゐないニュース映画で勇ましい

The men look brave on the newsreel
with all the corpses edited out.



万歳とあげて行った手を大陸において来た

When shipping out,those hands he raised
in a“Banzai''――they stayed on the continent.



手と足をもいだ丸太にしてかへし

Once the limbs are blown off
they send home a log off a man.


ビナード訳日本の名詩_0001-A.jpg

アーサー・ビナード「日本の名詩、英語でおどる」(みすず書房、2007年)
「海の音」朗読会[2017年08月14日(Mon)]
DSCN2954.JPG
サギたちの夕べの祈り? 境川遊水地公園で。

*******

「海の音」 第26回定期朗読会

◆藤沢で朗読を続ける市民グループ「海の音」から今年の朗読会の案内をいただいた。
朗読を通して平和をつくる息のながい取り組みを続けている。

第26回となる今年は茨木のり子の長編詩「りゅうりぇんれんの物語」に取り組むという。

たまたま、当ブログでも今年初めにこの詩について7回にわたり取り上げたばかり。
ライブの朗読ではどんな風になるのか楽しみだ。

今年も劇団民藝の渾大坊一枝さんの演出。中村朱里さんのケーナ等の演奏が加わる。

と き:2017年8月20日(日)午後2時開演(開場1:30)
ところ:藤沢市民会館 第1展示ホール

170820海の音朗読会チラシ-A.jpg

*「りゅうりぇんれんの物語」関連記事(2017年2月17〜23日)
(1)http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/425
(2)http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/426
(3)http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/427
(4)http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/428
(5)http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/429
(6)http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/430
(7)http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/431

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◆「海の音」の朗読会で知った詩人の一人に石川逸子がいる。会場で求めた詩集から一篇紹介しておく。

だれのむねにも

ことばにできない おもいが
だれのむねにも あります

おもいは むねのなかで
ぺんぺんぐさのように やたらおいしげり
むねをはみだして にゅるにゅると
むかいのいえのやねへ そのさきのでんちゅうへ
そらのくもへと のびてゆきます

では くも は
ひとびとのおもいが かたまったかたちなのか
おもいをすいこみながら ながれているのか
あとからあとから くもがわくのは
だれかれのおもいが とぎれなく あふれて いるからか


石川逸子「ロンゲラップの海」(花神社、2009年)より。*ここでは前半の3連のみ載せた。

石川逸子ロンゲラップの海-a.jpg



言霊(ことだま)[2017年08月14日(Mon)]

DSCN2889オモダカ.JPG
オモダカ。俣野の田んぼでは稲が咲き始めた。

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8月の暦

◆8月にも祝日を、という声が時々あがる。
6日、9日、15日と、敗戦にまつわる日が続くので重苦しさを払いたいという気分なのだろうか。
現代の日本人にとってこれらは大事な日付けのはずだが、歴史上の出来事はカレンダーには書かないのが普通なので、小学校の頃など、8月15日になっても、戦争が終わった日か、と思うよりは、「もう夏休みも終わりかァ」とやりきれなさを意識する日付けであったように記憶する(北国の夏休みは3週間ほどしかなかった)。

◆ふつうの暦は、旧暦や干支、先勝などの六曜が記してあるだけで、例えば今年の敗戦記念日の15日、カレンダーには「旧6月24日 二黒 大安 きのえいぬ」と書いてあるだけだ。

吉川弘文館が毎年出している「歴史手帳」なども、歴史上の日付けを確認できる作りになってはいない。頁の半分近くは資料編で年表・年号や史跡一覧、博物館などを載せてあるのに、8月15日の頁を開いても、盆踊や精霊流しなど各地の行事が書いてあるだけで、「今日は何の日?」という興味を充たしてくれるものではない(そうした欲求に応えてくれるクロニクルは別途あるが、大部なものは日用向きでない)。

◆大事な歴史を思い起こさせる暦があれば便利だろうと思うのだが、敗戦を負の歴史と受けとめがちな人たちには「クサイものにはフタ」式の発想が根強くあるだろうから、「敗戦記念日」と書いたカレンダーを出しても反発をくらうかも知れない。
しかし、「終戦」という言い方に疑問を抱かないままだと、親世代の体験に冷淡な、不肖の子や孫ばかりになってしまう。ズルズルと「全て無かったこと」になって行くのはムシの良すぎる話であるだけでなく、人倫に悖(もと)るだろう。

*******

「敗戦」がいつの間にか「終戦」に

團伊玖磨の「じわじわ パイプのけむり(24巻)」、1996.1.26の日付けの記事は「言霊(ことだま)」と題してその前年末に起きた高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故を取り上げている。当時の通産事務次官の「想定されている範囲内の事故」という虚偽の答弁や、動燃の須田副理事長が「事故」という表現を避けて「事象」という語で言い抜けようとしたことに焦点を当てている(その15年後、フクシマ第一原発事故において全く同じ語が再び使い回されることになったわけである。)

こうした言葉のトリックについて筆者は次のように書いている。

戦争中から戦後に掛けて、僕達は随分日本語の不思議な用例に接して、日本人の本質を考えさせられる経験をした。戦争中の陸海軍の大本営発表などには、例えば退却の語を嫌って転進と言い、全滅の語を避けて玉砕と言うような表現が随時用いられていた。我が軍の征くところ退却や全滅は無いという勝手な原則を押し通し、失敗をも美化してしまおうとする心根が見え見えなこういう表現は、国民の心の奥に不信用を育てただけだった。戦争に敗れ、無条件降伏をしたにも拘らず、日本人は何処からとも無く終戦という言葉を担ぎ出して来て、敗戦の語を堂々と使う事に代えた。そして占領を進駐、占領軍を進駐軍の語に摩り代えて用いた。こうした用語が出現し、 一般化した理由は、日本人の心根の問題であって、敗けたなら敗けたと言い、占領されたなら占領されたと真実を認識するところから、今日を、明日を構築して行く可きだと思っていた僕を考え込ませる事柄だった。敗戦後五十年間、僕も生きていた以上、細々とした声で一人分の言葉を発し、一人分の字も書いて来たけれども、例えば二十年以上書き綴って来た本稿「パイプのけむり」にも、終戦とか、進駐軍とかの危う気な言葉は使わぬように意識して来た。終戦より敗戦が正しく、進駐軍より占領軍が正しい表現だと思ったからである。

◆「終戦」という言い方が今や怪しまれずに流布している。だが、戦争を体験した人々が「敗戦」と言っていたことは、彼らの手記・回想を読めばすぐ分かることだ。当事者の意識として「敗戦」が事実であって、それはゴマカしようがないということだ。
一方、「終戦」と言って済ませる人間の方には、直接体験者を神棚にまつりあげ、遠ざける気分が強いということがあるのだろう。恐れて吉事(よごと)を祈るのは自然な感情であるにしても、天変地異以外はすべて人のしわざである以上、祈るだけで心根が変わらなければ同じ惨禍を招来するだけだ。

◆團伊玖磨のこの記事の結びは次のとおりである。

「言霊の幸(さきは)ふ国」。これは日本の事である。然し、言う迄も無いが、幸うの語は、良い方向に豊かに栄える事である。言葉を偽りの方向に、悪い方向に栄えさせる事は、する可き事では無い。

加害者・被害者の「スリカエ」[2017年08月12日(Sat)]

DSCN2819ポーチュシカ(ハナスベリヒユ).JPG
ポーチュラカ。別名ハナスベリヒユ。

*******

批判もものかは
首相はなぜ平和祈念式典に参加するのか

◆長崎の平和祈念式典においてもアベ首相は核兵器禁止条約に一言も触れなかった。被爆者の代表から「あなたはどこの国の首相なのか」と厳しく問う声がぶつけられた。当然と思う。

◆今年も過去の原稿の使い回しでヒロシマ・ナガサキの式典に臨んで平然としていられるのはなぜなのか、神経を疑うことに国民はウンザリしている感すらある。
彼我の政治的信条はいったんワキにおき、相手の立場に立ってものを考えてみた。ウンザリして諦めるよりましかもしれないと、気を取り直しつつ。

◆「世界の中心で輝く日本」であれ、「家族や社会の和を大切にする道徳心」であれ、過去を「取り戻す」ことに熱心な人々に対して、新しい普遍的な価値に向かって進むことを選んだ人々が少なからず存在したこと、その人たちのことばを思い返すことは重要だ。

團伊玖磨の随想「パイプのけむり」の1995年の敗戦記念日の条に次のような一節がある。

あの戦争で、日本はドイツと共に″加害者″であった。然し、何時か日本人の心の中には、加害者であった自らを被害者の位置に摩り替える狡智が起こった。狡智という語が言い過ぎならば、自然的な成り行き――趨勢が起こったと言っても良い。そして、その摩り替えの原点が原爆であった事を僕は考える。

◆この文章に目が留まったのは「摩り替えの原点が原爆であった事」という指摘があったからだ。

2017年、現在の政権の特徴をその「スリカエ」語法にあると指摘する声が多い。
そのことと、アベ首相が人々から浴びる非難にもかかわらず倦むことなく式典に参列し続けていることとを思い合わせるなら、ヒロシマ、ナガサキ、さらにはオキナワも、政府にとっては「スリカエ」を不自然さなく成り立たせてくれる場であるからではないか、と思える。
つまり、加害者であったことを可能な限り薄め(せいぜい「先の大戦で失われた多くの命」という言い方によって、「失わ」せた=奪った主体をボカし)、あわよくば霧消させること=被害者然としてあやしまれずに済む場に「参列していること」、そのことが何よりも大事だ、と考えているのではないか。

加害者であった事実を棚上げにしたまま「反省」の類語を撒き散らすことでみそぎとし、過去の美化に努める→新しい価値を追求するよりはエネルギーもコストも節約できる⇒「その道しかない」と繰り返しアナウンスするのがベスト。――そう考えているのではないか。
ただし、過去の単純な再現では底が割れてしまうので、あくまで新しく輝かしい何かが未来に実現することを演出し続ける。
何しろ、未だ見ぬ未来だからこそ、どんなイメージを振りまこうが自由だ。

「世界がまだ見たことがない」――こうしたフレーズがしばらく流行りそうだ。
しょせん口先だけサと見くびっているわけにはいかない、本当は。
――どんな結果が待ち受けているか想像できない人々がリーダーの座に在るのが現在の事態だからだ。

◆團伊玖磨は、8月6日の広島原爆についてその日のうちに耳にし、夕方には正式な軍からの下達を聞く。当時彼は東京音楽学校に籍を置いたまま陸軍軍楽隊の上等兵として勤務していたからである。

広島が物凄い爆弾で攻撃された、――噂はそう伝わって来た。そして、夕方になってから、正式に軍からの下達があった。

卑怯ニモ米・英ハ新型爆弾ヲ使用セリ。今後ハ敵一機ノ侵入二対シテモ警戒ヲ怠ラズ、白色ノ衣袴(いこ)ヲ着用スベシ。

未だ原子爆弾の実態を知らなかった僕は、隣りに起居していた後の作曲家芥川也寸志とこんな話しをした。
「卑怯にもという言い方が気になるね」
「うん、軍のいつもの言い方だ」
「新型爆弾を開発して戦争で使用する事が卑怯であるならば、戦争に新兵器を用うる者は皆卑怯者という事になる」
「長篠の戦いで織田信長が武田勝頼の軍勢を鉄砲隊で壊滅させた事も卑怯だし、ドイツが前の大戦でUボートを活躍させた事も卑怯になる訳だ」
「そういう言い方は簡単だね、きっと鉄砲に対しても、弓矢に頼っていた古い型の武人は卑怯なる飛び道具と言ったと思う」
「戦争はもう終るね」
「終る」
「戦争というものは勝つためにだけあるんだ。負けたらおしまいだ」
「負けたものは、負けた事によって卑怯者になる。これが定めなんだね」
「米・英は卑怯にも―― か」
「こういう事を言っているから負けるんだ」
二人の上等兵はこゝから先は他人の耳を怖れて、無言で互いの顔を見詰め合っていた。
十日程して、戦争は終った。


◆「卑怯にも」という言い方はスリカエ語法の一つであろう。作戦の可否も判断の適否もワキに押しやって責任の主体を隠し、舞台の裏で被害者の衣裳にすばやく着替えて再登場する。
そうした先行世代のゴマカシやスリカエを團や芥川也寸志たちの世代はいやというほど見聞きしたであろう。

幸いにして、二人の作曲家の卵は戦争の直接的加害者とはならずに済み、戦後、創作活動を始動させることになる。團伊玖磨で言えば、伸びやかな歌曲「花の街」(詩:江間章子)を作曲したのは1947年。49年には木下順二の民話劇「夕鶴」に音楽を付けることとなりのちのオペラ「夕鶴」へと結実させる。
その仕事が国際的な評価を得ていく中で、世界から日本と日本人がどう見られているか、考えないわけにはいかなかった。
エッセイの後半を引用する。――

それから五十年。二十一歳だった僕は七十一歳になった。そして、今年の夏の、さまざまな第二次世界大戦終結五十周年の記念式典をTVの中継で見た。そして、矢張り気になったのは、日本人の中に、加害者だった立ち場を忘れ、被害者意識にどっぷりと漬かっている人の言動が目立った事だった
戦争が終ってから、比較的早いうちにアメリカやフランス、イギリス、そして中国を旅するようになった。それ等の曽ての敵国、戦勝国の人達は、僕に優しく言った。日本で悪かったのは一部の軍閥ですよ、貴方方には罪は無く、貴方方も被害者だったのです。――殊に中国では、日本軍閥こそ敵、日本人民は友であり被害者だったという教育が政治的にはっきりと成立していて、あらゆる場所でその言葉を聞いた。日本人の中には、そうです、全くその通りです、いや、我々も非道い目に逢いました、などと尻馬に乗って良い気の者も沢山居た。然し、僕はそう思わなかった。だから、僕はいつもこう言った。御親切なお言葉は判ります、然し、僕は簡単にそう思いません。何故ならば、当時の指導者も、軍閥も、惨虐行為をした兵隊達も、皆日本人だったからです。ですから、日本人の中から再びこうした加害者を出さぬように、日本人が心の自己改革を成し遂げる事が先ず第一に必要であって、その事を成し遂げた後で、初めて貴方の優しい言葉を受ける事が出来ると思うのです。自己改革は大事業です。未だこれからです。然し、時間とエネルギーを使ってでも、日本人の自己改革は成し遂げられなければなりません。
日本人の自己改革は、戦後五十年経っても、未だ遅々としたものに思われる。先ず、被害者気取りを止め、加害者であった事を認め、悔いる事から事を始める事を急ぐ可きだと思う。さもないと、次の半世紀の間も、日本人は世界の疑惑の中を、今と同じように低迷せねばならない事になるだろうと思う。
(太字:引用者)

◆この文章が書かれた1995年、学校現場では89年の学習指導要領の「特別活動」編に記された、卒業式や入学式において日の丸君が代を「指導するものとする」という項目を、目に見える形で実施するよう、強制が現実のものとなって行った時期である。
*(これを推し進めた高石文部事務次官は間もなくリクルート事件で収賄の罪に。政財界の格好のターゲットである文部行政の脆い実態をさらした。)
神奈川の高校においては、「日の丸」を式場の中に掲揚させる圧力が強まっていった。生徒・保護者にも抵抗感の強かった「君が代」は、式の冒頭にテープを流すことから始まった。
しかし、司会者が参列者に「唱和」を促すまでにはなお数年を要した。式典のあり方をめぐって、歴史認識、とりわけ戦争における加害責任の問題をどう受けとめるか、学校の中では教職員間の議論があり、異なる歴史認識を理解する努力によって、教育が政治力に左右されることを押しとどめていた。幼小年期に戦中・戦後の大人たちの姿を見てきた世代の批判精神が健在であったためだったといえる。

◆問題は、その議論を通して歴史に学び自己改革を倦むことなく行ったかどうかに尽きる。
團伊玖磨がこれを書いた1995年=敗戦後50年を折り返し地点とするなら、以後の半世紀のうち、すでに22年を費消して「自己変革/未だ遅々とし」ているどころか、栄光や美点を「取り戻す」ことにのみ熱心な内閣を未だに退場させられないでいる。
そうした事態を目の当たりにしながら、冷やす肝も、つぶす肝も忘失しているような私たちであるなら、学習指導要領改定の繰り返しでついに教育基本法「改悪」を実現させ、現在は平和憲法の背骨を取り除きつつある勢力の、壮大な「スリカエ」=被害者なりすまし作戦をみすみす受け入れることになるだろう。

じわじわパイプのけむり24-A.jpg
團伊玖磨「じわじわ パイプのけむり」(「パイプのけむり」第24巻。朝日新聞社、1997年。のち文庫化)

「憎しみ」は有能な狙撃手?[2017年08月11日(Fri)]

DSCN2910ヤエヤマブキ-A.jpg
ヤエヤマブキ。5月頃の花と思っていたが、この時期にも咲くのだろうか。
ひょっとしたら今年2度目?

*******

「憎しみ」は有能な狙撃手?

シンボルスカの詩の痛烈なアイロニーに触れると、我々には無縁だと思っている負の感情、たとえば「憎しみ」などとという、理性が完全にコントロール出来ていると自認しているはずのうしろ暗い感情が、実は皮膚のすぐ下に張り付いていて、いつでも出番OKと待ち構えているのでは、と思わせられる。
しかも、それを解き放つと、けっこうスカッとして、そっちのほうが我々の素顔ではないか? と思えたりして。

*******

憎しみ
  ヴィスワヴァ・シンボルスカ


あいかわらず、てきぱきしていて
元気で矍鑠(かくしゃく)たるもの
この世紀になっても憎しみは
高い障害物もなんのその
ジャンプ、アタック、朝飯前

ほかの感情とはちがう
どんな感情よりも年上なのに、同時に若い
それは自分を生みだす原因を
自分で生む
眠るとしても、けっして永遠の眠りではない
不眠のせいで衰弱するどころか、いっそう強くなる

宗教やら何やらで
人はスタートの姿勢をとり
祖国とか何とかで
人は「よ―い、どん!」で駆けだしていく
はじめは正義だってがんばっているのだが
やがて憎しみが勝手に突っ走るようになる
憎しみ 憎しみ
その顔は愛の恍惚に
歪んでいる

ぐずで弱々しい
ほかの感情たちよ
兄弟愛はいつになったら
群衆をあてにできるのか
同情がかつて一等でゴールを
切ったことがあっただろうか
疑いがどれほどの人々を虜にできるだろうか
人を虜にできるのは我を通す憎しみだけ

有能で、のみ込みが早く、仕事熱心
それがどんなにたくさん歌を作ったか、言うまでもない
歴史にいったい何ページつけ加えたことか
どれほど多くの広場や競技場に
人間の絨毯を敷きつめてきたことか

思い違いをしないように
それは美を作りだすことができる
真っ黒な夜、その炎の照り返しはすばらしい
薔薇色の夜明け、その爆発が巻き上げる煙の渦はみごと
廃墟にはたしかに風情があるし
廃墟に頑強にそびえ立つ円柱にがさつな可笑しみがあることも
認めないわけにはいかない

憎しみはコントラストの名人
爆弾の轟きと静けさ
赤い血と白い雪を対照させる
そしてとりわけ、汚れきった犠牲の前に
そびえ立つこぎれいな死刑執行人というモチーフに
飽きることはけっしてない

いつでも新しい仕事を待ちかまえている
待つ必要があれば、待つ
目が見えないとも言う 目が見えない?
それは狙撃者の鋭い目を持ち
未来を大胆に覗きこんでいる
自分一人で


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シンボルスカ「終わりと始まり」より
 沼野充義訳(未知谷、2002改訂版)

シンボルスカ終わりと始まり-A.jpg



カーキ色の無数の黄塵[2017年08月10日(Thu)]

DSCN2902キアゲハ.jpg
キアゲハ

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極東は熱中症状

◆「世界が見たことがない炎と怒り」(トランプ米大統領)、「グアム島周辺に着弾検討」(北朝鮮司令官)と挑発合戦が続いている。
鎮静させるのが日本政府の役割だろうに、小野寺防衛大臣は10日、グアムが攻撃された場合、集団的自衛権を行使できる「存立危機事態」にあたりうる、との考えを示し、参戦の可能性を否定しなかった(衆院・安全保障委員会の閉会中審査において)。
いやはや。危惧されていた拡大解釈が現実のものになった。

【朝日新聞】自衛隊参戦可能性、異例の示唆 防衛相「存立危機事態」
http://digital.asahi.com/articles/ASK8B5RKKK8BUTFK011.html?rm=509

手もとにあれば使いたくなるのはミサイルも新安保法制も同じ。
子供の火遊び感覚で軍を弄ばれてはたまらない。

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詩集〈岩国組曲〉から

プロローグ    御庄博実       

黄塵が立ち、黄塵が立ち、遠い大陸から東支那湖を超えて黄色い塵埃が降ってくる。
日独伊、三国防共協定。
日独枢軸国――枢軸……――枢……
それら小さな活字の上に黄色く塵埃は降り、人々の脳髄を染めて思考は正確な文字をたどることも出来ない。

許されるのはただ沈黙の狂乱。
今日も紅白の日の丸で窓々を彩色した軍用列車が、広島に近い海浜の小邑を過ぎ、道端に小学生が立ち並び、日の丸を振り、日の丸を振り……
許されるのはただ沈黙の狂乱。
そのカーキ色に塗りつぶされた制服の瞳の奥に悲しい憤りに輝いている眼底動脈の怒張。きららかな角膜に光るその狂乱。その呪詛に似た祈り。

瀬戸内海・広島湾・厳島・津久根島・兜島――これら凡て紺青の記憶ではあるが、いま緑の樹々を染めてしきりと人々の脳髄を濡らすものは何。あふれひたすこれら溟濛ぼうばくの色彩は何。
日独伊、三国防共協定。
日独枢軸国――日独……――

黄塵が立ち、黄塵が立ち、遠い大陸から東支那海を超えてカーキ色の無数の黄塵は、いつ南溟の果てに消えるのであろうか。

  
 「御庄博実詩集」より(思潮社現代詩文庫、2003年)

◆詩集「岩国組曲」は1952年刊。
詩人の故郷・岩国は日中戦争拡大とともに海軍航空隊基地として、さらに陸軍燃料廠として整備が進んだ。
敗戦直後からは米海兵隊基地として朝鮮戦争の拠点基地となった。ベトナム戦争でも出撃拠点の一つであった。
◆上の詩、「三国防共協定」を「日米安保条約」に、「日独」を「日米」に置き換えれば、全く今現在に重なるようで目まいがするほどだ。

◆折しも昨日9日から、厚木基地を拠点としてきた米海軍の空母艦載機の岩国への移駐が始まった。目の前の厄介ものが去ってオーライ、では全くない。
日本全体として米軍従属の実態に変化はないからだ。沖縄・普天間基地では8日、協定無視のオスプレイ深夜飛行が行われて問題となっている。「運用上必要」と米側に言われれば反論もできない。DV的隷属状態というべきだ。

どこの土地にも不正や悪意がある限りは[2017年08月09日(Wed)]

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モミジアオイ。水路に丈高く咲いていた。

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チェルヴィ兄弟たちに、彼らのイタリアに
   サルヴァトーレ・クァジーモド


地上の到る所で不正な人間たちが笑っている、
王族、詩人たち、彼らはこの世を夢へ
戻したがっている、悪意の論評、盗賊の
知恵。わたしの祖国でも嘲笑(あざわら)っている
慈愛(ピエタ)を、耐え忍ぶ心を、隔絶された
貧しい者たちの憂いを。そしてわたしの国の
人びとは美しく、樹々や殉教や岩石の
姿形は美しく、色彩や太古の瞑想に満ちている。

異国の人びとは商人の指先で
聖者の像の胸を弾き、愛の遺品を値踏みして、
葡萄酒を飲み、水辺に映る月影に
香を焚きしめ、王の弦楽器で爪弾く
火の山の歌を。昔むかしから
武器を振りかざしてこの国へ入り込み、谷間を
駆け下って、平野と河川(かわがわ)を蹂躙した。

  (冒頭2連。河島英昭「クァジーモド全詩集」より。岩波文庫、2017年)

*チェルヴィ兄弟たち…エミーリア地方の農民アルチーデ・チェルヴィとその七人の息子たちは、反ファシズム活動ゆえに家を焼かれ、捕らえられ、息子たちはみな、1943年12月29日、ドイツ軍に処刑された。農民抵抗運動の象徴的存在である。(*訳者・河島英昭による注)

◆ファシズムの暴虐に抗する詩をつづったイタリアの詩人クァジーモド(1901ー68)は、この詩の結びに、「どこの土地にもきみたちの名前の勇気と慎みが要る、追憶のためではなく」と書いた。

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長崎・浦上天主堂
長崎・被爆者歌う会「ひまわり」[2017年08月09日(Wed)]

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被爆で片足となった長崎・山王神社の鳥居(撮影:2005年夏)

被爆者歌う会「ひまわり」

◆長崎の平和祈念式典のオープニングで「もう二度と」を歌い続けてきた被爆者歌う会「ひまわり」が、「歌の語り部」の歌声を枯らすまいと、今年は新たなメンバーを募って式典に臨むという記事があった。

「ひまわり」のことは、岩波ジュニア新書の一冊〈綾瀬はるか「戦争」を聞くU〉でも紹介されている。
広島生まれの女優・綾瀬によるTBS・NEWS23の特集を本にしたものだ。
2013年8月に放送された「ナガサキ2013」では、被爆者歌う会「ひまわり」の一人、谷恵美子さんの証言にスポットを当てた。
6歳の時に父・徳重さんとともに原爆に遭った方である。

◆被爆直後の父はかすり傷程度だったにもかかわらず、ひと月もしないうちに様子が一変した。

 「赤い斑点がいっぱい出たんですよね。お腹がこんなに膨れて、歩くことができなくなったんですね」

綾瀬 「なんかすごく高熱とか、そういうことですか?」

 「あのそれがですね、時間が決まったみたいに体に震いがつくんですよ。「寒い、寒い」ってガタガタガタガタ。どうしようもない時には、私、父の体の上にこんなしてから押さえつけてました」

原爆症が正体を現したのだった。
6歳の少女が寝たきりの父を介護する日々が始まった。

父と二人きり、食べるものも着るものもない日々。残飯や鍋にこびりついたお焦げをもらい、学校で出た脱脂粉乳を家に持ち帰って父に飲ませた。

◆終戦から2度目の春を迎えたある日のこと……

 「いつもお布団の中に寝ている父がね、お洋服に着替えて、私が「ただいま」って帰ったら、お布団の上に座っているんですよ。『お花見に行こうか』って言い出したんです。もう嬉しくて『お花見!?』って言ってね」

出かけた公園には賑わいが戻っていたが、自分たちにはお弁当もない。

 「みんな重箱にごちそうを入れて、私の目にはみんながごちそうなんですよね。父のところに行ったら、『ああ、お前をここに連れてきたのはむごかったな』って一言言ったのが耳に入りましてね。『今からそしたら、滝の観音に行こうか』って」

 「『お父さん、どこへ行くの?』って聞くと、『とってもいいところ』ってしか言わないんですよね。その手を引っ張る力がだんだん強くなってくるんです。周りが薄暗くなるもんだから怖くもなって「お父さん、どこに行くの? どこ行くの?」って何回も私が聞くもんですから、その度に父の手に力が入っていくんですよね」

「とうとう最後に私は、『楽しいところもいいところもいらないから、帰ろうよ』って泣き出したんです。そしたら父も力を少し抜いてくれてね。そして今来た道を引き返してくれたんです。」


◆この日のことを生前の父・徳重さんは語ることはなかったが、亡くなる2年前に地元紙に寄せた手記に次のように書いていた。

「この娘が、一人立ちできるまでは、死ねない。石にかじりついても、生きたい」

◆1945年8月9日の惨禍は父と娘の13年にわたる苦闘の始まりに過ぎなかった。
懊悩と絶望に抗おうとする祈りの切実さ、その尊さに胸打たれる。

体験者の言葉はそれを聞く若い感受性の共振によって深みと広がりを得ていくだろう。
それは被爆者が二度三度と新たな生を与えられることにならないだろうか。

★TBS「NEWS23」取材班編〈綾瀬はるか「戦争」を聞くU〉岩波ジュニア新書、2016年

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5夏 418.jpg
長崎市本河内にある聖母の騎士・ルルドの泉のマリア像。
聖コルベ神父が建てたルルドである。


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