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とんぼ[2018年08月20日(Mon)]

DSCN8088.JPG
シオカラトンボ。
急に涼しさが増して、境川沿いの散歩道の主役も蟬からトンボへと交代しつつある。

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とんぼ   工藤 直子

み・み・みる・みる・みれ・みよ

とんぼが せかいを みている

とば・とび・とぶ・とべ・とべ

とんぼが とおくを めざしている



〈積極的一方通行路〉[2018年08月19日(Sun)]

DSCN8070ヘリオトロープ&ベニシジミ.JPG
ヘリオトロープに留まったベニシジミ

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道しるべ   木端美人

朝もやがおりてくる
陣形を調えて
ひたひたと
真面目に朝もやがおりてくる

ハンドルの前には
白濁した
骨太の道しるべ

曲率激しい道路に
斜った直線の
巨大な矢印
反対車線を切り捨てた

片手間の
積極的一方通行路

    人類がぞろりと
    こぞって進んでゆく

走ってきた道路は
朝もやが矢継ぎ早に消してゆく
後戻りできないその先は
断崖絶壁
谷底には
平和な地獄が待ち受ける
積極的平和を望み
引き返す人はいない


木端美人 詩集「亀裂が奔る」より(ブイツーソリューション、2016年)

◆「骨太」「積極的平和」など、本来の意味からズレて弄ばれてきた言葉が道標のように後方に飛びすさってゆく。
当初は胡乱なものとしてそれらの言葉に用心深く「 」を付けていた人たちも、気がつけば「 」を外して、後戻りできない一方通行路を走る車に同乗している。
〈白濁した/骨太の〉はむろん、断崖を飛んだ先の〈白骨〉と化した我々の姿である。
それを正しく予感していながら、〈平和な地獄〉は必然であるかのように、その先に待っている。
〈平和な地獄〉という形容矛盾すら「 」をハズされて、あたかもそこに向かうのが最初からの我々の望みであるかのように。何しろ〈反対車線〉は〈切り捨て〉られ=反対する者たちの言論は封じられ、引き返す道はないからだ。

*******

◆著者略歴によれば木端美人(こっぱびじん)=松本研一氏は椅子を中心とした木製家具のデザイン・製作が専門の美術家。
時代と社会への批評はこの詩集の全体を貫く。
「危険な道」という詩には次のような詩句もある。

精神の盲目を教育の鋳型とし
唇は馬銜で締結されたまま
個的情動は
購買意欲開発の線上に位置づけられて
流行に成型されていく



「子どものための仕事は威厳をもって」[2018年08月18日(Sat)]
DSCN8082スノーコーン(英).JPG
スノーコーンという名のバラ。
小ぶりな純白のたたずまいに気品がある。英国産の由。
横浜・港の見える丘公園にて。

*******

子どものための仕事は、威厳をもってやりたいもんだ。」と、ムーアさんはいうのだった。
ちゃちな、まに合わせ仕事は賛成できなかったのである。


    石井桃子「出会いの旅」より。

――石井桃子展で出会ったことばである。
ムーアさんというのはアメリカの児童文学評論家のアン・キャロル・ムーア(Anne Carroll Moore,1871-1961)のことだ。

ムーアはニューヨーク公共図書館児童部の初代部長を務めた伝説的な図書館員で、石井の1954年のアメリカ留学で対面が実現した。ムーアとの交流は石井の児童文学館構想に大きな示唆を与えたという。

石井の留学はロックフェラー財団の奨学金によるものであったが、1954年8月から全米各地はもとより、カナダ・トロントの公共図書館を見学し、翌年にはヨーロッパ各国をも精力的に回って子どものための図書館や出版社の現状をつぶさに知った。

帰国後、瀬田貞二、松居直、いぬいとみこらと子どもの本の研究会を始め、議論の成果を「子どもと文学」(中央公論社、1960年)にまとめる。図書館や児童文学研究に携わる人には必読書となった一書である。

石井自身も宮城県・鶯沢小学校の子どもたちへの読み聞かせ取り組み、荻窪の自宅に「かつら文庫」を開設するなど実践を重ねて行った。

*ロックフェラー財団の活動やフルブライト奨学金など、アメリカの学生支援や社会貢献の懐の深さは、先日のニューヨーク大医学部の奨学金給付の決定(全学生を対象に学費全額免除となる)でも遺憾なく示された。

ムーアのような「子どものための仕事」に信念と厳粛さをもって臨み、その輪を広げることに情熱を注ぐ人々と直接知り合えた石井の留学が、日本の子どもたちにもたらした実りはまことに大きい。



石井桃子の「ノンちゃん牧場」[2018年08月17日(Fri)]

◆没後10年を機に石井桃子展が開かれている。
神奈川県立近代文学館で9月24日まで。

DSCN8066-A.jpg
会場入口。ここは撮影OK。
本をかたどったデスプレイ、左ページに掲げられているのは子どもたちへのメッセージ。

子どもたちよ
子ども時代をしっかりと
たのしんでください。
 おとなになってから
 老人になってから
あなたを支えてくれるのは
子ども時代の「あなた」です。

             石井桃子

展示最後のコーナーに、自筆の色紙が展示されていた。
2001年の7月に東京・杉並区立中央図書館で「石井桃子展」が開かれた折りに寄せたもの。
(↓本展図録より。同図書館蔵)

石井桃子筆跡「子どもたちよ〜」-A.jpg

◆1933年、犬養毅の家で「プー横丁にたった家」(A.A.ミルン)の原書に出会って以来、数多くの児童文学を紹介してきた石井らしいメッセージだ。

2003年、石井はプーさんシリーズの著者ミルンの自伝「今からでは遅すぎる(原題「It's Too Late Now」)も翻訳するのだが、題名の意味するところは、〈子どものころの生活が、ある人間をつくっていくので、今から何かになろうとするのでは遅すぎる〉ということ。
そう言われてしまうと、すでにトウが立った我々は赤面するか、全身の血が引いていくか、どっちにしろ忸怩たる思いに襲われるばかりだが、上掲の石井のことばの方は、子どもたちへの愛情をたたえてどこまでもあたたかい。

◆ビアトリクス・ポターの「ピーターラビット」シリーズやディック・ブルーナの「うさこちゃん」シリーズなど、石井が紹介した絵本に出会わなかった人を探す方が難しいくらいだろう。
個人的には、井伏鱒二の訳で出た『ドリトル先生「アフリカ行き」』(ヒュー・ロフティング作。最初の刊行は1941年の白林少年館)が懐かしい。石井の下訳をもとに井伏訳として世に出た。
これは戦後、石井が携わった岩波少年文庫の一冊として再登場するが、僕が読んだのは大きい判型だったと記憶する。「ドリトル先生」シリーズは1961年に大きめの愛蔵版で出ているから、それで読んだのだろう。

◆石井の文藝春秋社時代の同僚・小里文子(おりふみこ)との交遊ー自伝的小説『幻の朱い実』94年ーに描かれる)も初めて知った。若くして病没した文子の家を譲り受けて荻窪に住むようになり、家の近い井伏としばしば往き来したという。
井伏が太宰治とともに訪ねて来た折に、他の来客があったことに遠慮した太宰はベランダのところに立ったままで、石井がいくら声をかけても家に上がろうとしなかったというエピソードも紹介されている。

◆驚いたのは、1945年、農場を持つという夢を実現させたことだ。宮城県栗原郡鶯沢村(現・栗原市)に移住しての開拓農民としての生活、代表作「ノンちゃん雲に乗る」にちなんで「ノンちゃん牧場」と呼ばれることになる農場は、5年後には田畑3ha、印税で乳牛を飼い畜舎、サイロ3基を備えた本格的なものへと成長を遂げ、酪農に情熱を傾けながら執筆を続けた。
二足のわらじを追求した10年、果断な実践の人、という印象だ。

会場最後のコーナーに、乳搾りに使っていた椅子が置いてあった。
移動させやすいように持ち手が付いた3本脚の小さな丸椅子である。
のちに書斎で高い棚の本を取るために用いたという。
本展図録の書斎(石井が開いた荻窪の「かつら文庫」ー現在は東京子ども図書館の分館ーで公開されている)の写真から、その椅子だけ紹介しておく。
「ノンちゃん牛乳」の牛乳ビンとともに、本展では必見である。

石井桃子の乳搾り椅子.jpg

安保法制違憲訴訟、高校生も傍聴[2018年08月16日(Thu)]

高校生も傍聴した
安保法制違憲訴訟かながわ
第7回口頭弁論


DSCN8049-A.jpg

◆横浜地裁前には今日も多くの人たちが詰めかけ、101号法廷は傍聴者で満席となった。

夏休みとあって高校生の傍聴する姿もあった。
複数の高校生グループが傍聴抽選に臨んだが、全員当選はかなわなかった様子。
法廷の席数は物理的な制約として致し方ないが、法廷に入れなかった主権者も別室で映像・音声を観られるようにするなど、司法の実際について臨場感をもって知る手立てはもっと考案されて良いと思う。

◆本日原告側からは2つの準備書面が提出された。
1.違憲審査制と裁判所の役割について
2.法的保護利益の問題について

である。それぞれ弁護士による意見陳述があった。

また、原告Tさんから、学校における日の丸・君が代強制による人権侵害について説得力のある意見陳述が行われた。

◆裁判所に違憲審査に係る積極的な役割を求めた伊藤真弁護士による情理兼ね備えた陳述の結語を抄録する。

そもそも裁判所は政治部門の判断を追.認するために存在するのではない。主権者国民が政治部門に委ねた憲法の枠組みに沿った国家運営がなされているのか否かを厳格に監視するためにその存在が認められているのである。裁判所が、今回の新安保法制法の違憲性についての判断を避け、自らその存在意義を否定するようなことがあってはならない。
よって、たとえ被告が争点とすることを避けるため、反論をしなかったとしても、裁判所としては、新安保法制法の違憲性について、原告の主張を受け止め、必要な証人の尋問も含めて十分な審理を尽くした上で、憲法が裁判所に課した職責を全うするべきである。
そしてこれは憲法制定権者たる国民から裁判所に負託された使命であり、裁判官にはこれに応える憲法上の義務(憲法尊重擁護義務については99条)があるのである。
これまでもそれぞれの時代における、その時代固有の司法の役割、裁判官が果たすべき役割があった。今の時代は、政治部門が憲法を尊重し敬意を払っているとは思えない状況にあり、政治部門内での抑制・均衡が機能不全に陥っている。これまでにないほどに立憲主義、平和主義、民主主義、適正手続といった憲法価値が危機に直面している。こうした時だからこそ、果たさなければならない司法の役割、裁判官の使命があるはずである。
私たちは、裁判所にあえて「勇気と英断」などは求めない。この歴史に残る裁判において、裁判官としての、法律家としての職責を果たしていただきたいだけである。憲法を学んだ同じ法律家として、司法には、政治部門に対して強く気高く聳え立っていてほしい。このことを切に願う。


次回の期日は11月29日(木)と決まった。
11:00開廷、同じく101号法廷である。


寺山はつ・修司母子の敗戦の日[2018年08月15日(Wed)]

DSCN8043.JPG
空蟬ふたつ


1945年7月28日の青森空襲から敗戦の玉音放送まで
――寺山はつ・寺山修司母子の回想から

寺山はつ「寺山修司のいる風景――母の蛍」より

母子二人にとっては平和な毎日でしたが、世間では敗戦色が濃くなり、毎夜のように空襲警報や警戒警報がはげしく鳴って、帯をほどいてゆっくり寝るということはなく、いつでも逃げ出せる態勢でいなければなりませんでした。
ついに本物の大空襲となりました。夜の九時頃、空襲警報となり、修ちゃんは、大事にしている本や教科書をランドセルにつめ、それをレインコートで包んで防空壕に持って入り、じっと息を殺していました。
まもなく外が騒がしくなり、防空壕に入っている人は危ないから出て逃げなさいと、町内の防空班長がメガホンで怒鳴っているのが聞こえました。ランドセルはここに置いたほうが安全だと思ってそのままにして外に出て見ると、あたり一面、火の海でした。
驚いて、さあ逃げなければと思うのですが、どっちに逃げていいかわからないほど、火と煙がすごいのです。一瞬どうしていいかわからなくて、頭の上でつぎつぎに爆発する焼夷弾を見上げて立っていると、修ちゃんに「頭の上で破裂するのは、遠くに流れて行くから心配ないよ」と言われました。ああそうか、と私は何となくはっとしましたが、逃げようにも煙で何も見えず、前を走る人のかかとだけを目印にして修ちゃんの手をひいて走り出し、ただひたすら走りに走りました。
途中で修ちゃんが、「もう走れないから、すわって休もう」と言います。「とんでもない。ここにいたら死んじゃうよ。修ちゃんが死んだら、パパが帰って来てがっかりするでしょう」と私が言うと、修ちゃんは立ち上がって煙の中をまた走り出しました。もう一時間も走ったと感じるくらい長く走りつづけ、やっと呼吸がちょっとらくになったなあと思って、頭を上げて見ると、火が遠くに見えており、煙が少しあるくらいだったので、はっとして立ち止まりました。あたりを見回すと、そこは町はずれの学校の校庭で、校舎は焼けずに残っていたのです。よく見ると大勢の人たちが逃げて来ていて、そこで夜が明けるのを待つことになりました。私たちでさえ逃げのびられたのだから、あまり死人や怪我人はいないんじゃないかと思ったのでしたが、夜も明け、火も静まったふうなので、みなそれぞれ自分の家の方向にむかい帰りはじめ、私も自分の家の方向にむかいましたが、驚いたのは、途中死骸がそちこちにころがっていて、目もあてられない悲惨な状態でした。
私たちの家があったと思われる場所へ着いてみると、見覚えのある時計の焼けこげがあり、ここがわが家だと確信できました。まっ先に、防空壕の位置を確かめて、ランドセルを掘り出してみますと、形はそのままでしたが、まっ黒く、炭のように焼けていました。修ちゃんも私も、ただただ茫然としてそこにすわりこんで、しばらく動けませんでした。


*寺山はつ「寺山修司のいる風景――母の蛍」(中公文庫、1991年)より


寺山修司エッセイ選「私という謎」より

青森が空襲になってから、ひと月もたたぬうちに、戦争は終った。あっけない終り方で、勝ったのか負けたのか、私にもよくわからなかった。
玉音放送がラジオから流れでたときには、焼跡に立っていた。つかまえたばかりの唖蟬を、汗ばんだ手にぎゅっとにぎりしめていたが、苦しそうにあえぐ蝉の息づかいが、私の心臓にまでずきずきと、ひびいてきた。あとになってから、
「あのとき、蟬をにぎりしめていたのは、右手だったろうか?それとも左手だったろうか?」と、考えてみたこともあったが、それはいかにも曖昧なのだ。八月十五日の玉音放送を、どこで聞いたか?
という質問へ、さまざまの答えが集められた。先生は訊いた。
「玉音放送を、きみはどこにいて聞いたのか?」と。
それはまるで「きみは、どこで死んだのか?」と聞き糺しているような感じでさえあった。だが、本当は「きみは、どこで生まれたのか?」「きみは、どこで死んだのか?」と、時の回路に架橋をこころみるほど、あの瞬間が人生のクライシス・モメントだったとは思えないのだ。
「先生、ぼくは玉音放送がはじまったとき便所でしゃがんでいました」と答えた石橋にしても、玉音放送以前の空襲で焼死してしまったカマキリにしても、その答が決して、彼らなりの戦争論や平和論になるとは思えなかった。どこにいたとしても、そんなことは問題ではない。時間は人たちのあいだで、まったくべつべつのかたちで時を刻みはじめていて、もう決して同じ歴史の流れのなかに回収できないのだ、と子供心にも私は感じていたのだった。

  かくれんぼをする
  私が鬼になって
  暗い階段の下で目かくしをする
  すると目かくししている間に外界にだけ何年かが過ぎ去ってしまい
  「もういいかい」という私のボーイソプラノにはね返ってくるのは
  「もういいよ」
  というしゃがれた大人の声なのだ

私は一生かくれんぼの鬼になって、彼等との時間の差をちぢめようと追いかけつづけるのだが、歴史はいつも残酷で、私はいつまでも国民学校三年生のままなのだ。



*寺山修司エッセイ選「私という謎」(講談社文芸文庫、2002年)より。

◆寺山修司(1935-83)が焼夷弾の中を母と逃げ惑ったのは9歳の時。
父・八郎のセレベス島での戦病死が伝えられたのは敗戦後の9月2日。受け取った「遺骨」は一枚の枯葉と石ころ。遺品として親子3人で写した写真が入っていた。
4年前の1941年7月、父の出征を青森駅で見送ったときに幼い修司が渡したものだった。


8.16安保法制違憲訴訟かながわ[2018年08月14日(Tue)]

DSCN6649-A.jpg


8月16日、
横浜地裁101号法廷を7たび埋め尽くす日に!



8月16日(木)11:00開廷

集合時間10:00…横浜地裁、日本大通がわ入口前に
傍聴抽選10:25ころ予定

★口頭弁論終了後、報告集会が11:45〜13:00、
横浜市開港記念会館・講堂
にて行われます。そちらにも是非ご参加を。

*******

8月2日には名古屋で原告143名による提訴が行われた。
ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英・京大名誉教授も原告に加わっている。

◆全国の取り組みは「安保法制違憲訴訟の会」サイトへ
http://anpoiken.jp/

★今年7月に行われた福田護・弁護士による特別講義「安保法制違憲訴訟の今」レジュメと講義反訳がアップされています。
下から直接ご覧になれます。

レジュメ
講義反訳



三本のろうそく[2018年08月13日(Mon)]

DSCN79412mのあかり−A.jpg

イサム・ノグチ「2mのあかり」(1985年)
*東京オペラシティ・アートギャラリーで開催中の「イサム・ノグチ展」で。9月24日まで。)



三本の蠟燭が、われわれには必要だ。

一本は、自分に話しかけるために。
一本は、他の人に話しかけるために。
そしてのこる一本は、死者のために。


長田弘「ファイア・カンタータ」の最終4行
 (『黙されたことば』より。みすず書房、1997年)


須江太郎リサイタルを前に:シューマン「交響的練習曲」[2018年08月12日(Sun)]

◆ピアニスト・須江太郎が新たなCD、シューマン「交響的練習曲」をリリースする。

それを記念するリサイタルが横浜と東京である。

横浜は戸塚駅前のさくらプラザホールで明日13日(月)である。
今回弾くピアノは1887年製ニューヨーク・スタインウェイの「ローズウッド」。
このピアノが誕生して100歳を迎える1986年、ウラディーミル・ホロヴィッツが再来日演奏会で弾いたピアノである。

今回取り上げる曲はCDに入れた「交響的練習曲」ほか「パピヨン(喋々)」などシューマンの曲ばかり。楽しみだ。

180813須江太郎リサイタル_0004-A.jpg

*******

◆「交響的練習曲」は若き日の吉田秀和がさるピアニストの演奏でバッハの「半音階的幻想曲とフーガ」とともに聴き、その体験を「生涯での最も幸福な偶然」として次のような文章に記している。

この、ふつう非常にちがっているものとしてきかれている二つの音楽に同時にふれているうちに、はじめて、僕は、ある動かしがたいなにかに出あったと感じた。ぼくは考えた。「これが《物》だ。こうして聞いている僕らのほうは、明日になれば、何をどう考えはじめるか、わかったものじゃない。だが、今こうして、ぼくらのあやふやな心をしっかりにぎっている、こいつは、何としっかり存在していることだろう。こいつは明日になっても、やはり同じ姿でいるのだ。ああ、僕ら、人間という、この奇妙な、ふわふわした《精神的存在》もまた、確然として現存する《物》にならなければならない。」
  「ローベルト・シューマン」(『主題と変奏』所収)
  *「吉田秀和全集」第2巻、(白水社、1975年)に拠った。

*******

★リサイタル詳細は須江太郎オフィシャルサイトで
https://studio-b-suetaro.jimdo.com/

【関連記事】★須江太郎の音楽を聴く[2016年9月1日]
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/344

斎藤紘二「二都物語」[2018年08月11日(Sat)]

5夏 367浦上天主堂前の聖母子像-A.jpg
長崎・浦上天主堂前の聖母子像


二都物語  斎藤 紘二

 1
選ばれた西方の二つの都市
ヒロシマ・ナガサキ
右の頰ヒロシマを打たれた後で
左の頰ナガサキを差し出したぼくらの祖国
あわれな聖戦の最後に
生け贄として捧げられた二つの都市よ

廃墟という言葉は
ぼくらの知らぬ間に
周到に準備されたものだった
ヒロシマ・ナガサキ
この二つの都市のために

一瞬にして
すなわち文字通り
一回の瞬(まばた)きのあいだに
美しい二つの街は壊滅した
およそ七十五時間を経て
二つの街は廃墟と化した

 2
歴史をたどれば
広島・長崎両県は
隠れキリシタンによって
一本の糸で結ばれていた
江戸が明治に改まるころ
浦上四番崩れの激しい弾圧の後で
長崎の隠れキリシタンたちが
萩や津和野のほかに 福山にも流されたのだ

それからずっと
浦上四番崩れで襲われた秘密聖堂から
原爆で破壊され
やがて再建される天主堂の苦難の道のりを
浦上の聖母マリアは見つめてきた

ああ そしてこれは幻聴だろうか
福山に流されたキリシタンたちの
オラショの祈りがいま聞こえてくるようだ
それはヒロシマの被爆者の祈りとともに
懐かしい通奏低音となって
瀬戸内と天草の海を渡ってくるようだ

 3
二つの都市を結ぶ細い運命の糸
それをぼくらが信じようと信じまいと
八月六日と九日はめぐってくる
ヒロシマとナガサキにそれぞれ
原爆忌はめぐってくる
だがそれにしても
一つでさえ十分に悲しいのに
二つの原爆忌をもつ国は悲しすぎる

だから 忘れてはいけない
運命にもてあそばれ
生贄として捧げられた西方の二つの都市の
そのあまりにも不条理な物語を


 *浦上四番崩れ  浦上秘密聖堂の隠れキリシタンに対する江戸幕府の弾圧(一八六七年)

 ★斎藤紘二(さいとうひろじ)『二都物語』(思潮社、2009年)より。


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