『山の兵隊― 一学生兵の手記』
[2008年01月30日(水)]
年末年始、日本に一時帰国中、身元未判明の日系人の父親探しの手がかりを得るため、太平洋戦争に学徒兵としてフィリピンへ出征を強いられ、セブ、レイテ(近くの島)山中でのゲリラ戦を体験された方からお話を伺う機会を得た。
この地域に残された残留日本人の存在についても、以前からご存知で、30年程前の訪比のさい、船上で出会ったという日系2世Rさんのことは、親身になって身元捜しに尽力されたこともある。その意味で、実は、私たちの大先輩といえる方だった。(Rさんは両親が非婚のため未だ日本国籍を取得できない)
戦後、生き残った元軍人やご遺族が、かつて戦闘に従事した土地を戦没者慰霊に訪れる例は多くあるが、この方が戦後関わってこられた「リロアン会」は、単に、かの地に碑を建て、自分たちだけで慰霊祭を行うといった「後ろ向きの会」ではなく、戦争中に駐屯した町と和解し、友好親善に努めてきた「前向き」の会であるという。かつて闘ったフィリピンゲリラの1人が、戦後、町の町長になっていたが、戦後はすっかり友達になり、資金を集めて、部隊の駐屯地跡に町営の施設建設を援助したり、町の教会のマリア像を寄贈したりしてきた。
部隊史を記録に残すなど活発に活動してきたが、多くのお仲間が鬼籍に入るようになっため、昨年解散したという。
正直にいうと、かつて殺しあった者どうし(仲間を殺されあった者どうし)が、そんなに簡単に和解できるものなのか、話を聞いたときは少々とまどいさえ覚えた。が、この方が私家版として著された書籍『山の兵隊ー 比島より生還せる一学生兵の手記』を読んで、納得した。
「交流を重ねる中で、彼らの事情もだんだんわかってきた」と、正直に書いておられるが、それよりまして、ああ、そうなんだ、と気づかされたのは、日本軍を構成していた多くの人びとも、日本各地の職場から、大学から、駆り出され、「戦線離脱は許されず」「敵前逃亡ならず」の論理で動かされていた、実は普通の人たちなのだーということだった(だからといって日本が加害責任を免れるというわけではないが)。
敗残兵となって山中を逃げ回り、終戦も知らず数人の仲間と「友軍を見つけて合流し、戦線に復帰する」つもりでいたとき、村人に見つかり、ゲリラに通報され、射ち合いになった。ひとりになり、殺されかかった最後の最後、英語で話しかけ、言葉を交わし、終戦を知る。その夜はそのゲリラの農民一家の家に泊めてもらい、ご飯を食べさせてもらい、翌日、米軍キャンプまで案内してもらって投降。「個人で話せば、こんなにいい人なのに」という想いを、そのとき強くされたという。
数十年後にそのゲリラだった人とその家族に再会、最後まで一緒だった戦友を撃ったゲリラ本人に、「あのとき、何故撃った」と尋ねたところ、「逃げたから撃った」が答えだったという。
いかに戦争が無意味なものかを象徴するようなやりとりである。
個人対個人の出会いや対話を否定するところに、友愛も平和もないが、逆にいえば、そのような個人対個人の対話、友情、出会いを大切にしていくことこそ、平和構築の第一歩というか、ひとつの希望であるように感じた。それなしには国どうしの友好も友情もないだろう。
戦争中、日本人移民1世やその家族たちが、フィリピン人との友情のゆえにいかに苦しんだかについても、思いをはせずにはいられなかった。
残留日本人とその子孫である日系人、フィリピン人(米軍に協力したフィリピン人ゲリラ、あるいはそれとまったく逆の立場の、日本軍協力者)、日本の元軍人、兵士(およびそれに連なる我々日本人)が、無意味に殺し殺されあったこの歴史を忘れることなく、3者が和解するような、「前向き」な未来構築を考え、実践していくことが、私たちの責任であると感じる。
また、国や組織が1つの方向を向いて進んでいるとき、それに異論を感じなくなる、一種麻痺させられてしまうその状態については、かつてあった遠い出来事、といってはいられないような気がして、ご自身の体験をこのようにつぶさにリアルに書き残してくださった著者に、感謝せずにはいられない。ありがとうございます。
(事務局員 K.I 在マニラ)


