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フィリピン日系人リーガルサポートセンター

NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(通称PNLSC)は、フィリピン日系人、とりわけ太平洋戦争とそれに続く混乱により日本人父と死別または離別し、現地に残された二世(残留日本人2世)の法的・社会的支援を目的に発足したNPO(特定非営利活動法人)です。

〒160-0004 新宿区四谷1-21戸田ビル4F
Tel: 03-3355-8861
Fax: 03-3355-8862
E-mail: info@pnlsc.com


コトコンサート@ [2008年01月23日(Wed)]
 確か、フィリピノ語(タガログ語)で「コト」は、蚤か虱のことを意味するのだが、今回のコトはそのコトではない。日本の伝統的和楽器「琴」である。

 ダバオ日系人会事務所と同じ建物の中に、ミンダナオ国際大学という最高学府がある。その大学の学生と、学生を指導する日本からきた琴の先生が、今回ダバオ市内で琴コンサートを開き、偶然その日にダバオ入りしていた私は、そのコンサートに誘っていただく機会を得た。

 日本ですら、琴のコンサートなど聞きに行ったことはない。音楽鑑賞自体は、小学校時代から高校卒業までブラスバンド部に所属していた関係で昔から好きだったが、よく聴いていたのは、チャイコフスキー、ワーグナー、ドビュッシーなど西洋の作曲家によって作られたクラシック音楽だった。琴というのは、勝手な思い込みなのだが、私にとっては敷居の高いもので、その魅力をそう簡単に理解できるものではない、と思って無意識に敬遠していた。

 ただ、余談ながら、雅楽というものがどのように日本に広まったのかということには関心があり、少し調べたことがある。今から1200年ほど前の平安時代あたりに、ベトナムを経由して日本に来たインドの僧がベトナムで出会ったミュージシャンを付き人にして日本を訪れ、その際その付き人が、日本人にベトナムで学んだ音楽を教えた。それを日本人なりに加工して出来たものが、雅楽の起源であるというのが、雅楽発祥の一つの説であるらしい。

 しかしながら、琴というのは雅楽の起源とはまた別で、4世紀頃に中国からやってきたものだということが、今回の琴コンサートのパンフレットに書いてあったのは興味深い。
4世紀といえば、遣隋使が派遣される200年以上も前のことで、現代の日本史の解釈で言えば、まだ「日本」という言葉自体がなかったときだったはずである(ちなみに遣隋使の時代にも日本という名称は存在せず、実際に日本が史上に現れだしたのは、遣唐使あたりからだといわれている)。

 と、いちいち琴と日本の関係について考え出すときりがないので、この辺でやめておくが、とにかく今回のコンサートのパンフレットにこのような琴の歴史などがフィリピン人にもよく理解できるように英語で書かれてあり、非常に気の利いたものである、と思った。

 ダバオ市内には、中規模のコンサートができるくらいのホールがある。今回のコンサートはそこで行われた。私は、お陰さまでそのホールに始めて訪れる機会を得た。演奏中一時的に大雨が降ってきて、その雨音がホールに微妙に響いていたり、ホールの天井からわずかばかりの雨漏りが生じたりして、なんとも言いがたいものがあったりもしたが、ダバオ市内で琴コンサートが聞けること自体が素晴らしい催しなので、それくらいの雑音はさほど気にならなかった。

PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)
Posted by pnlsc at 00:37 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)
マニラで日本語教室スタート! [2008年01月22日(Tue)]
 マニラで日系人の日本語教室スタート!

21日からマニラのオフィスにて勤務している。
昨年後半、大きな変動があり、PNLSCはフィリピンでも法人登記し、ケソン市に事務所を移した。偶然にも同時期に事務所移転を余儀なくされたマニラの日系人組織「Manila Central Luzon Nippi Association」(通称マニラ日比)と、同じ建物のなかに事務所を持つ(各自の部屋は別々)ことになった。ダバオでは、PNLSCスタッフがダバオの日系人会(通称PNJK)内に机をもらって仕事していることを考えれば、この新アレンジはごく自然なことのように思える。就籍プロジェクトにも、一緒に取り組んでいくことになっている。

マニラ日比の設立は1998年。バギオやダバオの日系人会に比べられば歴史は短いが、各地から人が集まる首都マニラだけあって、メンバーの数は多い(500人)。さらにその散らばりの範囲もかなり広く、ブラカン、パンパンガ、サンバレス、北限はカガヤン州まで。南はカビテやラグナなどのマニラ近郊から、カマリネススルなどビコール地方まで及ぶ。毎月の月例会に、各地から50人余りが集まることをみても、この組織がマニラ及び近郊の日系人たちの1つのよりどころになっているとかんじる。

20日(日)、マニラ日比で今期初の日本語クラスが開かれると聞いて見学にいった。生徒は12人。20歳から40歳まで年齢はまちまちだが、流暢な英語で明るく冗談をまじえながら教えてくれるR先生について、みんな楽しそうにはじめての日本語≠話している。
いいかんじ、いいかんじ、と思わず微笑んでしまった。北川パブロ・マニラ日比会長もいつもの笑顔を一層ほころばせて満足そうだ。
一週間に1回のペースで3月までワンセッションが続く。

「メンバーの中には日本語を学びたいという声が高い。定着させ拡大させたい」とは、以前からマニラ日比の希望だった。
実現するよう、私も陰ながら応援したい。

日系人の社会的地位向上というとき、日系人組織の果たす役割は重要だ。それを応援することもPNLSCの役割の1つだと思っている。

12人の生徒たちは、幸運にも2世の身元が判明し、日本行きの切符≠手にした3世、4世たちだ。
教室となった共有スペースには冷房がないため、先生も生徒も汗だくになっていたが、生徒たちの興奮と熱気も、それに輪をかけていたに違いない。
スプリッタータイプのエアコンは2万ペソくらいするそうだが・・・・(どなたか寄附してくださる方、いませんか)

さて。たまたまPNLSCはマニラでマニラ日比と事務所を共有することになったが、日系人会は、他にも各地にあり〔ダバオ、バギオをはじめセブ、イロイロ、バコロド、カガヤンデオロ、イリガン、ブトゥアン、サンボアンガ市、サンボアンガデルスル(マルゴサトゥビック)などなど〕PNLSCは、それぞれと手を結んで日系人支援事業を行っていきたいと考えている。他の地域の組織については、当然ながら、離れていて顔がみえないから、わからないことが多いが、それぞれに悩みや希望を抱えているに違いない。近い将来、それら各地の日系人会とも、顔の見える関係づくりを目指したい。(事務局 K.I 在マニラ )




Posted by pnlsc at 09:22 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(1)
「たくさんありがとう」 [2008年01月21日(Mon)]
 「たくさんありがとう」という、日本では余り聞きなれない日本語(のような言葉)を残留日本人や、日本人移民と親しかったというフィリピン人からよく聞く。

 日本では聞いたことがないこの言葉は、戦後中途半端に日本語を知っている日本人以外の誰かが、ビサヤ語で一般的な感謝、お礼を意味する言葉「ダグハン サラマッ」を直訳して、教え、それが広まったのではないか、と思っていた。ちなみに直訳すれば「ダグハン」 は「たくさん」、「サラマッ」は「ありがとう」という意味に近い。

 余り好ましくない事実なのだが、フィリピン国内においてフィリピン日系人だと日本大使館からも正式に認められると、日本に長期滞在が可能な特別なビザを取得する権利が得られ、それを目当てに本当は日系人ではないのに、日系人らしく振舞いそのビザを取得しようという人が結構いるという話を聞いたことがある。ひょっとしたらそういった人たちが、日系人であろうとアピールするために覚えた、にわか日本語が「たくさんありがとう」なのではないか、とふと思っていた。

 しかしどうもその見解は、正確ではなかったようである。

 様々な人々との面接を行っていくうちに、「たくさんありがとう」という言葉は、かなりの(本当の)日系人、日本人移民と付き合いのあったというフィリピン人、その中で特にご高齢の方々からも聞き取ることができる。そしてその言葉を発する方々に「たくさんありがとう」という言葉はどこで学んだのか、と聞くと、戦前だという。

 更に話を聞いていくうちになんとなく想像できてきたのは、日系人や日本人の付き合いのあったフィリピン人が構成する幾種類の社会のでは、100%日本人で占められた、100%日本語で会話される日本人社会とはまた違う仕組みになっていて、その社会で繰り広げられる言語も純粋な日本語だけではなく、ミンダナオ島のフィリピン人の公用語であるビサヤ語などを混ぜながら交流する社会だったという。つまり「言語のちゃんぽん状態」で社会が構築され、双方にある程度理解されるような共通理解しやすい言語が構築されていった。そのなかで「たくさんありがとう」という言葉が生まれ、日本人もその言葉の言いたいことは大体わかるから、特に訂正する必要もなくひろまった。
 
 また、実際「ダグハン サラマッ」を日本語の一般的な感謝の気持ちを示す言葉「どうもありがとう」とイコールさせると、なぜそれがイコールなのかということを論理的に説明することが充分にできない。だったら、フィリピン人が直訳ながら「たくさんありがとう」と日本語で話そうと努力しているのだから別にそれでも良いのではないか、というちゃんぽん言語社会の一致点の模索が行われたのではないだろうか。

 そしてその結果、フィリピン、特に100%日本語を話すという義務のない日系人社会において「たくさんありがとう」は共通言語として浸透していったということが想像できる。そしてその言葉は、戦後数十年たって身元捜しの面接を行う日本人(PNLSCスタッフ)に出会い、日本人移民史を考える上で歴史深い貴重な言葉である「たくさんありがとう」という言葉をあらためて思い出す、という結果となっているようである。

PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)
Posted by pnlsc at 20:35 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)
身元判明(戦後のこと) [2008年01月20日(Sun)]

 前回の続きである。

 戦争によってフィリピンの移民社会は、物質的にも精神的にもめちゃくちゃになった。住んでいた建物、働いていた会社、耕していた畑は、皆破壊された。戦前の日本人がフィリピンに移住しながら、フィリピン人と何年も何十年もかけて培ってきた友情、愛情など様々な人間関係は、「日本軍」という、日本人移民と同じ「国民」という価値基準の部分でつながりのある異邦集団によって木っ端微塵に踏み潰された。

 全てが灰になったあとに戦争は終わる。日本人移民、日系人の戦後の生存者は、あるものは強制送還させられ、あるものはフィリピンに残った。残った人々が、いわゆるフィリピン残留日本人である。

 残留した日本人は、戦後敗戦国の人間として戦前とは全く異なる待遇を受けることになる。
彼らは、フィリピン国内において差別され、虐げられ、貧困状態に陥れられた。戦争によってもとに戻しきることが出来ないほどの被害を受けたフィリピン人は、その被害を加えた張本人である日本軍が去った後、彼らへの怒りの矛先を、残留日本人に集中させる。

 残留日本人のこの苦難の歴史は、日本人という敗北者のレッテルを張られているのにもかかわらず、更に身元未判明という不条理な現実を背負いながら、何十年にわたって(人によれば現在に至るまで)続いている。

 この間、徐々にではあるが、残留日本人の本人の努力と外部者による賢明な調査によって身元が判明するケースも出てきた。 

 現在、その外部者として、NPO法人PNLSCがある。NPO(特定非営利活動法人)は、海外では時にNGO(非政府組織)とも理解される。NPO(もしくはNGO)が主流となって残留日本人身元捜しを行っているという点が、前回のブログで述べた日本政府による「フィリピンへの日本人移民は、自由移民だ」という見解に、ある程度通じているということは否定しきれないものがある。

 身元が判明した人たちは、判明したことを喜び、と同時に、判明するまでにかかった膨大な時間をこれからゆっくり取り戻そうとしている。

 しかしながら、数十年もたった身元判明のケースは、ほとんどが日本に帰った残留日本人の家族が既に亡くなっている場合が多い。身元判明を成し遂げることが出来た残留日本人家族に、PNLSCが判明の事実を伝え、長かった苦難の歴史に明るい光がさしてきたことを共に喜び合う。しかしそれと同時に、PNLSCは、身元判明となった残留日本人家族に、それまで生きていると信じてきた、戦後生き別れになった日本での家族がもう既にこの世を去ってしまった、という事実も伝える。そのとき判明を喜んだ表情は、落胆の様相を示し、脱力感に苛まれる。わずかな沈黙の後、家族は事実を受け入れ、再び判明の事実を前向きに捉えようとしていく。

 残留日本人の戦後のケースによるが、父親が日本に送還、子は母と共にフィリピンに残る、という親子の生き別れのケースの最近の判明のほとんどが、日本に帰った父親は死亡している。なので、残された子(残留日本人)は、判明するまで父は生きていると信じて身元捜しをしていて、判明によって初めて父の死の事実を知るのである。

 これが、フィリピン残留日本人の現実の一端である。何十年もたってようやく身元が判明したにもかかわらず、そのときにはもう既に家族は他界している、という現実が、戦後数十年にわたって行われてきたという、補償政策がどのようなスピードで、精度で行われたのかどうかということが浮き彫りにされる一面である。

 いずれにせよ、愚痴ってばかりはいられない。強制送還された日本人家族だけでなく、身元未判明フィリピン残留日本人そのものの存在が徐々に消えつつある現在、今何をすべきか、ということを考えて進めていくことが第一である。

PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)
Posted by pnlsc at 10:08 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)
身元判明(戦後63年目を前に) [2008年01月19日(Sat)]
 まだ、新に身元判明というケースはある。

 第2次世界大戦後63年を迎えようとしている2008年にもなって、未だそういうケースが現れる可能性がある、ということをダバオでの調査を進めていく上で感じることがまれにだがある。

 多くのフィリピン残留日本人が、この半世紀をはるかに越える年月の中で、身元を判明させることなくこの世を去っている現実がある。

 「死人に口なし」とはよくできた日本の慣用句である。生前声を荒げて、それこそ命を削って自分の身元捜しのために生きてきた残留日本人も、その本人がこの世を去ることによって、わずかなエコーを残しながら徐々にその声は消えていく。声が消えると、その人の身元捜しは生前のときに比べ、更に困難になる。困難を乗り越えようという努力は、どれだけ努力したらそれを乗り越えられるのか、という数値目標的なものもなく、そのために諦める人たちもいる。諦める理由が、本人の死と、先の見えない身元捜し活動への絶望感であったとするならば、それは悲しい事実である。

 戦前のフィリピンへの日本人移民は、現在の日本政府の見解で言えば、「自由移民」という部類に入るそうで、特に当時の日本(大日本帝国)の国策によって強制的にフィリピンに移住させられたわけではなく、個々人の自由意思によってフィリピンに移り住んだ、と解釈されている。そのため、フィリピンへ移住した日本人移民の末裔であるフィリピン残留日本人に対しては、国策が絡んで世界各国に移住した日本人移民の末裔に対するような積極的な支援策というものは行われていない。例えば、外務省所管の独立行政法人JICA(国際協力機構)の日系社会青年ボランティアなどは、中南米の日系人社会向上のために設立された支援制度となっている。しかしながらこの制度は、かつて数万人もの日本人が移住していたフィリピンには適用されていない。あるJICA職員に話を聞くと、その理由は、フィリピンへの移民者 「自由移民」だったからだという。

 今の私の知識では、この日本政府の解釈が本当に適したものであるのかどうかについて判断しがたいものがあり、この点について明確にさせるために、もっと多角的視野を持って当時の日本人移民と日本との関係について調べる機会を持つ必要がある。

 ただ、移住の過程が、万が一の割合でもし仮に「自由移民」という定義にあてはまるということを私自身が納得できるだけの理由が見つかったとしても、どうしても引っかかることがある。それは、日本人移民や日系人が「戦争」という異常事態において、日本帝国軍のために大いに利用され、働かされ、死を選ばされ、そして戦後には移民社会の崩壊とともに日本から見棄てられた、という事実を鑑みたとき、単に移り住んだ方法が「自由移民」だったというだけで、他の国の日系人社会との待遇を差別するというのは、おかしいのではないか、と思うのである。

 男性の日本人移民は、戦中、義勇軍やほとんどボランティア、もしくはほぼ軍命令のような形で日本軍に加わり、戦闘に参加した。しかし、それら移民によって組織された戦闘グループは、正式な日本軍人・軍属として日本政府に登録されていないものが多く、そのため充分な保障もなく、処遇は明らかに悪かった。

 身元判明の話から少し話が広がってきてしまったので、続きは次回にする。

PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)
Posted by pnlsc at 16:45 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)
日本人フィリピン移民論 [2008年01月18日(Fri)]

 大それたタイトルにしてみた。

 ただし、その論を胸を張って論じきれるほどの自信はまだなく、このブログでもちゃんと整理して論じようというつもりはない。

 しかし、論じることができるようになりたい、と思う気持ちがある、ということをあらわしたかった。そして論じたとき、その論に対して様々な視点から反論を受け、その反論を更なる肥やしとし、論を拡大させていけるようなスタイルを持ちたい。

 このようなことを思う理由は、当然のことながらPNLSCの一職員として、フィリピン日系人と比日両国において触れ合う機会が持てているからである。

 現存するフィリピン日系人との出会い、彼らとのインタビューから知ることが出来る当時の日本人移民の話は、誤解を恐れずに言えば、非常に面白い。同じ日本というキーワードを持って生まれた私であるからなおさら面白い、と感じるのかもしれないが、そうでなくともなぜ日本人が遠いフィリピンという国に赴き、そこで新たな社会を築くまでになるのかについて考える方法は、歴史学、社会学、文化人類学、さらには経済学、国際関係学、心理学など様々な視点からできそうであるからである。

 私が得続けているフィリピン日系人の情報の多くは、「人(フィリピン日系人、もしくは彼らに関わったことのあるそれ以外の人々)」というプライバシーの重要性を主張する媒体から発せられる情報のため、ブログのような不特定多数の人々が閲覧する場で、自由にその面白さを紹介することが難しい。これは、私にとって多少なりとも歯がゆいところであるが、それは今の世間の流れから考えて仕方がない、とも思っている。 

 普段「戦争」という単語を抜きにフィリピン日系人のことを考えることができないようになっている。しかしながら本来は、戦争があろうがなかろうが、フィリピンへの日本人移民が始まった時点から徐々にフィリピン日系人は存在しており、純粋にフィリピン日系人、日本人移民のことを考えるならば、「戦争」という言葉にあまり固執しすぎることは、今を生きるフィリピン日系人だけでなく、戦前(戦前という言葉も今回の文脈上あまり使いたくないのだが、今のところどうしてもうまい言葉が見つからないので便宜上用いる)にフィリピンでいきいきと生きていた日本人、日系人に対して、失礼にあたるのではないか、と思うこともある。

 フィリピン日系人、という言葉自体ももっとよりよい単語を見つけなければならないと思うこともある。

 ある私の知り合いのフィリピン日系3世で、「私の父は、日本人とフィリピン人との間に生まれたのでフィリピン日系人だといえるが、私はそのフィリピン日系人とフィリピン人との間に生まれたので父と同じ様なフィリピン日系人と呼ばれるべきではない。」 という人がいた。勿論、現在一般的には日本人父とフィリピン人母との間に生まれた子はフィリピン日系人2世で、フィリピン日系人2世とフィリピン人との間に生まれた子はフィリピン日系人3世、という風に日系人の後に続く世代の数字が異なる。しかし、本当にそれだけ(数字だけ)の違いで、一人間を一つの型に定義してしまってよいのであろうか?

 例えば、いわゆるフィリピン日系人2世と日本人が結婚し、その間に生まれた子はフィリピン日系何世と名乗るのが妥当かとまどうことがある(結局現在のところ、これは本人の考え方、そのときの本人の気持ちで決まる場合が多いようであるので、その辺の緩やかさは尊重すべきである)。

 また、上記の法則にもとづくいわゆるフィリピン日系人3世とフィリピン人の子はフィリピン日系人4世となり、その子は5世、そしてその次は6世、となっていくのであるが、一体その数字はどこまで続いていくのか、と考えたとき、日本史の歴代将軍ですら10何代までしか続かなかった例などから、その日系人の世代をあらわす数字もいつかは途切れるだろう、と思わざるを得ない。そして、途切れたときその人たちは何と定義されるのか?多分そういう時代になったら、その時代に合わせて現在の国民国家概念を越える新しい価値観、言葉が生まれるのかもしれない。

 「私は、『私1世』 である」、ということを全人類が主張する時代が来たとき、日系人という概念だけではなく、ひょっとすると日系人という考え方の基礎となっている日本人とか何々人という国民という概念も変わっていくのかもしれない。

 
 補足:タイトルを見て、何をどう論じるのかと期待しながらブログを読んだのに、別に論じているわけでもなく、いつもどおり徒然なる内容だったと感じた方々、期待はずれで申し訳ありません。

PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)
Posted by pnlsc at 01:23 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)
PNJK事務所入り口付近にて [2008年01月16日(Wed)]
 数ヶ月ぶりにダバオ日系人会(PNJK)事務所の扉を開ける。

 この瞬間、なんとなく緊張する。なぜなら扉を開けたとき、事務所内の構造が、開いた扉に事務所にいる人々の視線が集中するしくみに(意図的かどうかはわからないが)なっており、私が「おはようございます。」と言って入ろうものなら、所内にいる人の視線が私にぶつかってくるのを感じる。

 この感覚は、単なる私の思い込みなのかもしれないが、現にその視線の圧力を感じているので主観的に言えば嘘にはならない。

 また、視線だけならともかく、その後そこにいるスタッフの皆さんが「ウェルカムバック」などと大きな笑顔で言ってくれたりする。そういう歓迎の声を浴びるほどのことをスタッフの皆さんにしたという実感がない私としては、どうも照れ臭くなってしまう。これまでの人生で少なからず何度かそのような歓迎の声を日系人会事務所やフィリピンに限らず、日本や他の国でも浴びた経験はあるが(といえども頻度としてはフィリピンでそのような経験にあう確立が高い)、なかなか慣れるものではない。これからも慣れるかどうかわからないし、慣れたほうが良いのかどうかもわからない。

 フィリピンという国は、そういった新しく出会う、もしくは再会を果たした友人、仲間、家族などに対して日本より、目に見えた形で喜びを表現することが多いような気がする。欧米式とでも言うのか、挨拶に「ハグ」を求められたりもする。私から求めることはほとんどないが、求められると拒否する理由もないのでそれに応じることにしている。私が知っている多くの日本人もそういうスタイルをとっているようで、日本でハグなんかしているところなど見たこともないし、想像もできなかったような日本人が、フィリピンに来てフィリピン人と軽く抱き合って挨拶したりして、いきなりその人の新境地を私に見せてくれる人もいる。「ところ変われば人変わる」とは、良い意味で当を得たり、である。日本で育った日本人の価値観を変化させることが出来るのが(変化の内容によるが)、フィリピンの魅力ともいえるだろう。

 例えば、10年ほど前に、学生の小さなボランティア活動で初めてフィリピンを訪れ、村にホームステイさせてもらったときに受けた、心のこもっていることがありありとわかるような歓迎やもてなしや、そこでの新鮮な出会いや暖かい交流がそれから後の私の行動の原動力の一部となり、その行動が徐々に積もり積もって今の私があるということから考えても、少なからずフィリピンによって私は、何らかの変化を起こされた経験があるといえる。まあ、その変化はとりあえず今のところ私にとって良い変化であったという認識を持っているのは、事実である。

 そんなことを考えながら、スタッフの皆さんと久々の挨拶を交わし、用意されているいつもの席につく。そして、机に積まれている身元未判明フィリピン残留日本人のファイルとも久々に対面する。このファイルに記録されている日本人移民たちもひょっとしたら私のような、いやそれ以上の自分自身の良い変化を感じることが出来たから、フィリピンに住み、家族を持って暮らしていたのかなあ、と漠然と思ったりする。

 と同時に、何十年も身元未判明のまま、現在紙切れのファイルとなって私の机の上に積まれている日本人移民とその末裔について思いを馳せる。

 「ああ、あんな戦争がなかったら・・・」と覆しきれない歴史の事実を無意味に「If」で思いながらも、自分の気持ちを、積まれた書類に冷静に、かつ希望を持って向き合うように切り替えていく。

PNLSC事務局(S.S 在ダバオ) 
Posted by pnlsc at 21:35 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)
ダバオの朝 [2008年01月16日(Wed)]
 ダバオの朝は、日陰が涼しい。

・・・午前6時50分頃に、御世話になっているゲストハウスの屋根のある裏庭に向かい、コーヒーを飲みながら自然の風にあたっていると、わずかではあるが亜熱帯とは思えないような肌寒さすら感じる。とは言え、先日まで真冬の東京にいて半そで裸足で外を出歩くことなど到底出来なかった地域から考えたら、比較にならないほど暖かい。この年中凍えるような寒さを感じることなく過すことができるフィリピンを含む赤道から近いところにある地域の環境について、自然現象だからあたり前のことで、損も特もない、として捉えることも出来るし、一方、生まれもって寒さにおびえることなく生きることが出来る環境にいることは恵まれている、という考え方も出来る。

 フィリピンは、「経済力」という余りにも単純で幅の狭い尺度で測ったとき、「途上国」という部類に入る。国単位で物事を見た場合、フィリピンという国は、途上国という状態からの脱却を目指し日々努力している。

 対して、今のところ途上国とは対義語である「先進国」と呼ばれている日本は、戦後必死の思いでせっかく勝ち得た先進国というレッテルを国の誇りとして、それを維持存続させていくためにこれまた懸命になっている。そしてこの国に属する人種は、その国の意向にできるだけ沿うように努力する、もしくは努力させられている。満員電車にゆられながら通勤し、夜は遅くまで働いてまた電車に乗って結構な時間をかけて帰って、家に着いたらほとんど寝るだけ、という連続行動の原因は、個々人の生活維持のためというのが基本的認識とされているが、少し俯瞰的に見ると、その行動が明らかに今の日本が先進国であり続けるための大事な要素となっているのではないか、となんとなく感じている(ただしこれは、通勤先の存在が、自己の人間的向上のために意義は感じないが、食うために、もしくはこれまで構築してきた自分の周りの社会環境を変化させないために仕方なく通っている、という場合においてであり、逆に、通勤先に通うことで生きがいや自己の発展の可能性を感じることが出来ている場合、話は別である)。・・・

 と、全くもって取り留めのないことを頭の中に好き勝手に展開させるひと時をコーヒーと朝食の時間に持つ。その後、簡単な身支度をして、歩いて5分くらいのところにあるダバオ日系人会事務所に通勤する。事務所についたころには、頭の中の主要部分は「フィリピン日系人」で占められ、その主要部分をさらに豊かなものに、充実したものにしていくにはどうすればよいか、と考えるようになっている。

 さあ、これからまたしばらくダバオでの日々が始まる。

 PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)
Posted by pnlsc at 00:58 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)
ダバオへ(ダバオへ) [2008年01月14日(Mon)]
 マニラの国際空港に着いた。国際便も国内便も同じ航空会社なので、成田でチェックインしたスーツケースはそのままダバオまで直行となり、身一つで国内空港に移動できるのはありがたい。 

 フィリピン航空を用いるときのマニラの空港はセンテニアル空港と呼ばれる空港をもちいる。隣に別の国際空港があるが、そこはフィリピン航空以外の航空会社によって主に使われている。 

 航空会社によって空港が違うのはややこしい、と昔から思っていたのだが、最近の度重なる移動で、これも徐々にではあるが慣れてきている。

 ダバオ行きの飛行機は、18時に搭乗手続きが始まる、ということで、15時くらいにマニラに到着した私はちょっと時間があったので、外に出て空港近辺を散歩してみた。しかしながら数ヶ月ぶりの空港近辺のマニラは特に何の変わり映えもなく、ただ暑いだけだったので、近くにあった売店でフィリピン用の携帯電話のプリペイドカードを購入してすぐに国内空港に入った。

 空港に入るためには航空券を出し、危険物などを所持していないか調べるための簡単なボディチェックが行われるのだが、このとき90パーセント以上の確立で、チェックをする男性係員が片言の日本語で「ニホンジン?オクサンフィリピンジン?」とたずねてくる。フィリピンに行く機会を持つようになった学生時代から、もう数え切れないほどかチェックポイントで言われ続けているが、この瞬間だけは、どうも慣れない。最近は、少なくなったような気もするが、以前は、「チップ!」、とか「オカネチョウダイ」とか言う人たちもおり、チェックポイントの手前では常にストレスを感じ、そこを通り過ぎると、安堵とフィリピンの空港への寂寥感を感じた。このポイントでストレスを感じず、心を傷めることなくいかにして通過できるかについてのよき方法があれば教えていただきたい、と思う今日この頃である。

 最近はほとんど出遭わないが、空港内のトイレもストレスを感じるところであった。用を足した後、トイレ掃除かなにかのスタッフが私が向おうとする洗面台の前に立ち、頼みもしないのに私の代わりに満面の笑顔で蛇口をひねったり、手を洗った後大量のティッシュを差し出してきたりする。

 しかしその後、彼は急に厳しい顔になってチップを要求してくる。人間はこうも表情が変わるものなのか、と関心もするが、総論としてはこういう場面に出会うと疲れる。フィリピン人の美徳として「ホスピタリティー(献身)」がよく言われるが、トイレで外国人を待ち伏せしているトイレ掃除スタッフのようなホスピタリティーはいらない。ちなみに、今回の空港内のトイレではそういう人には出遭わなかった。

 空港では2時間ほど待った。空港の待合室はエアコンが効いていて快適である。様々な人が様々な場所に行く飛行機を待っていて、そういう人々を何気なく観察していると2時間くらいは結構早く過ぎ去る。そうやってボーっとしていたときに、いつも御世話になっているダバオの滞在先の管理人さんから電話がかかってきた。宿泊先で夕食を用意して待っている、という。夕食は管理人さんのご好意によるものである。ありがたいことである。

 ダバオ行きの飛行機も国際便と同じく定刻どおりに離陸、定刻どおりにダバオに到着した。事実として、過去何度かフィリピン航空を利用させてもらっているが、こんなに時間通りに飛行機が動いた例は、久しぶりである。今後ともこうあっていただきたい。

 ダバオ空港に到着したのは午後8時半頃。タクシーに乗っていつも御世話になっている宿泊先に向う。

 当たり前といえばそのとおりなのだが、ダバオのタクシーは、ぼったくらない。おつりもちゃんと返してくれる。対してマニラのタクシーの多くは、おつりは返さない、メーターを降ろさない、チップはずめと堂々と言う、などいろいろ難しい。余りにも話にならない場合は、(やりたくはないのだが)走っている途中でおもいっきりドアを開けると、わりあいおとなしくなる。マニラのタクシーのことを考えると、ダバオのタクシーは親切で、おつりをちゃんと返してくれるどころか、例えば47.5ペソでメーターが提示したとき、50ペソ払うと、0.5ペソのお釣りがないのかどうかわからないが、3ペソくれたりする。こうなると、ちょっと申し訳ない気持ちにもなり、同時にダバオの人々の貨幣経済社会にがんじがらめになっていない人間性の大きさを実感する。

 管理人さんは、ご自身も食事を取らず、私の到着を待っていてくれた。これも申し訳ない気持ちと、とても有り難い気持ちが混在し、どう気持ちを表すことがベストなのか明確な答は出ていない。とにかく、いただいた食事、缶ビールは胃によく染みこみ、簡単に気持ちよく酔っ払わせてもらった。

 電車と飛行機とタクシーに乗るだけの一日だったが、午前3時過ぎの起床は、さすがにいつも以上に眠気を呼び、その日は水浴び後、ベッドに横になって気がついたら次の日の朝だった。

 PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)
Posted by pnlsc at 21:19 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)
ダバオへ(まずマニラへ) [2008年01月13日(Sun)]
 2008年年明けから早速ダバオ出張となった。

 9時30分成田空港発のフィリピン航空マニラ行きの便にあわせるため、埼玉との県境すれすれの東京都内に住む私は、始発の電車に乗らなければならない。当日は、午前3時過ぎに起床し、前日に100円ショップで買っておいた菓子パンをかじり、インスタントコーヒーをすすりながら、最後の荷物チェック、簡単な部屋のかたづけを行う。戸締りを確認し、まだ暗い道を駅に向ってスーツケースをひきずりながら20分ほど歩く。駅に着いたら冬なのに結構汗ばんでいる。過酷な移動ではなく、良い運動になったと自分に思い込ませる。もしくは、1月なのに雪も降らない東京の地球温暖化の影響を実感する。

午前4時頃の街並みは普段出会うことのない雰囲気を味わえることが出来、それはそれで新鮮だが、それはたまにだからであり、毎日だときついだろう。

 日暮里で成田空港行きの電車に乗る頃には、空は白みがかかっている。日中はスカイライナーという(別料金が必要だが)高速で快適な電車が日暮里から走っているのだが、早朝にはそれはなく、普通電車で何かの運動部の朝練に向おうとする高校生達と肩を並べながらゆっくりと成田に向っていく。

 フィリピン空港が成田空港第2ビルにある、ということは最近になってようやく覚えた。かつては関西空港をよく使っていたのだが、最近おかげさまで成田空港の勝手もわかりつつあるようになっている。

 フィリピン航空のチェックインカウンターは、年末年始のクリスマス休暇か何かで日本に来ていたフィリピン人がフィリピンに帰国するため、一杯になっていた。フィリピン人は日本のカップヌードル、特にシーフード味をよくお土産に持って帰るが、その日もカウンター付近のいたるところでカップヌードルの箱があったが、それらは見事に全てシーフード味のものだった。この光景は「○○現象」、「○○症候群」という風に名づけることが出来るのではないか、と思ったりした。

 私は、チェックインカウンターで、係りの人に、「エコノミークラスが満席のため、ビジネスクラスを利用して欲しい」、とお願いされた。ビジネスクラスなどは利用したことがないが、とりあえずマニラに着くなら何でも良いと思い、了解した。

 チェックイン後は、特に待ち時間などもなくスムースに搭乗し、普通どおりに離陸した。

 ビジネスクラスの席はエコノミークラスよりも大きく、幅広く作られている。テレビも各席に一つあったり、食事もなんとなく高級感があったりする。食後はハーゲンダッツアイスクリームが出た。しかしながら所詮同じ飛行機の中であることには変わりなく、エコノミーでもビジネスでも食べ物や飲み物は、それなりに腹が膨らむ程度に与えてくれるので、決定的な違いはない。ただ、一つ、ビジネスクラスでビールを注文すると、缶ではなく、150mlくらいのグラスに注がれて持ってくる。この点は、缶でくれるエコノミーのほうが量も多いし、何度もお代わりせずに済むので気楽である。ちなみに食後に出たハーゲンダッツのアイスは、スプーンが刺さらないほどカチカチに凍っていた。

 とりあえず、無事にマニラに着いた。

 今回は、そのままダバオ行きの飛行機に乗ることになっている。

PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)
Posted by pnlsc at 21:54 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)