プロジェクト進捗会議、セブにて。[2008年04月18日(金)]
就籍プロジェクトの進捗その他を話し合う、プロジェクトマネージメント会議が、セブのフエンテペンションハウスで開かれ、PNLSC代表の河合弘之弁護士はじめ、プロジェクトに参加する各地の日系人組織の代表が参加した。開催地のセブ日系人会メンバーも、オブザーバーとして列席し、総勢30人余の会議となった。
会議は準備に奔走してくれたセブ日系人会会長による日本語の挨拶で始まった。
フィリピン側でプロジェクト推進主体となっている、PNLSC Inc(PNLSCフィリピン)の拡大理事会でもあるため、同法人の2007年度決算報告や会員ルールなどの議論もなされたが、中心議題は就籍プロジェクトとその戦略、今後についてである。
河合弁護士は、@日本で、フィリピン日系人問題に取り組む議員連盟がまもなく発足することA3月末にダバオの神山3兄弟に新たに就籍許可がおりたことBプロジェクトU期は121件の目標中、18件の申立てが完了していること、現在54件が東京家裁に係属中であり、うち38件が身元未判明ケースであること、裁判所からの問い合わせが増えており、時間はかかっているがじょじょに許可がおりる見通しはあることから、もうしばらく待ってほしいこと などを報告した。
フィリピンにおける証拠収集、作成の過程でネックとなっている遅延登録の問題、その解決に向けたとビー活動の方法等も話し合われた。
7月半ばに実施する集団帰国の枠組みについても合意、また在比、在日日系人向けに発行している『Nikkei-jin News』の編集委員も決まった。
各地からの報告では、これまで任意団体であったが、PNLSCInc同様、最近、法人登録を完了したというカラガ日系人会会長からの報告、数年ぶりに3月に総会を開き、選挙を実施したというカガヤンデオロ日系人会会長からの報告などを聞くことができた。
就籍プロジェクト及び今回のようなプロジェクトマネージメント会議に参加し、情報交換をすることが、各地での活動活性化にどんな形であれつながってほしい、と願っているが、それが少しずつかなってきているようでうれしかった。
毎回、コミュニケーションの難しさ、大切さを痛感させられる会議である。
が、きたんなく意見を交わしあい、場を共有することで、関係と絆が深まっていることは確かである。会場でも河合弁護士が強調していたが、この会議は、日本財団の就籍プロジェクトの一環として実現している。感謝したい。(在マニラ K.I)
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NPO職員 S.SB[2008年04月14日(月)]
前回から少し時間が空いてしまって、どう続きを書けばよいのか考えながら筆を進める。
日本で、NPO、PNLSCという職場で働かせてもらうなかで、出会う出来事、感じることは日々新鮮なことが多い。
新鮮さを感じることは、充実した日々を過ごす上で大切な要素であり、人生をそれなりに満喫できている証拠ではある。
しかし反面、いろんな出会い、経験から新鮮さを感じるということは、これまで30年そこそこも生きてきた私の人生の中で経験することがなかった、という人生経験の未熟さを露呈する、ということにも当てはまる。
新鮮との出会いは、捉え方にもよるが、私自身の人生にとって新たな経験が蓄積されていくという意味で大抵がよりよいことではある。しかし、私が新鮮だと思っていることを特に新鮮だと思っていない、当然のことだと思っている人たちにとっては、なぜ私が新鮮だと思っているのかについて理解できない。理解できないことが、理解しあうことによってよりよい関係が築けて効率的な作業が行われていく、という過程の妨げになっているのであれば、それは組織の人間としては言語道断である。そういった現状を回避するためには、まず私自身が理解し合える立場になるように努力しならなければならない。新鮮さを感じて満足するだけでなく、その新鮮さがごく自然に自分のものになり、速やかに吸収できるように努めなければならない。
「新鮮な経験は人生に大切なこと、しかし新鮮を感じることは、自分が物知らずであるということ。」
この「しかし」以降のことを最近はより強く意識したほうがよい、と思っている。
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NPO職員 S.SA[2008年03月21日(金)]
PNLSCの活動を行っている人間の一例を紹介しながら、活動そのものだけでなく、活動を展開する人間が、いかなるかたちで受益者、被受益者、また、それらを展望、もしくは間接的に接触しているフィリピン、日本社会、更には世界と関係を持っているか、ということを考えたいと思い、書いている。
と、壮大なことを言いつつ、話は再びミクロになる。
ワーキングプワーと、ある一部の人々から呼ばれている私ではあるが、とりあえずは私の都内(といってもはずれだが)アパートには雨風を防ぐことができる屋根と壁があり、春夏秋冬に最低限対応した寝具や衣類も(周囲のサポートを受けながら)揃えることが出来ている。食事も(メニューの中身を問わなければ)一日三食は、摂ることができている。つまり、戦時中の食糧難の時期や、現在も世界中で飢餓で苦しむ人々と比べれば、豊かな暮らしを送ることが出来ている。
しかしながら、人間というものは一人では生きられず、周囲の環境に影響を受けやすい動物である、ということも、自分自身を俯瞰してよく理解できる。
腹いっぱい食べているにも関わらず、隣の人の食事のほうが豪華だと、それを欲しくなるし、十分に冬の寒さをしのぐことが出来る衣類を持っていても、周辺の人に格好よく観られたい、という願望のためにもっと高価なお洒落なものを手に入れたい、と思う。とりあえずは衣食住を維持できる金銭的報酬を得ておきながら、隣を見るともっと金のかかる衣食住生活を手に入れている人がいて、そういう人をうらやましい、と思う。
こういった願望(欲望)について、今の私は否定したいとは思っていない。どちらかといえば肯定してもよい、と思っている。しかし、その願望を何のフィルターもなく単純に肯定し続けたりしたら、ひょっとしたらそれは、底の無い泥沼に陥って自分自身が腐ってしまうのではないだろうか、という懸念も心のどこかで抱いている。
前にも少し書いたが、電車から降りて四谷の事務所に向かうために信号を渡るのだが、そのときよく白い杖を持って点字ブロックに乗って歩く目の見えない方たちをみかける。願望の拡大を目指して通勤先に真っすぐ進んでいく、目が見える人たちの群れに囲まれながら、その人たちはゆっくり前へ進んでいき、たまに私はその人たちがもう少し早く、気楽に信号を渡ることが出来るように手助けをさせてもらう。
その日もある初老の目の不自由な男性と交差点を渡り、渡った先にある点字ブロックにその方を連れて行って、そこから進む道が違うので別れを告げようとすると、後ろから私たちにぶつかってくる人がいた。私は、ちょっとむっとして「ちゃんと前見て歩けよ。」と思いながらぶつかってきたその人を見た。
そのぶつかってきた人(女性)も白い杖を持っていた。その女性は私に、「すみません」と誤った。私は、ものすごく恥ずかしくなった。私もとっさにその女性に「すみません」と言ったが、私とは視線をあわすことなくその女性は、初老の男性の後ろをついていくように点字ブロックの上に乗って去っていった。
私は、私自身にまだまだ見えていないものが無数にあることを自覚しなければならない、と強く思った。底知れぬ欲望にフィルターをかけずに泥沼に落ちて腐ってしまう可能性とは、別に他人事ではなく、自分自身にも大いに当てはまることだというのを改めて思った。
と同時に、こじつけだと思われるかもしれないが、PNLSC活動を行っていく中でも、私にはまだまだ見えていないもの、活動をよりよくしていくためには見ていかなければならないものは沢山あるはずだと思った。そういうことを思いながらその日、事務所の扉を開けた。
<補足:以下の話をすると、また長くなるので疑問点だけにするが、例えば、目の見えない方はこの私の文字を点字化、もしくは他人が読み聞かせる中間媒体を得なければ、読むことが出来ない。「こういう世界を私はどう受け止めたらええのか?」と思う今日この頃である。>
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NPO職員 S.S@[2008年03月19日(水)]
2008年しょっぱなからのダバオへの出張から東京に戻ってきて、1ヶ月以上が過ぎようとしている。
以下、フィリピン残留日本人支援活動の話とは直接関係するものではないが、それに関わっているNPO職員とはどういったものか、という一例を紹介する。
東京でお世話になっているある日本人から聞いた話では、私は、現代日本では、「ワーキングプワー」という部類に入るらしい。
「ワーキングプワー」という言葉を2005年版の広辞苑で調べてみたのだが、見つけられなかった。ということはおそらく2005年以降に生まれた新語か、公式に日本語(外来語?和製英語?)として認定されていない造語なのかもしれない。
なので、公式な意味は未だによくわからないが、周辺日本人が「ワーキングプワー」という言葉を発しながら会話しているやり取りを聞く限り、「ワーキングプワー」とは、一定時間働いている労働者で、日本の一般社会人の平均収入より低い収入を得ている人々という意味に近いようである。
私は、自分が「ワーキングプワー」だと指摘されて、「ああ、そうですか。」と答えるしかなかった。
「ワーキングプワー」とは、捉え方によれば、非常に深刻な社会問題に直面している人々(主に日本人)でもあるようで、「働けど働けど我が暮らし猶楽にならず」と石川啄木がいう、かつてのプロレタリア(Proletariat)とフランスからの外来語で呼ばれた労働者に流行ったような言葉を地で行く人々ともとられているようである。実際、ワーキングプワーであるがゆえにそれが自己否定につながり、精神に障害をきたしたり、自分の将来に希望が持てなくなったりする人々も多いらしい。
一方、私の場合は、例えば今得ている収入をもってフィリピンに出張に行った際には、一般的フィリピン人よりも比較的裕福な生活をおくることが出来、フィリピンと日本の経済格差に翻弄されながら、いったい自分は世界標準で言えば本当にワーキングプワーなのか、と思ったりしている段階である。そういった状況の中で、自分のこれからの人生に不安がない、といえば嘘になるが、それら不安要素に対して、「どうしようかなあ。」と漠然と考える、時間的、精神的余裕は、わずかではあるが今のところ存在している。
ただ今いえることは、少なくとも、日本ではワーキングプワーだが、フィリピンではそうではない、というのはある程度事実のようである。
ということは、とりあえず今の私は、日本、特に世界基準でも物価の高いといわれている東京におり、そこにあるカテゴリーとしてはワーキングプワーだと、主に客観的に認識されているだけである。
つまり、以上の在東京の私の周囲に存在する客観的認識は、見方を変えれば現代日本という世界の中の固有存在が抱く主観的認識ということもできる。
次回に続く。
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書評:『旋風のダバオ(第1巻)』(非売品)B[2008年03月17日(月)]
書評:『旋風のダバオ(第1巻)』(非売品)B
著者・発行者:大久保福市郎
この作品(私が読んだのは第一巻だけであるが)を読んで、戦争中盤になって日本からダバオに向かう日本兵が置かれている状況、心境、環境などの一例を知ることが出来る。
主人公の大保福太郎は、池袋付近の自宅から埼玉県志木に向かい、ダバオに出兵するための事前訓練を受ける。ダバオでは、飛行場建設が彼の任務であった。
その後、大保やその他日本兵たちは大阪、堺の港まで行き、そこから4千トン級の船に乗る。船は満州方面から南方方面の戦闘に加わる兵隊を乗せるため、下関を通って釜山に向かう。その後は、台湾の高雄を越え、ようやくマニラに到着する。この間、20数日くらいになるだろうか。飛行機で成田空港からマニラ空港まで5時間もあれば行ける現在と比較すると驚くべき長旅である。しかもその旅路は、人間という客を運ぶ旅行のために用意されたものではなく、戦争を行う人間というものを運ぶ箱であり、目的地まで運びきることのみが目的となっているため、船内の環境はどうのこうのという議論は無用である。
マニラで大保たちはしばらく滞在するのだが、その間に大保がみるマニラの風景から、エレベーター付のホテルがあり、その6階には一時的に日本軍の司令部が設置されていた、ということを伝えてくれる。しかも、そのホテルのエレベーターを興味津々に利用する日本兵たちに大保と行動を共にしていたあるインテリっぽい日本兵が
「アメリカでは全部これ(エレベーター)だよ。」
と、日本の田舎上がりの日本兵に伝えるところなど、既に高度な技術をフィリピンという外国にまで輸出していたアメリカによって建てられた建物の恩恵をうけながらアメリカとの戦争に勝つつもりでいた日本がいかに勘違いしていたのか、ということを皮肉っぽく物語っている。
その後、コレヒドールを見学し、アメリカは戦争に負けない、と豪語する日本軍の捕虜となっていたアメリカ兵に出会う。しかし、その当時の日本兵は、自分たち以外の世界がどのように動いているのか、ということなど知る由もなく、そのアメリカ兵の発言は一笑に付される。いや、ひょっとしたら遠い日本から魚雷におびえながらようやくフィリピンンにたどり着いた彼ら日本兵にとしては、自らの精神状態を維持するために、一笑に付す以外の選択肢しかなかったかもしれない。
そうこうしながらようやく、マニラを発ち、数日かけてダバオに到着する。途中、ミンダナオの各都市で、その地に赴任する兵隊を置いていった。全く経験したことのない土地に急に配属された兵隊はどんな気持ちだっただろうか。その地に立ち続けるために必要な大部分の要素としては、精神力であっただろう。そしてその精神力が限界に達し、自己の中で弾け飛んだとき、それは暴力に変化し、どうしようもない戦争の本質へと進化していく。
東上線の電車に乗り込んだその先が、無数の虱がわき、いつ魚雷で撃沈されるかわからない船であり、その船に乗ってもいつ再び陸にたどり着けるのかわからない無計画な我慢旅行であり、しかもたどり着いた先が、亜熱帯の異人種が住む半密林世界であったとしたら、日本で培ってきた日本の庶民的神経ではやっていけないだろう。
そういったときに、神がかり的な精神論、侍の家系でもない日本人に武士道を押し付けて、神経を膠着麻痺させ、見事に独特の世界観を植えつけていく日本軍部。
そしてそれら押し付けられた世界観の限界がところどころで暴発を重ね、その結果が例えばダバオの日系人社会の破滅であったりした。
この作品(第1巻)は、ダバオに到着した大保たちが、ダバオで親切な現地の人々と出会い、交流が始まるところで終わり、第2巻以降に続く。
揺るぐことのない日本の敗戦、という結末は知っているが、そこに至るまでに大保たち日本兵がいかにしてダバオで生きたか、ということを知るためにはやはり第2巻以降は読まねばならない。
しつこいが、もし、この作品の第2巻、第3巻について何かご存知の方は、ご一報いただけるとありがたい。
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書評:『旋風のダバオ(第1巻)』(非売品)A[2008年03月14日(金)]
書評:『旋風のダバオ(第1巻)』(非売品)A
著者・発行者:大久保福市郎
この本の主人公は、第2次世界大戦中頃にフィリピン、ダバオに向かう一日本兵である。なので、フィリピンや日本というものを当時の兵隊の視点から描かれている。
日本兵が主人公の書籍に特に多く触れた、というわけでもない私が言うのもおこがましいかもしれないが、この本の主人公は、確かに日本兵なのであるが、それ以上に日本兵に何となくならざるを得なかった一日本人、という当時の一般庶民的な思考がより垣間見えるような気がした。
何かの資料で読んだと記憶しているのだが、戦後になって戦前戦中を生き抜いた方々に、「日本において第2次世界大戦はどのように始まったのか?」という問いに対して、最も多かった答えが「何となく始まった」であったという。
私は、人類史上最悪の結果を生んだこの戦争の原因に対するこの答えに、一瞬愕然としたものを感じたのだが、よくよく考えると、やはり「何となく始まった」が一般論なのかもしれない、とも思った。
何となく始まった、というのは、当時の庶民が圧倒的な時代の流れに反対や賛成を述べる余裕がなかっただけではなく、時代の流れそのものに飲み込まれてしまっていたために、その時代の流れについて是非を問うという感覚が一般社会にほとんど存在していなかったのではないだろうか。
このことは、例えて言うと、最近クールビズなどといって着用が自由化されつつあるが、未だに定着しているネクタイなども、なぜネクタイを締めるとなんとなく身だしなみが整っている、と思われるのかについて、たまにネクタイを締める私ではあるが、論理的に説明を受けたことがなく、未だによくわからない。
そう考えると、襟付きのスーツなどもそうで、なぜ襟付きのスーツの着用によって身だしなみがきちんとしている、ということをアピールできるのか、についても「何となくそう」という答えしか見つけられていない。
しかし、私は必要(相手に不快感を与えてはいけない、という単純な相手への気遣いとともに、不快感を与えることで自分が伝えたいことが伝わらない可能性があり、それは自分にとって不利益を被るため避けなければならない、という利己的欲求達成の場合など)に応じてスーツやネクタイは着用すべきだとは思っている。そして、この「思っている」という感情を実態として示すために「何となくスーツやネクタイを着用している」状態は、ひょっとすると、「何となく戦争が始まり、義務だというので、何となく戦争に参加することになった」という当時の人々の感覚に近いものがあるのではないか、と思ったりもしている(もちろん、スーツ着用と戦争参加の二つの行動の重みは全く異なるので、あくまでも時代の流れの中にある人間の意思の位置、規模、強度などについての考察のみのために二つを比較している)。
私は、人生とは、時代の流れに沿いながらある程度は何となく進んでいけば良いものだ、と漠然と思っているが、その何となく進んでいく過程の中に、殺戮や戦争などが絡んでくると異常事態だとは思っている。
しかし、実際その過程の中に埋没(人によれば邁進と思うかもしれない)していったほんの数十年前の歴史的事実を鑑みたとき、今、殺戮や戦争は「異常」と、短絡的に言い切っている私は、単なる平和ボケした甘っちょろい人間であるだけなのかもしれない。
時代の流れとは、そんな簡単に肯定、否定仕切れるものだけではなく、肯定、否定することすら考えさせる余裕すらないということを意識しながら今の時代の流れを生きることが、まず大切なのかもしれない。
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書評:『旋風のダバオ(第1巻)』(非売品)@[2008年03月12日(水)]
書評:『旋風のダバオ(第1巻)』(非売品)@
著者・発行者:大久保福市郎
印刷者:白井倉之助
四谷にあるPNLSC事務所には、いくつかの書棚があり、その本棚には、戦前戦中のフィリピンと日本の関係を表す書籍や資料が詰め込まれている。これらの多くは、戦前戦中におけるフィリピンの日本社会とはなんだったのか、在比邦人における戦争とはなんだったのか、について戦後から研究をされてきた先人たちが、身を粉にして集めてきたものである。
しかしながら、戦後数十年経ち、人である先人たちは、徐々にこの世から去っていき、資料のみが残され、残された資料は、先人のご家族などの意思などにより、フィリピン日系人支援を行うNPO、フィリピン日系人リーガルサポートセンターに託され、それらが今、書棚に保管されている。よって、この書棚にある先人たちによって集められた資料、書籍には、彼らの魂がこめられている、といっても過言ではない。
その中の一冊が、この『旋風のダバオ(第1巻)』である。
この『旋風のダバオ』は、第1巻の序文を読む限りでは、全3巻ものらしいのだが、PNLSCの書棚におさめられているのは、第1巻のみであり、どういうわけか残りの2巻はない。第1巻の裏表紙には、非売品と書かれているため、一般書店などでは手に入れることは出来ないかと思われる。私は普通、何巻かにわかれている本を読む場合、全巻そろっているのを確認してから第1巻を読み始めるのだが、今回の場合は、『旋風のダバオ』というタイトルと、本を手に持ったとき心地よさを感じさせる、千代田区神田で印刷されたとある上質な紙とカバーに惹かれ、ページをめくりはじめた。
まず、結論だけ述べておくと、この第1巻では、タイトルにある、「旋風」というものは、余り読み取ることが出来ない。恐らく、第2巻以降でタイトルの「旋風」について感じ取ることが出来るのではないか、と思っている。 もし、このブログを読んだ方で、この本の第2巻、第3巻についてご存知の方がおられれば、ご一報いただければありがたい。
しかし、第1巻で「旋風」そのものを読み取ることができなかった、と述べたが、かといって期待はずれの内容であった、というわけではない。むしろ、旋風の予兆を感じさせる、恐らく実体験を元に書かれた(この点もあとがきなどのない第1巻を読むだけでははっきりわからない)、非常に臨場感のある内容であった。
この話は、昭和18年9月に、池袋あたりから志木駅に向かう東上線の電車に乗って、出兵前の軍事技術訓練場に向かう一兵士になろうとする日本人の描写から始まる。この日本人が主人公で、大保福太郎という。
以下、余談だが、この大保が池袋あたりから向かう志木駅は、現在私が住んでいる地域と近いところにあり、そこまでに行く東上線の電車は、私の今住んでいるアパートの最寄り駅も通る。そのためか、志木、東上線という字面を追っただけで、その周辺の様子が目に浮かんだ。
ただし瞬時に浮かんだその様子は、21世紀初頭のものであるので、大保を取り囲んでいる風景へ、文章を読みながらスライドさせていく作業が必要だった。
しかしながらこの作業をしていくなかで、東上線周辺の様子が三次元感覚だけでなく、昭和18年から平成20年までの時空間内における四次元感覚をも抱かせながら私に迫ってきて、ごく自然にこの作品の世界の中に埋没していった。
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書評『ダバオ国の末裔たち〜フィリピン日系棄民〜』A(モノローグより)[2008年03月10日(月)]
フィリピン日系人問題を考えるにおいて、この本は非常に貴重である、ということは前回述べた。この本に出会えたことで、残念ながら生前にお会いすることが出来なかった残留日本人の皆さんの生き様の断片を触れることが出来た。また、この本の中だけでなく、現在もまだ活き活きと活躍され、私のような若造にも丁寧に接してくださる残留日本人の方々の深い歴史的背景も知ることが出来、今後そういう方々に私自身どのように接すればよいのかについて改めて考えさせられる機会も得ることが出来た。そういう意味において、この本の著者である天野洋一氏には感謝に絶えない。
しかし、感謝するがゆえに、この本に描かれている内容の中で、私が疑問を感じることも正直に言わなければならない、と思っているので以下、その点を述べる。
疑問に思うのは、この本のモノローグの章に書かれている。
戦後、日本厚生省の調査団が派遣された際、残留日本人が日本人性を示す書類不足のため日本人であることを受け入れなかったという事実があった。その際、著者の意見は、そのとき、ハギオユキトシ氏を含めた残留日本人が求めていた日本政府の対応としては、書類がないので残留日本人を日本人と認めない、というのではなく、
「かつてあなた方は日本人でした。しかし、現在は違います。」
という一言ではなかったか、という。
この著者の見解について、当時著者からインタビューを受け、意見交換を行ってきていたハギオ氏本人はひょっとしたらそうだったのかもしれない。
現在の私は、著者と比肩できるほど日系人問題について調べ、学んでいる、とはとても言うつもりはないが、にもかかわらず恐れを知らず意見させてもらうとすると、全ての残留日本人が、著者の考える日本政府が発すべき意見を求めているのではない、と思う。
違うも糞もなく、かつて日本人であった人たちは、少なくとも自らそれを否定することがない限り日本人なのである。しかも、自分自身の日本人性を自ら主張しようと努力している残留日本人であるならば、なおさら日本政府はその人が日本人であるということを正式に認めなければならない。そうしなければならなかった。
上の著者の意見と同じページに、ダバオにやってきた日本政府(厚生省)の残留日本人への対応として、
「ぼく(著者)は、日本政府はなにか大きな誤解をしたのではないか、と考えざるを得ない。」
と書いている。このフレーズだけに関しては、私は同意見である。しかし、誤解の意味としては、私は、「書類がないから日本人と認めない、という未だ島国根性丸出しの純鎖国主義的思想を発展性や未来思考など持たずに、ただ単に守っている、日本式お役所スタイルの典型スタイル」のみで残留日本人を捉えようという態度が、戦後日本の血を継いだがために命がけで生きてきた残留日本人を誤解している、ということであり、著者が言う「『かつて日本人、今は違う』と言う言葉を残留日本人のために言うべきだったのではないか(、なのにそう言わなかった)。」という誤解とは異なる。
以上の点に関しては、私は著者の意見にそぐえない。そしてその理由をごく簡単に述べたのだが、この点は、残留日本人支援を行うにおいて非常に重要なところであると思うので、今後もっと「なぜそぐえないのか」、「本当にそぐえないのか」という自問自答を繰り返し、自己の論理を形成していかねばならない、という認識は持っている。
最後に繰り返すようだが、結論としては、この本に出会えたことは今までの私のぎこちなく存在し、絡み合っている浅い知識が円滑に回転するための潤滑油、あるいは知識と知識を連結させ、ある種の良い興奮状態をもたらすシナプスのような役割を果たしている、ということは事実である。
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書評『ダバオ国の末裔たち〜フィリピン日系棄民〜』@[2008年03月07日(金)]
書評『ダバオ国の末裔たち〜フィリピン日系棄民〜』@
著者:天野洋一
出版元:風媒社
発行日:1990年12月15日
この本は、私がPNLSCの職員に採用された直後に、フィリピン日系人問題に取り組むための事前勉強として一度読んでいた。その後、この本の舞台となるフィリピン、ミンダナオ島ダバオへ何度か出張した最近になって読み直すと、また新しい発見が得られるのではないか、と思い、もう一度本を手にとってみた。なので、以下は主に再読後の感想である。
この本は、戦後ダバオに残された残留日本人たちが主な登場人物となっており、その人物たちの多くは、何らかの形で聞いたことのある名前であった。そして、この本が書かれた当時には、まだ生きて実際に著者に証言などをされていた方々が、既に亡くなられている、という現実も知ることが出来た。
1990年に発行されたこの本には、残留日本人に関する情報が、残留日本人へのインタビューなども含めながら実に鮮明かつリアルに描かれている。10数年経って、私のような残留日本人支援に取り組むような人間にとって、このような本は特に貴重な存在である。もし、こういった本が描かれていなかったら、当時の残留日本人の現状、心情、それらを取り囲む環境を今になって断片的であっても理解することは、不可能であっただろう。
これは見方を変えると、現在私たちが行っている活動も、10数年後、あるいはそれ以降の人々にしっかりと伝えるためには、何事か未来の人々に理解してもらえるような物を残さなければならない、とも思わされる。
この本は、残留日本人の中でもハギオユキトシ氏という、元ダバオ日系人会会長の人生史を軸にして構成されている。ハギオ氏の人生、出会った人々、感じたことなどは、この本を実際に一読していただいて、その文章から実際に感じ取っていただいたほうが無難と思われるので、この本に書かれたハギオ氏の人生について、私の意見は特にここに書かない。
ただ私は、このハギオユキトシという人物に生前お会いしたことがなく、(それは時代の流れであり、仕方ない無常の理であるのだが)それについては残念である、と、この本を読んで思わざるを得ない。
と同時に、これから出来る限り「残念」という気持ちを私の中に増やさないために、今を生きる残留日本人の皆さんの未来へ伝えるべき声を出来る限り聴きとっていきたい、と思った。
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あるご老人の話A−4[2008年03月05日(水)]
もう少しこの稿を続ける。
「ご老人を単に敬うこと」、が私の言いたいことではない。
ご老人には、非ご老人と一般的にみなされている我々の世代の日常生活では計り知ることが出来ない独自の経験と視点がある、ということ、それら経験と視点は、単なる過去の記憶などではなく、これからの人類の未来を考えるために必要とされる、実地に基づいた命がけの参考資料であり、それらを用いない術はない、ということを言いたい。
先日、東京の郊外に住む、齢88歳になられるダバオ生まれの男性からお話を伺う機会を得た。この方は戦後、日本で戦前ダバオ生まれの方々が集う会の会長もされた経験もあり、そういった点から、その方から聞きたい話は、その方の生まれた88年前から現在に至るまで、という膨大な時間のものであった。が、今回は、ほんの限られた時間しかなかったので、初対面ということもあり、まず簡単なご挨拶と本当に断片的なその方の半生について軽く触れさせていただいた、という程度であった。
軽く触れただけであったが、その触れるもの触れるものが現代日本では味わえないものばかりであり、新鮮な昔話であった。
戦前ダバオ開拓の父として最も有名なのが、太田恭三郎という兵庫県生まれの人物である。太田恭三郎は、第2次世界大戦が勃発するずいぶん前に亡くなっており、私の感覚では太田は、明治維新後期に活躍した歴史上の人物という認識にほぼ近いのであるが、今日お話を伺ったその方の父は、実際太田恭三郎と行動を共にされた、という。この話を聞くだけで、太田恭三郎という人物が勝手に私の中で一歩身近な存在に近づいた感覚を持った。
太田恭三郎とその方の父との歴史から始まり、戦前のダバオの繁栄、その後戦争によるダバオ日本人社会の壊滅、そして戦後新たなダバオとその方を含むダバオ生まれの日本人との交流について、初対面からわずかな時間で、ものすごい速度の走馬灯のように(しかし雰囲気は穏やかに)話が繰り広げられた。
実際に体験された方から話を聞くのと、書物などで同じような内容の情報を得るのとでは、話もしくは情報に付加される温度が全く異なる。今回、この方から、時には火のように熱く、そして時には氷のように冷たい話を聞くことが出来て本当によかった。今回の話で聞き取れたのはほんの一部に過ぎないので、機会を見つけてまたじっくりお話を伺わせていただきたい、と思った。
東京の郊外で聞くことが出来たこの新鮮な昔話は、繰り返すようであるが単なる昔話ではない。88年間生きてきた一人の人間の半生に降りかかる圧倒的な時代の流れを知ること、その時代の流れの中を生き抜くための方法を知ること、それらの知識は、今後我々の人生に、形は違えど降りかかってくる大きな時代の流れをどのように分析し、その時代の中で自分自身をどのように生かすかについて考えるための大きなヒントとなる。
そろそろ結論にするが、ご老人の話を聞くことが出来ない、非ご老人たちは、時代の流れに流されやすく、善悪は別にして「歴史は繰り返される」という慣用句を無意識のうちに実行する存在になりやすい、といえるだろう。歴史の繰り返し事態は、私はその歴史が素晴らしいものである、と思えるものであれば繰り返すことは是であると思うが、少なくとも繰り返すことを手助けする立場にいられるのであれば、その手助けを無意識で行うのではなく、意識的に行える立場でいたい。
そのためにも、ご老人の意見は、私にとって重要である。あるいは、私以外の非ご老人と呼ばれる人々にとっても重要である、と感じていただけたら幸いである。
また、少しそれたようなので、この辺で終わる。
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