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フィリピン日系人リーガルサポートセンター

NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(通称PNLSC)は、フィリピン日系人、とりわけ太平洋戦争とそれに続く混乱により日本人父と死別または離別し、現地に残された二世(残留日本人2世)の法的・社会的支援を目的に発足したNPO(特定非営利活動法人)です。

〒160-0004 新宿区四谷1-21戸田ビル4F
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1世妻への面接A [2008年02月22日(金)]
 ダバオ市の海の近くに、その方は住んでいた。その方は、身元未判明の日本人移民の妻である。今回、その方の家族の身元捜し情報を集めるために面接を行った。

 その方が住む街並みは、ちょっとした迷路のようになっており、しかもその迷路の小道すら埋めんばかりににわか仕込みの建物が道の両脇にひしめくように建っている。耐震強度という言葉は、おそらくこの地には存在しない。

 その方は、今年90歳になるフィリピン人女性で、戦前戦中にかけてダバオにやってきた日本人移民の妻であった人物である。

 その方は、ボホール島に生まれ、1936年頃に、既にミンダナオ島ダバオに移住をしていた親戚をたどり、ダバオに移り住んだ。そして、当時ダバオ市の中心にあった日本人移民が経営する雑貨店の店員として数年間働いた。おそらくその雑貨店には多くの日本人が出入りし、商売のやり取りにはよく日本語が用いられたようで、その方も片言ながら日本語を話すことが出来た。私が日本人だとわかると、戦前に身につけ、その後何十年も(不必要、もしくは、日本語を話すと反比分子だとみなされ危険、という戦後フィリピンの状況下において)封印されていたであろう、口語体の流暢な日本語で話しかけてくれた。断片的ではあるが、その方が話す昭和戦前の日本語を聞きながら、私は半分時代をタイムトリップした気になった。また、何十年も埋まっていた遺跡を発掘した気分にもさせられた。

 話の間にその方は、ダバオでは普通聞くことの出来ないごく自然な日本語で「ここ痛いよ」と、数週間前から急にむくみだしたという左足を私に見せた。確かにその足は、もう片方の足に比べ尋常でないほど大きく腫れ上がっていた。素人の私にはこの症状をなんとも判断しかねるものがあるが、東南アジアでよく見られる象皮病のような寄生虫などによるものではなく、血流の悪さによって生じる鬱血、もしくは水ぶくれのようなものであった。パンパンに膨れ上がった足は、油粘土のように弾力性がなく、見ただけでも痛そうで、しかしながら何もすることが出来ない私は、それを見るだけしかできなかった。

 しかし、その方は、ご自分の足の痛みにこらえながら、私と会話を継続してくれた。日本人夫との出会い、息子の出産、夫との別れなどを時には日本語、時にはビサヤ語、また時には当時フィリピンで公用語の一つであったスペイン語を用いながら、とつとつと、しかしながらその情景が目に浮かんでくるほどの詳しさをもって話してくれた。

 その方と日本人夫との間には、一人息子が生まれているが、その息子は、1977年に既に死亡しているため、その息子の子どもたちと、今回お会いできた一世の妻が現在身元捜しを継続している。

 その方との面接は、約3時間に及んだ。

余談ながら、その間、その方の家族のペットなのかどうかよくわからないが、目やにをたっぷり溜め込んだ雑種の老猫が家のドアの端のほうで寝そべりながら、ずっと私たちを見ているようだったが、目やにが邪魔をしてちゃんと見えていたのかどうかはわからない。

 とにかく、日本人妻であることを確信させるその方の記憶力と日本語、そしてその方の年齢とむくんだ左足が目に焼きついて離れない私は、身元判明を急がねばならない、と焦る。
 
PNLSC事務局(S.S 在東京)
Posted by pnlsc at 09:29 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)
あるご老人の話@ [2008年02月15日(金)]
 「1941年12月8日午前8時からしばらく地震が起きたみたいに地面が揺れた。」

 ダバオ市から約80km離れたコンポステラバレー州のある町に住む、90歳の女性は、そう私に話してくれた。地震の震源は、ダバオ方面から感じた、という。その方は、ダバオにそのとき多くの爆弾が落ちたからだ、という。誰が落とした爆弾かはわからない。

 1941年12月8日は、日本軍による真珠湾攻撃と太平洋戦争の開始の日である。

 ただ、「1941年12月8日午前8時」という、余りにも具体的に記憶されている時間にそういった爆撃がダバオであったのかどうかを裏づける情報、資料があるかどうか少し探してみたのだが、見つからなかった。

  これまで聞いてきた戦争体験者の話では、ほぼ全員が、空襲の日や時間などを瞬時に証言する人はおらず、60年以上も前で、しかも戦争という混乱状態の中、更には時計も今ほど普及していなかった当時のことを想像するに、時間まで記憶できなくても当然だろう、と思っていた。だからこそ、今回このような証言をする90歳の女性の記憶に非常に興味を持ち、本当にその年月日のその時間にダバオで爆撃があったのかどうかがわかる資料に出会いたい、と思っている。

 言っておくが、この女性の証言が、例えば第3者による資料がみつかり、その情報がぴたりとあっていたとしても、また、多少のずれがあったとしても、その女性に何の損得は生じない。その方は私に、ただ純粋に、記憶に基づく当事の経験を話してくださっただけである。

 杖をついて、ゆっくりとした歩調ではあるが、90年を生き抜いた矍鑠とした雰囲気があり、話し方は明快で、聞いていて心地よい響きである。靴など滅多に履いたことがなく、終始裸足かビーチサンダルを履き続けてできた、大地を踏みしめるのに適した横広の足からも彼女のたくましさを感じる。

 話し終えた後、その方は、道路わきのいつもの場所に座り、いつもどおりに1人でタバコを売る。その全てのタバコは、箱からとりだされ、資本のないフィリピン人の庶民が1本ずつ気軽に買えるようにばら売りされている。

 小一時間ほど、その方から離れて周辺の人々に会った後、再びその方がいるタバコ屋(といっても椅子とテーブルとニッパ椰子で出来た日よけとわずかなばら売りのタバコしかないが)に向うと、その方は、机の上に枕を置いて座りながら寝ていた。

 寝ているあいだ、売られているタバコは全く無防備になっているのだが、かといってそれを盗もうという人はいない。そのタバコが欲しい人は、申し訳なさそうにその方を起こして、直接お金を払ってばらになったタバコを欲しい本数だけ(その日の資本に見合う本数だけ)買う。

 このタバコのミクロな売買から、人間関係の真髄が見えるような気がする。

PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)
Posted by pnlsc at 20:56 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)
1世妻への面接@ [2008年02月12日(火)]
 稀にだが、1世の妻が生きている、というケースがある。
 
 そしてその場合、多くの方々が、80歳代後半、もしくは90歳代に突入している。

 一世妻が生存している、ある新たな身元判明のケースで、身元判明告知を家族にしたその日が1世妻の90歳の誕生日だったことがある。誕生日にあわせて判明告知をするなど全く考えてもいなかったのだが、偶然そうなって驚いた。

 戦中戦後のどさくさで、父の日本人性を証明するような証拠は全て焼失し、物質的証拠を何も持たずともずっと身元調査を継続してきた家族であった。証拠がないため時には、自分が日系人である、ということを疑いの目で見られることもあった。

 父が去ったとき、数歳だった2世自身は、当然とも言うべきだが、父の記憶というものはほとんどない。

 しかし、2世を産んだ1世妻は、戦後60年以上たっても当時のことを鮮明に記憶していた。聞き取れば聞き取るほど、フィリピンでの1世の像が浮かんでくる見事な記憶力であった。

 彼女の記憶を汲み取るだけでなく、その記憶をあらゆる角度から分析調査を進めていく中で、今回の身元判明に繋がったというのは事実ではある。しかしながら、元をただせば、やはりその1世妻の存在がなければ、まず、この家族の身元判明への道はほぼ途絶えていたのではないか、というのは過言ではない。

 戦後から63年もたち、今後時間的にも更に不利になってくる未だ身元判明にたどりつけていない家族にも、1世妻から得る情報を糸口に、判明に繋がる可能性のある家族はいるはずである。

 それを強く信じ、そして時間との戦いであるため、急がなければならない。

PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)
Posted by pnlsc at 22:22 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)
賓多産拓殖 [2008年02月10日(日)]
 当時、ピンダサンにあったアバカ栽培会社の名は、ピンダサン拓殖会社、漢字だと賓多産拓殖会社と書くらしい。

 私は、この賓多産拓殖をもっと知りたいと思っているのだが、今のところこれといった資料が見つからない。この会社、もしくは会社に属していた日本人について知ることで、ピンダサンで生まれ育った身元未判明のある日系人の運命が大きく開かれる可能性があるので、なんとかそれを知る手段はないか、とわずかな情報でも拾おうと暗中模索している。

 ピンダサンに住むご老人の話などを聞く限りでは、1934年前後に賓多産拓殖会社設立のために複数の日本人がピンダサンを訪れ、ジャングルを切り拓きはじめたらしいが、その点も聞き伝えの情報だけで、資料というかたちでの情報は得ていない。

 その後、賓多産拓殖は事業を拡大させていき、前々回のブログで掲載したような2階建ての事務所などを持つようにもなった。また、日本人移民だけでは生産が追いつかないため、セブ島などからフィリピン人を呼び、労働者として雇った。

 賓多産拓殖の旧事務所は海に近いところにある。畑で採れたアバカを事務所周辺にあった工場で加工し、その後加工されたアバカの繊維を海を伝って国際港となっているダバオへ運んでいたのであろう。

 ピンダサンをぐるりと歩く時間は取れなかったが、ある箇所から概観を眺めたとき、余り平地の少ないところだと感じた。

 私が以前、ダバオ市郊外にあるシリブで見たアバカは、町から山を一つ越えたところにあったが、アバカと言うものはある程度の斜面でも生育するものなのだったのだろうか。

 数時間の滞在、その間半分以上は戦前戦中を生きてきたご老人との面接だったので、ゆっくりとピンダサンの全容を見る機会がなかったが、出会った人々の話や、残っている建物、その周辺の雰囲気などから、日本人移民の空気をわずかながらにでも感じることが出来た。
 
 やはり、次は、賓多産拓殖とは何だったのか、そこで生きた日本人は具体的にどういった人々であったのかについて、知る機会を持ちたい。

 何か賓多産拓殖について情報をもたれている方は、ご一報いただけたら幸いです。

PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)


Posted by pnlsc at 22:10 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)
ピンダサンにて [2008年02月09日(土)]
 ピンダサンにて、90歳になろうとするフィリピン人女性から話を聞いた。その女性は、1937年くらいにセブ島から、ミンダナオ島ピンダサンに来たと言う。

 当時、ミンダナオ島は、一大アバカ(マニラ麻)の産地として、周辺のフィリピンの島々に住むフィリピン人をミンダナオ島に呼び、移住させ、アバカプランテーションで働かせた。ピンダサンにも多くのフィリピン人が訪れ、私が聞いた限りでは、セブ島出身者が多かった。

 いつかのブログで書いたかと思うが、ある日系2世の話によると、ミンダナオ島は本来、バゴボ族など民族によって自己のアイデンティティーを確立させる人間集団によって成立していた。

 そこに、スペイン人、アメリカ人、日本人と呼ばれる資本主義集団が海を渡ってやってきて、近代的社会を形成していった。そして、これら資本主義集団が徐々に多くの被雇用者を必要とする産業機関をミンダナオ島内に構築し始め、それに伴い、ミンダナオ島周辺に住む比較的貨幣経済などに慣れた人々をミンダナオ島に呼び寄せ、雇い始めた。

 1935年前後のセブ島などでは、ミンダナオ島に行けば仕事がたくさんあり、頑張れば頑張るほど自由に土地を得、豊かな生活がおくれる、というような宣伝が流れ、その宣伝に乗ってミンダナオ島行きの船に飛び乗る人々がたくさんいたという。そういった、ミンダナオ島以外のフィリピンの島々からやってきた人々がいわゆるミンダナオ島内において「フィリピン人」と呼ばれていた。

 そう考えると、ミンダナオ島におけるフィリピン人の歴史、というものはここ100年あるかないか、というほどである。つまり、ミンダナオ島の歴史の本質的なところを探ろうとするならば、国民という観点以上に、民族という観点により重きを置いて見たほうが良いのかもしれない。

 例えば、ミンダナオ島の少数民族の一つであるマノボ族は、本来「マノボ」と言う言葉が彼らの言語では「人間」という意味をなしており、その世界観は、現在我々が二足歩行で火と道具を使う動物全てを「人間」と定義している感覚とは大きく異なる。

 その認識の相違においてどちらがより正しいと言うものはなく、それぞれの定義が異なるという事実を冷静に俯瞰的に認識することで、今現在ある自分の価値観がいかに普遍的なものではなく、大きな社会に従うように流動的であることを知る。

PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)
Posted by pnlsc at 22:58 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)
ピンダサン [2008年02月03日(日)]
 先日、ピンダサンというダバオ市から約80キロ離れた町を訪れた。ディーゼルエンジンの乗用車だとダバオ市内からピンダサンまで片道約5リットル消費する。ディーゼルガソリン(フィリピンではディーゾリンと呼ばれている)は、1リットルが現在39ペソ(約100円)ほどなので、片道約200ペソかかる。

 ピンダサンは、コンポステラバレー州(通称コンバル州)にある小さな町である。

 ピンダサンという地名は、ビサヤ語の「搾り取る」という意味に近い、という話を地元の人から聞いた。何を搾り取るのかについて、この「ピンダサン」という単語からはわからない。ただ、説はある。

 ピンダサンは、戦前、日本人移民が多く入植した地域の一つで、その移民たちは、そこでアバカ(マニラ麻)栽培の農地を開拓し、ピンダサン拓殖会社が作られ、栽培したアバカを繊維に加工する工場を設けた。

 工場に運ばれた茎葉がバナナのそれと酷似している大量のアバカは、ハゴタンと呼ばれる機械によって徐々に繊維化されていくのだが、そのなかでアバカが搾り出される過程がある。ピンダサンの地名の由来とは、そのアバカが搾り出される過程から付けられた、というのが、主な説とされている。

 今は、アバカ栽培など跡形も無く、アバカに似たバナナ畑が転々と見られるくらいであるが、当時ピンダサンのアバカ工場の中心地にあったピンダサン拓殖の事務所は残っていた。今はその建物は事務所ではなく、フィリピン人の住居となっている。


<ピンダサン拓殖会社の旧事務所>


 大きさはそれほどでもないが、以前ダリアオで見た、旧古川拓殖の事務所とよく似たつくりになっており、日本人たちがそこにいた、という事実を充分に想像させてくれた。外付けになっている木製の階段は、腐りきっていて2階に上がることができなかった。建物の老朽化に侘しさを感じるのと同時に、そのようにかなり傷みが激しくなっている住居にフィリピン人家族が住んでいる事実、というのもこの国ならではの風景である、とも思った。


<旧事務所裏手にある外付けの傷みきった階段。>


 ピンダサンは、当て字の漢字表記もあり、賓多産と書く。フィリピンを漢字に当てると「比律賓」と書くのだが、ピンダサンの「ピン」 は比律賓の「賓」、「フィリピンで多くアバカを生産する」、くらいの意味合いを含ませた当て字だったのかもしれない。

 ミンタルの民多留(太田恭三郎たちが作ったとされる当て字。民が多く留まる、という意味。)と似た印象を持った。

PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)
Posted by pnlsc at 22:08 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)
『山の兵隊― 一学生兵の手記』 [2008年01月30日(水)]

年末年始、日本に一時帰国中、身元未判明の日系人の父親探しの手がかりを得るため、太平洋戦争に学徒兵としてフィリピンへ出征を強いられ、セブ、レイテ(近くの島)山中でのゲリラ戦を体験された方からお話を伺う機会を得た。

この地域に残された残留日本人の存在についても、以前からご存知で、30年程前の訪比のさい、船上で出会ったという日系2世Rさんのことは、親身になって身元捜しに尽力されたこともある。その意味で、実は、私たちの大先輩といえる方だった。(Rさんは両親が非婚のため未だ日本国籍を取得できない)

戦後、生き残った元軍人やご遺族が、かつて戦闘に従事した土地を戦没者慰霊に訪れる例は多くあるが、この方が戦後関わってこられた「リロアン会」は、単に、かの地に碑を建て、自分たちだけで慰霊祭を行うといった「後ろ向きの会」ではなく、戦争中に駐屯した町と和解し、友好親善に努めてきた「前向き」の会であるという。かつて闘ったフィリピンゲリラの1人が、戦後、町の町長になっていたが、戦後はすっかり友達になり、資金を集めて、部隊の駐屯地跡に町営の施設建設を援助したり、町の教会のマリア像を寄贈したりしてきた。
部隊史を記録に残すなど活発に活動してきたが、多くのお仲間が鬼籍に入るようになっため、昨年解散したという。

正直にいうと、かつて殺しあった者どうし(仲間を殺されあった者どうし)が、そんなに簡単に和解できるものなのか、話を聞いたときは少々とまどいさえ覚えた。が、この方が私家版として著された書籍『山の兵隊ー 比島より生還せる一学生兵の手記』を読んで、納得した。
「交流を重ねる中で、彼らの事情もだんだんわかってきた」と、正直に書いておられるが、それよりまして、ああ、そうなんだ、と気づかされたのは、日本軍を構成していた多くの人びとも、日本各地の職場から、大学から、駆り出され、「戦線離脱は許されず」「敵前逃亡ならず」の論理で動かされていた、実は普通の人たちなのだーということだった(だからといって日本が加害責任を免れるというわけではないが)。
敗残兵となって山中を逃げ回り、終戦も知らず数人の仲間と「友軍を見つけて合流し、戦線に復帰する」つもりでいたとき、村人に見つかり、ゲリラに通報され、射ち合いになった。ひとりになり、殺されかかった最後の最後、英語で話しかけ、言葉を交わし、終戦を知る。その夜はそのゲリラの農民一家の家に泊めてもらい、ご飯を食べさせてもらい、翌日、米軍キャンプまで案内してもらって投降。「個人で話せば、こんなにいい人なのに」という想いを、そのとき強くされたという。

数十年後にそのゲリラだった人とその家族に再会、最後まで一緒だった戦友を撃ったゲリラ本人に、「あのとき、何故撃った」と尋ねたところ、「逃げたから撃った」が答えだったという。
いかに戦争が無意味なものかを象徴するようなやりとりである。

個人対個人の出会いや対話を否定するところに、友愛も平和もないが、逆にいえば、そのような個人対個人の対話、友情、出会いを大切にしていくことこそ、平和構築の第一歩というか、ひとつの希望であるように感じた。それなしには国どうしの友好も友情もないだろう。

戦争中、日本人移民1世やその家族たちが、フィリピン人との友情のゆえにいかに苦しんだかについても、思いをはせずにはいられなかった。

残留日本人とその子孫である日系人、フィリピン人(米軍に協力したフィリピン人ゲリラ、あるいはそれとまったく逆の立場の、日本軍協力者)、日本の元軍人、兵士(およびそれに連なる我々日本人)が、無意味に殺し殺されあったこの歴史を忘れることなく、3者が和解するような、「前向き」な未来構築を考え、実践していくことが、私たちの責任であると感じる。

また、国や組織が1つの方向を向いて進んでいるとき、それに異論を感じなくなる、一種麻痺させられてしまうその状態については、かつてあった遠い出来事、といってはいられないような気がして、ご自身の体験をこのようにつぶさにリアルに書き残してくださった著者に、感謝せずにはいられない。ありがとうございます。
(事務局員 K.I  在マニラ)
 
Posted by pnlsc at 13:44 | 事務局便り | この記事のURL | コメント(0)
重婚A [2008年01月26日(土)]

 フィリピンへ移住した日本人移民の一部に存在する重婚ケースについて考えることは、どのような移民社会がフィリピンでつくられたかについて考える上でも興味深い視点であると思う。

 日本人ではないが、戦前ダバオ中心部で巨大な勢力を誇っていた、ダトゥ バゴというバゴボ族の酋長には、複数の妻がいたという話はよく聞く。一説によると、ダトゥ バゴには30人も妻(もしくは妾)がおり、たまにその妻と子どもたちをつれて街中を練り歩いていた、という(ブログ:ハラナで誕生会[2007年09月06日(木)]参照)。実に、ダトゥ バゴの妻の数は、明治天皇の正室(1人)+側室(5人)=計6人の5倍である。

 今のダバオ市中心部の近代的な街並みからは想像できないような世界がつい数十年前に展開されていた、ということをダトゥ バゴ家族の壮大なエピソードから測り知ることが出来る。

 酋長であったダトゥ バゴの家族構成がそのまま一般庶民に当てはめてよいものであるかどうかについては、明治天皇の例から考えても必ずしも適切とは思えない。あくまでも参考例である。

 バゴボ族であるダトゥ バゴとはまた別の社会で、ミンダナオ島にはイスラム教徒も多数おり、彼らの社会は、一夫多妻制であったようである。現在も一夫多妻を認めつつも、フィリピンの国の家族法などの兼ね合い、もしくは個々人の興味の問題もあり、余り一夫多妻の家族はいないようである。

 日本人移民の重婚のケースが比較的多いのは、このイスラム教徒の地域に移住した人々である。聞いた限りでは、その地域に移住した日本人で、3人の妻と一つ屋根の下に住み、総勢10数名の子(2世)がいた、という例がある。

 当時は、そうやって一夫多妻制が認められていて、それでよかったのだろう。が、今は重婚、社会の解釈の違いで子の立場が随分変わる。立場が変わる、特に一夫多妻制という制度に対して否定的に変化する社会システムの影響などで、現代の解釈として、例えば先の3人の妻を持っていた日本人は、受け入れがたい事実として捉えられてしまったりする。

 私は、今のところ、その日本人移民本人のことはさておき、一夫多妻制が許容されていた時代から現在まで生きている、一夫多妻制の家族の一員として生まれた日系2世に対して、否定的なものの見方をされがちになっていることが、気になる。「重婚だから、非嫡出だから・・・」という前置きから出てくる結論は、主に否定的見解である。生まれてきた本人は、別に重婚の親、非嫡出というタイトルを選択して生まれてきたわけではないのに、あたかも「重婚の子、非嫡出子のあなたが問題」という風に解釈される風潮を現代の少なくとも日本社会から強く感じるのは、私だけであろうか。

PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)
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重婚@ [2008年01月24日(木)]

生まれてこの方、今日のブログのタイトルのような言葉に出会ったことがなかったのだが、最近、よくこの言葉に出会う。

 私が少し前に滞在していた、西アフリカ、セネガルでは、国民の8割以上がイスラム教徒で占められている。イスラム教徒は、イスラム法により生活基盤が成り立っている。

 イスラム法では、一夫多妻制が普通であり、1人の夫に複数の妻を持つことが出来る。イスラム法の解釈にもよるらしいが、セネガルにおけるイスラム法によれば、1人の男性が持つことが出来る妻の数は、最多で4人までとなっている。妻は結婚した順番で呼ばれ方がきまり、例えば「彼女は第2夫人の・・・さん」という風になる。一つ屋根の下で複数の妻とその子供たちと一緒に住む家族もいれば、別々の家にそれぞれ妻1人とその子どもが住み、夫がその家々を順繰りにまわる、という家族もいる。一夫一婦制が当たり前だと信じてきた私にとって、セネガルの家族システムは、はじめは理解しがたいものがあったが、そういった社会の中で生活していくうえで、徐々に慣れていき、最終的には、こういう社会があってもいいのかな、と思うようにもなった。

 そう思った理由は、全ての家族が、ということではないが、多くの一夫多妻の制度をとる家族が、男女問わずそれなりにその社会に満足して生活している様子を見ることができたからである。

 「お前が男だから(一夫多妻制社会もあっても良いのかな、と)そう思うんだ。」と、一夫一婦制絶対主義者にそういわれると、女になった経験のない私はなんとも言うことができないのだが、そう思っているのは事実である。ただし、そう思うようになったのは、セネガルで過し、老若男女問わずセネガルの人々と接し、交流を重ねたからである。ちなみに、一夫一婦制社会は否定しないが、実際に私が複数の妻を持ちたいかどうか、と聞かれたら、今のところそれは自分自身が大変になりそうなので、複数は遠慮したいと思っている。

 このようなセネガルの一般的社会システムは、いわゆる重婚(ただし、男性が複数と女性と結婚するということであり、その逆は無い)を許容する社会である。

 対して、現代の日本やフィリピンでは重婚は禁止されている。結婚していて更にどうしても別の異性とも結婚生活と等しいような日々を送っていたとしても、その異性とは婚姻関係に無く、いわゆる愛人関係として捉えられる。愛人同士でも子どもが生まれることがあり、その場合生まれた子供は、婚姻関係のない男女の間に生まれた子なので、非嫡出子となる。非嫡出子となっている子と、嫡出子となっている子の違いは云々・・・、とこれ以上は複雑なので、中途半端な知識で間違ったことを書いてしまわないように、これくらいでやめておく。
 
 この重婚という言葉を生まれてから20年以上全く聞くことがなく過してきたのに、フィリピンで日本人移民の実態調査をする際、重婚のケースがたまにだが存在し、割合で言えば少ないのだが、私の人生の中では今が最も数多くこの言葉に出会っている。

PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)
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コトコンサートA [2008年01月23日(水)]
 


<コトコンサートの観客(コンサートそのものは撮影禁止ということだったので残念ながら紹介できません)>

 プログラムは3部に分かれてあり、第1部は戦前から親しまれている日本の民謡や童謡、第2部は本格的な琴のために作られた楽曲、第3部は戦後の西洋の懐メロを琴でアレンジして演奏する、というものであった。

 ここはフィリピン、3部の中で最も盛り上がったのはやはりフィリピン人に最もなじみの深い楽曲が奏でられた第3部であった。

 第3部では、ビートルズ、カーペンターズなどフィリピン国内のラジオやテレビでししょっちゅう聴くことが出来る音楽である。会場の聴衆は、演奏が始まると同時に、琴が奏でる西洋懐メロにあわせて歌いだし、会場はちょっとしたカラオケ状態になった。琴に合わせて歌うなんてことは、楽曲がどうであれちょっと日本では想像できない。演奏後には、観客から指笛もならされたりして、このコンサートを楽しんでいるという雰囲気がありありと感じられた。

 実は、私もカーペンターズの『トップオブザワールド』が演奏されたとき、ちょっと歌ってしまった。この曲はちょっと思い出深いものになっていて、数年前私がミンドロ島でマンニャン族奨学生と一緒に住んでいたころ、彼らと一緒に歌っていた歌である。厳密に言えば、歌わせていた。

 当時一緒に住んでいたマンニャン族奨学生は、彼らが住んでいる山村からフィリピン人が開拓した海岸線上の町に設置された私たちの寮に共同生活し、フィリピンの普通小学校に通っていた。マンニャン語とフィリピンの学校で通常用いられているフィリピノ語は多くの相違点があり、文化も異なり、しかもフィリピン人はマンニャン族を差別する傾向もあり、そういった中で彼らが学校に通い続ける、というのは並大抵のことではなかった。地元の小学校に何も考えることなくアホ丸出しで通っていた私のような境遇とはわけが違っていた。そのせいでせっかく学業の意志があるのにもかかわらず、フィリピン人のクラスメートと揉め事を起こしたり、いじめを受けたりしてドロップアウトする奨学生は、少なくなかった。

 どのようにすれば、彼らがフィリピン人の子供たちともうまく、強く付き合っていけるのかと考えた。そのとき思いついたいくつかのアイデアのうちの一つが、歌を歌うことであった。大声で歌を歌う、風に向って歌を歌い続けることで、心を明るくし、異文化社会でも負けない人間になってもらいたい、マンニャン語ではない詩の歌を歌うことでついでに多言語にも強くなる人間になってもらいたい、と思った。その際に選曲された歌が、『トップオブザワールド』であった。別にこの曲でなくてもよかったのだが、手元にたまたま歌詞カードがあったのでそれにした。

 学校が終わって、食事の前に皆で毎日歌った。100日くらい歌った。そしたら皆その歌を覚えた。その歌を覚えた彼らは歌うことに自信を持ち、次に歌いたい曲を自分達で選び始めた。それから先は、私は彼らの意思に従うような感じで後ろに立ちながら一緒に新曲を歌い続けていった。歌を歌っただけが原因ではないが、徐々に彼らは強くなり、学校でも負けなくなっていった。そういう風に過した日々を今回演奏された『トップオブザワールド』を聴いてふと思い出したとき、既に自然に口ずさんでいた。琴に合わせて歌う、という日本では余り考えられないことをフィリピン人がやっている、と先に述べたが、実は自分もその中の一人であったということは、ここで告白しておく。

 一番盛り上がったのは第3部だが、他の第一部も二部も素晴らしかった。一部に演奏された『ふるさと』は、ダバオ日系人会に属する日系人が老若男女問わずよく歌う歌で、特に戦前にこの歌を学び、今でも朗々と歌い続けている日系2世によって歌われる『ふるさと』は、骨身に染みるものがある。今回のコンサートにも多くの日系2世が聴きに来ており、彼らとその他の日系人会の皆さんは、フィリピン人ののりさながらで琴の演奏にあわせ『ふるさと』を歌い始めた。感慨深いものがあった。勝手ながら当時の移民社会の平和な様子が、私の脳裏に漠然と浮かび上がってくるのを感じた。

 気持ちのよいコンサートであった。

PNLSC事務局(S.S 在ダバオ)

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