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息を吸うためには、息を吐かなければいけない。 [2011年09月07日(Wed)]
 連載コラム「閉塞感を突き抜けて」の続きです。

 考えてみると、何事もそうですね。
 何かを手に入れようとすれば、何かを棄てなくてはいけない。
 新しい生き方を実践するには、古い生き方から脱却しなければならない。
 未来を掴むためには、過去を手放さないといけない。

 それは、息を吸うためには息を吐かなければいけないようなものですね。
 息を吸うばかりで吐くことをしなければ、すぐに息を吸うこともできなくなってしまいます。息を吐くことによってこそ、新しい空気が肺の中に入ってくるのです。
 しかも、息はできるだけ大きく吐いた方がいいのです。
街の灯りから離れてこそ・・・ [2011年08月18日(Thu)]
 例えば、夜空に輝くたくさんの星を仰ぎ見ようとするならば、もちろん、街の灯りのまぶしさからは遠ざからなければならないでしょう。
 霊的な声に耳を澄ませたければ、やはり騒々しさのない静寂な場所を求めるべきでしょう。
 自然に親しみ自然と一体感を持つためには、人工的な生活環境とは一定の距離を保つ必要があるでしょう。
 本当の自分の意志を貫くためには、過剰な情報の洪水からの脱出を決然として果たさなければならないでしょう。
昨日を棄て去ることなくして、明日を掴むことはできない。 [2011年08月14日(Sun)]
 あのドラッカーも、「棄てることが大事だ」と言っています。

 「イノベーションのための戦略を成功させるためには、機能しなくなったもの、貢献しなくなったもの、役に立たなくなったものを廃棄するシステムが必要である。
 (中略)
 これを行わないかぎり、いかなる組織といえども、肥大化の挙げ句、重要な資源を成果の望みえないところへ注ぎ続けることになる」
                            (「非営利組織の経営」)


 「昨日を棄てることなくして、明日を作ることはできない」
                            (「明日を支配するもの」)
自然はいつもぼくたちに豊かに語りかけているのに・・・ [2011年08月10日(Wed)]
 もちろん、テレビを見るか見ないかというだけの問題ではありません。
 ちなみにソローによれば、(彼の時代にはテレビはなかったのですが)「新聞を毎日読むことさえも過剰」なのだそうです。そんなことをしなければ、自然はぼくたちに多くのことを語りかけてくれるだろうと言っています。

時間を創り出すためには・・・ [2011年08月06日(Sat)]
 暫く連載が中断していましたが、決してネタ切れになったわけではありません。ぼちぼち再開したいと思います。

 さて、それでは一体どうすれば、ぼくたちは自然な感覚を保ち続けることができるのでしょうか?

 ソローによれば、そのためには自然と実際に触れ合い、自然を体感する時間を毎日欠かさず確保しなければならないのですが、そんなことを言うときっと、多くの人は「だって、忙しいんだもの」と思うかもしれません。

 別にそれがウソだとは思わないのですけれど、でもぼくは、「忙しいから私はまったくテレビを見ません」という人にはほとんど会ったことがないのです。ちなみに、ぼくの家には(下川にも旭川にも)テレビはありません。テレビを見る暇がないほど自分が忙しいとは感じませんが、自分の生活の中でテレビ視聴のために犠牲にしてもいいような時間はあまりないなあと思います。

 というわけで、「何を付け加えるか」よりも「何をやめるか」を考えることが必要で、さらに考えるよりも実践することが重要であるような気がします。
ぼくらが毎日ご飯を食べるように・・・ [2011年05月08日(Sun)]
 ソローは、「もしも時間の余裕ができたら、たまにはこういうのもいいかもよ」と言っているのではありません。「忙しい日常の中でふと気が向いたならば、もしかすると癒し効果があるかもよ」と言っているのでもありません。
 「毎日、自然の姿を見て、自然の中にいる自分を感じるということは、人間が人間らしく健全でいるために不可欠なのだ」と断言しているのです。

 これは、とても大切なことだと思います。

 ぼくたちは、自分が食事をしなければ生きていけないことはよく知っているのに、水を飲まなければ生きていけないことも知っているのに、睡眠を摂らないと生きていけないことも知っているのに、呼吸しないと生きていけないことも知っているのに、つまり、自分が自然の摂理に従わなければ生きていけない生命体であることを知っているのに、どうして自分の精神だけは自然から独立した存在で、あたかも自然から切り離されても調和を保ち、活動しうるものだと考えることができるのでしょうか?
 なぜ、喧騒と慌しさの中で、自然と隔絶された日常生活を送りながら、人間の精神が生き続けられると考えることができるのでしょうか?
ソローに聞こう [2011年05月02日(Mon)]
 「森の生活」の著者、ソローはこのように言っています。


 「太陽が毎日昇ったり沈んだりするところを実際に見て、みずからを宇宙の事実と関連づけるようにすれば、われわれはいつまでも正気を失わないでいることができるだろう」
                       (「原則のない生活」)


 つまり、日の出日の入りを毎日実際に見ること、そして自分と宇宙とのつながりを意識することが、精神を健やかに保つために不可欠だと言うのです。
ふるさとの山に向かいて [2011年04月19日(Tue)]
 もちろん、星でなくてもいいのです。

 例えば石川啄木は、故郷の山を仰ぎ見てこのように詠じています。


    ふるさとの山に向いて
    言うことなし
    ふるさとの山はありがたきかな


 山を仰ぐも良し、海を望むも良し、広い青空や平原を眺めるのもまた、良いでしょう。
真砂なす、数なき星の、その中に・・・ [2011年04月10日(Sun)]
 さて、カントの話の続きです。

 カントは、満天の星空を見て、きっとそこに自らの心の内に存在する道徳的法則に通じる何かを発見したのです。そして、自らの内なる道徳律が、宇宙に散りばめられた輝く星々と共通の美しく荘厳な普遍性によって貫かれていることを感じたのでしょう。

 星空というのは、確かに人間に何かを感じさせてくれるもののようですね。俳人の正岡子規は、こう歌っています。


  真砂なす数なき星の其中に 吾に向ひて光る星あり


 彼は、星から我に向けてのまなざしを感じたようです。それは、宇宙との一体感、包摂感、宇宙の中における安らぎ、というようなものであったのかもしれません。
思念の中で彷徨い、閉塞に陥るよりも [2011年03月09日(Wed)]
 まあとにかく、カントは夜の星空を見上げたのです。そして、満天の星空を見て、きっとそこに自らの内なる道徳律に通じる何かを感じたのです。さらに、自分の心の中に存在する道徳的な感覚や意識が、宇宙に散りばめられた輝く星々と共に、美しく荘厳な普遍的法則によって貫かれていることも感じたのでしょう。

 決して、頭の中だけで考えたのではないのです。

 さて、自分の頭の中だけでいくら考えても、自分自身は見えてこない。自分の問題は明らかになってこない。自分の進むべき道も開けてこない。そういうことは、確かによくあるような気がします。

 自分の思考の中にひたすらそれを探すよりもむしろ、自分を超えた大きな世界の中に自分の求めているものや自分と通じるものを見出せる。あるいは、自分の中にあるものと同一の本質を実感できる。そういうことも、あるのかもしれませんよ。
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