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ペルーちゃんぷるー
日系ペルー人と私のちゃんぷるな毎日を書いています。
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ミサによせて[2007年03月15日(木)]
10日の日曜日は、イグナチオ教会で開かれているスペイン語のミサに行った。
私は時々、思い立ったときだけ教会に行き、祈ることがある。しかし、家のペルー人は教会とはまったく無縁の人だ。
その彼が、日曜日に教会に行こうと言い出した。

ミサが始まると、家のペルー人が「信じられない」と小声でつぶやいた。
その理由は、ミサのときの説教だった。ルカによる福音第15章第17節〜第24節は、たとえ話としても有名だから、クリスチャンでない人も知っているかもしれない。
家を飛び出た息子が、放蕩の末家に戻ってくるのだが、父や神にあわす顔がないので、息子と呼ばれる資格はないから、一介の雇い人にしてほしいと願い出る話だ。
社会的な交流の必要に迫られないかぎり、教会に行くことがなかった家のペルー人にとって、自ら教会に赴いたのは、記憶の限りないのだという。
だから、この説教は、まるで自分のことを言っているように感じたらしい。

説教には、「許し」というのもあった。
マルティネス神父様に、家のペルー人が抱えていた問題について相談したとき、ノートのページを新しくめくってしまいましょうと言ったことがある。
「許す」というのは、本当に難しい。それができれば、幸せが訪れると説教は続くが、私も彼もできずにいる。

司祭が、今週亡くなった人たちの名前を読み上げた。一番最初にマルティネス神父様の名前があった。その後にペテロ某さんや、マリア某さんの名前も続く。
私は祈るとき、イエスの顔(といっても、知らないけれど)や十字架を浮かべることがない。私の中で、神様は光でしかない。
でも、これからはいつもマルティネス神父様のことを考えると思う。

うしろに座っていたコロンビア人姉妹が「なんで日本人カップルがスペイン語のミサにいるのかしらね」と言っているのが聞こえた。彼の容貌を見ればスペイン語が母国語だとは、想像できないのも無理はない。
ミサの内容はよくわからないけれど、a diosというのは、何度も聞いた。to Godの意味だ。

ミサの後は、通り雨だった。
駅に向かうと、道端で血だらけの手を眺めながら、座り込んでいるホームレスの人がいた。
教会の帰りのせいか、数人が空き缶にコインを入れていた。
マルティネス神父のお通夜のとき、「マルティネス神父様にはそのときがきたのです」とミサを執り行った司祭様が話していた。
だから、私たちはそのときがいつきてもいいように、後悔なく精一杯生きなくてはいけないと。

ぼろぼろのズボンをはき、鮮血が流れる手を見つめているやせ細った彼は、そのときのために、精一杯生きているのだろうか。もしも、今そのときを待つまでの希望がないのだとしたら、彼の手を取り大丈夫なのとたずねる人がいなければ、そのときをどんな気持ちで待てというのだろうか。
雨の後は急に空気が冷えてしまい、道を歩く人はコートの衿を合わせていた。
死を待つのと、そのときをまつのでは、意味が違う。

私たちは、マルティネス神父様と最後に会ったときのことを話した。
あの日、神父様は、電話をかけてきてすぐに神学院に来るようにと言っていた。
二人で行くと、また神父様にお金を使わせてしまうので、私は仕事を理由に家のペルー人に、一人でいってほしいと頼んだ。
ところが、神父様は、絶対に二人でくるようにと言っているというのだ。
なんでもPCが壊れてこまっているから、直してほしいとのことだった。

神学館につくと、私は神父様のお部屋には入れないので、応接間で待たせてもらうつもりだった。しかし、そのときは神父様が部屋に招きいれてくださったのだ。
確か、以前は上のほうにお住まいだったのだと思う。しかし通されたのは1階だった。
足が悪くなったからかなと漠然と想像していた。

神父様のお部屋にあるPCは、最新のものだったし、彼がいうのPCの症状はそう壊れているのとは違うものだった。しばらくおしゃべりをしたあと、神父様が、今日は夕方から人と会う約束をしているから、夕飯を一緒に食べられないからと、私たちにお金を下さった。
もらうわけには、いかないと言えば、これは神様の命令だと笑っていた。

神父様が、電話で介助の人を呼ぶと、車椅子を押して神父様を玄関まで迎えにきたのだった。私はその後をついていき、外に出た。
玄関にくると、家のペルー人に部屋に本を忘れたから、取りにいってくれと神父様が言った。
あわてて引き返す彼に、神父様は「アディオス!!」と声をかけた。
私は、神父様にキスをし、手を握って別れを告げた。彼がなんども手を振り、神学院迎えにある、引退した神父様たちの介護施設へと行くのを見送ったのだった。

それが最後の別れだ。

それから1週間もたたないうちに、神父様は入院をしたのだと最近になって教えられた。
二度目の入院は、3月7日を予定していたけれど、神父様はたいそう嫌がっていたらしい。
入院の当日に亡くなるというのも、因果なものだと思う。
お正月明けには、もう一人では起き上がれないほど体が弱っていたと聞いた。

家のペルー人が、マルティネス神父様は、あの日元気な自分の姿だけを覚えて欲しかったのだと言った。
なによりもエネルギッシュな神父様は、思うように動けなくなったあと気落ちが激しかったらしい。もしも弱った姿の自分が、私たちにとって最後の姿になったら、なにもできない自分たちを責めるのではないかと、神父様は考えたのではないかとも言う。

招き入れてもらった部屋は、あまりにも整理され、人の気配がなかった。
机の上には、封のあいていないマルボロが置かれていた。タバコがすきな神父様なのだから、部屋はタバコくさいはずなのにそれもなかった。

介護施設に入ってしまえば、もう自由には私たちと会えない。
それがわかっていたから、あのとき私たちを呼びつけたのだという、彼の説明は思い返すほどに合点がいく。
おしゃべりな神父様が、私たちの話をただニコニコと聞いているだけだったのも、妙な感じがしていた。

神父様がなくなってから、ふとした瞬間に私の名前を呼ぶ声を思い出していた。

「忠実なよい僕だ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」
カトリックでは、帰天と亡くなることを表現するということを始めて知った。

日本で司祭になった後、ペルーへと渡り40年近く、日系人のために働いてきた人だった。
家のペルー人が生まれたときも、父親がなくなった時のミサも神父様が行っている。
体を壊され、日本に戻ってきた後は、日本で働く日系人や南米出身者のために働いてきた。

宮沢賢治ではないが、
西に困った人がいれば、すぐにその手を差し伸べ、それを惜しまない人だった。それがマルティネス神父様だ。
家のペルー人にとっては、お説教もされることもあったが、神父様が励ましてくれたからこそ、今までくじけそうになっても、仕事を続けてくることができた。

神父様から、家のペルー人に送られた最後のエッセイは、「明日もし自分がいなくなったら」というものだった。
彼は、自分のことをわかっていたのだろうか。

明日いなくなるかどうか、だれにもわからない。
自分の大切な人に、愛しているという気持ちを今日のうちに伝えよう。
それが、彼の最後のメッセージだ。

14日は、神父様が亡くなって7日経つ。
許しあうということをミサで聞いたばかりなのに、喧嘩ばかりしている私たちだ。
気持ちの整理がまだできないまま、仕事への集中力もなくなってしまった。
おろかな私たちは、神父様を失っていろいろなことに気づかされているようだ。

私たちが、もう一度神父様と会えるとき、「よくやった」と褒めてもらえるように、
今自分たちができることを、あきらめないで続けていきたいと思います。
プロフィール


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