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24. 2F展示「眼をそらさないで下さい。これが戦争です」 [2011年12月25日(Sun)]

■常設展示から
「2F展示 戦災孤児、浮浪児たち」
近藤 直美
ピースあいち・メールマガジン[第25号]2011/12/25



 「ピースあいち」に携わって四年半。初めて常設展示室を見た時に、自分の知らなかった事実がこんなに多くあった事に驚きでした。私自身も三才で、母親、生まれて二ヶ月の妹と満州から引き揚げて来ました。

 初めて日本の地を踏んだのは京都舞鶴でした。あの時から六十五年。戦争のない今の平和が続く様に戦争資料館「ピースあいち」に携わっていきたいと思っています。

 常設展示室の 「眼をそらさないで下さい。これが戦争です」 の写真の子供達の眼は何を思い、何を見ていたのか、きっと三才の私もあの様な感情の失われた眼で大きな引揚艦を見ていたのかと。

 戦争の悲惨さと国民の日常生活が、展示物が教えてくれます。是非見てください。
男性の居ない世の中で、子供達に悲しみ、寂しさを感じさせない様に、祖父母、母、女性達が知恵と努力で精一杯、子供達の平安を願って頑張っていた様子が伺えます。

23. 2F展示 「靖国の子−戦争遺児 八巻春夫君」 [2011年12月25日(Sun)]

■常設展示から
「2F展示 「靖国の子−戦争遺児 八巻春夫君」
井戸 早苗
ピースあいち・メールマガジン[第24号]2011/11/25


 私が心ひかれる写真は、戦時下のくらし 出発と帰還「C−3 靖国の子−戦争遺児 八巻春夫君」の写真だ。父は戦死、母も死亡。
 緊張し涙していることさえ忘れた張りつめた顔。低学年の子どもを上京させ、記念品を渡し世論をつくる、その無神経さ、怒りと深い悲しみを感じる。

 私の近くにも これと同じ状況におかれた方もたくさんいる。
 小学3年(国民学校)の時、南方で亡くなった父親の遺骨を伯父さんに伴われ(母は死亡)長女である自分が軍港“呉”まで受けに行った。軍港ちかくに汽車が入ったら窓がしめられ、外がみえないように暗い状況になり怖かった。もらい受けた白い木箱の中は遺骨ではなく石であったと・・・。その心情を思うと涙がとまらなかった私。その後、弟2人は父方、母方の親類へバラバラにもらわれていき、成人してから兄弟の交流が始まった、と聞いた。

 又、両親をなくし、施設におくられ、兄弟、妹と生活し苦労した友人。夫がなくなり、生後すぐの赤子を置いて実家にもどされ成人した時、再会した親子の話。

 自分の幼い時期の体験が重なり、心が痛むのです。

22. 2F展示 「疎開先の覚通寺での授業風景」 −写真が取り持つ“平和活動” [2011年12月25日(Sun)]

■常設展示から
「2F展示 『疎開先の覚通寺での授業風景』
 −写真が取り持つ“平和活動”」
小島 久志
ピースあいち・メールマガジン[第23号]2011/10/25



この写真は「ピースあいち」2階 常設展の第3展示「戦時下のくらし」にある「学童疎開先覚通寺」(三重県員弁町)での授業風景です。

 名古屋市山口国民学校(現 旭丘小学校)6学年男子組(70余名)で 朝のお勤め(正信偈の読経)の後 近藤昇三先生と酒井安正先生の授業が始まります。
 敗戦の前年1944(昭和19)年12月の撮影で 雑魚寝の布団が後方に山積みされています。

 最前列手前から3人目が まさに私 小島久志の童顔です。
 私が「戦争と平和の資料館 ピースあいち」のボランティアに応募し、研修会で出会ったこの写真が「ピースあいち」との関わりを強固にしてくれました。

 この時 戦後60余年 蟠 ( わだかま ) っていた“戦争廃絶の想い”が呼び起こされ 体験語り、展示ガイド、企画展に向けた調査活動などに 活力を与えてくれました。

ピースあいち年末祭 盛況でした! [2011年12月12日(Mon)]

2011年もいよいよ大詰めとなってきました。12月10日(土)に開催された年末祭は穏やかな天候に恵まれ太陽開場前から待ちわびるお客さんの行列ができ、終日賑わいました。


餅つきは大人も子供も楽しそう汗


きな粉と小豆のつきたてホヤホヤのお餅  食べる人たちも順番待ちで大人気まる


恒例のバザーで掘り出し物をゲット笑顔


午後は二胡コンサート チャンビン二胡演奏団9名の演奏会でした
お客さんの二胡演奏体験もありました音符

バザー品提供や当日ご協力いただいた皆様に感謝申し上げます。

寄贈品展は2012年2月18日まで開催しています。どうぞご来館ください。
寄贈品展が始まりました [2011年12月09日(Fri)]

第2回寄贈品展が始まりました。
 ここ数年この時期には所蔵品展を行ってきましたが、今年は「寄贈品展」です。市民のみなさんから寄せられた戦争時代の品々約150点が展示されています。会期の始まりは同じく12月8日です。70年前のこの日にアメリカとの戦争をはじめたのですね。



 1941年12月8日から戦後に至るまでの新聞を綴じたものや、15歳で志願して兵隊になり17歳で戦死した「愛知一中」生徒さんが家族や友人に遺したたくさんの手紙も展示されています。



 会期は来年2月18日(土)までです。
 期間中に「愛知一中志願兵の遺品は語る」のテーマで、弟さんのお話を聞くイベントもあります。1月12日(土)13:30から。
 さらに、明日は毎年恒例の『年末祭』があります。この日は入館無料です。
 バザー(11:00〜14:00)
 餅つき(即売、11:30〜)
 チャン・ビンニ胡演奏団による二胡コンサート(14:30〜15:15)

 たくさんのご来場をお待ちしています。
戦時下の新聞全綴り寄贈を受ける [2011年12月07日(Wed)]

 この度、太平洋戦争勃発の日・昭和16年12月8日から綴られ始め、昭和23年3月1日までの新聞ー全10分冊ーが「ピースあいち」に寄贈されました。
 この新聞の寄贈式が、12月6日(火)の午後「ピースあいち」3F展示室前にて行われ、中日新聞や名古屋テレビなどが取材・収録にきました。
 
 この戦時下の新聞の全綴りの寄贈者は、名古屋市港区にお住いの楠橋資弘氏、この新聞を綴られた方は、祖父の楠橋最火(くすはし ひとひ)さん。この寄贈の橋渡しは、資弘さんの恩師・成田健之介先生(南山大学)です。

   

                    


 この新聞綴りの前半は、大阪毎日新聞(名古屋支店)、昭和20年4月1日からは中部日本新聞(現中日新聞)発行の新聞が綴られ、きちんと製本されています。<最火さんは製本業を営んでいた>
そして、この綴りの冒頭に、楠橋最火さんが毛筆で、「米、英ニ宣戦布告ス」、「子供ノ為ニ保存ス」
と書かれています。最火さんの思いが伝わってきます。 <写真参照>

 成田先生は、「開戦時の号外も含まれ、戦時中の状況や大本営発表に基づいた新聞の姿勢、戦後の民主化から憲法制定の過程が手に取るように読み取れる。・・・戦時中から戦後への時代の移り変わりが伝わってくる。・・・貴重な資料である。」と語られていました。




ワックス掛け [2011年12月06日(Tue)]

11月に予定していたワックス掛けが荒天のために延期となり、12月3日(土)の閉館後に実施しました。日にちを変更したためにポリッシャーを上手に運転する人の都合がつかなくなり
「一体、誰が?」と心配しましたが、「ピースあいち」には幸なことにダレカがいるのです!
曇り空ながら雨も降らず無事に終了。ただ、乾きが悪いために人海戦術で皆、はいつくばって
雑巾掛け。総勢11名の皆さん!ご苦労様でした。   掃除班長兼鬼軍曹





Uさんの奇蹟の戦争体験 [2011年12月02日(Fri)]

                                           11.12.2(金)
 昨日12月1日、東海市の小学校で6年生の児童を相手に戦争体験者の話を聞く平和学習授業があった。
 語り手は名古屋市天白区に住むUさんである。現在97歳の高齢だがしっかりしてみえる。
 すでに30歳になっていた昭和19年6月、二度目の応召で入隊し、7月に下関港から輸送船「扶桑丸」に乗船したが、どこの戦地へ行くのかは知らされなかった。
 扶桑丸は大阪商船所属の大型輸送船(8195トン)だったが、昭和16年陸軍に徴用されたものである。
 台湾の高雄までは平穏な航行だったが、高雄を出航してからは毎日警戒警報が鳴り、7月31日ついに敵の攻撃を受けて沈没、Uさんは海に投げ出されてから数時間の地獄のような体験の後、奇跡的に日本軍の戦艦に救助された。
 多くの犠牲者を出してもなお、Uさんらはマニラに上陸、南方のザンボアンガまで移動して塹壕の構築作業などで数か月を過ごしたという。
 昭和20年5月ごろになって、米艦数十隻が沖合いに集結し艦砲射撃が始まった。その強烈な破壊力にどうすることもできずただ退却するのみであった。
 ジャングルの中を逃げ回りつつ、突撃隊も結成されたがいずれもその後の行方は不明である。飢えと病気との闘いで次から次へと仲間が死んでゆく中、10月頃になってついに米軍の捕虜となった。現地人には罵倒され石を投げられたが、皮肉にも米兵に守られた。そして昭和21年2月復員することができた。
 Uさんは、奇蹟の連続で生還できたが、亡くなった戦友の無念さは計り知れない、戦争はもうあってはならないと訴えられた。
 年が明けると98歳になるというUさんであるが、記憶をたどりながらとつとつと話すその姿と話の内容に心が打たれた。
 約40分間の話を子どもたちは一言の私語もなく真剣に聞いていた。扶桑丸が沈没し、Uさんらが荒波にさまよう様子をUさんが自ら絵にし、それをパワーポイントに仕立てての臨場感にあふれた体験談であった。
 Uさんが結びとした「敗戦後の長い平和は尊いものであり、これからも皆さんに守り続けてもらいたい」という言葉は、子どもたちにも深く伝わったに違いない。
                                                H・T記
三八式歩兵銃の貸与 [2011年12月01日(Thu)]

この度、東京都武蔵村山市で園芸センターを経営されている進藤さんから「ピースあいち」に「三八式歩兵銃」の貸与[1ケ年契約/更新あり]がありました。
 年明けには、常設展示場に設置するよう検討しています。

※三八式歩兵銃
 村田単発銃に代わる小銃として、1905(明治38)年に仮制式し、翌年から本格的に帝国陸軍の制式銃となった。太平洋戦争においても「九九式短小銃」とともに日本軍の主力小銃として長く使用された。

  ◇口 径    6.5o
  ◇全 長    1276o    銃身長  797o
  ◇重 量    3730g     着剣時  4100g
  ◇装弾数    5発
  ◇有効射程   460m