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8. 第2展示「戦争の全体像・15年戦争」ほか [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
第2展示「戦争の全体像・15年戦争」ほか
稲田浩治
ピースあいち・メールマガジン[第8号]2010/7/25



 私も戦争を知らない世代の一人である。「空襲」も「学童疎開」も「灯火管制」も、実際には知らない。だから、ピースあいちに来ると学ぶことばかりである。
 最近最も関心を持って見ているのは、『第2展示 戦争の全体像 15年戦争』である。ここには膨大な情報が詰め込まれていて圧倒されるが、「十五年戦争」を総体として理解するのに、大いに役立っている。
 また、特別展にはさまざまの発見があって、刺激を受けることが多い。例えば、今回の『名古屋空襲を知る〜』では、米軍の資料により爆撃が綿密な計算に基づいて行われていたことなどが明らかにされていた。「学童疎開」についても、「疎開」が元来は軍事用語であることや、その意義が防空体制の足手まといの排除と将来の戦力の温存にあったという指摘には驚愕させられたものである。
 戦争体験をもつ人が減り、日本がアメリカの戦争に関与を深める今日、戦争を学ぶ場として、あるいは平和を発信する拠点として、ピースあいちの存在はますます重要になると思う。微力ではあるけれど何か力になれれば幸いである。
7. ゾウ列車がやってきた [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
ゾウ列車がやってきた
庭山輝男
ピースあいち・メールマガジン[第7号]2010/6/25

※「ゾウ列車…」の展示は2010年8月にリニューアルされ、現在は「戦争と動物たち」として3階に展示されています。写真は現在です。




 6月のある休園日、東海大地震を想定した東山動物園での避難訓練に孫と一緒に参加した。そのおり、アジアゾウ舎のそばの「ゾウ列車」の50周年記念モニュメントが気になった。それは、3月からボランティアとして通いはじめた「戦争と平和の資料館ピースあいち」の2階展示室の出口付近に「ゾウ列車」を語り伝えるためのコーナーがあったからだ。

 「ゾウ列車がやってきた」というコーナーは、「動物たちの苦しみ」「くりかえされた防空演習(1939年頃から)」「ぞうを守った人たち」「戦争がおわった・・・子ども議会のお願い」の4部作になっており、1939年からの動物たちの飼料の確保から始まり、軍の動物たちを殺す命令が出されるなか、「2頭のゾウ」が奇跡的に生きのび、戦後、全国の子ども達が東山動物園にゾウを見にやってくるまでの過程を、当時の新聞記事などを展示して解説・紹介している。

 戦争はいつも弱い者を最大の犠牲者にしている。誰が何と言おうと戦争ほど愚かしく、苦しく、悲しいことはない。
 私の今できることは、明日に生きる子ども達に歴史的事実を伝える環境づくりのお手伝いをするとともに、まずは、15年戦争等の歴史的教訓を正しく受けとめることのできる知識を意図的に吸収することからはじめたい。

東山動物園の「ゾウ列車」モニュメント
6. 靖国の子ども [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
靖国の子ども
杉江加代子
ピースあいち・メールマガジン[第6号]2010/5/25



 「ピースあいち」に行くたびに、一人の人の人生がその意志とは無関係に狂わされてしまう戦争の恐ろしさを痛感します。
 それを私に強く感じさせるパネルの1枚が、かしこまって表彰されている年端もいかぬ少年の写真です。緊張のため固くなった身体、こわばった表情の中の健気さ。父は戦死、母も亡くし、ひとりぼっちになり不安で泣きたい気持ちであったろうに、周囲の大人に「靖国の子どもだろう」と叱咤激励されて壇上に上ったのかもしれない。
 親戚に預けられたか施設に入れられたか、やがてこの少年も赤紙がきて戦争に送られたかもしれない。無事に生きて戻れただろうか等々、戦前戦後の歴史を振り返りながら考えます。2階にあるこの1枚の写真が私に訴えてくるものは大きく、いつも足を止め見つめます。
 幸せになろうと思って生まれてくる人が、ほとんどそうならず強権的に辛苦を強いられるのは本当に不条理です。私はこの少年が奇跡的にであれ戦後を生き抜き、平穏に人生を送ったと思いたい!
5. 畳3枚の町屋 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
畳3枚の町屋
森島典子
ピースあいち・メールマガジン[第5号]2010/4/25



 「ピースあいち」が開館して4年目を迎えるのもすぐだ。受付、2階・3階展示室の当番をボランティアとして月2回手伝っている。建物自体に大きさはないが、その展示面積に対する内容の充実は工夫と知恵が生かされ、なかなかのものだと思う。
 2階常設展示室の出口近くに戦争中の生活の様子が垣間見られる畳3枚ほどのコーナーがある。当時の日常を知る年代にとっては懐かしい思いもあろうが、あの日々はもう厭だと感じる人も多いはずだ。
 時折このコーナーに小学高学年の子どもたちが来て「さわってもいいの」と、興味深そうに瀬戸物のアイロン、馬糞紙を固めて着色した洗面器(縁の一部破損で素材がよくわかる)、色など発色の悪い粗末なカルタ、メガホンなどを手にして見ている。
 「どうして戦争中はこんなもので作られたのかな」そして「今はどんな素材で作られているのかな」と質問すると、「え、わかんない…」と。そこからこれらを通して一般市民の戦争中の話となる。
4. 名古屋城炎上 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
名古屋城炎上
阿部 孝子
ピースあいち・メールマガジン[第4号]2010/3/25



 「ピースあいち」の二階に入った正面に「名古屋城炎上」の大きな写真が掲げてある。1945年5月14日、名古屋城は空襲により焼失した。1973年に当時新聞記者だった私はその瞬間を取材したことがある。現在はホテルになっているが、戦争は堀を隔てて城を一望できる病院がありそこに勤務していた女性看護士Aさんが生々しく思い出を語ってくれた。
 その日、名古屋快晴。その病院は陸軍病院ではなかったが、Aさんたちは忙殺されていた。空襲警報発令。焼夷弾が雨のように降ってきた。「患者さんを避難させなければ・・・」。必死だった。すさまじい黒煙と烈風。「お城が燃えている!」。炎に包まれた城はやがてガクッと堀に崩れ落ちた。「ああ、落城だ!」。
 みんな手を合わせて拝んだ。Aさんが堀端にへたり込んだ自分に気がついたのは、ずっと後だった。黒煙が空一面を覆ったため、日中の空襲にも関わらず、夜と錯覚していた人もいたという。
3. 豊川海軍工廠の惨事 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
豊川海軍工廠の惨事『麗し女生徒の未来を想像して』
廣瀬眞由美
ピースあいち・メールマガジン[創刊3号]2010/2/25



 『愛知の空襲の展示』コーナーのなかでも、「豊川海軍工廠の爆撃写真」と「当時3年生(8回生)の出動記念写真」は、戦争のむごさを目の前に突きつけているようだ。

 豊川海軍工廠で戦場の兵士に送る銃や弾丸、双眼鏡、特殊潜望鏡など兵器を昼夜生産していたのは、豊川・豊橋・長野・北陸から集められた女子挺身隊と呼ばれた高等女学校生徒や学徒5万6千人だった。親元から離れ寄宿舎生活を送る彼女たちの様子は、展示室の写真が教えてくれる。セーラー服の上着を着ているものの、まだ幼さの残る純真な顔が、どこか心細さを訴えているように見える。

 豊川海軍工廠は、1945年8月7日午前10時13分から39分までのわずか26分間に、B29爆撃機なんと124機によって250キロ爆弾3256発、813トン投下の波状攻撃を受け、およそ2500人以上の犠牲者を出した。
 広島原爆投下の翌日であり、終戦まであと8日だった。きっといつものように、工場で朝から懸命に働いていただろう少女達の真剣な姿を想像すると、胸がいっぱいになる。

 展示室の陳列台にある「堀部智恵子の学徒動員と豊川海軍工廠の日記」、そして「葬儀弔辞」は、亡くなった彼女のご家族と友人たちの無念さを65年後の今日までずっと訴え続けている。
 「友と一緒の5人の少女たち」のセピア色の写真は、利発そうな彼女達の未来をどれほど暗示していただろう。彼女たちが、大人になってどんな夢を持ち、職業につき、恋愛をし、家庭を築き、何人の子どもや孫が生まれたか……。
 そんな未来を一瞬にして奪うのが、戦争だということを多くの人に伝えたいと思う。

 最後に、「九死に一生を得た松操高等女学校生徒の証言」は、私に平和な今を生きる幸せを教えてくれた。感謝したい。ありがとう。
2. 『あたらしい憲法のはなし』 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
『あたらしい憲法のはなし』普天間基地問題等、国防のあり方にも寄せて
佐藤和夫
ピースあいち・メールマガジン[創刊2号]2010/1/25



 ピースあいちの展示物のうち私が一番感銘を受けたものは、2階展示室に展示されている黄色い表紙の小冊子『あたらしい憲法のはなし』という文部省(現文科省)発行の教科書です。
 なかでも、「戦争の放棄」の項は感動的であり、いま問題となっている普天間基地問題やアメリカの核の傘の必要性等、国防問題や世界平和のあり方を考えるうえでの大きなヒントになると思われます。

 『あたらしい憲法のはなし』は、当時の慶応義塾大学の浅井清法学部長の執筆によるもので、1947(昭和22)年8月、新制中学1年生の社会科教科書として文部省が発行しました。
 当時13歳だった人のなかには「それまで戦争、戦争の連続だったのに、軍隊がなくなって戦争ができなくなるなんて、こんな素晴らしいことはないと思った。もう、バンザイでした」と、当時のこの教科書との出会いの感想を語られる人もいます。

 しかし、この教科書は、朝鮮戦争が始まった1950(昭和25)年には副読本に格下げされ、再軍備の高波に飲み込まれて、その翌年には学校から消えていきました。わずか3年ほどの命だったわけですが、最近になってこの教科書のことを知った私にとっては、身震いするほどの感銘をうけた内容で、今や平和問題を考えるうえでの「バイブル」ともなっています。

 ピースあいちは、自らの使命を「戦争という20世紀の負の遺産を、歴史の教訓として次代に伝え、平和のために役立てるよう……」うたっていますが、この『あたらしい憲法のはなし』のように、「平和のために、今」を考えるうえでヒントになるような資料がたくさん展示されています。みなさん、ぜひご来館いただきますように。

 『あたらしい憲法のはなし』「戦争の放棄」の項は比較的短い文章なので、ここに紹介します。(改行は編集部でしました。)
//////////////////////////////////////////////////////////////////////////戦争の放棄

 みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで家やうちの人をなくされた人も多いでしょう。

いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。

だから、こんどの戦争をしかけた国には大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう二度とやるまいと、多くの国々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。

 そこで、今度の憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これは、戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。

しかし、みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

 もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国はさかえてゆけるのです。

 みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また、戦争を二度とおこさないにいたしましょう。以上
1. 焼き場に立つ少年 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
焼き場に立つ少年
ピースあいち・メールマガジン[創刊号]2009/12/26



 2階の常設展示にある「命の壁」コーナーは、戦争の現実を知ってもらおうという写真で成されたコーナー。本土で、中国で、沖縄で、何が起きていたのかを来館者に衝撃的に訴えます。「焼き場に立つ少年」は、静かに、そして厳しく、戦争の残酷さを物語っています。

 10歳くらいの裸足の少年がおんぶ紐で赤ちゃんを背負って、直立不動の姿勢でいます。焼き場で順番を待っているのです。背中の赤ちゃんはすでに亡くなっているのでした。
 「その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気がついたのは。少年があまりきつく唇をかみしめているため、唇の血は流れることもなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました(「写真が語る20世紀 目撃者」より)」。撮影者のアメリカ空爆調査団公式カメラマン、ジョー・オダネル氏は話しています。

 オダネル氏は私用のカメラでこの写真を撮り、検閲を逃れるため戦後もフィルムを保管していたそうです。
ANNE FRANK EXHIBITION [2011年05月26日(Thu)]

The "Anne Frank travelling Exhibition" from the Anne Frank House in Amsterdam
by: Global Campaign for Peace Education
supported by: Anne Frank House ・Peace Aichi
at: Peace Aichi (Nagoya city Meito Ward)
Peace Aichi map & information ---CLICK HERE
until May 27(tomorrow)
5/26 11:00-16:00
5/27 11:00-15:00

日本語・英語両方の解説があります。お誘いあわせておいでください。

We display 20 of 34 panels.

1 ANNE FRANK A HISTORY FOR TODAY
4 “I lived in Frankfurt until I was four.”
5 HITLER WINS THE ELECTIONS
8 “To Holland”
9 THE NAZIFICATION OF GERMANY
11 RACE LAWS
13 THE PERSECUTION OF THE JEWS BEGINS
15 “…the trouble starred for the Jews.”
16 ISOLATION
18 “…I hope I will be able to confide everything to you…”
20 “…an ideal place to hide in.”
21 “…I’m terrified our hiding place will be discovered and that we’ll be shot.”
22 “…all are marched to their death”
23 “…will I ever become a journalist or a writer?”
24 “I hear the approaching thunder…”
26 “…we knew what was happening”
27 “I can no longer talk about…”
28 “It wasn’t the same Anne.”
29 “My entire hope…”
31 “…and later on, a famous writer”
中日新聞に載りました [2011年05月23日(Mon)]

今朝の中日新聞市民版ひめゆり展アンネ展の記事が掲載されました。
アンネ展は今週金曜日までの短い期間ですが、多くの方に観ていただきたいです。最終日は午後3時までです。