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義援金のご報告 [2011年05月31日(Tue)]

ピースまつりで皆様からご協力いただき集まった東日本大震災義援金
91,476円を本日、社会福祉法人中日新聞社会事業団へ寄付しました。

中日新聞社会事業団は4月と5月に、宮城・岩手・福島・茨城・千葉の
各県災害対策本部へ義援金を届けたそうです。

今回の震災により15,000人を超える尊い命が失われたことにお悔み申し上げるとともに、被災された方々をはじめ、避難生活を余儀なくされていらっしゃる102,000人以上もの皆様に、心からお見舞い申し上げます。

平和を願うピースあいちのイベントを通して、被災者への支援を寄せてくださった多くの皆さまに感謝し、ご報告とさせていただきます。
17. 「眼をそらさないで下さい」 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
「眼をそらさないで下さい」
山田恵三
ピースあいち・メールマガジン[第17号]2011/4/25



 「ピースあいち」の主展示場である2階は、「愛知県下の空襲」「戦争の全体像・15年戦争」「戦時下のくらし」に分けて展示されており、部屋のほぼ中央当たりに「命の壁」といっている写真パネルを設置したコーナーがあります。ここでは戦争は生命の破壊ととらえ、日本軍兵士の死、中国民衆の死、原爆の死、空爆の死、沖縄の死とそれぞれの戦争犠牲者の写真でうめられていて、「眼をそらさないで下さい、これが戦争です」と大書されています。まさに、この言葉が全てを語っています。

 この前に佇んでみていると、戦争とはどういうことか自ずからわかってきます。写真をみるというより写真と対峙すると言った方がよいかも知れません。一般的には、この種の写真は眼をそらしたくなるのが普通であり、とくに小中学生には多少のショックを与えるかもしれませんが、それでも写真と対峙させるべきでしょう。戦争とか暴力の本質を見究めるためには、それから逃げてはいけないと思います。次世代を担う若いお母さん、お父さん、お子達と一緒にこのコーナーをみるためお出かけになりませんか。極端に言えば、他のコーナーをとばして、このコーナーだけみてお帰りになってもよいのではないかと私は思っています。そして、お子達の成長に応じて再びこのコーナーに立ち寄っていただくことを願っています。
16. ねずみも戦争に利用された [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
ねずみも戦争に利用された
野田隆稔
ピースあいち・メールマガジン[第16号]2011/3/25



 1、2階のピースあいちの展示はレベルが高い。立命館の平和ミュージアムと比較しても遜色はない。惜しむらくは展示スペースが狭いので、説明パネルの字が小さいことと、小学生には難しい漢字が使われていることであるが、現状では仕方がないかなと思う。
 3階の「象列車がやってきた」の準常設展示は小学生用で、悲しいけど、明るく楽しい展示でもある。2010年から、象列車だけでなく、「戦争と動物たち」が付け加えられて、戦争になれば愛するペットも戦争に巻き込まれることが示され、小中学生には戦争の実態がわかって評判がいい。

 最近ではテレビで、「さようならアルマ――犬が戦争に行った」が放映され、動物と戦争の関わりが報じられるようになった。
 動物と戦争の展示の中で、「ねずみ」が戦争に使われたことが展示されていないのが残念である。子どもたちに「ねずみも戦争に利用されたのだよ。何に利用されたのかな?」と聞くと、「食料」という答えも返ってくる。今やねずみを知らない子どもたちが増えたのかと驚く。「実験用に使われた」と正解を言う子どももいる。「どんな実験かな?」、「医学の実験」という答えが返ってくる。そんなやり取りをする中で、細菌爆弾のことを話し、ねずみはペスト菌培養のために使用され、ペスト菌の爆弾をつくったのだよというと、びっくりする。
 しかし、そのねずみが日本で人口飼育され満州の731部隊に持ち込まれた話はしなかった。15年から20年前のことだが、高文研が発行した本の中に、埼玉の高校生がねずみ飼育農家のことを調べ、学校祭に発表したことが載っていた。残念ながら、本の名も忘れてしまった。動物と戦争の展示を見て、忘れていた記憶を思い起こしインターネットで調べ、来館した子どもたちに話している。
 本の題名は「幻ではなかった本土決戦」(高文研)と、「高校生が追うねずみ村と731部隊」(教育資料出版会)である。
15. 『私の故郷にも空襲があった』 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
『私の故郷にも空襲があった』〜私の小学生時代と重なる一枚
浅井和子
ピースあいち・メールマガジン[第15号]2011/2/25



 2階の壁パネル愛知県下の空襲の隣に三菱重工業への爆撃の写真があります。来館者のガイドをする時、皆さんが説明をする一枚です。
 先日小学生の見学がありました。私はガイドの方たちの説明を見学していました。
 ガイドの方が、「名古屋ドームの辺りですよ。」というと、身近なところですから、みんな目を丸くして、「へー。しってるここ!」と口々に言っていました。私たちの街にも空襲はあったんだと小学生たちは思います。

 その時私は小学生の頃のことを思い出しました。私は小学生の頃、砂田橋に住んでいまして、よく「爆弾池に行くよ!」といいながら、三菱重工業の辺りで遊んだものでした。爆弾池はザリガニがよく釣れたんです。その頃は「ピースあいちがよもぎ台にあるよ」という感じで、爆弾池は子どもたちの間では、遊び場の地名でした。ザリガニと言えば、爆弾池でした。今思うと、そんな子どもたちの会話は大人たちにどう映ったのでしょうか?
 おりしも近くの愛知教育大学(大幸町)では学生運動の真っ盛りでした。もちろん私の眼には校舎の落書きが見えるだけで、どうして校舎に落書するのだろうと思うのみでしたが。

 そんな小学生の時代を思い出し、またこうして空襲に遭った写真を見るにつけ、私たちの街にも空襲があったんだと胸を熱くします。怒りがこみ上げます。再び、故郷をこんな姿にしてはいけないと思います。
 3月19日は、名古屋の空襲の犠牲者を忍び、ピースあいちでも慰霊祭を行います。特別展も催します。ぜひお出かけ下さい。そして2階の写真をぜひ、ご覧ください。
14. 原爆の死―原爆症 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
原爆の死―原爆症
桑原勝美
ピースあいち・メールマガジン[第14号]2011/1/25



 広島で被爆し髪の毛がかなり抜け落ちた少女が横たわる(2階、“命の壁”)。脱毛、下痢、発熱などは急性放射能障害、原爆症を暗示する。
 広島、長崎の被爆直後、国民の戦意喪失を恐れた当局の検閲に配慮し、報道機関は実相を伝えなかった。さらに終戦直後から講和条約発効(52年)までの間、米軍を主体とする連合国軍総司令部(GHQ)が占領政策遂行上、報道関係に厳しい規制(プレスコード)を敷いたため、原爆症を含む被害の実態は国民に知らされなかった。一方、米国の報道事情はどうであったか。原爆投下から3週間ほど後、米国の報道陣が廃虚と化した広島、長崎に入り、見聞した残酷な様相について本国へ送信したが、その多くが米国当局の検閲にかかり、中でも原爆症に関わる報道は抑制された。

 ところで、長崎への原爆投下直後、米国は原爆を一発も所有していなかったという(但し、プルトニウム核と起爆装置は別個に準備)。この時点で、もし、原爆地獄の実相が米国を始め世界中の人々に知らされていたら、核兵器の非人道性・国際法違反を弾劾する声が世界中に巻き起こって核廃絶の世論が定着し、「核抑止論」は登場してこなかったのではないだろうか。

 だが、米国では人的悲惨を国民には伝えないという指針に沿って、核情報(放射能の影響や原爆症など)の守秘に向けた報道規制が続けられてきている。日本で大問題となった第五福竜丸事件が過小に報道されるに留まったこと(54年)、スミソニアン博物館における原爆展開催企画が中止に追い込まれたこと(95年)などはその一環である。こうした報道規制が行われる一方で、「核抑止」を名目に核兵器開発が続き、遂に核テロまで憂慮される深刻な事態を招いてしまった。オバマ氏が米国大統領としては初めて核廃絶への理念を表明したが(09年)、その後に行われた未臨界核実験については説明されていない(10年)。

 “命の壁”の原爆症の少女は、この世界の動きを見つめ続ける。なぜ戦争を止められなかったのか、なぜ核兵器が使われたのか、なぜ……、なぜ……と問いかけながら。
13. 学問・思想への弾圧 小林多喜二 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
学問・思想への弾圧 小林多喜二
安井真理子
ピースあいち・メールマガジン[第13号]2010/12/25



 「学問・思想への弾圧」のパネルの右上には、1933年3月20日に特高(特別高等警察)の拷問で殺された小林多喜二の写真があります。多喜二を見守る友人たちの悲痛な思いが、見る者の胸に突き刺さってきます。多喜二の死因は、翌日心臓麻痺だったと発表され、敗戦後まで真実が公表されることはありませんでした。

 1981年刊行の『吉里吉里人』の中で、すでに憲法第9条を取り上げていた井上ひさしさん(今年4月9日に急逝)の最後の戯曲が、小林多喜二を描いた『組曲虐殺』であったことは、とても意味深いことのように思われます。井上さんは、劇中多喜二に「絶望から希望へ橋渡しする人がいないものだろうか……いやいないことはない。」と語らせ、「愛の綱を肩に 希望めざして走る人よ (中略) あとにつづくものを信じて走れ」と歌わせています。これらの言葉をしっかりと受け止め、未来につないでいく役割を、微力ながら果たすことができたならと思い、私はピースあいちのボランティア活動に参加しています。
 『組曲虐殺』をご覧になりたい方は、DVDがありますので、ご連絡ください。
12. ジョー・オダネル氏の思い出 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
ジョー・オダネル氏の思い出
乳井公子
ピースあいち・メールマガジン[第12号]2010/11/25


 私の手元に一冊の写真集があります。表題は『トランクの中の日本〜米従軍カメラマンの非公式記録〜』。
 その中の1枚が、2階展示室の写真パネルの中にある、亡くなった幼い弟を背負い、悲しみをこらえ唇を噛み締めて、直立不動で真っ直ぐに前を見据えている少年の写真です。著者は従軍カメラマンとして原爆投下後の長崎・広島を訪れたジョー・オダネル氏。

 今から15年前の1995年、戦後50年ということで各地で様々な企画展が開催されましたが,そのひとつとして氏の写真展が名古屋で開催されました。
 会場に足を運んだ私は、たまたま来場していたオダネル氏ご本人と幸運にも話をすることができました(もちろん通訳さんを介してですが)。氏はスラリとした長身で、物腰の柔らかな紳士然とした方でした。
 私が「多くのアメリカ国民が『原爆のお陰でアメリカ・日本の双方に多くの犠牲者を出すことなく戦争を早く終わらせることができた』と信じているようですが、どう思われますか?」と尋ねると、「私はそうは思いません。もし仮にそうだったとしても、広島・長崎に原爆を落としたことは間違っていたと言えます。それは私が被爆地の惨状を目の当たりにしたからです」とはっきり言われたのです。

 氏は奇しくも2007年8月9日、85歳で生涯を閉じました。その後、ご子息がインターネットで写真を公開していることをNHKスペシャルで放送していました。
 公開した当初は『もともと戦争をしかけてきた日本が悪いのに、その日本に同情するような写真を公開するな』といった批判を浴びることが多々あったが、イラク戦争終結頃から『原爆投下はこんな悲惨な結果しか生まないのだ』という意見も聞かれるようになり、アメリカ人の原爆投下に対する見方が変わりつつあるのではないかという番組の内容に、半世紀近く辛い記憶を封印してきた氏が『多くの人に原爆の惨状を知ってほしい』との思いで、写真のネガの入ったトランクを開けた気持ちが少しずつではありますが広がっているような気がして、救われた思いを抱きました。
 私は2階展示室に行きあの写真を見るたびに、存命中は決して心休まることのなかったであろうオダネル氏が、今は天上で穏やかに過ごしておられることを願わずにはいられません。
11. 「生きて虜囚の辱を受けず」 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
「生きて虜囚の辱を受けず」
後藤茂昭
ピースあいち・メールマガジン[第11号]2010/10/25



 これは、1941年1月8日、陸軍大臣東条英機が示達した訓令「戦陣訓」の中の一節である。
 2階展示室の右側の「15年戦争」の展示パネルの半ばを越えたあたりの展示台に「戦陣訓」と書かれた小冊子があり、その隣に「生きて虜囚(捕虜)の辱(はずかしめ)を受けず」の部分が開いてある。
 この一節が多くの玉砕、自決を生んだ。これは、軍人向けの訓令であるが、それにとどまらず、軍属そして沖縄戦に見られるように民間人にまで大きな影響を与えた。捕虜になった人の家族は非国民として非難され、それが兵士を玉砕死から逃げられなくした。さらに、相手国捕虜に対する扱いにも反映し、戦後のBC級裁判で「捕虜虐待罪」で処刑者を出した原因にもなっている。
 刀折れ矢尽きてなお、玉砕を強いられた兵士の心境は想像を絶する。愛する妻や子や親や恋人に思いを馳せながら散った英霊は靖国神社に祀られている。そして、それを強いた東条英機もまた靖国神社に祀られている。
10. 「原爆ドーム」鉄製模型 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
「原爆ドーム」鉄製模型
吉岡由紀夫
ピースあいち・メールマガジン[第10号]2010/9/25



 展示場の真ん中に、縦横90センチメートル重さ60キロの無惨に被爆したドーム部分と建物、目の前の元安川の岸には力をふりしぼって川へたどり着こうとする被曝者の姿が正確に復元された鉄製の模型が展示されています。作品製作者は熱田区の(故)高木昇さんです。太平洋戦争中に愛知時計の工場で働いておられ、空襲の体験者でもあります。妻の鈴子さんは「平和への思いを込めて製作しました。原爆や戦争を考える場に展示されることで、主人の意思が伝わればありがたい」と語られています。

 私の母(1945年8月6日当時19歳)は呉市に住んでいます。呉市から広島市までは直線距離で約25キロぐらいですが「西の方角に、晴れているのに大きな花火みたいなものがとても明るく見えた」と言っています。呉市に住んでいるときは原爆関連のニュースは毎日報道され、原爆について小さいときから興味・関心がありました。18歳から名古屋市に住んでいますが、原爆についての話題はあまり報道されません。だから余計に、「ピースあいち」のような資料館に展示されている鉄製の「原爆ドーム」は、後世に平和の大切さを伝える貴重な展示物だと思います。
9. 傷痍軍人の写真 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
傷痍軍人の写真
神谷俊尚
ピースあいち・メールマガジン[第9号]2010/8/25



 私は昭和19年兵庫県北部の山中で生まれ、空襲等は知りません。私にとって戦争の記憶は「ピースあいち」2階展示室出口にある、「戦争は終わったが……『平和の中に残る戦争』」の展示にある傷痍軍人の写真です。この写真は、はっきりと幼い頃の記憶を呼び覚ましてくれます。

 4歳頃姫路市郊外の練兵場跡に引越し、年に数回市内の繁華街に連れて行ってもらった。当時国鉄姫路駅から姫路城(白鷺城)に向けて商店街が賑わっていた。その辻ごとに白い帽子に白の病衣をまとい、ギターやアコーディオンなどを弾いてお金を集めている姿があり、両親に「なんであの人立っているの?」と聞くと「戦争で怪我をしたの」と説明されてもぴんとこなかったこと、その人数の多さも強く印象に残っている。

 この8月上旬にベトナム・カンボジアを旅し、カンボジア 首都プノンペンキリング・フィールド(カーリング・エク)、トゥライアングル・スラング(虐殺博物館)シエムリアップ市(アンコールワットの里)地雷博物館、国立アンコール美術館等を見学してきた。入場口は穏やかだが、出口付近には内戦による戦傷者や戦後の地雷による被害者が、観光客にお金を求めて集まってくるし、露天の飲食店では戦傷者、被害者が絵葉書・本の購入を求めてくる姿に多く接した。
 ベトナム 首都ホーチミン ベトナム戦争証跡博物館内では枯葉剤(ダイオキシン)による、ほとんど全身不随の被害者がベトナム楽器を合奏している場面に遭遇した。今なおアジア・世界の至るところで戦火にまみれ、多数の被害者がいる現実を、再認識させられ胸を絞め付けられた。「ピースあいち」の展示物が過去の遺産ではなく、世界のどこかで今なお現実であることを、1人でも多くに方々に知ってもらいたい。
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