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28.「昭和と戦争(15年戦争)」B-3 [2012年05月29日(Tue)]

■常設展示から
28.「昭和と戦争(15年戦争)」B-3
ボランティア 亀山 正樹
ピースあいち・メールマガジン[第30号]2012/5/25

この年表の前に立つと父方の祖父が一生かけて造った、家が昭和20年7月岐阜の空襲で焼けてしまった事(小生2歳半で若干記憶あり)、母方の祖父が軍医で2度の満州勤めをした話(祖父は日本軍が中国に対して認識不足であると言い、上層部に睨まれていた)等様々な事を思い出すと共に、二度と悲惨で多くの犠牲を出した戦争をしてはならないと思います。
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 昭和元年から20年まで(以下昭和初期とします)の日本の歴史を見ると次のような事が考えられます。
 常に中国への侵略を企て昭和6年満州事変、昭和12年日華事変と徐々に中国との戦争範囲を拡大し、さらには昭和16年世界を相手に太平洋戦争に至り、昭和20年敗戦を経験する事になった。
 何故このような事態が発生したのか?
 理由は概ね次の3点ではないかと思われます。
@経済不況を打開するために中国へ侵略した事。
A政党政治が軟弱で軍部が介入し、政党政治を崩壊させ戦争へ暴走した事。
B日清、日露戦争に勝ち軍部(特に陸軍)が異常な力を持ち、かつ国際情勢に偏見を持った事。−ドイツ、イタリアの力を過大評価した反面アメリカ、中国に対し過小評価をしていた事。

 最近の世相を見ると昭和初期に似た現象が散見されます。
@政党政治の軟弱さ−昭和初期には後世に残る人物もいたが。現在は?
A経済不況
B国際情勢に対する認識不足
 現在は軍隊がないので、かろうじて平和を保っています。
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   皆様ぜひ「ピースあいち」へお越しいただき、この年表を見ていただき感想をお伺いする機会があれば幸いと思います。

 なお、ピースあいち1階常設展「現代の戦争と平和」がリニューアルしました。 この機会にお越し下さいますようお願い申し上げます。

26.胸の痛む質問 [2012年05月29日(Tue)]

■常設展示から
胸の痛む質問
ボランティア  林  收
ピースあいち・メールマガジン[第29号]2012/4/25


 この4月からスタートしたNHKテレビ・朝の連続ドラマ「梅ちゃん先生」のはじまりの舞台は、戦後間もない東京の蒲田。ヒロインの梅子は、一人の浮浪児ヒロシと出会います。ヒロシは、戦争孤児として引き取られた先の親戚が農作業にコキ使うのを嫌って、浮浪児に逆戻りをして自活していたのでした。このときの出会いが梅子の人生を決定づけるきっかけとなってドラマが進展して行くようです。
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昨年の夏、ピースあいち2階展示室出口近くのパネル「戦争は終わったが・・・」を熱心に見つめていた中学生から訊ねられました。
 彼は戦後の浮浪児たちの写真を指して、「この人たちはその後どうなったのですか」と訊いてきました。
 彼にしてみれば、自分と同じ年頃の少年が檻のようなところに詰め込まれているのにショックを受け、靴磨き道具を前にして斃れこんでいるのを不審に思うと同時に、その先どうなって行ったかが大いに気になるところだったのでしょう。
 私にしてもこの写真が撮られた時期にはまさしく同年齢に近い少年期を過ごしていたので、この質問には胸が痛くなりました。
「戦災孤児たちを救護する施設が乏しく、自立して生活するため、盗みなどの犯罪に走ったり、悪い大人に利用されたりしないよう保護する必要から、浮浪児を強制的に収容した様子がこの写真です。施設に入った子らは成長とともに社会へ溶け込んでいったと思います。」
 質問に対する十分な回答にはなっていなかったので、話の接ぎ穂にするため逆にこちらから「『鐘の鳴る丘』の話を聞いたことがありますか。」と訊ねてみました。案の定「知りません。」という答えでした。
 少年が他のパネルも見てノートに書きとめたりしている間、傍らには妹と見られる小学生が寄り添って、長い時間辛抱強く付き合っていました。
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 戦後の浮浪児の生態とかその後の成育について、あの中学生に正確に答えるには過去の記録を調べるしかありません。
 展示パネル「戦争に抵抗した人々(3)」で特高から拷問を受けた体験の一部が紹介されているジャーナリスト青地晨さんが「婦人公論」1951年12月号に「浮浪児─戦争犠牲者の実体─」と題するルポルタージュを書いていますが、戦後数年後までの記録を追ったもので、続編がないと浮浪児体験者の成長記録まではわかりません

 1994年に北海道大学逸見勝亮教授が発表されている「第二次世界大戦後の日本における浮浪児・戦災孤児の歴史」において「第二次世界大戦後の浮浪児・戦争孤児に関する研究は,原爆孤児を対象としたものを散見しうるのみである」としたうえ、同論文で敗戦時の浮浪児・戦争孤児数、敗戦間際の戦争孤児対策、敗戦後の浮浪児・戦争孤児対策などについて敷衍されていますが、対策の一環として設けられた施設収容後の追跡までは行われておりません。

 また、同氏は2007年にも「敗戦直後の日本における浮浪児・戦争孤児の歴史」を論じておられますが、1946年9月東京都が品川第五台場に設置した浮浪児収容施設「東水園」が台風被害により廃止(1950年1月)されてのち、当地の孤児たちは、「全般的児童保護法制のもとにおかれることとなった。」と記されているのみです。

 1947年(昭和22年)に制定された児童福祉法が定める「すべての児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない」とする理念が絵空事のように空しかった当時ばかりではなく、現在も児童の虐待死を防ぎ得ない行政のあり方は問題です。

【参考】
タイトル: 第二次世界大戦後の日本における浮浪児・戦災孤児の歴史
著者: 逸見,勝亮
発行日: 1994年10月 1日
出版者: 教育史学会
誌名: 日本の教育史学:教育史学紀要  巻: 37

タイトル: 敗戦直後の日本における浮浪児・戦争孤児の歴史
著者: 逸見,勝亮
発行日: 2007年12月29日
出版者: 北海道大学大学院教育学研究院
誌名: 北海道大学大学院教育学研究院紀要  巻: 103

婦人公論 1951年12月号 婦人公論新社

昭和二万日の全記録 8巻 昭和22年→24年 占領下の民主主義 講談社
25.「戦争の全体像」 [2012年05月29日(Tue)]

■常設展示から
「戦争の全体像」
ボランテイア  吉川 守
ピースあいち・メールマガジン[第27号]2012/2/25

 途切れなく流れるような曲線・曲面に縁取られたコーナーにその展示があります。1931年の「満州事変」から1945年の「敗戦」までの、足かけ15年に亘って日本が遂行した「戦争の全体像」を明らかにする展示です。決して広くはない限られたスペースですが、「全体像」と呼ぶにふさわしい展示です。
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 「15年」に限らず、明治から敗戦に至るまでを、歴史の流れとして繋がりをもって解説してくれています。戦時体制がどのようなものかを、軍・政治・経済から、教育や社会・暮らしの隅々に至るまで説明されています。日本の被害についても加害についても正面から向き合っています。実物・写真・地図・年表・文章を駆使した解りやすい展示です。

 そしてこれらが、「命こそ宝(ヌチドウタカラ)」の視点から語られています。

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 展示物の中に、ポケットサイズの歌集が4冊あります。1941〜43年に発行されたもので中身は軍歌やそのたぐいの歌が満載です。中の一冊に序文が付いていました。抜粋で一部を紹介します。

「・・今や、勇ましき軍歌の高なりは、日本の天地に響き渡ってゐる。軍歌は現役の軍人のみで唄ふ歌ではない。(中略)銃後の護りは、一に此の軍歌を歌ふにある。国民よ!挙って軍歌を歌へ!そして軍歌で以って、日本の全貌を彩れ!・・」

 戦争に協力する以外の生き方が許されなかった日本。その戦争で命を奪われた日本、アジア、欧米の人々。
 私は、ピースあいちの展示の前に立って、死を強制された人々の声を聴き取る努力をせねば、と思いを新たにしています。
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