■常設展示から胸の痛む質問
ボランティア 林 收
ピースあいち・メールマガジン[第29号]2012/4/25
この4月からスタートしたNHKテレビ・朝の連続ドラマ「梅ちゃん先生」のはじまりの舞台は、戦後間もない東京の蒲田。ヒロインの梅子は、一人の浮浪児ヒロシと出会います。ヒロシは、戦争孤児として引き取られた先の親戚が農作業にコキ使うのを嫌って、浮浪児に逆戻りをして自活していたのでした。このときの出会いが梅子の人生を決定づけるきっかけとなってドラマが進展して行くようです。
昨年の夏、ピースあいち2階展示室出口近くのパネル「戦争は終わったが・・・」を熱心に見つめていた中学生から訊ねられました。
彼は戦後の浮浪児たちの写真を指して、「この人たちはその後どうなったのですか」と訊いてきました。
彼にしてみれば、自分と同じ年頃の少年が檻のようなところに詰め込まれているのにショックを受け、靴磨き道具を前にして斃れこんでいるのを不審に思うと同時に、その先どうなって行ったかが大いに気になるところだったのでしょう。
私にしてもこの写真が撮られた時期にはまさしく同年齢に近い少年期を過ごしていたので、この質問には胸が痛くなりました。
「戦災孤児たちを救護する施設が乏しく、自立して生活するため、盗みなどの犯罪に走ったり、悪い大人に利用されたりしないよう保護する必要から、浮浪児を強制的に収容した様子がこの写真です。施設に入った子らは成長とともに社会へ溶け込んでいったと思います。」
質問に対する十分な回答にはなっていなかったので、話の接ぎ穂にするため逆にこちらから「『鐘の鳴る丘』の話を聞いたことがありますか。」と訊ねてみました。案の定「知りません。」という答えでした。
少年が他のパネルも見てノートに書きとめたりしている間、傍らには妹と見られる小学生が寄り添って、長い時間辛抱強く付き合っていました。
戦後の浮浪児の生態とかその後の成育について、あの中学生に正確に答えるには過去の記録を調べるしかありません。
展示パネル「戦争に抵抗した人々(3)」で特高から拷問を受けた体験の一部が紹介されているジャーナリスト青地晨さんが「婦人公論」1951年12月号に「浮浪児─戦争犠牲者の実体─」と題するルポルタージュを書いていますが、戦後数年後までの記録を追ったもので、続編がないと浮浪児体験者の成長記録まではわかりません
1994年に北海道大学逸見勝亮教授が発表されている「第二次世界大戦後の日本における浮浪児・戦災孤児の歴史」において「第二次世界大戦後の浮浪児・戦争孤児に関する研究は,原爆孤児を対象としたものを散見しうるのみである」としたうえ、同論文で敗戦時の浮浪児・戦争孤児数、敗戦間際の戦争孤児対策、敗戦後の浮浪児・戦争孤児対策などについて敷衍されていますが、対策の一環として設けられた施設収容後の追跡までは行われておりません。
また、同氏は2007年にも「敗戦直後の日本における浮浪児・戦争孤児の歴史」を論じておられますが、1946年9月東京都が品川第五台場に設置した浮浪児収容施設「東水園」が台風被害により廃止(1950年1月)されてのち、当地の孤児たちは、「全般的児童保護法制のもとにおかれることとなった。」と記されているのみです。
1947年(昭和22年)に制定された児童福祉法が定める「すべての児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない」とする理念が絵空事のように空しかった当時ばかりではなく、現在も児童の虐待死を防ぎ得ない行政のあり方は問題です。
【参考】
タイトル: 第二次世界大戦後の日本における浮浪児・戦災孤児の歴史
著者: 逸見,勝亮
発行日: 1994年10月 1日
出版者: 教育史学会
誌名: 日本の教育史学:教育史学紀要 巻: 37
タイトル: 敗戦直後の日本における浮浪児・戦争孤児の歴史
著者: 逸見,勝亮
発行日: 2007年12月29日
出版者: 北海道大学大学院教育学研究院
誌名: 北海道大学大学院教育学研究院紀要 巻: 103
婦人公論 1951年12月号 婦人公論新社
昭和二万日の全記録 8巻 昭和22年→24年 占領下の民主主義 講談社