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17. 「眼をそらさないで下さい」 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
「眼をそらさないで下さい」
山田恵三
ピースあいち・メールマガジン[第17号]2011/4/25



 「ピースあいち」の主展示場である2階は、「愛知県下の空襲」「戦争の全体像・15年戦争」「戦時下のくらし」に分けて展示されており、部屋のほぼ中央当たりに「命の壁」といっている写真パネルを設置したコーナーがあります。ここでは戦争は生命の破壊ととらえ、日本軍兵士の死、中国民衆の死、原爆の死、空爆の死、沖縄の死とそれぞれの戦争犠牲者の写真でうめられていて、「眼をそらさないで下さい、これが戦争です」と大書されています。まさに、この言葉が全てを語っています。

 この前に佇んでみていると、戦争とはどういうことか自ずからわかってきます。写真をみるというより写真と対峙すると言った方がよいかも知れません。一般的には、この種の写真は眼をそらしたくなるのが普通であり、とくに小中学生には多少のショックを与えるかもしれませんが、それでも写真と対峙させるべきでしょう。戦争とか暴力の本質を見究めるためには、それから逃げてはいけないと思います。次世代を担う若いお母さん、お父さん、お子達と一緒にこのコーナーをみるためお出かけになりませんか。極端に言えば、他のコーナーをとばして、このコーナーだけみてお帰りになってもよいのではないかと私は思っています。そして、お子達の成長に応じて再びこのコーナーに立ち寄っていただくことを願っています。
16. ねずみも戦争に利用された [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
ねずみも戦争に利用された
野田隆稔
ピースあいち・メールマガジン[第16号]2011/3/25



 1、2階のピースあいちの展示はレベルが高い。立命館の平和ミュージアムと比較しても遜色はない。惜しむらくは展示スペースが狭いので、説明パネルの字が小さいことと、小学生には難しい漢字が使われていることであるが、現状では仕方がないかなと思う。
 3階の「象列車がやってきた」の準常設展示は小学生用で、悲しいけど、明るく楽しい展示でもある。2010年から、象列車だけでなく、「戦争と動物たち」が付け加えられて、戦争になれば愛するペットも戦争に巻き込まれることが示され、小中学生には戦争の実態がわかって評判がいい。

 最近ではテレビで、「さようならアルマ――犬が戦争に行った」が放映され、動物と戦争の関わりが報じられるようになった。
 動物と戦争の展示の中で、「ねずみ」が戦争に使われたことが展示されていないのが残念である。子どもたちに「ねずみも戦争に利用されたのだよ。何に利用されたのかな?」と聞くと、「食料」という答えも返ってくる。今やねずみを知らない子どもたちが増えたのかと驚く。「実験用に使われた」と正解を言う子どももいる。「どんな実験かな?」、「医学の実験」という答えが返ってくる。そんなやり取りをする中で、細菌爆弾のことを話し、ねずみはペスト菌培養のために使用され、ペスト菌の爆弾をつくったのだよというと、びっくりする。
 しかし、そのねずみが日本で人口飼育され満州の731部隊に持ち込まれた話はしなかった。15年から20年前のことだが、高文研が発行した本の中に、埼玉の高校生がねずみ飼育農家のことを調べ、学校祭に発表したことが載っていた。残念ながら、本の名も忘れてしまった。動物と戦争の展示を見て、忘れていた記憶を思い起こしインターネットで調べ、来館した子どもたちに話している。
 本の題名は「幻ではなかった本土決戦」(高文研)と、「高校生が追うねずみ村と731部隊」(教育資料出版会)である。
15. 『私の故郷にも空襲があった』 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
『私の故郷にも空襲があった』〜私の小学生時代と重なる一枚
浅井和子
ピースあいち・メールマガジン[第15号]2011/2/25



 2階の壁パネル愛知県下の空襲の隣に三菱重工業への爆撃の写真があります。来館者のガイドをする時、皆さんが説明をする一枚です。
 先日小学生の見学がありました。私はガイドの方たちの説明を見学していました。
 ガイドの方が、「名古屋ドームの辺りですよ。」というと、身近なところですから、みんな目を丸くして、「へー。しってるここ!」と口々に言っていました。私たちの街にも空襲はあったんだと小学生たちは思います。

 その時私は小学生の頃のことを思い出しました。私は小学生の頃、砂田橋に住んでいまして、よく「爆弾池に行くよ!」といいながら、三菱重工業の辺りで遊んだものでした。爆弾池はザリガニがよく釣れたんです。その頃は「ピースあいちがよもぎ台にあるよ」という感じで、爆弾池は子どもたちの間では、遊び場の地名でした。ザリガニと言えば、爆弾池でした。今思うと、そんな子どもたちの会話は大人たちにどう映ったのでしょうか?
 おりしも近くの愛知教育大学(大幸町)では学生運動の真っ盛りでした。もちろん私の眼には校舎の落書きが見えるだけで、どうして校舎に落書するのだろうと思うのみでしたが。

 そんな小学生の時代を思い出し、またこうして空襲に遭った写真を見るにつけ、私たちの街にも空襲があったんだと胸を熱くします。怒りがこみ上げます。再び、故郷をこんな姿にしてはいけないと思います。
 3月19日は、名古屋の空襲の犠牲者を忍び、ピースあいちでも慰霊祭を行います。特別展も催します。ぜひお出かけ下さい。そして2階の写真をぜひ、ご覧ください。
14. 原爆の死―原爆症 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
原爆の死―原爆症
桑原勝美
ピースあいち・メールマガジン[第14号]2011/1/25



 広島で被爆し髪の毛がかなり抜け落ちた少女が横たわる(2階、“命の壁”)。脱毛、下痢、発熱などは急性放射能障害、原爆症を暗示する。
 広島、長崎の被爆直後、国民の戦意喪失を恐れた当局の検閲に配慮し、報道機関は実相を伝えなかった。さらに終戦直後から講和条約発効(52年)までの間、米軍を主体とする連合国軍総司令部(GHQ)が占領政策遂行上、報道関係に厳しい規制(プレスコード)を敷いたため、原爆症を含む被害の実態は国民に知らされなかった。一方、米国の報道事情はどうであったか。原爆投下から3週間ほど後、米国の報道陣が廃虚と化した広島、長崎に入り、見聞した残酷な様相について本国へ送信したが、その多くが米国当局の検閲にかかり、中でも原爆症に関わる報道は抑制された。

 ところで、長崎への原爆投下直後、米国は原爆を一発も所有していなかったという(但し、プルトニウム核と起爆装置は別個に準備)。この時点で、もし、原爆地獄の実相が米国を始め世界中の人々に知らされていたら、核兵器の非人道性・国際法違反を弾劾する声が世界中に巻き起こって核廃絶の世論が定着し、「核抑止論」は登場してこなかったのではないだろうか。

 だが、米国では人的悲惨を国民には伝えないという指針に沿って、核情報(放射能の影響や原爆症など)の守秘に向けた報道規制が続けられてきている。日本で大問題となった第五福竜丸事件が過小に報道されるに留まったこと(54年)、スミソニアン博物館における原爆展開催企画が中止に追い込まれたこと(95年)などはその一環である。こうした報道規制が行われる一方で、「核抑止」を名目に核兵器開発が続き、遂に核テロまで憂慮される深刻な事態を招いてしまった。オバマ氏が米国大統領としては初めて核廃絶への理念を表明したが(09年)、その後に行われた未臨界核実験については説明されていない(10年)。

 “命の壁”の原爆症の少女は、この世界の動きを見つめ続ける。なぜ戦争を止められなかったのか、なぜ核兵器が使われたのか、なぜ……、なぜ……と問いかけながら。
13. 学問・思想への弾圧 小林多喜二 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
学問・思想への弾圧 小林多喜二
安井真理子
ピースあいち・メールマガジン[第13号]2010/12/25



 「学問・思想への弾圧」のパネルの右上には、1933年3月20日に特高(特別高等警察)の拷問で殺された小林多喜二の写真があります。多喜二を見守る友人たちの悲痛な思いが、見る者の胸に突き刺さってきます。多喜二の死因は、翌日心臓麻痺だったと発表され、敗戦後まで真実が公表されることはありませんでした。

 1981年刊行の『吉里吉里人』の中で、すでに憲法第9条を取り上げていた井上ひさしさん(今年4月9日に急逝)の最後の戯曲が、小林多喜二を描いた『組曲虐殺』であったことは、とても意味深いことのように思われます。井上さんは、劇中多喜二に「絶望から希望へ橋渡しする人がいないものだろうか……いやいないことはない。」と語らせ、「愛の綱を肩に 希望めざして走る人よ (中略) あとにつづくものを信じて走れ」と歌わせています。これらの言葉をしっかりと受け止め、未来につないでいく役割を、微力ながら果たすことができたならと思い、私はピースあいちのボランティア活動に参加しています。
 『組曲虐殺』をご覧になりたい方は、DVDがありますので、ご連絡ください。
12. ジョー・オダネル氏の思い出 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
ジョー・オダネル氏の思い出
乳井公子
ピースあいち・メールマガジン[第12号]2010/11/25


 私の手元に一冊の写真集があります。表題は『トランクの中の日本〜米従軍カメラマンの非公式記録〜』。
 その中の1枚が、2階展示室の写真パネルの中にある、亡くなった幼い弟を背負い、悲しみをこらえ唇を噛み締めて、直立不動で真っ直ぐに前を見据えている少年の写真です。著者は従軍カメラマンとして原爆投下後の長崎・広島を訪れたジョー・オダネル氏。

 今から15年前の1995年、戦後50年ということで各地で様々な企画展が開催されましたが,そのひとつとして氏の写真展が名古屋で開催されました。
 会場に足を運んだ私は、たまたま来場していたオダネル氏ご本人と幸運にも話をすることができました(もちろん通訳さんを介してですが)。氏はスラリとした長身で、物腰の柔らかな紳士然とした方でした。
 私が「多くのアメリカ国民が『原爆のお陰でアメリカ・日本の双方に多くの犠牲者を出すことなく戦争を早く終わらせることができた』と信じているようですが、どう思われますか?」と尋ねると、「私はそうは思いません。もし仮にそうだったとしても、広島・長崎に原爆を落としたことは間違っていたと言えます。それは私が被爆地の惨状を目の当たりにしたからです」とはっきり言われたのです。

 氏は奇しくも2007年8月9日、85歳で生涯を閉じました。その後、ご子息がインターネットで写真を公開していることをNHKスペシャルで放送していました。
 公開した当初は『もともと戦争をしかけてきた日本が悪いのに、その日本に同情するような写真を公開するな』といった批判を浴びることが多々あったが、イラク戦争終結頃から『原爆投下はこんな悲惨な結果しか生まないのだ』という意見も聞かれるようになり、アメリカ人の原爆投下に対する見方が変わりつつあるのではないかという番組の内容に、半世紀近く辛い記憶を封印してきた氏が『多くの人に原爆の惨状を知ってほしい』との思いで、写真のネガの入ったトランクを開けた気持ちが少しずつではありますが広がっているような気がして、救われた思いを抱きました。
 私は2階展示室に行きあの写真を見るたびに、存命中は決して心休まることのなかったであろうオダネル氏が、今は天上で穏やかに過ごしておられることを願わずにはいられません。
11. 「生きて虜囚の辱を受けず」 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
「生きて虜囚の辱を受けず」
後藤茂昭
ピースあいち・メールマガジン[第11号]2010/10/25



 これは、1941年1月8日、陸軍大臣東条英機が示達した訓令「戦陣訓」の中の一節である。
 2階展示室の右側の「15年戦争」の展示パネルの半ばを越えたあたりの展示台に「戦陣訓」と書かれた小冊子があり、その隣に「生きて虜囚(捕虜)の辱(はずかしめ)を受けず」の部分が開いてある。
 この一節が多くの玉砕、自決を生んだ。これは、軍人向けの訓令であるが、それにとどまらず、軍属そして沖縄戦に見られるように民間人にまで大きな影響を与えた。捕虜になった人の家族は非国民として非難され、それが兵士を玉砕死から逃げられなくした。さらに、相手国捕虜に対する扱いにも反映し、戦後のBC級裁判で「捕虜虐待罪」で処刑者を出した原因にもなっている。
 刀折れ矢尽きてなお、玉砕を強いられた兵士の心境は想像を絶する。愛する妻や子や親や恋人に思いを馳せながら散った英霊は靖国神社に祀られている。そして、それを強いた東条英機もまた靖国神社に祀られている。
10. 「原爆ドーム」鉄製模型 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
「原爆ドーム」鉄製模型
吉岡由紀夫
ピースあいち・メールマガジン[第10号]2010/9/25



 展示場の真ん中に、縦横90センチメートル重さ60キロの無惨に被爆したドーム部分と建物、目の前の元安川の岸には力をふりしぼって川へたどり着こうとする被曝者の姿が正確に復元された鉄製の模型が展示されています。作品製作者は熱田区の(故)高木昇さんです。太平洋戦争中に愛知時計の工場で働いておられ、空襲の体験者でもあります。妻の鈴子さんは「平和への思いを込めて製作しました。原爆や戦争を考える場に展示されることで、主人の意思が伝わればありがたい」と語られています。

 私の母(1945年8月6日当時19歳)は呉市に住んでいます。呉市から広島市までは直線距離で約25キロぐらいですが「西の方角に、晴れているのに大きな花火みたいなものがとても明るく見えた」と言っています。呉市に住んでいるときは原爆関連のニュースは毎日報道され、原爆について小さいときから興味・関心がありました。18歳から名古屋市に住んでいますが、原爆についての話題はあまり報道されません。だから余計に、「ピースあいち」のような資料館に展示されている鉄製の「原爆ドーム」は、後世に平和の大切さを伝える貴重な展示物だと思います。
9. 傷痍軍人の写真 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
傷痍軍人の写真
神谷俊尚
ピースあいち・メールマガジン[第9号]2010/8/25



 私は昭和19年兵庫県北部の山中で生まれ、空襲等は知りません。私にとって戦争の記憶は「ピースあいち」2階展示室出口にある、「戦争は終わったが……『平和の中に残る戦争』」の展示にある傷痍軍人の写真です。この写真は、はっきりと幼い頃の記憶を呼び覚ましてくれます。

 4歳頃姫路市郊外の練兵場跡に引越し、年に数回市内の繁華街に連れて行ってもらった。当時国鉄姫路駅から姫路城(白鷺城)に向けて商店街が賑わっていた。その辻ごとに白い帽子に白の病衣をまとい、ギターやアコーディオンなどを弾いてお金を集めている姿があり、両親に「なんであの人立っているの?」と聞くと「戦争で怪我をしたの」と説明されてもぴんとこなかったこと、その人数の多さも強く印象に残っている。

 この8月上旬にベトナム・カンボジアを旅し、カンボジア 首都プノンペンキリング・フィールド(カーリング・エク)、トゥライアングル・スラング(虐殺博物館)シエムリアップ市(アンコールワットの里)地雷博物館、国立アンコール美術館等を見学してきた。入場口は穏やかだが、出口付近には内戦による戦傷者や戦後の地雷による被害者が、観光客にお金を求めて集まってくるし、露天の飲食店では戦傷者、被害者が絵葉書・本の購入を求めてくる姿に多く接した。
 ベトナム 首都ホーチミン ベトナム戦争証跡博物館内では枯葉剤(ダイオキシン)による、ほとんど全身不随の被害者がベトナム楽器を合奏している場面に遭遇した。今なおアジア・世界の至るところで戦火にまみれ、多数の被害者がいる現実を、再認識させられ胸を絞め付けられた。「ピースあいち」の展示物が過去の遺産ではなく、世界のどこかで今なお現実であることを、1人でも多くに方々に知ってもらいたい。
8. 第2展示「戦争の全体像・15年戦争」ほか [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
第2展示「戦争の全体像・15年戦争」ほか
稲田浩治
ピースあいち・メールマガジン[第8号]2010/7/25



 私も戦争を知らない世代の一人である。「空襲」も「学童疎開」も「灯火管制」も、実際には知らない。だから、ピースあいちに来ると学ぶことばかりである。
 最近最も関心を持って見ているのは、『第2展示 戦争の全体像 15年戦争』である。ここには膨大な情報が詰め込まれていて圧倒されるが、「十五年戦争」を総体として理解するのに、大いに役立っている。
 また、特別展にはさまざまの発見があって、刺激を受けることが多い。例えば、今回の『名古屋空襲を知る〜』では、米軍の資料により爆撃が綿密な計算に基づいて行われていたことなどが明らかにされていた。「学童疎開」についても、「疎開」が元来は軍事用語であることや、その意義が防空体制の足手まといの排除と将来の戦力の温存にあったという指摘には驚愕させられたものである。
 戦争体験をもつ人が減り、日本がアメリカの戦争に関与を深める今日、戦争を学ぶ場として、あるいは平和を発信する拠点として、ピースあいちの存在はますます重要になると思う。微力ではあるけれど何か力になれれば幸いである。
7. ゾウ列車がやってきた [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
ゾウ列車がやってきた
庭山輝男
ピースあいち・メールマガジン[第7号]2010/6/25

※「ゾウ列車…」の展示は2010年8月にリニューアルされ、現在は「戦争と動物たち」として3階に展示されています。写真は現在です。




 6月のある休園日、東海大地震を想定した東山動物園での避難訓練に孫と一緒に参加した。そのおり、アジアゾウ舎のそばの「ゾウ列車」の50周年記念モニュメントが気になった。それは、3月からボランティアとして通いはじめた「戦争と平和の資料館ピースあいち」の2階展示室の出口付近に「ゾウ列車」を語り伝えるためのコーナーがあったからだ。

 「ゾウ列車がやってきた」というコーナーは、「動物たちの苦しみ」「くりかえされた防空演習(1939年頃から)」「ぞうを守った人たち」「戦争がおわった・・・子ども議会のお願い」の4部作になっており、1939年からの動物たちの飼料の確保から始まり、軍の動物たちを殺す命令が出されるなか、「2頭のゾウ」が奇跡的に生きのび、戦後、全国の子ども達が東山動物園にゾウを見にやってくるまでの過程を、当時の新聞記事などを展示して解説・紹介している。

 戦争はいつも弱い者を最大の犠牲者にしている。誰が何と言おうと戦争ほど愚かしく、苦しく、悲しいことはない。
 私の今できることは、明日に生きる子ども達に歴史的事実を伝える環境づくりのお手伝いをするとともに、まずは、15年戦争等の歴史的教訓を正しく受けとめることのできる知識を意図的に吸収することからはじめたい。

東山動物園の「ゾウ列車」モニュメント
6. 靖国の子ども [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
靖国の子ども
杉江加代子
ピースあいち・メールマガジン[第6号]2010/5/25



 「ピースあいち」に行くたびに、一人の人の人生がその意志とは無関係に狂わされてしまう戦争の恐ろしさを痛感します。
 それを私に強く感じさせるパネルの1枚が、かしこまって表彰されている年端もいかぬ少年の写真です。緊張のため固くなった身体、こわばった表情の中の健気さ。父は戦死、母も亡くし、ひとりぼっちになり不安で泣きたい気持ちであったろうに、周囲の大人に「靖国の子どもだろう」と叱咤激励されて壇上に上ったのかもしれない。
 親戚に預けられたか施設に入れられたか、やがてこの少年も赤紙がきて戦争に送られたかもしれない。無事に生きて戻れただろうか等々、戦前戦後の歴史を振り返りながら考えます。2階にあるこの1枚の写真が私に訴えてくるものは大きく、いつも足を止め見つめます。
 幸せになろうと思って生まれてくる人が、ほとんどそうならず強権的に辛苦を強いられるのは本当に不条理です。私はこの少年が奇跡的にであれ戦後を生き抜き、平穏に人生を送ったと思いたい!
5. 畳3枚の町屋 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
畳3枚の町屋
森島典子
ピースあいち・メールマガジン[第5号]2010/4/25



 「ピースあいち」が開館して4年目を迎えるのもすぐだ。受付、2階・3階展示室の当番をボランティアとして月2回手伝っている。建物自体に大きさはないが、その展示面積に対する内容の充実は工夫と知恵が生かされ、なかなかのものだと思う。
 2階常設展示室の出口近くに戦争中の生活の様子が垣間見られる畳3枚ほどのコーナーがある。当時の日常を知る年代にとっては懐かしい思いもあろうが、あの日々はもう厭だと感じる人も多いはずだ。
 時折このコーナーに小学高学年の子どもたちが来て「さわってもいいの」と、興味深そうに瀬戸物のアイロン、馬糞紙を固めて着色した洗面器(縁の一部破損で素材がよくわかる)、色など発色の悪い粗末なカルタ、メガホンなどを手にして見ている。
 「どうして戦争中はこんなもので作られたのかな」そして「今はどんな素材で作られているのかな」と質問すると、「え、わかんない…」と。そこからこれらを通して一般市民の戦争中の話となる。
4. 名古屋城炎上 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
名古屋城炎上
阿部 孝子
ピースあいち・メールマガジン[第4号]2010/3/25



 「ピースあいち」の二階に入った正面に「名古屋城炎上」の大きな写真が掲げてある。1945年5月14日、名古屋城は空襲により焼失した。1973年に当時新聞記者だった私はその瞬間を取材したことがある。現在はホテルになっているが、戦争は堀を隔てて城を一望できる病院がありそこに勤務していた女性看護士Aさんが生々しく思い出を語ってくれた。
 その日、名古屋快晴。その病院は陸軍病院ではなかったが、Aさんたちは忙殺されていた。空襲警報発令。焼夷弾が雨のように降ってきた。「患者さんを避難させなければ・・・」。必死だった。すさまじい黒煙と烈風。「お城が燃えている!」。炎に包まれた城はやがてガクッと堀に崩れ落ちた。「ああ、落城だ!」。
 みんな手を合わせて拝んだ。Aさんが堀端にへたり込んだ自分に気がついたのは、ずっと後だった。黒煙が空一面を覆ったため、日中の空襲にも関わらず、夜と錯覚していた人もいたという。
3. 豊川海軍工廠の惨事 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
豊川海軍工廠の惨事『麗し女生徒の未来を想像して』
廣瀬眞由美
ピースあいち・メールマガジン[創刊3号]2010/2/25



 『愛知の空襲の展示』コーナーのなかでも、「豊川海軍工廠の爆撃写真」と「当時3年生(8回生)の出動記念写真」は、戦争のむごさを目の前に突きつけているようだ。

 豊川海軍工廠で戦場の兵士に送る銃や弾丸、双眼鏡、特殊潜望鏡など兵器を昼夜生産していたのは、豊川・豊橋・長野・北陸から集められた女子挺身隊と呼ばれた高等女学校生徒や学徒5万6千人だった。親元から離れ寄宿舎生活を送る彼女たちの様子は、展示室の写真が教えてくれる。セーラー服の上着を着ているものの、まだ幼さの残る純真な顔が、どこか心細さを訴えているように見える。

 豊川海軍工廠は、1945年8月7日午前10時13分から39分までのわずか26分間に、B29爆撃機なんと124機によって250キロ爆弾3256発、813トン投下の波状攻撃を受け、およそ2500人以上の犠牲者を出した。
 広島原爆投下の翌日であり、終戦まであと8日だった。きっといつものように、工場で朝から懸命に働いていただろう少女達の真剣な姿を想像すると、胸がいっぱいになる。

 展示室の陳列台にある「堀部智恵子の学徒動員と豊川海軍工廠の日記」、そして「葬儀弔辞」は、亡くなった彼女のご家族と友人たちの無念さを65年後の今日までずっと訴え続けている。
 「友と一緒の5人の少女たち」のセピア色の写真は、利発そうな彼女達の未来をどれほど暗示していただろう。彼女たちが、大人になってどんな夢を持ち、職業につき、恋愛をし、家庭を築き、何人の子どもや孫が生まれたか……。
 そんな未来を一瞬にして奪うのが、戦争だということを多くの人に伝えたいと思う。

 最後に、「九死に一生を得た松操高等女学校生徒の証言」は、私に平和な今を生きる幸せを教えてくれた。感謝したい。ありがとう。
2. 『あたらしい憲法のはなし』 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
『あたらしい憲法のはなし』普天間基地問題等、国防のあり方にも寄せて
佐藤和夫
ピースあいち・メールマガジン[創刊2号]2010/1/25



 ピースあいちの展示物のうち私が一番感銘を受けたものは、2階展示室に展示されている黄色い表紙の小冊子『あたらしい憲法のはなし』という文部省(現文科省)発行の教科書です。
 なかでも、「戦争の放棄」の項は感動的であり、いま問題となっている普天間基地問題やアメリカの核の傘の必要性等、国防問題や世界平和のあり方を考えるうえでの大きなヒントになると思われます。

 『あたらしい憲法のはなし』は、当時の慶応義塾大学の浅井清法学部長の執筆によるもので、1947(昭和22)年8月、新制中学1年生の社会科教科書として文部省が発行しました。
 当時13歳だった人のなかには「それまで戦争、戦争の連続だったのに、軍隊がなくなって戦争ができなくなるなんて、こんな素晴らしいことはないと思った。もう、バンザイでした」と、当時のこの教科書との出会いの感想を語られる人もいます。

 しかし、この教科書は、朝鮮戦争が始まった1950(昭和25)年には副読本に格下げされ、再軍備の高波に飲み込まれて、その翌年には学校から消えていきました。わずか3年ほどの命だったわけですが、最近になってこの教科書のことを知った私にとっては、身震いするほどの感銘をうけた内容で、今や平和問題を考えるうえでの「バイブル」ともなっています。

 ピースあいちは、自らの使命を「戦争という20世紀の負の遺産を、歴史の教訓として次代に伝え、平和のために役立てるよう……」うたっていますが、この『あたらしい憲法のはなし』のように、「平和のために、今」を考えるうえでヒントになるような資料がたくさん展示されています。みなさん、ぜひご来館いただきますように。

 『あたらしい憲法のはなし』「戦争の放棄」の項は比較的短い文章なので、ここに紹介します。(改行は編集部でしました。)
//////////////////////////////////////////////////////////////////////////戦争の放棄

 みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで家やうちの人をなくされた人も多いでしょう。

いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。

だから、こんどの戦争をしかけた国には大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう二度とやるまいと、多くの国々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。

 そこで、今度の憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これは、戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。

しかし、みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

 もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国はさかえてゆけるのです。

 みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また、戦争を二度とおこさないにいたしましょう。以上
1. 焼き場に立つ少年 [2011年05月30日(Mon)]

■常設展示から
焼き場に立つ少年
ピースあいち・メールマガジン[創刊号]2009/12/26



 2階の常設展示にある「命の壁」コーナーは、戦争の現実を知ってもらおうという写真で成されたコーナー。本土で、中国で、沖縄で、何が起きていたのかを来館者に衝撃的に訴えます。「焼き場に立つ少年」は、静かに、そして厳しく、戦争の残酷さを物語っています。

 10歳くらいの裸足の少年がおんぶ紐で赤ちゃんを背負って、直立不動の姿勢でいます。焼き場で順番を待っているのです。背中の赤ちゃんはすでに亡くなっているのでした。
 「その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気がついたのは。少年があまりきつく唇をかみしめているため、唇の血は流れることもなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました(「写真が語る20世紀 目撃者」より)」。撮影者のアメリカ空爆調査団公式カメラマン、ジョー・オダネル氏は話しています。

 オダネル氏は私用のカメラでこの写真を撮り、検閲を逃れるため戦後もフィルムを保管していたそうです。
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