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扶桑町立扶桑東小学校で体験談 [2012年01月31日(Tue)]

2012.1.30(火)
 1月27日(金)、扶桑東小学校へ語り手の会の島村悦子さんと一緒に出かけました。この学校は毎年この時期に戦争体験者の話を聞く会を開催してみえて、昨年は八神邦子さんに行っていただいて、このブログでも紹介しました。その時の模様が学校のホームページで紹介されたことも嬉しいことでした。
 今年も、同様にホームページに出ています。

         1月27日(金)6年…戦争体験のお話を聴く会の実施

  6年生では,ピースあいち語り手の会から,会員の島村さんと竹川さんをお招きして「戦争体験のお話を聴く会」を開きました。
 島村さんは,神戸市で戦時中を過ごし,岡山県への学童疎開や神戸大空襲に遭遇した経験をおもちです。
 この下に3枚の写真が載っていますが、転載できません。
 【扶桑町立扶桑東小学校】で検索してご覧になってください。

Uさんの奇蹟の戦争体験 [2011年12月02日(Fri)]

                                           11.12.2(金)
 昨日12月1日、東海市の小学校で6年生の児童を相手に戦争体験者の話を聞く平和学習授業があった。
 語り手は名古屋市天白区に住むUさんである。現在97歳の高齢だがしっかりしてみえる。
 すでに30歳になっていた昭和19年6月、二度目の応召で入隊し、7月に下関港から輸送船「扶桑丸」に乗船したが、どこの戦地へ行くのかは知らされなかった。
 扶桑丸は大阪商船所属の大型輸送船(8195トン)だったが、昭和16年陸軍に徴用されたものである。
 台湾の高雄までは平穏な航行だったが、高雄を出航してからは毎日警戒警報が鳴り、7月31日ついに敵の攻撃を受けて沈没、Uさんは海に投げ出されてから数時間の地獄のような体験の後、奇跡的に日本軍の戦艦に救助された。
 多くの犠牲者を出してもなお、Uさんらはマニラに上陸、南方のザンボアンガまで移動して塹壕の構築作業などで数か月を過ごしたという。
 昭和20年5月ごろになって、米艦数十隻が沖合いに集結し艦砲射撃が始まった。その強烈な破壊力にどうすることもできずただ退却するのみであった。
 ジャングルの中を逃げ回りつつ、突撃隊も結成されたがいずれもその後の行方は不明である。飢えと病気との闘いで次から次へと仲間が死んでゆく中、10月頃になってついに米軍の捕虜となった。現地人には罵倒され石を投げられたが、皮肉にも米兵に守られた。そして昭和21年2月復員することができた。
 Uさんは、奇蹟の連続で生還できたが、亡くなった戦友の無念さは計り知れない、戦争はもうあってはならないと訴えられた。
 年が明けると98歳になるというUさんであるが、記憶をたどりながらとつとつと話すその姿と話の内容に心が打たれた。
 約40分間の話を子どもたちは一言の私語もなく真剣に聞いていた。扶桑丸が沈没し、Uさんらが荒波にさまよう様子をUさんが自ら絵にし、それをパワーポイントに仕立てての臨場感にあふれた体験談であった。
 Uさんが結びとした「敗戦後の長い平和は尊いものであり、これからも皆さんに守り続けてもらいたい」という言葉は、子どもたちにも深く伝わったに違いない。
                                                H・T記
S小学校6年生の質問 [2011年07月29日(Fri)]

O市立S小学校での平和学習支援事業
 去る7月14日(木)S小学校において、仲直敏さんを語り手として平和学習支援事業を実施しました。
 同校の6年生全員120名が図書室に集まり、床に座っての事業でした。
語り手の仲さんは、長崎での被爆体験をいつものようにじっくりとそしてとつとつと心をこめて語ってくれました。
 このほど、その感想が子どもたち全員から送られてきました。その中に戦争に対する疑問や仲さん自身への質問が幾つかありました。語り当日の14日には質問は余り出ませんでしたが、その後感想文を書く中でいろいろな疑問が湧いてきたのでしょう。
 そこで、仲さんへの質問は仲さんにお答えいただくとして、次に掲げる質問についてはどなたでも自由に回答してください。このブログで集めて私(竹川)が学校へ送りたいと思います。皆さんよろしくお願いします。
質問1
  なぜ日本は太平洋戦争を起こしてしまったのですか。
質問2
  なぜアメリカはあんな恐ろしい原子爆弾を広島と長崎に落としたのですか。
質問3
  なぜ日本は強力なアメリカと勝ち目のない大戦争をしたのですか。またなぜ天皇はもっと
 早く負けを認めなかったのですか。早く認めていたらこんなに多くの人が死ぬことはなかっ
 たの

              ピースあいち語り手の会 竹川
11年夏休み「戦争体験者の語りシリーズ」 [2011年07月01日(Fri)]

◇期日・時間  8月2日(火) 〜 13日(土) (10回) 毎日午後2時 〜
◇ 会 場    ピースあいち 1F
◇ 参加費    無 料









◇語り手とテーマ  
  < 期日 >   < 語り手 >        < テーマ >
 8月2日(火)   乾  正男 さん   空襲  学童疎開
    3日(水)   鬼頭 駿  さん   広島原爆  
    4日(木)   鶴添 繁  さん   学童疎開 
    5日(金)   足立 美枝子さん   兄の玉砕 空襲
    6日(土)   森下 規矩夫さん   空 襲

   9日(火)   小島 鋼平 さん   空襲 疎開 地震
  10日(水)   丹辺 文彦 さん    学徒動員
   11日(木)   鶴   勲   さん   熱田空襲
  12日(金)   山田 芙美代 さん   模擬原爆爆弾 
  13日(土)   野村 義治 さん   戦艦大和隊員 
「語り手の会」が開かれた [2011年06月07日(Tue)]



 2011年5月30日の午後、「ピースあいち・語り手の会」の第3回例会が「ピースあいち」で開かれました。野間美喜子館長と斎藤孝代表の挨拶のあと、竹川日出男事務局長が10年度の活動を報告しました。
 県下の小中学校へ出掛ける訪問授業は、12校(児童・生徒773名)、語り手は14名。毎年恒例となった8月の「戦争体験を語る会」は10日間(聴衆は284名)、語り手10名、「ピースあいち」独自の語り手の派遣と来館の団体見学30団体(2,352名)での語り手は、延べ36名という実績でした。また、戦争体験手記の出版も報告されました。
 次いで、新年度の活動計画を承認。このあと参加者全員が活動報告や近況を披露しました。戦場・戦時体験、空襲被災、学徒動員、学童疎開、原爆体験、引き揚げ経験など様々な体験と近況を語り、成功裡に集いを閉じました。
語り手の会第3回例会開催 [2011年06月03日(Fri)]

 去る5月30日(月)の午後、ピースあいちで語り手の会第3回例会が開催されました。前日の29日には台風2号が紀伊半島沖を通過中で、雨、風とも強く、愛知県下各地で大雨・洪水警報が出るという状況でしたが、幸い30日には遠州灘沖に遠ざかり雨もあがって無事開催することができました。
 一宮、春日井、瀬戸、岡崎、半田などといった遠方からも合わせて26名の方々が参加されました。平成22年度の活動報告や23年度の計画などが示されたあと、参加者全員に一言ずつ発言していただきました。参加された皆さんはお元気で、最高齢は91歳の方がお二人見えました。皆さん、何らかの活動に参加したいとの意慾を示され、おおいに力づけられました。
 23年度も各種の語り事業を展開するほか、戦争体験の手記集の続編を発行することを目標に、その原稿の募集も提案しました。
 皆さんの発言が活発で、午後4時終了の予定が30分も延長し、充実して終えることができました。
名古屋空襲追悼の日津田さゑ子さんの詩 [2011年03月19日(Sat)]

「名古屋空襲犠牲者追悼の夕べ」で津田さゑ子さんが66年前の3月19日の空襲を詩にして語ってくれました。

   『大空襲の夜』
私が生まれた街   名古屋市中区御園町が   一夜で燃えつくされた夜を
今もはっきり憶えている

昭和20年3月19日の夜   空襲警報のサイレンが終わるや
B29が轟音を響かせ     大きな姿を現わした

着の身着のまま寝ていた私   「急いで」と母にうながされ
小走りで外に出てみれば    いつもと違うそのありさま
あちこちから焼夷弾の     煙と炎が立ちのぼる  

家族揃う術もなく   前に決めた場所目指し  広い通りへ出てみれば
逃げまどう人がひしめいて   大きな荷物をしょった人
重そうな大八車やリヤカーが  北へ 南へと流れて行く

乳母車を押す母は   3歳の妹をおんぶして  必死で歩く私を気づかう
中学2年生の兄は   重たくなった自転車を捨てたいのを
我慢して喘ぎながら引いていた

ゴーゴー バリバリと容赦なく  炎は街を嘗めまわす
焼けたトタンが空を舞い   大きな塊が飛び出して  小さな火の粉は雨霰

真昼のような明るさで   ビュービュー熱い風が吹く
小さな体は熱をおび    目 鼻 口は カラカラだ

目指すは前に焼けた跡   広い空地になっていた
ばらばらに家を出た母子  奇跡的に巡り会い  うれし涙が頬濡らす
ほっとする気も力無く   恐怖と疲れで眠れない

東の空が白む頃   霞の中で太陽が   白く丸く(まーるく)浮かんでいた 

父にはまだ逢えないと  不安の気持ちおし隠し  我が家へ向かうその道で 
目にとび込む光景は   くすぶり続く焼野原  
立ち木はどれも黒こげで  姉の指さすその先に  四角く残るデパートだけ 

ふと後方に目をやれば  大須観音がまるで  まっ赤なお椀を伏せたごと
きれいな形で焼け崩れ  今なお眼裏(まなうら)に残っている

ようやく我が家に辿りつき  くすぶり続ける焼跡に  呆然と立つ父を見た
幽霊でないとわかった時   互いの無事に感謝した

けれどこれから何処へ行く?  父と母は思案顔

その時父の旧友が  知多の方から自転車で  訪ね訪ねておにぎりを 
お見舞いとして下さった 
地獄で仏に会ったようで 皆んなで美味しく頂いた 人の情がうれしかった 

でも本心は味気なく  悲しい思いが増すばかり
自慢にしていたおひな様  兄の大切な本箱も  姉の新しいオルガンも
みんなみんな消え失せた

神風が吹いて勝つと言われた戦争は  多くのものを灰にして
子供や大人を苦しめる これが戦争ということなの? 幼い私にはわからない

私は中ノ町国民学校1年生  焼けた日を境に先生や友達に
一度も会うことはなかったのです
語り手と小学生との交流 [2011年02月26日(Sat)]

2011.2.26(土)
 先月1月26日にピースあいち語り手の会の八神邦子さんが、扶桑東小学校からの依頼で訪問されました。八神さんは学校で自分の戦争体験を語るのは初めての経験でしたが、自らの学童疎開体験を絵に描いて子供たちに分かり易く話されました。その模様は扶桑東小学校のホームページで紹介され、1月28日付けの当ブログでも紹介しました。
 この八神さんのお話を聞いた子供たちがその感想文を八神さんに送ったところ、感激した八神さんは早速お礼の手紙と疎開で作り方を覚えた紙のコマを生徒全員用に100個も作って送りました。
 このことが再び、扶桑東小学校のホームページで紹介されました。戦争体験の語りを通じて生まれたおばあちゃんと子供たちとのほほえましい交流でした。
小学校訪問 [2011年01月28日(Fri)]

 ピースあいち恒例の小学校語り手訪問を新年早々実施しましたので、ご紹介します。

 訪問先の小学校の先生が、学校ホームページに次のような記事を載せてくださいました。

≪1月26日(水)6年…戦争体験語り手の話を聞く!
6年生では,学校公開の5限に「戦争と平和の資料館ピースあいち」から戦争体験の語り手(八神邦子さん)を派遣していただき貴重なお話を聞くことができました。6限には,そのお話をもとに「平和について考える」時間を設けました。「ピースあいち」の皆さんには6限の授業参観に加わっていただくことができ嬉しく思っております。心からお礼申し上げます。
※「戦争と平和の資料館ピースあいち」は,インターネットを利用すると「ピースあいち」ですぐに検索できます。お願いをすると戦争体験の語り手を紹介していただけるとのことです。教育関係の皆さんへおすすめできるNPO法人です。≫