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五色のコンサートリポートT [2008年12月05日(Fri)]


           ヒロシマ・ナガサキ希望の翼  折鶴(木彫)  
作・籾倉積(杉並被爆者の会・杉並光友会 会長)




戦争・被爆・命…を芸術とともに見つめる舞台「ヒロシマ・ナガサキ平和の祈り 五色のコンサート ’08」が、盛会裏に終了しました。

リポートをお届けします。





前日までの寒さとは打って変わり抜けるような青空と陽光溢れる11月7日(金)、三年目を迎えた平和の舞台「ヒロシマ・ナガサキ平和の祈り 五色のコンサート」が杉並公会堂大ホールで開催されました。

大ホールは、「平和への語り継ぎ・芸術との融合舞台」に集った出演者・ボランティアを含め総勢約1200名の熱気で溢れ、小・中・高校の校長先生や生徒会長さん、専門学校・大学関係の皆さん、親子やご家族、障害者福祉関係の方々・団体・メディアの方々など幅広い分野の皆さんがともに非核平和への思いを深めるひと時となりました。
 




開催に魁け、山田宏杉並区長さんから届いたお励ましの電報をご紹介します。

「五色のコンサートのご開催にあたり、お祝いを申し上げます。
本日のコンサートの成功により、平和のメッセージが一人でも多くの人々に届きますよう
心よりお祈りいたします。 
                               杉並区長 山田宏」
  

             





クローバー主催者ごあいさつ
クローバー開催に寄せて ご挨拶 杉並区文化交流課 課長・青木則昭氏

クローバープログラム:
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First Stage

梯剛之 ピアノ 
弦楽五重奏 (日本フィルハーモニー交響楽団有志による)


サウンド・オブ・ミュージック・メドレー
シューベルト:ピアノ五重奏曲 op.114 D.667イ長調「ます」より第4楽章
シューベルト:四つの即興曲op.90 D.899より「第3番」変ト長調
ベートーベン:「エロイカ」の主題による15の変奏曲とフーガ変ホ長調op.35

Intermission

Second Stage

命の短歌/ 伊藤明彦作     朗読:たかむら花美


「ひとつ」               ピアノ:高橋晴美    

「父の被爆体験を語り継ぐ」    語り部:吉田みちお

合唱   「ひとつ」 Cantare 〜歌よ大地に響け〜  ピースネット合唱団/合奏団アンフィニ

                  グランドフィナーレ
ごあんない              山本ミッシェール   
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ピアノFirst Stage 
サウンド・オブ・ミュージックメドレー

ヴァイオリン・神尾あずさ 平井幸子 ヴィオラ・新井豊治  チェロ・江原望 コントラバス・成澤美紀の皆さんによる演奏、この日のために特に選曲して下さいました。

オーストリアのザルツブルク。1938年のナチス党政権下のドイツによるオーストリア合邦(アンシュルス)及び第二次世界大戦の前夜を舞台に繰り広げられるミュージカル。ジュリー・アンドリュースの美しい歌声と美しいスイスの山々の映像で大ヒットとなった「サウンド・オブ・ミュージック」は、反戦・亡命・家族のきづなをテーマにした名作として、今も愛され続けています。






絵弦楽五重奏の演奏が終わり水を打ったように静まりかえったホール。
梯剛之さんがステージへ。
 自らの演奏と言葉を通じて音楽の素晴らしさを子どもたちに伝える活動を続けている全盲の世界的ピアニスト・梯剛之さんは、「五色のコンサート」の趣旨に賛同し、出演をお引き受けくださいました。




梯さんの指先から紡ぎだされる透明で繊細な調べが満場の人々を魅了。

「初めて、梯さんのピアノを生で聴いた。胸が震えました。」
「神経を集中して空気を澄まし、やがて指さきからあふれてくる音。かつてこんなピアノ演奏を聴いたことがない。心が何か…溢れました。」など、たくさんの感動の声が寄せられました。



ピアノ梯さんの「平和のメッセージ」をご覧いただけます。


「'08 ヒロシマ・ナガサキ平和の祈り 五色のコンサート」リポートUにつづく
’08平和の舞台ごあいさつ(主催者) [2008年12月04日(Thu)]



「日本も核開発を検討すべき。核兵器を保有すべきである。」

昨年、若手国会議員の中からこの議論が持ちだされ、国会で論議されたことがラジオ・テレビ・新聞などのニュースで報道されました。

63年前の夏、人類史上かつて無い大量殺戮、想像を絶する阿鼻叫喚の「ヒロシマ・ナガサキ」の惨状を「この地上のどこかに再び繰り返す危険性」を創り出そうとする議論が、わが国の国会議員の中から起りました。


「地球上唯一、原爆の惨劇を体験した国・日本」は、既に、戦争も原爆も体験していない若い世代が国政を担い、経済社会のトップに立ち、国を動かす時代が到来しています。


わたしたちが「ヒロシマ・ナガサキ」を忘れるとき、核の惨劇は再び地上にもたらされ、地球を破壊することになりはしないでしょうか…。

1945年8月6日・ヒロシマ、8月9日・ナガサキに投下された原子爆弾は、美しい水と緑の町々を瞬時に焼き尽くし、20数万人とも言われる人々の命を奪い、また、命を取り留めた被爆者たちに原爆の後遺症による肉体的な苦痛と筆舌に尽くしがたい精神的苦しみをもたらし続けています。


わたしたちが「ヒロシマ・ナガサキ」を忘れるとき、人類は再び核兵器を使用し、私たち自身を、家族を、日本の友人を、世界の友を、そして故郷を、一瞬にして「ヒロシマ・ナガサキ」の惨劇の最中(さなか)へ投げ入れはしないでしょうか。




誰もが、願って止まない平和な生活、家族の笑顔と安らぎ…。
ヒロシマ・ナガサキの原爆犠牲者と被爆者は、ひたすらに未来を生きる人々に伝えています。


「この惨劇と苦しみを、いかなる国、いかなる人々にも味わわせてはならない。この過ちを決して繰り返してはならない。未来に生きる皆さま、どうか幸せに生きて…」と。

 
私たちが「ヒロシマ・ナガサキ」を忘れることなく、子どもたちに継承し続けるとき
人類が、否、私たち日本人が「ヒロシマ・ナガサキ」を全世界に継承していくとき

それは核の惨劇を地上に再びもたらすという、人類に再びあってはならない過ちを制止する力となり、核の無い平和世界実現の源流となるのではないでしょうか。




 わたしたちは今、ひとりひとりが、非核平和を築くかけがえの無い「一粒の種」になることができる時代に生きていると存じます。

 本日の「ヒロシマ・ナガサキ平和の祈り 五色のコンサート ’08」の機会が、身近な花や動物たちへのいたわり、家族・友への思いやりを育み、「命・戦争・被爆・平和」について、未来を担う子どもたちとともに見つめ語らうきっかけとなりますよう、祈って止みません。



NPO法人風の船 船長 
五色会運営委員会 委員長 リーヴス弥生





開催に寄せて  [2008年12月03日(Wed)]

開催に寄せて

杉並区区民生活部文化・交流課長 青木 則昭  





「ヒロシマ・ナガサキ平和の祈り 五色のコンサート」の開催おめでとうございます。
音楽や映像をとおして、人々に広く平和について語りかけるこの試みが、昨年に引き続き盛況に行われることをお喜び申し上げます。


 ご案内のとおり、杉並区は原水爆禁止運動発祥の地として、区民の平和への意識はたいへん高く、核兵器廃絶の願いを明確にした「杉並区平和都市宣言」が行われてから20年が経過いたしました。


 杉並区では、平和のポスター展を友好都市である韓国のソウル特別市瑞草区と合同で実施しているほか、平和のロビーコンサートの開催などをつうじて、区民とともに平和に向けた取組みを行っています。

 さまざまな人々が、世代や国籍を越えてそれぞれの立場から平和への取組みを行うことが、子どもたちに明るい未来を引き継ぐために大切なことと考えます。



「ヒロシマ・ナガサキ平和の祈り 五色のコンサート」が、平和への貢献に向け今後さらに発展していくことを期待しております。

  本日の開催に向けご尽力なさったNPO法人風の船の理事長様をはじめスタッフの皆様、ご来場の皆様の益々のご健勝を祈念いたしまして私のごあいさつといたします。




五色のコンサート・リポートU [2008年12月02日(Tue)]

空と海がとけてひとつ…♪

歌声が静かに会場を満たして




司会の山本ミッシェールさんが語りかけます。



「1992年、ブラジル・リオの環境サミットで12歳の女の子がスピーチしました。
カナダから1万キロ、お金をためて環境サミットにやってきたセバン・カリス・スズキです…」





合唱:ピースネット合唱団'08  ピアノ伴奏:高橋晴美さん   指揮:高橋裕さん

ミッシェールさんの「ヒロシマ・ナガサキ平和の祈り 五色のコンサート」リポートもどうぞご覧下さい。





「ヒロシマ 1945年8月6日 午前8時15分 地上580メートル
ナガサキ 1945年8月9日 午前11時2分  地上500メートル

人類史上初めての原子爆弾“原爆”が二つの都市の上で爆発しました…   」






リポートVにつづく

リポートV 命の短歌・朗読〜語り継ぎ [2008年12月01日(Mon)]

命の短歌 /伊藤明彦作      朗読:たかむら 花美


この短歌は、元長崎放送記者・伊藤明彦さん(原爆証言取材の第一人者・被爆者の声を記録する会・代表)が、ヒロシマ・ナガサキにて証言取材中に詠まれたもので、「ヒロシマ・ナガサキ平和の祈り 五色のコンサート」の舞台開催にあたり、ご提供下さったものです。




伊藤明彦作・原爆歌集より

光りたる一瞬 万物沈黙す
       かかる静寂 かつてなかりし




目の前のドームの窓ゆ火をすいて
       やがてふきだし 燃え上がりけり



熱線は 摂氏五千度 
       爆風は秒速 三百五十メートル



蚊帳カーテン パラソル幔幕 スフ人絹
       照射一瞬 着火炎上



黒焦げの人体襲う 衝撃波
       皮膚肉とわず 剥ぎとりにけり



幾万の黒焦げのひと歩み行く
       無言沈黙無念 黙々



ぼろのようワカメのようとひとらみな
       言うは剥げたる人間の皮



妹につきささりたる木を抜けば
       大出血を恐れもどしぬ



耳がない 目がない 鼻までないではないか
        人間の顔 かくもl変われり


わしゃあ ここで参らせていただくけえ
        あんたひとりで逃げてつかあさい





安らかに眠りたもうな
       あやまちをくりかえすがに「美しい国」








クローバーたかむら 花美 プロフィール



朗読を始めて二十五年、朗読塾パローラ、風舎を経て、現在「無名塾劇朗読逢読会」所属。

個人活動としては、朗読とことばの会「ことばの舟」主宰。世田谷、大田、板橋などで毎月シニア朗読サロンを開く。
 また、地域での折々の朗読講座やコンサート活動なども行っている。日本語の美しさ、ひとりひとりのオリジナルな楽器である声を通して伝える言葉の可能性など、朗読表現の展開をライフワークとして活動をしている。



東京都認定福祉朗読専門者
シニアルネッサンス財団認定 シニアライフアドバイザー 

















ピアノ:高橋晴美 「ひとつ」作詞・作曲

五色のコンサート リポートWにつづく
リポートW 父の被爆体験を語り継ぐ [2008年11月30日(Sun)]

「父の被爆体験を語り継ぐ」
 
語り部・吉田みちお 被爆二世






吉田みちお プロフィール

1958年、東京生まれ。1983年、東京大学文学部哲学科卒業。長崎原爆の被爆者である吉田一人(ジャーナリスト、杉並光友会〈杉並区原爆被爆者の会〉幹事)の長男。
2つの出版社に勤務し、看護師向け月刊誌「ナース専科」編集長などを経て、現在はフリーランスで医療、健康関連の書籍、雑誌記事の取材、執筆などに携わる。最近手がけた書籍には、『最強のC型肝炎治療法』(飯野四郎著、講談社)、『不安症を治す』(大野裕著、幻冬舎)などがある。
2005年の夏に、父の被爆体験を聞き取って小冊子『カンちゃんの夏休み』を製作し、友人知人らに配り始める。これがしだいに読者を広げ、朝日新聞、東京新聞、NHKラジオなどでも取り上げられ、3年間で約3,000部を配布した。





みなさん、こんばんは。吉田みちおと申します。

出版関係の仕事を、今はフリーでやっていて、今年で50歳になります。私の父親は、長崎原爆の被爆者です。今日は、そんな父と私のことをお話ししたいと思って、いまこうしてこの場所に立っています。
 どうかよろしくお願いいたします。(拍手)



 私の父は子どものころ、家族や周りの友達から、カンちゃんと呼ばれていました。今から63年前のあの日、カンちゃんは13歳、長崎中学校の2年生。下宿先まで帰る途中に、たまたま会った同級生と道端で立ち話をしていた、そのときの出来事でした。

 突然、周りじゅうが真っ白になりました。ズシーンと地面から突き上げられるようにして、体が宙に浮き、十数メートル吹き飛ばされて、角の板塀に打ちつけられました。そのまま地面に落ちて、目と耳を手でおおい、うずくまる。何も音がしない。どれくらい時間が経ったかもわからない。そっと目を開けても、周りじゅう土色で何も見えない。自分が生きているのかどうかも、わからない。

 どこかから火のついたような赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、カンちゃんは、自分が生きているんだと気がつきました。目の前の雑貨屋さんの商品や家具が、撒き散らかしたように道に積み挙げられています。家から飛び出してくる人たちは、ガラスの破片で顔や腕から血を流しています。

だけどカンちゃんは、板塀にぶつかった腰の辺りは痛いものの、大きなケガはありませんでした。

 1945年8月9日、午前11時2分、長崎に落とされた原爆を、13歳のカンちゃんはそんなふうに体験しました。

そのときカンちゃんが立っていた場所は、爆心地から南東に約3キロの地点で、その間には金比羅山という山があります。爆心地から2、3キロというと、翌日でも地面や建物が熱かったというほど、原爆のものすごい熱線に襲われているのですが、カンちゃんはそのとき、ひどく熱かったという記憶はないと言います。高さ366メートルの金比羅山が、熱線をやわらげてくれたのでしょうか。


 でも、もっと幸運だったことがあります。というのも、カンちゃんはその日の朝早くから、国鉄の長崎駅にいたんです。長崎駅は、爆心地から南に約2.4キロで、間には爆風や熱線をさえぎるものもなく、原爆によって大きな被害が出ています。駅の建物は焼け落ち、国鉄の職員が何十人も亡くなり、一般の市民にどれくらいの被害があったのかは、正確なことは今もわかりません。


 カンちゃんが生まれ育ったのは、長崎市から東に50キロほど離れた、雲仙岳の麓、小浜という小さな温泉町です。カンちゃんは、県立の長崎中学に通うために、親元を離れて長崎市で下宿生活をしていたのですが、その日はふるさとの小浜に帰るキップを買いに、長崎駅に来ていたのです。

 朝早く起きて長崎駅まで来たのに、まだ開いていない窓口の前に、長い行列ができていました。これではキップが買えるまでにずいぶん時間がかかるかもしれないと、カンちゃんは覚悟しました。

 午前8時ごろ、空襲警報のサイレンが鳴り、みんないっせいに防空壕へと逃げ出します。そのときカンちゃんは、わざとゆっくり防空壕に向かって、出入口の近くに入り、しばらくたって空襲警報が解除になったときには、いち早く飛び出して、前よりもかなり早い順番にもぐり込みました。そうして、原爆投下の30分ほど前、10時半ころにキップを手に入れて、長崎駅を離れたのです。

 行列に元の順番で並んでいたら、原爆が落とされた午前11時2分に、まだ長崎駅にいて、大ケガをしたか、死んでいたかもしれません。

空襲警報の後で要領よく早い順番を取って、命拾いをしたわけです。
爆風で十数メートル吹き飛ばされましたが、命は無事で、大ケガもせず、その後、原爆のせいで深刻な病気にもなりませんでした。
家族の誰かをなくすこともなく、家や財産も失いませんでした。


 だけどカンちゃんは、20歳を過ぎるころから、「待てよ」と思うようになりました。




あのとき長崎駅で、自分は早い順番を取って助かったけれど、それとちょうど逆に、空襲警報の後で、元より遅い順番になってしまい、原爆が落とされたときにまだ長崎駅にいて、大ケガをしたり、命を落とした人だっているはずだ。



 だとしたら、

自分が助かったのは、その人たちの大ケガや命と引き替え、そういうことになるんじゃないか……。


いったんそう考え始めたら、そんな思いが胸の中で鉛の固まりのようになり、いつまでも離れず、だんだん大きくなっていきました。


 カンちゃんは、高校時代まで長崎で過ごし、18歳のとき東京に出てきて、やがて通信社の記者として働き始めますが、その後もずっと、言葉ではなかなか表せないそんな思いを抱えたまま、生きてきました。本職のかたわら、被爆者たちの活動に若いころから取り組むようになり、それは76歳になる今も続いています。


 私は、そんなカンちゃんの長男として、東京で生まれ育ちました。自分の父親が長崎の被爆者だということは、ちょっと変な言い方ですが、原爆とか被爆者とかいう言葉の意味もよくわからない幼いころから、知っていました。


 毎年8月9日、長崎の平和式典が行われ、NHKのテレビ放送を父と母と一緒に見ていて、午前11時2分が近づくと、父も母も部屋の中で立ち上がり、私も立たされて、一緒に黙禱をしようと言われました。

子どもなので黙禱が何なのかもよくわからず、父や母のまねをして、目をつぶって下を向いていました。そんなことを通じて、長崎で原爆という大変な出来事があり、僕のお父さんも、そのときそこにいたんだということは、なんとなく知っていました。

 でも、中学生、高校生になって、戦争や原爆のことを学校で習ったり、自分で本を読んだりするようになっても、そんな父の体験を詳しく聞こうとしたことはなかったし、父のほうから話すこともありませんでした。


 それは、20代で会社勤めをするようになっても、30代になっても、変わりませんでした。
とにかく自分のことで忙しかったし、それにもしかしたら、戦争とか原爆とか、そんな昔の話はもういいじゃないかと、なんとなく遠ざけるような気持ちも、自分の中のどこかにあったのかもしれません。

 けれども、自分が40歳を過ぎて、父が70代に入ったころから、父の長崎での体験を、今のうちにちゃんと聞いておいたほうがいいんじゃないだろうかという気持ちが、だんだんふくらんできました。

それがいつごろからなのか、自分でも正確にはわかりません。ただ、そのころから、原爆とか被爆者とかいう話題について、以前とは少し違った感じ方をするようになってきたことを、いくつか覚えています。


 鎌仲ひとみさんという女性監督が撮った、『ヒバクシャ 世界の終わりに』という映画を見たときのことです。

広島や長崎の原爆被爆者、湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾の被害者、アメリカの核兵器工場があったハンフォードの住民、さまざまな形での核兵器被害者たちを追跡したドキュメンタリー映画です。


 その作品の中で、監督の鎌仲さんは、それぞれのヒバクシャたちを、とても大事に、まるで宝物のように扱っていました。この人たちがいてくれるからこそ、私たちはいま、核兵器とその被害という大切なテーマと、真剣に、リアルに、身近な気持ちで向き合えるんだ。鎌仲監督のそのような思いが、私に伝わってきました。


 そんなドキュメンタリー映画を見ながら、そのとき私の中では、「そうか、ヒバクシャはみんな大切な宝物なのか。それなら、俺の父親も長崎の被爆者なんだけどなあ」……そんな気持ちが、モゾモゾとうごめいていました。


 そして、今から3年前、2005年の5月に、父と一緒に長崎に行きました。
続きを読む・・・
リポートX cantare 〜グランドフィナーレ [2008年11月29日(Sat)]




各界よりお寄せ頂いた「平和のメッセージ」を司会の山本ミッシェールさんがご紹介していきます。

山田宏  杉並区長

永井徳三郎  永井隆記念館館長

廣野良吉   成蹊大学名誉教授

小峰彌彦   真言宗智山派曼荼羅寺観蔵院 住職

眞田芳憲   中央大学名誉教授 芳じゅ女学院情報国際専門学校校長

梯剛之     ピアニスト




「ヒロシマ・ナガサキ平和の祈り 五色のコンサート'08」も、いよいよグランドフィナーレを迎えます。

指揮:高橋裕さん、ピアノ伴奏:高橋晴美さん、合唱:ピースネット合唱団、合奏:アンフィニ有志のみなさん、語り部の吉田みちおさん、朗読・たかむら花美さんにも加わっていただき、参加のすべての皆様とご一緒に、世界の平和を祈り 歌います。
日本フィルハーモニー交響楽団有志・弦楽五重奏の皆様も、グランドフィナーレの演奏に加わってくださり下さり、会場&舞台ご一緒の平和の祈りに雅な音の”華”を添えてくださいます。

歌声よ世界に響け 平和の祈りを乗せて、 世界はひ・と・つ 〜〜〜♪



        会場すべての皆様が融和して…。



   高橋裕さんの微笑みと指揮に誘われて大合唱、安らぎのハーモニーは宇宙にも響きます。    


 









     舞台に流れるメロディーとことばたち…。
     「ひとつ」「Cantare 〜歌よ大地に響け」作詞・作曲の高橋晴美さんにも、大きな拍手が贈られます。拍手と光の輪の中の晴美さん‥。




  優しさと勇気と歓び…人々の心を震わせ、希望を奏でてくださった世界各国の舞台で活躍のピアニスト・梯剛之さんに、惜しみない拍手が贈られました。

 「平和への祈りと感動のひと時」をともに創った舞台出演の皆様、合唱指揮の高橋裕さん、合唱曲作詞作曲・高橋晴美さん、客席にご参加の皆様、この平和舞台実現のため裏方として支えてくださった全ての皆様に‥‥大きな拍手が鳴り止みません。


ひろく ひろく たかく たかく 鳴り止まない拍手…。


今日のこの舞台をあらたなきっかけとして、ご家庭から、地域、国へ、そして世界へと、皆さまの平和の願いを広く高く羽ばたかせて下さいますよう、心よりお祈りしてお別れいたします。
それでは、皆さまごきげんよう…。


Peace

リボン平和の舞台を支えてくださった皆様

主催:NPO法人風の船 
製作:NPO法人風の船 五色会運営委員会