「父の被爆体験を語り継ぐ」
語り部・吉田みちお 被爆二世吉田みちお プロフィール
1958年、東京生まれ。1983年、東京大学文学部哲学科卒業。長崎原爆の被爆者である吉田一人(ジャーナリスト、杉並光友会〈杉並区原爆被爆者の会〉幹事)の長男。
2つの出版社に勤務し、看護師向け月刊誌「ナース専科」編集長などを経て、現在はフリーランスで医療、健康関連の書籍、雑誌記事の取材、執筆などに携わる。最近手がけた書籍には、『最強のC型肝炎治療法』(飯野四郎著、講談社)、『不安症を治す』(大野裕著、幻冬舎)などがある。
2005年の夏に、父の被爆体験を聞き取って小冊子『カンちゃんの夏休み』を製作し、友人知人らに配り始める。これがしだいに読者を広げ、朝日新聞、東京新聞、NHKラジオなどでも取り上げられ、3年間で約3,000部を配布した。
みなさん、こんばんは。吉田みちおと申します。
出版関係の仕事を、今はフリーでやっていて、今年で50歳になります。私の父親は、長崎原爆の被爆者です。今日は、そんな父と私のことをお話ししたいと思って、いまこうしてこの場所に立っています。
どうかよろしくお願いいたします。(拍手)
私の父は子どものころ、家族や周りの友達から、カンちゃんと呼ばれていました。今から63年前のあの日、カンちゃんは13歳、長崎中学校の2年生。下宿先まで帰る途中に、たまたま会った同級生と道端で立ち話をしていた、そのときの出来事でした。
突然、周りじゅうが真っ白になりました。ズシーンと地面から突き上げられるようにして、体が宙に浮き、十数メートル吹き飛ばされて、角の板塀に打ちつけられました。そのまま地面に落ちて、目と耳を手でおおい、うずくまる。何も音がしない。どれくらい時間が経ったかもわからない。そっと目を開けても、周りじゅう土色で何も見えない。自分が生きているのかどうかも、わからない。
どこかから火のついたような赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、カンちゃんは、自分が生きているんだと気がつきました。目の前の雑貨屋さんの商品や家具が、撒き散らかしたように道に積み挙げられています。家から飛び出してくる人たちは、ガラスの破片で顔や腕から血を流しています。
だけどカンちゃんは、板塀にぶつかった腰の辺りは痛いものの、大きなケガはありませんでした。
1945年8月9日、午前11時2分、長崎に落とされた原爆を、13歳のカンちゃんはそんなふうに体験しました。
そのときカンちゃんが立っていた場所は、爆心地から南東に約3キロの地点で、その間には金比羅山という山があります。爆心地から2、3キロというと、翌日でも地面や建物が熱かったというほど、原爆のものすごい熱線に襲われているのですが、カンちゃんはそのとき、ひどく熱かったという記憶はないと言います。高さ366メートルの金比羅山が、熱線をやわらげてくれたのでしょうか。
でも、もっと幸運だったことがあります。というのも、カンちゃんはその日の朝早くから、国鉄の長崎駅にいたんです。長崎駅は、爆心地から南に約2.4キロで、間には爆風や熱線をさえぎるものもなく、原爆によって大きな被害が出ています。駅の建物は焼け落ち、国鉄の職員が何十人も亡くなり、一般の市民にどれくらいの被害があったのかは、正確なことは今もわかりません。
カンちゃんが生まれ育ったのは、長崎市から東に50キロほど離れた、雲仙岳の麓、小浜という小さな温泉町です。カンちゃんは、県立の長崎中学に通うために、親元を離れて長崎市で下宿生活をしていたのですが、その日はふるさとの小浜に帰るキップを買いに、長崎駅に来ていたのです。
朝早く起きて長崎駅まで来たのに、まだ開いていない窓口の前に、長い行列ができていました。これではキップが買えるまでにずいぶん時間がかかるかもしれないと、カンちゃんは覚悟しました。
午前8時ごろ、空襲警報のサイレンが鳴り、みんないっせいに防空壕へと逃げ出します。そのときカンちゃんは、わざとゆっくり防空壕に向かって、出入口の近くに入り、しばらくたって空襲警報が解除になったときには、いち早く飛び出して、前よりもかなり早い順番にもぐり込みました。そうして、原爆投下の30分ほど前、10時半ころにキップを手に入れて、長崎駅を離れたのです。
行列に元の順番で並んでいたら、原爆が落とされた午前11時2分に、まだ長崎駅にいて、大ケガをしたか、死んでいたかもしれません。
空襲警報の後で要領よく早い順番を取って、命拾いをしたわけです。
爆風で十数メートル吹き飛ばされましたが、命は無事で、大ケガもせず、その後、原爆のせいで深刻な病気にもなりませんでした。
家族の誰かをなくすこともなく、家や財産も失いませんでした。
だけどカンちゃんは、20歳を過ぎるころから、「待てよ」と思うようになりました。
あのとき長崎駅で、自分は早い順番を取って助かったけれど、それとちょうど逆に、空襲警報の後で、元より遅い順番になってしまい、原爆が落とされたときにまだ長崎駅にいて、大ケガをしたり、命を落とした人だっているはずだ。
だとしたら、
自分が助かったのは、その人たちの大ケガや命と引き替え、そういうことになるんじゃないか……。
いったんそう考え始めたら、そんな思いが胸の中で鉛の固まりのようになり、いつまでも離れず、だんだん大きくなっていきました。
カンちゃんは、高校時代まで長崎で過ごし、18歳のとき東京に出てきて、やがて通信社の記者として働き始めますが、その後もずっと、言葉ではなかなか表せないそんな思いを抱えたまま、生きてきました。本職のかたわら、被爆者たちの活動に若いころから取り組むようになり、それは76歳になる今も続いています。
私は、そんなカンちゃんの長男として、東京で生まれ育ちました。自分の父親が長崎の被爆者だということは、ちょっと変な言い方ですが、原爆とか被爆者とかいう言葉の意味もよくわからない幼いころから、知っていました。
毎年8月9日、長崎の平和式典が行われ、NHKのテレビ放送を父と母と一緒に見ていて、午前11時2分が近づくと、父も母も部屋の中で立ち上がり、私も立たされて、一緒に黙禱をしようと言われました。
子どもなので黙禱が何なのかもよくわからず、父や母のまねをして、目をつぶって下を向いていました。そんなことを通じて、長崎で原爆という大変な出来事があり、僕のお父さんも、そのときそこにいたんだということは、なんとなく知っていました。
でも、中学生、高校生になって、戦争や原爆のことを学校で習ったり、自分で本を読んだりするようになっても、そんな父の体験を詳しく聞こうとしたことはなかったし、父のほうから話すこともありませんでした。
それは、20代で会社勤めをするようになっても、30代になっても、変わりませんでした。
とにかく自分のことで忙しかったし、それにもしかしたら、戦争とか原爆とか、そんな昔の話はもういいじゃないかと、なんとなく遠ざけるような気持ちも、自分の中のどこかにあったのかもしれません。
けれども、自分が40歳を過ぎて、父が70代に入ったころから、父の長崎での体験を、今のうちにちゃんと聞いておいたほうがいいんじゃないだろうかという気持ちが、だんだんふくらんできました。
それがいつごろからなのか、自分でも正確にはわかりません。ただ、そのころから、原爆とか被爆者とかいう話題について、以前とは少し違った感じ方をするようになってきたことを、いくつか覚えています。
鎌仲ひとみさんという女性監督が撮った、『ヒバクシャ 世界の終わりに』という映画を見たときのことです。
広島や長崎の原爆被爆者、湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾の被害者、アメリカの核兵器工場があったハンフォードの住民、さまざまな形での核兵器被害者たちを追跡したドキュメンタリー映画です。
その作品の中で、監督の鎌仲さんは、それぞれのヒバクシャたちを、とても大事に、まるで宝物のように扱っていました。この人たちがいてくれるからこそ、私たちはいま、核兵器とその被害という大切なテーマと、真剣に、リアルに、身近な気持ちで向き合えるんだ。鎌仲監督のそのような思いが、私に伝わってきました。
そんなドキュメンタリー映画を見ながら、そのとき私の中では、「そうか、ヒバクシャはみんな大切な宝物なのか。それなら、俺の父親も長崎の被爆者なんだけどなあ」……そんな気持ちが、モゾモゾとうごめいていました。
そして、今から3年前、2005年の5月に、父と一緒に長崎に行きました。