この秋、心を伝えてくださるお二人 [2007年07月12日(木)]
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この秋、心を伝えてくださる語り部のお二人をご紹介します。
平和を願って、来る11月1日に「二度とあってはならない人類の深い痛み」被爆体験を伝えて下さるお二人、芳賀順子さんと原田英俊さんをご紹介します。 お二人のお話から、私達が「平和な未来を築くために学ぶこと」は計り知れません。 ■会場と日時 2007年11月1日(木)午後6時30分開演 セシオン杉並・大ホール 「ヒロシマ・ナガサキ平和の祈り 五色のコンサート」にて 芳賀 順子(はが じゅんこ)さん 杉並光友会(杉並被爆者の会) 1934年佐賀県武雄市生まれ。 被爆地、広島。被爆状況の区分は入市。 ![]() 1945年8月(当時11歳)広島県佐伯市に疎開中だったが、家族全員で広島市内の兄を捜索して二次被爆した。 1957年大学卒業後、県立高校の教諭を勤める。結婚後子供3名、孫4名(いずれも健康)。現在夫と二人暮らし、主婦。兄は旧制高校広島高等学校理乙2年在学中に被爆、現在も行方不明。父は被爆一年後、原爆症により死亡。 長かった自称教育ママの時期も無事完了をして、3人の子どもたちのそれぞれの巣立ちも見届けることができ、ようやく自分の時間が持てるようになった。一昨年の11月に母から託されていた故兄の遺品を広島原爆資料館の方に納めさせて頂くべく広島に参って、感無量だった。 展示された遺品が、先輩の方の目に留まり、同窓の輪の投石となったとのお知らせを頂戴し、嬉しく思っている。 あの日から60年、被爆という予期せぬ運命の時から、幾度となく迎えた人生の軌道修正―。“あの日さえ無かったら…”とそのハードルの前で涙が流れたこともあった。然し、その度に神や仏にお守り頂き、“前のみを向いて生きる!”という母の背の無言の教訓に導かれつゝ、無事成長出来たと感謝している。 日本の人口の80%以上の方々が、戦後生まれという現代、第二次大戦、そして被爆を体験した残り少ない日本人の一人として、繰り返さないで欲しいわが国の歴史の一過程と、当時に生きた先人たちが願って止まなかった平和の尊さ、大切さに対する切なる思いを一言でもお伝えできればと思っている。 原田英俊(はらだ ひでとし)さん 72歳 ![]() 杉並光友会(杉並被爆者の会)副会長 「被爆と母への思い」 1935年(昭和10年)長崎市生まれ。 1945年(昭和20年)8月9日、長崎市旭町(爆心地より2.5km)で被爆。 物心ついた国民学校4年生(10歳)で当時の事は62年の前の事であり鮮明では無いが多少記憶としては残っている。私の家族は両親、兄弟姉妹10人であるが、その内8人が被爆体験者である。 父を早い内に亡くし、母1人で8人の子供を育て上げてくれた母への感謝の気持ちは今でも忘れる事が出来ない。22歳の時結核を患い1年累年、卒業と同時にある建設会社に入り日本の経済成長と平衡して猛烈な会社人間として数多くの大型の建物を建ててきた。 65歳頃から若い頃からの無理が祟り体調を壊しいろんな病院で検査をしてきたが原因が掴めず68歳の時、腹部大動脈瘤を発見、人工血管置換手術をして命を取り止めた。被爆した時の放射能が原因だと考え2006年3月原爆症認定集団訴訟の申請をしたが10月に却下された。国の原爆症認定の基準が、殆どの人が「ガン」で、被爆距離が2km以内であり私の心臓血管系の病気は被爆時体内に入った放射能との因果関係が不明であるとの理由であった。 私はこれから何年かかるか解らないが現在の医学がその因果関係が解明される事を信じて核兵器の廃絶の願いと共に二度とヒロシマ・ナガサキの惨事を繰り返さない為に若い世代の人達に語り継ぐ草の根運動を続けていきたいと思っている。 ★ このブログのご案内役、風の船の船長も戦争を知りません。 ご一緒に語り部の方々のお話を聴き、学び、未来に生きる皆さんとともに平和のために心と手をつないで行きたいと願っています。 被爆体験者の皆様に残されている時間はとても限られています。 どうぞみなさま「命への慈しみ」 のゆえに語り継がれる真実を聴きにいらしてください。 ■会場と日時 2007年11月1日(木)午後6時30分開演 セシオン杉並・大ホール 「ヒロシマ・ナガサキ平和の祈り 五色のコンサート」にて お問い合わせ先:NPO法人風の船 電 話 :03−6410−7031 ファクス:03−6410−7032 Email: kazenofune@gol.com |






