3年弱前、アジアの障害関連事業の担当になった時は、若干途方にくれた。
病気なら、経験上少しは想像がつく。しかし、障害を持つ人の心情や置かれている状況については想像がつかない。
他の人たちとのつきあいとなんら変わることはない、と言われたけど、障害に対しふわふわと実感のない私の意見や態度が、現実からずれたものにならないかどうか自信がなかった。
その、空を漂う風船のような自分を地上に引き戻し、一気にピントを合わせてくれたのが、「当事者主権」という本である。
障害問題を社会的マイノリティ問題ととらえなおすこの本は、障害のあるなしに関わらず、当事者の抱える問題を解決できるのは当事者である、と説く。社会には様々な構成員がおり、そのなかには当然、女性、子供、高齢者、病人、障害者など、社会的に弱い立場に置かれた人々もいる。これらの立場はまた、一定ではなく、様々な事情によって移り変わっていく。昨日のマジャリティが、今日のマイノリティになったりする。つまり、誰でも人生のどこかでマイノリティとしての自分を意識する瞬間と、それによる不自由を感じたことがあるはずだ。自分のことなのに自分で決められない、当事者でない人たちに主権を侵され、自分の生活や生き方を決定づけられるおかしさ。
障害分野には、なんの知識も経験もなかったけど、「当事者の問題を当事者が解決する」重要さ、そしてそれが必ずしも許されていない社会構造については、理解できる気がした。
それで、すとんと地に足がついた。
以来、3年弱という短い期間に、今後の人生に役立つヒントをたくさんいただいた。なかでも、「コミュニケーション」について考え直すきっかけをいただいたことは、最良のギフトだったと思っている。
初めてそれを意識したのは、ろう者の会議に出席したときである。
私に限らず、聴者は、「伝える」=「相手に言葉を投げること」だと考えている節がある。しかし、私の知る限りでは、ろう者は違う。「伝える」という行為は、相手が受け止めるまでを指す、と考えている(と思う、たぶん)。
それは大きな違いを生む。相手の受け取り方を確認するためには、その場のコミュニケーションに常に集中していなければならない。相手の状況を知り、その「場」に身も心もおいてないとできないことなのである。
当たり前のことのようでいて、案外難しい。誰でも、会話中、どこかで心ここにあらずになる時間があるのではないか。音声コミュニケーションには、そういう特徴がある気がする。身の入らない話が始まると、会話はとたんにBGM化してしまい、記憶は断片的なものになる。しかし、ところどころ聞きかじっておけば、なんとなく会話は成り立ってしまったりする。
しかし、手話は違う・・・と思う。それは視覚的な言語であり、うっかり動きを見落とすと、内容がすっぽり抜けてしまう。常に話し相手をよく見て、意識を集中させておかなければならない。また、ろう者が聴者と会話する時、音声での会話において相手が自分の意図したところを正確に汲み取れているかどうか、確認し辛い。曖昧にしておくと大きな誤解が生じるかもしれないし、いったん誤解が生じてしまったら、第二言語の音声日本語でこれを解くのは骨が折れる。かくして、かどうかはわからないが勝手に解釈しているが、ろう者のコミュニケーションに対する意識は総じて高く、相手に「伝える」という行為に対する責任感が違う気がする。
わからなければ、わかるまで繰り返す。手話だけでなく、表情も動作も入る。コミュニケーション上手な人の話たるや、役者も真っ青な表現力で、本当にびっくりしてしまう。
もうひとつ、コミュニケーションの力を目の当たりにして心を動かされた経験がある。それはクロスディスアビリティの国際会議の風景だ。ろう者、視覚障害者、肢体不自由、知的障害、多様な障害を持った人々が、一堂に会しそれぞれのお国での自助活動について説明するのだが、プロジェクターを使うと視覚障害者は見えない。部屋を暗くすると、ろう者が手話を読みにくい。知的障害者もいるので、わかりやすい単語を使った方がいい。そもそも外国人同士なので、難しい表現が入ると伝わりにくい。
そんなコミュニケーションのトライアスロンみたいな状況で、全員が理解できるような話ができるのかと思ったら、案外できることがわかって驚いた。ひとりひとりに何度も語りかけ、理解度を確認する。動画を使ったら、状況を口頭でも説明する。抑揚をつける。笑いを入れる。たぶん、あの場で鍛えられたプレゼンは、世界中どこの誰を相手にしても説得力のある、わかりやすいプレゼンになっていたと思う。
人に伝わるプレゼンの真髄を見た気がして、それからはプレゼンのたびにその場の呼吸を思い出そうと試みている。うまくいく時といかない時があるが、少なくとも前よりは格段に伝わりやすくなったと思う。
私は、人生を通して「コミュニケーション下手」できている。自分がかなりその分野に劣るのは重々承知していたが、何がそうさせているかはよくわからなかった。単に、性格的なものだろうと思っていた。しかし、ろう者や視覚障害者が情報伝達の外的バリアを破る姿を見て、初めて自分の苦手意識の奥に張り巡らされた内的バリアの存在を意識することができた。
本当は、誰の前にもたくさんのバリアが存在している。それは、内から外からその人を取り囲み、いろいろな活動や未来の可能性を制限する。しかし、そのなかで暮らしていると、壁を壁と感じなくなってしまう。壁に囲まれた世界がすべてで、そのなかでどう折り合いをつけるかが重要、という気になったりする。
実際には、バリアは破れるものである。何度でも破って、人はバージョンアップすることができる。アジアの障害者支援活動は、人がその特性に磨きをかけるために、目の前に立ちふさがる壁にどう気づき、破りすてていくかのコツを、肌身にふれるような感覚で教えてくれた。
得がたい経験である。