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それでは、また [2011年02月16日(Wed)]


というわけで、8年弱。長かったようで・・・うん。やっぱり長かったですね。自分史の一章を日本財団で過した気がします。

これからのことを、少し。

私は日本財団で、民間の公益活動を経験させてもらって。今度は、できれば欧米の公益活動を内側から学びたいと思ってました。その上で、日本型の国際協力の強みを分析したり、国際社会で日本のプレゼンスを上げるために自分にできる活動をしていきたいと、思ってました。

でも、ひょんなことで、永田町の縁の下で働くことに。

私は政治からとても遠いところにいる人間なので、国政に関わるという選択肢があるとは思ってなかったのですが、日本の官・民両方の公益活動に関われるなら、それは願ってもないことです。

だから、微力ながら自分にできる範囲でお手伝いすることにしました。単純なロジから政策に関わる研究調査まで、仕事内容は多岐にわたりそうです。

お世話になりました。

笹川会長には、3年弱のハンセン病制圧活動担当時代に、特にたくさんお世話になりました。随行出張の緊張と疲れでしょっぱなからダウンしてしまった時、ベンチに寝転ぶ私にジャケットをかけてくださいました。大ボスなのに、いちスタッフの行動もすごくよく見ていて、ねぎらって下さる方です。

田南常務には、一番恥ずかしい姿をたくさん見せました。でも、周りが焦っていると逆にゆっくりと落ち着いた声で話して下さる方で、田南参謀がいてくださるところ、仕事が落ちることはなかったです。

大野常務は、いちスタッフかのように自分から動く方で。スタッフの方が後から追いかける形でしたが、事業の作り方とか、関係者への気遣いとかを、色々見て勉強させていただきました。

国際協力グループのみなさんにも、ほんとお世話になりました。送別会では、最後に私がやった一番ありえない仕事のミスの話で笑いをとろうと思ってましたが、時間切れになったので、また今度会えたときに。

日本財団の上司と先輩と同僚と後輩の、すべての方に感謝します。


最後に。やっと新しいブログ立ち上げました。

こちらです。

たまに見て、笑って下さったら嬉しいです笑顔

それでは、また。
日本財団スピリット [2011年02月14日(Mon)]


助成財団の仕事の王道、それは助成活動。

世の中を少しでもより良くするために活動している団体さんを、支援する。事業申請書を受け取って審査するのも重要な仕事だけど、最近は企画から遂行まで、団体さんと一緒に事業を作り上げていく事例も増えている。

たくさんの申請書、たくさんの相談者に会ってきた。しかし、多くは残念ながら助成が適わず、お断りすることになる。最初は、その仕事がとても難しかった。たくさんの想いをこめて持ってこられた企画を、結果的に否定することになる。しかし、「給料は嫌な仕事に対し、その対価として支払われる」という言葉を思い出しながら、職員の義務と割り切るよう努力した。

つっこまれないように、誤解を招かないように、気合いを入れて。きっと、肩肘張っていたことだろう。

でも、色々な事業に出会い経験を重ねるうちに、実はそうじゃないんじゃないかと思うようになった。

勿論、相談者は資金援助を求めてやってくる。しかし、それに対し日本財団が提供できる支援は、お金だけではない。長年助成活動をしてきた日本財団には、独自の情報と人材ネットワークがある。そこには、相談者が必要とするものも含まれているに違いない。

あまり感情移入すると断りにくくなる、と思っていたが、まずそのスタイルを止めた。私の知らない世界の事情、見たことのない技術、NGOの最新トレンド・動向などを知るチャンスである。興味を持ったら、その気持ちを殺さず素直に楽しむことにした。

お役に立ちそうな情報があったら、なるべく出すようにした。同じ国で活動する団体の情報や、似たアプローチ方法での先行事例を紹介してみる。日本財団は支援できなくとも、今は色々なかたちで寄付を集める方法があることを話したり。単に、自分の出張時のエピソードで盛り上がったりもした。

勿論、そんな話がどれだけ実際に役立ったかといえば、ほとんど何もならなかっただろうと思う。しかし、自分にも何か提供できるものがある、と思えば、そのポジティブな気持ちは相手にも伝わる。何もできることがないと後ろ向きな気持ちで会うよりは、ずっと通じ合える気がした。なんといっても、立場や方法が違うだけで、公益活動に従事する仲間であることには変わりはないのだ。そういう関係を作れると、自分のモーチベーションにもつながっていく。



お金を持つ組織というのは、強い。豊富な情報も人材ネットワークも、もとは日本財団の持つ資金力が引っ張り寄せてきたものだと思う。しかし、引力を保つためには、お金だけの力では不十分だ。ゆるぎない信頼を生むブランド力が要る。

日本財団には、日本財団が大切にしてきた理念があり、伝統がある。それは、身内びいきからなるべく離れて遠目で見てみても、決して悪いものではない気がする。

私は、なかでもほとんど国際協力分野で仕事してきたのでこの分野に特化して言うけど、私が日本財団の国際協力支援で最も好きなところは、「オーダーメイド」にこだわるところである。

アジアのプライマリーヘルスケアの向上のための伝統医療普及活動、ハンセン病回復者の尊厳や社会的自立を手助けする活動、障害者支援活動。どれをとっても、現地の事情や関係者などにより、やり方を変えている。こうと信じた支援を一律にやるのではなく、柔軟に対応を変える。その分、個別対応やそれに伴う事務量が増えるわけなので、いいかげん効率を考えた方がいいと思う時もある。しかし、その基本姿勢は財団の命だと思っている。

当事者による問題解決に結びつく支援をしよう、という姿勢も好きだ。当事者の問題は当事者にしか、本当にはわからない。そして、その解決を誰よりも望んでいるのも、当事者である。だから、その問題を根本的持続的に解決するためには、当事者こそが一番のプレイヤーになるべきであり、支援組織は彼らがそれをしやすい場と環境を作ることだと思う。

多国間にまたがる大きなネットワーク作りや、国際機関・政府・ローカルNGOとの協働体制作り、そして財団内でよく言うところの上(政府側)と下(草の根)からのアプローチなど、他にも日本財団らしい支援のかたちというのが、様々にある。

これらは、ひとつひとつ見れば別に目新しいコンセプトというわけではなく、どこのドナー組織でも多かれ少なかれ取り入れていることである。また、これらの「特徴」や「傾向」は、使い手によって良くも悪くもなったりする。

それでも、私がこれらを好きだと思えたのは、そこに日本財団スピリットがあると感じられたからだろう。

理念も伝統も、使い手の魂にひとすじ貫かれて初めてブランドになる、と思っている。だから、財団職員が財団スピリットを思う存分発揮して顔の見える支援活動をすることが、日本財団にヒト・コト・モノを呼び寄せ続ける一番の引力になる気がする。

初めの頃は、そういうことがよくわからなかったが、今はなんとなくわかる気がする。私の顔に、日本財団の色合いがうつる。私は私が信じる日本財団スピリットをどれだけ表現できたかな、と思う。
国際協力G送別会 [2011年02月11日(Fri)]


昨夜は国際協力グループで送別会を開いていただきました。楽しかったです。嬉しかったです。

日本財団のみなさんから色々お餞別もいただきました。

ありがとうございました。

今朝は、黒猫ティーセットでお茶をしましたよクローバー
最終日 [2011年02月10日(Thu)]


日本財団職員として、最後の出社日です。

さきほど、辞令をいただきました。

みなさん、本当に色々とお世話になり、ありがとうございました。今後もどこかでつながっていけたらと思います。社交辞令じゃなく、これからもガンガン連絡とってく所存ですからして、どうぞよろしくお願いします。

本当は本日でブログもかっこよく締めて終わろうと思ってたのですが、書きかけの記事が終わりきらなかったというヒヨコ汗オイオイ。最後まで書きたいから、ちょっと待ってくださいまし。あと数日だけ走るダッシュダッシュ!!!

昨日、おとといはなんだか眠りにくかったから、頭がじんじんします。

笹川会長に、優しい言葉をかけていただきました。これから、お世話になった皆さんにご挨拶して回りますバラ

バリアを破る力 [2011年02月08日(Tue)]


3年弱前、アジアの障害関連事業の担当になった時は、若干途方にくれた。

病気なら、経験上少しは想像がつく。しかし、障害を持つ人の心情や置かれている状況については想像がつかない。

他の人たちとのつきあいとなんら変わることはない、と言われたけど、障害に対しふわふわと実感のない私の意見や態度が、現実からずれたものにならないかどうか自信がなかった。

その、空を漂う風船のような自分を地上に引き戻し、一気にピントを合わせてくれたのが、「当事者主権」という本である。

障害問題を社会的マイノリティ問題ととらえなおすこの本は、障害のあるなしに関わらず、当事者の抱える問題を解決できるのは当事者である、と説く。社会には様々な構成員がおり、そのなかには当然、女性、子供、高齢者、病人、障害者など、社会的に弱い立場に置かれた人々もいる。これらの立場はまた、一定ではなく、様々な事情によって移り変わっていく。昨日のマジャリティが、今日のマイノリティになったりする。つまり、誰でも人生のどこかでマイノリティとしての自分を意識する瞬間と、それによる不自由を感じたことがあるはずだ。自分のことなのに自分で決められない、当事者でない人たちに主権を侵され、自分の生活や生き方を決定づけられるおかしさ。

障害分野には、なんの知識も経験もなかったけど、「当事者の問題を当事者が解決する」重要さ、そしてそれが必ずしも許されていない社会構造については、理解できる気がした。

それで、すとんと地に足がついた。

以来、3年弱という短い期間に、今後の人生に役立つヒントをたくさんいただいた。なかでも、「コミュニケーション」について考え直すきっかけをいただいたことは、最良のギフトだったと思っている。

初めてそれを意識したのは、ろう者の会議に出席したときである。

私に限らず、聴者は、「伝える」=「相手に言葉を投げること」だと考えている節がある。しかし、私の知る限りでは、ろう者は違う。「伝える」という行為は、相手が受け止めるまでを指す、と考えている(と思う、たぶん)。

それは大きな違いを生む。相手の受け取り方を確認するためには、その場のコミュニケーションに常に集中していなければならない。相手の状況を知り、その「場」に身も心もおいてないとできないことなのである。

当たり前のことのようでいて、案外難しい。誰でも、会話中、どこかで心ここにあらずになる時間があるのではないか。音声コミュニケーションには、そういう特徴がある気がする。身の入らない話が始まると、会話はとたんにBGM化してしまい、記憶は断片的なものになる。しかし、ところどころ聞きかじっておけば、なんとなく会話は成り立ってしまったりする。

しかし、手話は違う・・・と思う。それは視覚的な言語であり、うっかり動きを見落とすと、内容がすっぽり抜けてしまう。常に話し相手をよく見て、意識を集中させておかなければならない。また、ろう者が聴者と会話する時、音声での会話において相手が自分の意図したところを正確に汲み取れているかどうか、確認し辛い。曖昧にしておくと大きな誤解が生じるかもしれないし、いったん誤解が生じてしまったら、第二言語の音声日本語でこれを解くのは骨が折れる。かくして、かどうかはわからないが勝手に解釈しているが、ろう者のコミュニケーションに対する意識は総じて高く、相手に「伝える」という行為に対する責任感が違う気がする。

わからなければ、わかるまで繰り返す。手話だけでなく、表情も動作も入る。コミュニケーション上手な人の話たるや、役者も真っ青な表現力で、本当にびっくりしてしまう。

もうひとつ、コミュニケーションの力を目の当たりにして心を動かされた経験がある。それはクロスディスアビリティの国際会議の風景だ。ろう者、視覚障害者、肢体不自由、知的障害、多様な障害を持った人々が、一堂に会しそれぞれのお国での自助活動について説明するのだが、プロジェクターを使うと視覚障害者は見えない。部屋を暗くすると、ろう者が手話を読みにくい。知的障害者もいるので、わかりやすい単語を使った方がいい。そもそも外国人同士なので、難しい表現が入ると伝わりにくい。

そんなコミュニケーションのトライアスロンみたいな状況で、全員が理解できるような話ができるのかと思ったら、案外できることがわかって驚いた。ひとりひとりに何度も語りかけ、理解度を確認する。動画を使ったら、状況を口頭でも説明する。抑揚をつける。笑いを入れる。たぶん、あの場で鍛えられたプレゼンは、世界中どこの誰を相手にしても説得力のある、わかりやすいプレゼンになっていたと思う。

人に伝わるプレゼンの真髄を見た気がして、それからはプレゼンのたびにその場の呼吸を思い出そうと試みている。うまくいく時といかない時があるが、少なくとも前よりは格段に伝わりやすくなったと思う。

私は、人生を通して「コミュニケーション下手」できている。自分がかなりその分野に劣るのは重々承知していたが、何がそうさせているかはよくわからなかった。単に、性格的なものだろうと思っていた。しかし、ろう者や視覚障害者が情報伝達の外的バリアを破る姿を見て、初めて自分の苦手意識の奥に張り巡らされた内的バリアの存在を意識することができた。

本当は、誰の前にもたくさんのバリアが存在している。それは、内から外からその人を取り囲み、いろいろな活動や未来の可能性を制限する。しかし、そのなかで暮らしていると、壁を壁と感じなくなってしまう。壁に囲まれた世界がすべてで、そのなかでどう折り合いをつけるかが重要、という気になったりする。

実際には、バリアは破れるものである。何度でも破って、人はバージョンアップすることができる。アジアの障害者支援活動は、人がその特性に磨きをかけるために、目の前に立ちふさがる壁にどう気づき、破りすてていくかのコツを、肌身にふれるような感覚で教えてくれた。

得がたい経験である。
咲いた咲いた [2011年02月04日(Fri)]


お陽様の暖かさに、花のほころぶジンチョウゲ。もうすぐ春かな。わくわくわく。



パンジーさんたちも元気です笑顔ドキドキ小
国際協力という仕事 [2011年02月03日(Thu)]


もともと国際協力や社会貢献活動に興味は持っていたけど、日本財団に入会するまで、これがけっこうハードな仕事だということをあんまりわかってなかった。

まあ、体力勝負っていう感じはしていたけど、実は相当、精神的なタフさを必要とする職種だと思う。だから、この道を志した当時の自分に会えたら、もう一度よく考えろというかもしれない。というのは冗談だけど、一晩じっくり心構えを説き聞かせたい気はする。

最も難しく感じたことのひとつは、仕事に求められる「総合力」だ。事業全般の遂行管理を担当するプロジェクト・コーディネーターの役割は、決まった仕事を精度高く積み上げることというより、なんでもかんでもこなせること。プロジェクトを進めるために何が必要なのか、誰とどう分担したらよいのか、自分は今このとき何をすべきか、常に全体を見て判断していかなければならない。これだけきちんとやっていればとりあえず大丈夫、という「枠」がない。

それはつまり、高いコミュニケーション能力を求められる、ということでもある。コーディネーターの仕事の大半は「調整」だ。多くの場合、外部よりも内部との合意形成のほうが難しい。しかし、プロジェクトを安定的に支援するためには、まずは財団内のスタンスを一致させなければならない。また、外部の人々とのやり取りにしても、文化も習慣も違う人々と目指すべきゴールや細かな実施方法を共有し、途中ずれが生じないようにするのは、なかなか難しい。どんな状況にも柔軟に対応できる「調整力」を鍛える必要がある。

私は、日本財団の前にも監査法人で2年超働いていたのだけど、スタッフの役割や責任は予め明確に決められていて、良くも悪くもその枠を出ることは許されなかった。会議への出席も発言も、すべて上司のOKがあって初めて可能になる。ひとつの役割で成果をあげられて、やっと次のステージに進むことができる。私は、組織ってそういうものだと思っていた。

しかし、国際協力やその他の社会貢献活動は、専門的な仕事でもない限り、断じてそういうものではない。一係員でも、国の政策に関わることから現地スタッフ同士の仲間割れの仲裁まで、あらゆるレベルの問題に対応できないとならない。人手は常に足らないので、先輩のカバン持ちをしながら勉強しますと言っても、通らない。そんなに権限があるなら、雑務はしなくてよいのかといえば、そんなことも全くない。事務仕事は常に山盛りだ。

何かの本で、国際協力は人間力を試される、と書かれていたけど、ホントそのとおりだと思う。常に流動的で、プロジェクトの状況も関係者の立場も絶えず変わってくなかで、常に周りにアンテナを張り、必要な措置をこうじていかないといけない。「バランス感覚」を育てないと、簡単に流されたりおぼれたりする。

また、プロジェクトはどれも固有で競争相手がおらず、売上がいくらあれば成功といったわかりやすい指標がない。だから、各事業ごとに自分なりの価値基準、落とし所を作っておくこともとても大事だ。それが、コーディネーターの精神をストレスから守ったりする。

例え良い事業でも、自分の「伝える力」が不十分だと内外の評価を得られず事業の先行きに影響するので、説得力も鍛えた方がいい。しかし、いくら職務の幅が広くてもすべての事象をコントロールできるわけじゃなし、決定権者でもないのだから、やってダメなときは仕方ないと「開き直る」くらいじゃないと続かない。

私はどちらかといえばひとつのことをコツコツやっていくことが好きな性分なので、どんだけ向いてない仕事に就いとんねん、と、今でも自分につっこんでる。確かに面白いけど、上回ってストレスフルじゃい!!私の仕事で誰も死ぬわけじゃないけど、人の運命や国家のなにがしかの方向性まで左右され得るかも、なんて思うと、ずんとすべてを重く感じる。

しかし、この仕事はすごく自己鍛錬の場になった。結局、上記の事柄はすべて人間が社会で生きていくために大なり小なり必要とする力である。ただ、国際協力は、「常に人手の足らない状態のなかで、ばらばらな常識を持つ人たちが集まり、競争相手のいない活動をしながら、一緒にものを作り上げる」という、よりプリミティブというか、効率や合理性を追求しにくい世界であるために、個人の持つ力が残酷なくらい仕事に反映されてしまうのだ。

恥ずかしい思いもたくさんしたけど、この仕事に関わったために肌で学べたことも多い。子供っぽいようで、やっぱり人を動かすのは熱意や情熱だという真理や、失敗によって信頼は損なわれず、その後の対応によって人間性が決められるということや(だから失敗そのものにとらわれてはいけない)、「場」とそれを囲む人々の空気に溶け込み呼吸を合わせることが本当のチームを形作るコツであることや、その他いろいろな基礎力を実践指導してもらった。

プロジェクトの成否を決めるのは、常に人である。どんなにインフラが整い、恵まれた環境にあっても、キーパーソンが駄目だとプロジェクトは必ず失敗する。逆に、人がよければどんなに悪い状況下であっても成功につながっていく。国際協力のプロジェクト・コーディネーターをやってきて一番実感したのは、人一人の持つ影響力の強さだった。

私も、この人がいるからこのプロジェクトは大丈夫だと言われるようになりたい。まだまだ、道半ばではあるけれど。
国際開発に意味はあるか [2011年02月02日(Wed)]


国際開発という言葉には、独特の臭みがある気がする。

大国による民主主義の押しつけとか、援助漬けによる天然資源の獲得とか、国際NGOの華々しくも時に過激すぎる行為とか、それはいろんなところから立ち上ってくる。社会貢献の背後に見え隠れする政治や偽善の匂いが、人々の疑念を誘うんだろう。

90年代、私が初めて国際協力を仕事にすることを視野にとらえたとき、世の中は今よりもっと開発に懐疑的だった気がする。

現地の人々が長い歴史を通して築いてきたシステムを、外部の人間が変えることが果たして良いことなのか。という、根本的な問いが、よく投げかけられていた。

日本財団の海洋グループの海外事業課で1年、国際協力グループで6年半以上、国際協力に関わった今、昔の自分に言えることがあるとすると・・・。私はやっぱり、開発には意味があると思う。

無論、世の中には開発による様々な失敗例がある。それは、本来救うはずの人々を窮地に陥れたりする。

例えば、2006年の夏にブラジルを訪問した時のこと。綺麗な海岸線の続くフォルタレーサの近くで見た古いハンセン病療養所は、高い壁と鉄条門で外部から遮断されていた。暗くて重い空気の漂う場所だった。修道士たちによる必要以上の隔離政策と圧政。ハンセン病回復者の人々から聞いた話に、正義や善意というものの怖さを思い知らされた(当時のブログはこちら)。

入会してすぐに訪問したフィリピン(実はこれが初めての途上国経験でした)。空港からホテルに向かう道筋に並ぶバラックに、カルチャーショックを感じた。貧しさのレベルではなくて、こんな貧しさのなかにコミュニティがあり、人々がそれなりに楽しそうに生活をしていたことにびっくりした。

というのは、ニューヨークでの大学院生時代はハーレムの近くに住んでいたけど、黒人やヒスパニック系の暮らす貧困地区からは、そういう感じを受けなかったから。きらびやかなマンハッタンのなかで影の部分を背負う不満とか敵意とか、そんなものが渦巻いていて、私は貧しさとこうしたとげとげしい感情とをつなげて考えていた。でも、そうじゃない。語弊はあるかもしれないけど、貧しさは不幸の直接の原因とはなりえない。

同じ経験は、インドでもある。線路沿いの小さな村を訪ねた時。遠慮がちに触ってくる子どもたちの綺麗な目にびっくりした。こんな美しい目は見たことがないと思った。案内人が、彼らは外国人を見たことがないのですよと、ほほ笑んだ。不思議なことに、先進国に行けば行くほど、こんな目をした子供には会えなくなる。幸せの意味を考えてしまう。

そんな風に現場を回ってみると、開発というのは、しょせん先進国に生きる人間のひとりよがりではないか、という気もした。よかれと思った行動が、現地の人々を苦しめるリスク。もともとあった平和な社会を壊してしまうリスク。あの目が曇ってしまう社会は、どこかまちがっているような気もした。

それでもやっぱり、開発には意味があるかと問われたら、ある、と答えると思う。

より正確に言うと、社会問題に苦しむ当事者がその解決を望む時、外部の人がそれを手伝うことは必要で意味のあることだと感じている。

例え社会全体ではバランスがとれていても、女性がその意思に反して殺される社会はおかしいし、障害者が、家族や施設に頼り、自分で何も決められずどこにも出かけられないのは、おかしい。子どもが水を汲むために基礎教育を受けられず人生を制限されるのは、おかしいのだ。

人は生まれながらにして平等である、と謳われていても、実際には生まれは選べない。育つ環境も選べない。どんなに努力しても、結果は平等ではない。社会には、たくさんのやりきれないひずみがあったりする。それでも、フェアであろうとすることはまた、人間の持つ崇高な理想のひとつであると思う。

この世界を「フェア」に近づけるために一組織、人一人の力でできることがあるとしたら、それは機会だけは平等に与えられる社会の実現ではないか。

誰もが守られ、恵まれた環境で育つことができればそれが一番だ。だから、その道を追求することにも大きな意味があると思う。しかし、それはなかなかに実現することが難しい夢でもある。

が、せめて「このままではいられない、自分の人生を切り開くためならどんな努力もする。」そう思う人の前にはチャレンジする機会が与えられる社会を作ることは、小さなレベルから今すぐにでも始められることだと思う。職場から、コミュニティから、ひとつの村から、それは実現することができる。

開発というのは、つまるところ、個人の選択肢を増やし、自己決定権を持てる環境を作る行為ではないだろうか。

世界中の人が、例えばアーミッシュのように伝統的な生き方も現代的な生き方も、自分の意思と責任でもって選ぶことができる。私は、それが理想の社会だと思うし、国や組織や個人によるまっとうな国際協力は、例え短期的には成果が見えにくくても、世界を変える階段の一段一段を作る行為になっていると思うのだ。
退職のお知らせ [2011年02月01日(Tue)]
◇◆◇退職のお知らせ◇◆◇

ブログでは突然のお知らせとなってしまいますが、一身上の都合により、2月10日に退職いたしますのでご報告申し上げます。

2003年4月から8年弱の間、みなさんに支えられ、日本財団でプロジェクト・コーディネーターとして活動してきました。いろいろとご迷惑をおかけすることも多かったかと思いますが、良い方々に恵まれ、楽しく充実した毎日を送らせていただきました。この場を借りて、心より御礼申し上げます。

私は2年間、海洋グループに在籍し、国際的な海洋管理大学ネットワークの構築や、海の環境と安全を守るボランティアグループ「海守」でのイベント企画などを行ってきました。

その後、国際協力グループに異動し、6年弱の間、主にハンセン病制圧活動や、アジアの障害者支援活動を担当させていただきました。

どの事業も思い出深く、離れがたい気持ちです。

日本財団での仕事は、多種多様な人々 - 異文化を生きる方々や他人に真似できない専門性や志をもつ方々と出会えるという意味で、とても稀有なものでした。また、世界中、普通なら入れないような場所にも入り込み、その土地の現実をこの目で見ることができた経験は、得がたい財産となりました。

今後は、しばらくモラトリアム期間を設け、専門性や強みを身に付けた上で、今よりも社会に役立てる人材になって業界にカムバックしたいと思います。

願わくば、今後とも変わらぬお付き合いをよろしくお願いいたします。

このブログは、2月10日を持って終了いたしますが(ウェブ上には残します)、また別の形でブログを掲載していきたいと思います。準備が整いましたら、こちらのページでお知らせさせていただきますね。

明日から退職日までの間、引き続き日常のことをつぶやきつつ、少しまとめて財団での仕事を振り返ってみたいと思います。

本当にみなさん、長い間未熟な私を育て、支えて下さり、ありがとうございましたバラ

日本財団
国際協力グループ
横内陽子

クローバークローバークローバー