CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
一般財団法人 親学推進協会の公式メールマガジンに投稿した
「図書紹介」を画像付きで掲載します。

2018年03月15日

98号

『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』

 著 者:中野信子
 発 行:幻冬舎、2018年

紹介者から---
 「シャーデンフロイデ」とは、他人を引きずり下ろしたときに生まれる快感を指しています。成功した人のちょっとした失敗をネット上で糾弾して喜びに浸るような行動の背景には、脳内物質「オキシトシン」が関わっているようです。

 オキシトシンといえば、親学では母性原理の源として知られています。人と人との愛着を形成するために欠かせないこの脳内ホルモンが、実は「妬み」の感情を高めている、というのです。愛と絆の背後にある妬みの正体をみていきましょう。

本書から(一部要約しました)---
 「シャーデンフロイデ(独:Schadenfreude)」は、誰かが失敗したときに思わず沸き起こってしまう喜びのことで、「オキシトシン」と深い関わりを持っています。

 オキシトシンは、俗に愛情ホルモン、幸せホルモンなどと呼ばれていて、基本的には人間に良い影響を与える物質と考えられています。しかし、最近ではオキシトシンが仲間を大切にする気持ちや安心感や活力、幸福感と同時に妬みの感情を強める働きを持つことがわかってきました。

 オキシトシンは「人と人とのつながりを強める」働きがあります。したがって、そのつながりが切れそうになると、それを阻止しようとする行動を促すのです。

それは「私から離れないで」であったり、「私たちの絆を断ち切ろうとすることは許さない」となります。こうしたことから、オキシトシンはあればあるほどよいというわけではなく、適度なバランスが保たれていることが大切だとわかります。

 オキシトシンは触れ合うことで分泌が増えるため、特に母子間で愛着の絆が深まりますが、この愛着は母親が子供から離れないようにも働きかけています。ですから、母親は子供から離れると強い不安を感じるように脳が変化しているといってもよいでしょう。

 この働きは子供が小さいうちはとても有効なのですが、子供が成人した後もこの愛着は残り続けます。大部分の母親は、子供の独り立ちに寂しさを覚えながらも、立派な成長に喜びを感じて、時間をかけながら受容しますが、一部にはそうすることができない母親がいるのです。いわゆる毒親脳の誕生です。

「あなたのためを思っている」という愛は、子供の支配に変わり、ときには傷つけることにつながりかねません。この「よかれと思って」の気持ちが必ずしも子供を守ることにつながらないこともある、ということを意識しておいたほうがいいでしょう。愛はそれだけでは成立せず、深い憎しみがこれを裏打ちしているのです。
【図書紹介の最新記事】
posted by oyagaku at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 図書紹介

2018年02月15日

97号

『ヒトは「いじめ」をやめられない』
著 者:中野信子
発 行:小学館、2017年

紹介者から---
 本書は、大人や子供を問わず「いじめ」の防止と対応について脳科学の視点から検討しています。筆者は、いじめは「人間に備わっている機能による行為」であるとして「いじめ」をなくすことは難しいといいます。

 大人が子供に向かっていくら「いじめ」はよくないと言っても一向に効果をみせないのは、脳に備わった異物を集団から排除しようとする機能に由来するからだというのです。

特に興味深かったことは、「いじめ」を回避するには特定の分野で「あの人には敵わない」と思わせることが有効だということでした。

 大人の「いじめ」への対策としては「以前は・・・でしたが、最新のデータでは・・・だといわれています」などのように理論的に論拠を示すことが有効なのだそうです。

 オキシトシンやセロトニン、ドーパミンなど、親学でもよく耳にする脳内物質の話にはじまり、脳科学的にいじめを分析していますが、その背景にはいじめは脳機能を背景にするから防ぐことができないとする悲観的なものではなく、「脳機能だからこそコントロールできる」とする立場です。

そのためには、学校でも社会でもできるだけたくさんの人と交流することで、狭い人間関係のなかで異物を排除しようとするいじめの機能は弱まるのではないか、主張しています。

道徳の問題を脳科学の観点から考えることで、新しい道徳心理学の地平がみえたように思います。

posted by oyagaku at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 図書紹介

2018年01月15日

96号

 『「甘え」の構造』(増補普及版)
 著 者:土居健郎
 発 行:弘文堂、1971/2007年

紹介者から---
 公私混同というように「日本人は公私の意識が薄い」と言われることがあります。この場合の公と私は、西洋のそれではなく内と外という日本的な連帯感を伴うために、欧米文化から見ると分かりづらいように見えるのかもしれません。そして、この内と外を分ける基準は「遠慮」の有無にあるというのが本書の主張です。

 日本の文化では、遠慮のない関係にある人を内、遠慮が必要な関係にある人を外と区別しています。その背景には本書のタイトルにある「甘え」があるのではないかというのです。遠慮なく甘えられる人間関係を内の感覚として大切にしてきたという視点です。本書を読むと「内と」、「公と私」の感覚が絡み合いながら、様々な状況で私たちの規範意識に影響を与えていることに気づきます。
 親学に応用してみると次のように考えられそうです。まず私の親学と公の親学。そして内の親学と外の親学です。日本社会のなかで社会的に親学への期待が高まったきっかけには、ここでいうところの私の親学が目立つようになったということができそうです。

言い換えると、親の立場にある人が私優位の感覚でする子育てに対して、公私・内外の意識を再起して調和がとれるようにするための場づくりや仕組みが社会的に求められるようになったということができるかと思います。

公と私、内と外の規範意識が絡みあう日本社会で本書が指摘する「甘え」の構造を理解することは、親学を我が国で展開するうえで役立つものといえるでしょう。

本書から(一部要約。「小見出し」は紹介者)---
 「甘えが成立する関係」
 甘えは、親しい二者関係を前提にするため、相手が自分に対して好意をもっていることがわかっている必要がある。肝腎なのは相手の好意がわかっているということである。

 「甘えのメリット、デメリット」
 日本人は集団と一体になることによって、個人としては持ち得ない力を発揮するということができると考えてきた。(一方で)他人を甘えによってとろかして、その他者性を消失させてしまおうとする働きをもっている。

 「なぜ、感謝するのにすみませんと言うのか」
 日本人は、親切の好意に対して単純に感謝するのでは足れりとせず、相手の迷惑を想像して詫びているのは、相手が非礼ととって、結果として相手の好意を失いはしないかと恐れるためとはいえないだろうか。相手の好意を失いたくないので、そして今後も末永く甘えさせてほしいと思うので、日本人は「すまない」という言葉を頻発すると考えることができる。

 「甘えさせてくれる人に求めること」
 何でも打ち明けることができて泳がしてくれる人。私に助言と承認を与えてくれる人。(注:日本式「甘え」文化のなかでは親学アドバイザーの役割はここにあると思います)
posted by oyagaku at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 図書紹介

2017年12月15日

95号

 『「若者」とは誰か−アイデンティティの30年』

 著 者:浅野智彦
 発 行:河出書房新社、2015年

紹介者から----
 若者とは誰のことか。本書はこの問いから始まっている。
 現代の若者は、時々の状況や関係によって「キャラ」を使い分けて生活している。したがって、ひとまとまりに若者を特定しようとすると、どの関係のなかでの若者かをはっきりと示さなければ、得難いものになっている。

かつて、ある一定の年齢になるとほとんど自動的にライフイベント(就職や結婚、子育てや退職、老後)が起きていた時代があった。その時代には、ある一定の年齢期にある人々を若者と呼ぶことが容易であったが、現代ではその定義づけが難しくなっている。

 本書は、若者のアイデンティティに焦点を当て、現代に至るまでの30年史を扱っている。

 親学が援助の対象と想定している人々は、ここで扱われている多元的な自己像が一般化しつつある社会のなかで子育てをしている。この本を読むと、私たち(親学アドバイザー)が関わる対象が育ってきた時代の状況や、彼らの行動の背景を垣間見ることができる。

本書から---
 1980年代に進展した消費社会文化によって、若者のライフスタイルは多様化していき、1990年代以降には社会経済的な状況の変動にともなって就職や結婚など人生の節目となる移行が従前のように滑らかには進まなくなるとともに、そのタイミングも人によってばらつきの大きいものとなる。

 考えてみると、ある時期まで若者をひとまとまりの集団として扱うことができていたのは、ライフコースやスタイルが比較的、似通った形に標準化されていたからではなかったか。その意味で若者というアイデンティティは、戦後日本のある時期に成立し、安定していた諸制度の相関物ということになるのかもしれない。(pp220-221)
posted by oyagaku at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 図書紹介

2017年11月16日

94号

『現代思想の使い方』

著 者:高田明典
発 行:秀和システム、2006年

紹介者から----
 対人援助の場面で、私たち援助者に望まれる態度の一つに「無知の知」アプローチがあります。これは「私にはよく分からないので、教えていただけませんか」という姿勢です。

そこでは「支援する人」と「支援される人」ではなくて、相手と目線を合わせて物語を聴かせていただこうとします。この本で取り上げているケネス・ガーゲンは、このような立場を「ナラティブ・プラクティス」と説明しています。本書では「説得する」のではなくて「説得されにいく」と紹介しています。

本書から---
 問題解決のために対話や話し合いをしようとしても、相手に聞く耳がなければ対話そのものが成り立たないことがあります。いくら自分に話し合う意思があっても、相手の態度次第では解決の糸口さえみつけることができないことがあるのです。

 なぜこのようなことがおこるのでしょうか。また、このような時にどうすれば少しでも改善につなげることができるのでしょう。

 まず、人が聞く耳を持たなくなるのは、どのようなときかを考えてみます。例えば、相手の指摘は痛いほど分かるものの変更することができないときや、他人から強制されているように感じるときに私たちは不愉快になります。

 このようなときに、その人の話を教えてもらおうとするのです。この立場に身を置くと、私たち側の価値観が変わる可能性がありますが、それはそれで好ましいことと考えて、「私はあなたの世界のことや、あなたが考えていること、知っていることを全く知らないので、教えてほしい」というアプローチをとります。援助者が「説得する」のではなくて「説得されに」行こうとするのです。

このアプローチは、妥協への道ではありません。双方の努力で最も好ましい解決策としての新しい物語を作り上げようとするものです。
posted by oyagaku at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 図書紹介

2017年10月17日

93号

『その日のまえに』
 著 者:重松清
 発 行:文藝春秋、2008年

紹介者から---

 作家 重松 清さんの講演会に行ってきました。子どもがうつむいている表紙が印象的な作品が多く、どんな風に書いているのか興味を持って聞いてきました。

 子どものころは、転校が多くてどこに行ってもよそ者扱いで、お父さんが養子だったことから親族が集まるときには偽物扱いをされてきたことが、創作の原動力になっているとのことでした。今でもその頃の少年が自分の中にいて、その子に話しかけるように執筆しているのだそうです。「言いたいけど、届いていない言葉」、「思っているけどコトバにならなかった言葉」を紡ごうとするところは、心理援助と似ているように思います。

講演の中ごろに「困ると悩む(迷う)の違いはわかりますか」と問いかけられました。聞いていると、例えば「寝坊して、遅刻する」は「困る」。

その状況で「赤信号を渡るかどうか」は「悩む(迷う)」というように、言葉を使い分けるのだと解説がありました。

作家は、『迷う、悩む』ことのサプリメントとして物語を提供している、正解の選択肢を増そうとしている、との言葉が印象的でした。

正解をしぼらないで、割り切れない部分に焦点を当てようとする。「思っているけどコトバにながらなかった言葉」は、本書収録の「ヒア・カムズ・ザ・サン」に描かれています。
posted by oyagaku at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 図書紹介

2017年09月15日

92号

『増補改訂 心理臨床スーパーヴィジョン』
 著 者:平木 典子
 発 行:金剛出版、2017年

<紹介者より>
「プロのようにルールを学び、素人(アマチュア)のように振る舞いなさい」とは、心理援助(ライフデザイン・カウンセリング)の世界的権威であるサビカス博士からのアドバイスです。

 まるで何も知らない素人のような態度で人に接することは、心理援助ではとても大切です。そして、この態度を保持するにはプロとしての訓練が欠かせません。相談に来る人は、専門スキルの片鱗を見せない援助者との間にこそ、信頼関係を築きやすいのです。

 心理臨床のスーパーヴィジョンとは、プロフェッショナルな態度を維持するための個別実践指導です。本書は、主に心の危機支援に関わる専門職を対象としたものですが、親学アドバイザーの実践力を向上し、成長するための機会づくりとしても参考になります。

<本書より>(一部の表現を変えてあります)

心理臨床スーパーヴィジョンとは:
 スーパーヴィジョンは、専門職への個別実践指導です。その内容には、心理的危機支援、実践に関わる指導、専門職の指導という特殊な側面と、危機の支援、個別性の重視、人間関係という、他の専門職の指導と共通するところがあります。

 心理援助では、個別性があるクライエントの心理的危機に対応しなければなりませんから、専門職養成にも個別的な実践指導が求められます。初級の援助者は、熟練したベテラン援助者による個別指導によって完成に近づいていきます。

スーパーヴィジョンが必要なわけ:
 人間には、教えたい、助けたい、助言したいという善意があるため、少しでも知識や経験がある領域については、それを披露したいという誘惑に駆られます。しかし、相手の事情を考えない働きかけ(言葉かけを含む)は、相談者の成長を妨げるばかりか、傷つけてしまうことさえあるのです。

 心理援助をする私たちは、このような傾向に陥りやすいことを自覚し、自戒する必要があります。スーパーヴィジョンという個別指導によって、未熟な支援者の内に頼れる指導者を育成することが目的となるのです。
posted by oyagaku at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 図書紹介

2017年08月17日

91号

物語りとしての心理療法−ナラティヴ・セラピィの魅力』(2)
 著 者: ジョン・マクレオッド
 監訳者:下山晴彦
 発 行:誠信書房、2007年(原著:Narrative and psychotherapy,1997)

本書より

 社会構成主義は、社会科学で発展した哲学的アプローチです。「心」や「自己」などの心理学的な概念を「社会的な談話の場に位置づける(ガーゲン、1985)」ことを目指す立場です。

 社会構成主義者の心理療法は、社会的存在(social being)としての人のイメージ(image of the person)にもとづいているため、自己を意味づけるどのような手段も、社会的に構成されたものとみなします。したがって、自己は特定の社会的・文化的・歴史的状況から導かれたものとして理解されます。

 これまで「自己」という概念は、「他から独立して自律している(クッシュマン、1995)」ものとしてとらえられてきましたが、社会構成主義では自己を実体ではなく、構成体として理解します。

 「どのような主体も必然的に他者との関係のなかにあるため、人間であるためには、他者との相互関係が欠かせない(マクマレイ、1961)」と考えることによって、それまでのセラピー(個人の精神の神秘を解き明かすことを目標とする)から、現実社会のなかで生きる社会的な存在としての個人を援助することに、心理援助の目標は変更されるようになりました。

 私たちのアイデンティティの中核は、ナラティヴの筋(プロット)であって、それが人生に意味を与えています。個人は、ライフ・ストーリーを描く著者として喩えられます。著者がストーリーを語るとき、それは改訂の機会に開かれたことになり、異なるバージョンのストーリーが生じる可能性が出てくるのです。

 大切なのは、ストーリーは一人で語るものではなく、語られる人を必要とすることです。話を聞く人は質問やコメントを差し挟んだりすることでストーリー構成に寄与します。こうしてストーリーは共同で構成するものとなります。

 社会構成主義の心理療法の場面ではストーリーを語る人と、話を聞きながら質問やコメントをする人が会話を通して、力を合わせてストーリーを作り上げていくところに特徴を見出すことができます。
posted by oyagaku at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 図書紹介

2017年07月20日

90号

『物語りとしての心理療法−ナラティヴ・セラピィの魅力』
 著 者: ジョン・マクレオッド
 監訳者:下山晴彦
 発 行:誠信書房、2007年(原著:Narrative and psychotherapy,1997)

紹介者から
 前号で紹介したとおり「この病気にかかってどのくらいですか」と聞くのと「この病気にかかったと<思ってから>どれくらいですか」と聞くのでは、回答の意味が異なります。

 前者は、医者の診断を受けて病名がついてからの期間が答えられるでしょうし、後者はその方の具合が悪くなってからの時間が返答されるでしょう。

「実は、一年くらい前から具合が悪くて、家族のすすめで半年前に病院に行ったところ、・・・(病名)といわれました」

 このような文脈の場合では、病名がついたのは半年前でも一年前からその方の具合が悪かったことがわかります。物語論は、後者の主観的な語りを事実として受け止める立場です。

 私たちは、この視点に立つことで、例えば「(一年も前から)さぞ、お辛かったでしょうね」と語りかけることができるようになります。語りのなかに、その方の真実があると受け止める姿勢がうまれてくるのです。

監訳者から
 心理療法が正式な社会的活動の一種とみなされるようになったのは、歴史的にはごく最近のことです。では、それ以前の昔の人たちは戦争など(災害や疫病、飢饉)で負った心の傷をどのように癒やしていたのでしょうか。

 著者のマクレオッド教授は、心理療法の起源について二つの見方を示しています。

 一つは科学の発展による起源で、もう一つは、文化的伝統に遡る見方です。
後者の見方では、集団や個人の間でおこる緊張や怒り、喪失の感情、目的や意味への問いといった問題に対する固有の対処法をあらゆる文化は備えていると考えます。地域の共同体のなかで親しく語り合うことを通して、人びとを癒やしてきたと考えるのです。
 
 起源を遡ると、心理療法は科学の発展だけではなく、地域共同体のなかで普通の人びとの物語りが変容してきた一面があるのです。

 それが近代社会の発展にともなって、科学的な体制を整えたことで、社会の重要な構成要素になってきたと理解できます。本書は、社会との関連で変化・発達しつつある心理療法のあり方を物語り(ナラティヴ)論の観点から見事に分析しています。

著者(ジョン・マクレオッド)より
 本書は、心理療法におけるストーリーの役割と意義について検討するものです。私は、心理療法をナラティヴのプロセスとして理解することが理にかなっていることに気づきました。自らの行動をストーリーとして語り、その内容を編集して、書き換えるというナラティヴのプロセスとして理解するようになったのです。
posted by oyagaku at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 図書紹介

2017年06月15日

89号

『ナラティヴ・セラピー 社会構成主義の実践』
 編者:シーラ・マクナミー、ケネス・J・ガーゲン
 訳者:野口裕二、野村直樹
 発行:遠見書房, 2014年(原著:Therapy as social construction,1992)

紹介者より

前回まで、「他者の森を駆け抜けて自己になる」意味の自己形成を紹介してきました。
20世紀前半の自己論の特徴であった、社会とは別に存在する個人や自己という存在が自己実現していく発達段階を辿る発達モデルから、20世紀後半には社会のなかで他者と関わりながら自己・アイデンティティを形成していくと考えられるようになる流れを紹介しました。

今は、21世紀です。すでに自己形成から自己「構成」へと議論は発展しています。この領域の重要文献(本書)が、時代に合わせて新訳出版されていますので、ご紹介いたします。

現代を生きる私たちには、様々な役割を一度にこなさなくてはならない場面が多くなりました。自分の住む世界を正しく知って、それに適応して行動するのは個人であって、その場に対処しきれないことがおきれば、能力や行動に機能不全があると判断されてしまいます。(モンスター親、・・、などが想定されます)

どんな場合でも無難にうまくこなさなければならなくなった個人は、結果として、飽和(いっぱい、いっぱいの)状態になっています。こうした背景から、20世紀までの自己論を見直す動きが起こってきました。理論が現状にあわなくなってきたといえるでしょう。

現代(21世紀)は、様々な役割が一つに集約される最終点としての自己を「形成する」自己論から、人との関わりのなかで自己を「構成する」時代に入っています。では「自己を構成する」とはどのような意味なのでしょう。

自己は何によって「構成」されるかというと「言葉・言語体系」によって構成されると考えられています。言葉を使って自分が語られると、意味のまとまりをもったストーリーがあらわれます。このストーリー(物語)のなかに、自己が構成されるのです。文脈ごとに自己の役割やイメージがあることになります。

こうして、例えば母親の私、働く私、妻としての私、娘としての私、友人のなかにいるときの私など、様々な私はそれぞれの文脈のなかで存在することになるわけです。

演劇に例えると、舞台(場所)、登場人物(役割)、シナリオ(ストーリー)、背景が設定されて場面ごとに私たちはその役割を演じていますが、突然に場面が変わって、手元の台本や役割ではうまく乗り切ることができないときに、その台本を改訂する作業が必要になります。それがセラピーの役割だというのです。

改訂の場面では、カウンセラーは何を話すかよりも、なにを「質問する」かに重点をおいて関わります。人生の台本を改訂する作業の共同制作者であり、証人になるのです。

具体的には「この病気にかかってどのくらいですか」と聞くところを「この病気にかかったと<思ってから>どれくらいですか」と聞くようになります。クライエントの語りのなかにその方の真実があると受け止める姿勢が、改訂のきっかけになるという視点です。
posted by oyagaku at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 図書紹介