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ネレウスブログらから『野生を感じる事と沿岸開発、メキシコにて』[2015年07月23日(Thu)]
ネレウス太田です。

6月末にネレウスプログラムとして「海の未来を予測する」と題したレポートを発表しました。気候変動が漁業に与える影響を科学的な説明からその政策的影響まで網羅したレポートです。少し専門的な解説も入りますが、海洋関係者にはもちろんそうでない方にも、海の未来についての概要と最新の研究(ネレウスによる)をご理解いただけるコンパクトなレポートですので、ご一覧ください。アメリカではCBS、日本でも数紙に取り上げていただき、これまですでに、千件近いダウンロードがありました
(http://www.nereusprogram.org/ja/nereus-report-predicting-future-oceans-climate-change-oceans-fisheries/)

さて今回は、漁業経済を専門とするアンドレアスのブログです。アンドレアスは、メキシコ出身のポストドクですが、両親ともに漁業管理を専門とするメキシコ水産庁の研究者で、8歳にはすでに「MSY(最大持続漁獲量))を理解していたサラブレッドです。

しかしながら、メキシコの漁村を回った経験から、「漁業と貧困」というテーマに常に取り組んでいるヒューマニストな経済学者です。現在は、私と共に世界の先住民漁業のデータベースの作成を行っています。

彼の、ブログは、漁業というより沿岸という「風景」の持つ価値について話しています。エコシステムサービスという言葉で集約しきれない「メモリー」の変化、つまり「思い出の中の海岸」と「現実の沿岸開発」の格差について語っていると私は理解しています。

昔の海岸線が変わる様子をみて、経済学者は何を思うのか?

ご一読ください。



Mass coastal development, and the re-affirmation that non-market inspiration values are a real thing
メキシコ沿岸開発に捧ぐ。
海の価値は市場経済でははかれない。

June 17, 2015 | Policy Forum
byアンドレアス・シソネロス−モンテメイヤー

これまでに何度も自分の頭の中に綴ったことである。新しい売地看板が立てられるということは、自分自身と昔よく遊びまわった子供の頃の海との間に有刺鉄線が張られ石垣が立てられるということであり、それを見るたびに激しい怒りと無力感が湧きあがったことを思い出す。ブログ、ましてやインターネットなど存在せず、自身の不満を大声で叫び、誰かに聞いてもらえないだろうかと想像したものだ。現実には、悲しいことだが仕方がないと言う友達や両親に訴えるに留まった。

この感情はその後の生活を通してたびたび湧き起こってくる。昔好きだったシュノーケリングスポットに行こうとする時、また私の故郷であるメキシコの沿岸で長距離バスに揺られたり、自ら運転している時、延々と立ち並ぶ豪邸やコンドミニアム、ホテルやリゾートに遮られて沿岸すら見えないことに幾度も悔しさを感じるのだ。(そのほとんどを外国人が所有しているという事実に、同時に憤りを感じることを認めざるを得ないが、そこはさておき本題に戻ろう。)

セリトスは、バハ・カリフォルニア半島の太平洋沿岸にあるビーチで、10数年前(私がその州から引っ越す直前)は、道路からビーチまでの間にサボテンと低木が数百メートル続き、ほぼ年中ライトブレイク(サーフィン用語で、岸側からみて右から左に崩れていく波のこと)のサーフィンが出来るまったくもって人気の無いビーチであった。小高い丘に登ってビーチを見渡すと、時にはザトウクジラが呼吸している様子や思いがけずウミガメが遊泳しているのを見る事ができたのだ。

2015年、私がよく行っていた場所を訪れて一緒に楽しもうと妻と7ヶ月になる娘をドライブに連れ出した時のことだ。長く連なるコンドミニアムに遮られ、道路からはビーチの景色が半分しか見えなくなっていた。砂漠の景色はそのほとんどが、別荘やキャンピングカー専用の宿泊施設、またはいくつかの「サーファー用」ホテルに変貌していた。迷路のように有刺鉄線が張り巡らされた敷地や工事中の現場を通り抜けるのはとても困難で、ようやくビーチにたどり着いた。小高い丘のてっぺんは、明るいオレンジ色のホテルを建てるために破壊され、削平されていた。ビーチには、バーやサーフボードのレンタル屋、水辺のマッサージのためのテーブルが点在していた。あの時の波はまだそこにあったし、荒い海とクロスショア(横からの風)は変わらずサーファー達を遠ざけていたけれど、波打ち際は、春休みの団体客で混雑していた。

正当に所有していた物を物理的に盗まれたかのような感覚を皆さんは持ったことがあるだろうか。確かに、私が経験したことは、人々が太陽を求めて集まる世界のリゾート地だけに起こっていることではない。以前は公共のものであった物やサービスが個人の利権により占領される事態が世界中で起きている。これは、現代の経済システムにおいてなくてはならない部分でもあり、また自然資源がオープンアクセス(何の制限も課されていない状態)によって被害を受けているという認識は浸透している。これには環境問題や商業主義などへの多くの批判がついてくるが、私があげたメキシコ一例は、拘束のない資本主義、またはネオリベラル(新自由主義)方針に関しての批判ではない。大規模な沿岸開発が経済発展をもたらしたことは紛れも無い事実であり、それには管理会社、不動産会社、建設労働者、整備員、サービス業に関わるほぼ全員が同意するだろう。経済学者として経済発展に対して直接的な批判を投げかけるのはあまりにもナイーブだ。

しかしながら、私たちは沿岸、森や山など自然の外観を保護する活動を行なうべきである。昔は、若い冒険家きどりの旅人達が昔のセリトスのような場所に座り、自然を眺め、自然の世界とのつながりを体験することによって心を突き動かされ、将来の展望を夢に描いただろう。たぶん彼らのほとんどは今、自然に関わったり自然の中でする仕事についてはいないだろう(スーツか少なくともシャツをきてオフィスに向かう人がほとんどだろう)。それでもやはり自然がもたらしてくれたインスピレーションの重要性を認識し、それが信念として確立された思い出は彼らにとってかけがえのないものだ。

残念ながら、私の娘がこの変わってしまったビーチからインスピレーションを受けることはおそらくないだろう。しかし、彼女のためにまだ他の「ビーチ(場所)」がどこかに残っていることを願っている。皮肉にも、たった1時間離れたところにある大規模観光の本拠地、カボサンルーカスから、多くの人々が「より自然」な体験を求めて、インスピレーションを求めて、セリトスビーチやってくるのだ。感覚とは相対的なものだ。

アルド・レオポルドは、「すべての野生保護は自滅的である。自然を大切にするために、私たちは調べたり、愛情のこもったやり方で触れたりする必要があるが、いきすぎると大切にするはずの野生の部分がなくなるのだ。」と著述している。この地でみなが自然保護に関して考えていたかどうかは分からないが、野生の部分は確実に失われてきたのだ。

もし生態学的に持続可能なコミュニティーを作るのであれば、沿岸開発は本質的に悪いことではないのだ。(例えば、砂漠の真ん中にゴルフリゾートを作るのはあり得ない。)しかし、一般の人達が自然にたどり着けるように建物と建物の間に通り道を必ず作ること、自然のランドマークの景観を守るために適度に開発を規制することが、そんなに難しいことなのだろうか。私たちの生態系を探りその恩恵を享受するため、インスピレーションを受けるため、見たり触れたりするために自然に立ち入る権利は、後世のすべての人々のために保護されるべきである。これは、画期的な見解ではない。インスピレーションは、生態系サービスを完全に理解するための鍵とされている、非市場経済価値の模範的な例である。しかし、市場価値が提示されると、たびたび‘脚注’に格下げされる。難しいことなのだが、‘脚注’は私たちの議論や形式的分析の中心に据えられるべきなのである。

どの生態系においても前進的な発展はより人間の進化に必要とされている。ここでの願いはごく単純で、これまでのようにビーチを見せてほしい、ただこれだけである。
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