海のジグソーピース No.64 <2020 東京オリンピック会場を砂浜社会学的に見ると!>
[2018年01月24日(Wed)]
日本全国、世界各地の砂浜ファンのみなさま、こんにちは。日本では、普段あまり取り上げられることが少ない砂浜の問題に社会学的切り口から取り組む研究員の塩入です。今回も、これまでの2回の私のブログ(No.36、No.12)に続き、砂浜に関する話題をご提供します。
2020年の東京オリンピック開催まで、残すところ900日余りとなりました。今大会では、セーリング(ヨット)だけでなく、追加種目としてサーフィンが加わり、海という自然を舞台に繰り広げられるマリンスポーツが注目されます。
また、マリンスポーツの競技そのものだけでなく、大会開催地の海や、その環境、さらには環境を守ってきた地元地域社会の取り組みについてもしっかりと情報を発信し、海を守るという意識を日本から世界に発信していければこの上ない喜びです。
さて、砂浜をはじめとする海浜は、欧米諸国と同様に、日本でも自由使用(フリーアクセス)が認められており、特に日本では、伝統的に、祭礼、地引網・網干しなどの漁業活動、明治期以降は、海水浴や潮干狩り、釣りなどのレジャー、結核療養地としての利用価値が認められ親しまれてきました。また、今日では、サーフィン、ビーチバレー、ライフセービング、パラグライダー、ビーチコーミングやウミガメなど、自然環境に向き合うさまざまな活動を支え、新しい発想を与えてくれる場ともなっています。そして、砂浜に関心を寄せる地域社会では、自由使用原則に立ちつつも、独占利用・事故・環境問題などを防ぐためのローカル・ルールを整えるなど、地域独自の持続可能な活用に向けた努力が続けられています。
そこで今回のブログでは、1964年の東京オリンピックに引き続き2度目のヨット・セーリング競技会場となった神奈川県の湘南海岸および、2020年オリンピックで追加競技に選ばれたサーフィン競技会場である千葉県の釣ヶ崎海岸を取り上げ、オリンピック開催公式ホームページでは紹介されない、これらの海浜地域における砂浜の利用の歴史と地域の人々の砂浜保全の取り組みについて紹介します。
1.湘南海岸
江戸時代の鎖国体制が終わり、近代日本として開国した明治時代、横浜居留地に住む外国人の中には、避暑地・保養地を求め、軽井沢、箱根、湘南などに、日本人の名義を借りて別荘を所有する人々が現れ始めました。そして、横浜居留地の外国人が外出を許されていた10里(約40km)以内にある湘南地域には、とりわけ多くの別荘が出現しました。
その後、1887年(明治20年)の東海道線の開通、1894(明治27)年の葉山御用邸の開設など、交通の便やイメージが向上する中で、山や沢が近く飲み水を得やすい江ノ島(藤沢市)から東側の地域を中心に、政府高官・特権階級などの間で別荘を構える者が多く見られるようになりました。しかし、江ノ島から西側の地域(藤沢の鵠沼(くげぬま)から茅ヶ崎)は、水が得にくく、風の強い広大な砂地地帯が広がるだけであり、海浜の地引網漁を除くと、江戸時代からの幕府鉄砲場(明治時代は海軍演習場)としての活用が主なものであり、田畑の開拓などは厳しく制限されていました。しかし、明治新政府における財源確保や土地私的所有の明確化を目的とした地租改正(1873年)が進み、時代の流れの中で、1900年頃に鵠沼(藤沢市)の25万坪(80ha)を超える広大な砂地が、民間へと払い下げられ、その後に、別荘分譲地として計画的な開発が行われることとなりました。また、別荘地開発においては、水の確保、砂丘などの自然地形を活かして植えられたクロマツ防風林や道路の整備が行われ、今日の街並みの基礎を築くこととなりました。
1891(明治24)年には、江ノ島の背後の波が穏やかな片瀬東浜に、学習院遊泳演習場が隅田川(両国)より移転し、1897(明治30)年には、志賀直哉、芥川龍之介などの文化人が集う旅館「東屋(あずまや)」が開業し、大いに賑わったようです。また、結核療養(サナトリウム)のために都会から転居してくる家族も多くありました。そして、1923(大正12)年の関東大震災後には、東京市内の被害を逃れてきた政治家、官僚、企業家、高級将校などの転居が続き、別荘地から高級住宅地へと様相を変化させていきました。
また、このような発展が続く中で、海浜地域の秩序だった開発が必要性も見え始め、1930(昭和5)年には、当時の神奈川県知事であった山県治郎が、沿岸道路をはじめとした地域のグランドデザインを唱えました。そして、海岸林や幹線道路の整備において、自然環境と共存することを考慮し、海岸線からの距離感を保ちつつ、海側に防風林を配置し、その後ろに海岸遊歩道・乗馬道・車道、山手遊歩道を配置するという都市計画を策定しました。また、これに基づき1936(昭和11)年に、県道片瀬大磯線(湘南海岸公園道路)が完成し、今日の砂浜・防風林から道路・住宅地に至る距離感を持ったランドスケープの基礎を確立するに至りました。
そんな中、1941(昭和16)年からの太平洋戦争中においては、海岸と防風林一帯は、再び軍の管理下に置かれ、一時期は完全に荒廃しますが、戦後は、また復興を遂げました。さらに、1960年代の高度経済成長期や、1980年代のバブル経済期の沿岸部における数々の開発構想が打ち出される中でも、地域の財産として砂浜環境を守りたいという地域住民、サーフィン、ライフセービング、環境に関心を持つ人々の熱心な議論や、働きかけが行われ、今日もなお、東海道沿線の砂浜と青松の風景を守っています。
なお、1964年の東京オリンピックでは、ヨット競技の会場を横浜市金沢区(富岡海岸)とするための検討されており、その準備として1959(昭和34)年に、隣接する米軍通信補給廠(ほきゅうしょう)の接収解除が模索されていました。しかし、この解除は実現しませんでした。このことから、その当時、港湾施設の築造計画が進んでいた江ノ島(湘南港)が、候補地として急遽浮上したという経過がかつてありました。大会会場の整備には、大規模な埋立を伴うことから、地元でも地域振興と景観保全という両方の観点で地域における様々な議論が交わされ、議論の結果、開発計画の規模を縮小した上で、さらに条例によって景勝地の景観を守る措置を講じ、1964年に湘南港とその管理施設であるヨットハウス(初代)を完成させました。
今回の2020年大会では、老朽化した初代ヨットハウスに代わり、2014年に建て替えが完了した新しいヨットハウスが大会施設として用いられます。また、2014年の建て替え時においても、地域住民・利用者・行政・設計者の間で、2009年から2012年の3年以上を費やし粘り強い議論が交わされ、施設設計・津波対策・地域景観などを含む様々なテーマについて合意を形成してきました。このヨットハウスは、地域住民らの粘り強い議論の成果でもあり、2020年大会における一つの見所となるかもしれません。
2.釣ヶ崎海岸(千葉県一宮町)
1897(明治30)年に房総鉄道(JR外房線)が開通し、東京からの交通事情に恵まれた九十九里海岸南端の一宮町は、海水浴場の適地、湘南海岸の大磯をイメージした「東の大磯」とも称され、海水浴場を一つの柱として掲げつつも、町の発展を別荘地開発へと託し、戦前における地域振興が進められていました。別荘は、1901(明治34)年頃より数多く立ち始め、一宮海岸の男性的な様相が、特に軍人の間で好まれ、多くの軍人がこの地に別荘を構えたそうです。そして、大正時代の終盤から1937(昭和12)年の日中戦争の頃に至るまでは、大いに栄えたとのことです。
1941(昭和16)年に太平洋戦争に突入すると、都市部からの疎開者、罹災者の流入に対応すべく、別荘は一般の住宅として転用されていきました。また、九十九里海岸が、米軍の上陸予定地として想定されたため、海岸一帯が日本軍の駐留地となり、海岸林は荒廃しました。
1945(昭和20)年の終戦時には,九十九里海岸の一帯は、飛砂が舞う荒涼たる景色となり、疲弊した漁民など海岸地域の住民は、林材を燃料として使い、海岸林もほとんど姿を消す状況となってしまいました。また、戦後の占領軍による農地解放政策もあり、戦前にあった別荘の建物や区画の面影は、はほとんど消滅してしまいました。広大な軍用地跡の砂地地帯を有する一宮町では、海岸砂地での海岸林の造林に力が入れられたり、食料確保のための耕地化がなされたりしましたが、砂地という条件に加えて農業用水が確保できないため、収穫は極めて低い状態でした。
その後、1960年代の高度経済成長期には、海水浴客のための海の家や民宿がつくられ、それが契機となって観光地化の歩みが始まりました。しかし一方で、日本有数の天然ガス産出地であることから、そのガス採取のための大量の地下水のくみ上げが行われ、1970年代より著しい地盤沈下が生じ、さらには周辺海岸でのコンクリート護岸や港湾施設の建設に伴う海岸への供給砂量の減少も後押しし、地域資源である九十九里の砂浜海岸が急速に侵食されるなど、九十九里海岸一帯は開発に翻弄されてきました。
現在、一宮町は、世界トップレベルのプロが集うサーフィンの国際大会を数多く開催した実績を持ち、太平洋の非常に良い波に恵まれた「波乗り道場」とも称される釣ヶ崎海岸(志田下)を町内に擁しています。人口12,000人余りの一宮町には、毎年60万人以上のサーファーが訪れ、「サーフィンと生きる町」として、世界レベルの選手を輩出するなど、発展することを目指しており、一宮版サーフォノミクス(サーフィンによる経済を捉え、米国で実証された地域政策)を2015年に掲げています。また、深刻な海岸侵食に対しても、これまでは、一宮町のみで、専門家・行政・住民・関係者が加わって議論を交わす協議会が2010年より続けられてきたことを発展させ、2017年からは全長60kmの九十九里海岸に面する9市町の市町長および千葉県も加わり、全体で協議を行っていく場として、新たな活動を発足させ、オリンピック会場でもある砂浜の保全をめぐる地域政策の議論と方向性が注目されています。
3.むすび
さて、今回は、砂浜社会学的視点を持って、2020年東京オリンピックの会場である2つの地域をご紹介いたしました。
いずれの地域においても、「砂地」という明治維新後の地租改正(官有地払下げ)後に突如として現れた広大な自由使用の空間において、開発行為と自然との距離感を如何に考え、如何なる利用秩序を与えていくのかなどは、EEZをはじめとする海洋・沿岸域管理、生態系を活かした防災・減災(Eco-DRR)など、SDGs時代の我々が直面する問題を考える上でのヒントになるのではないかと感じさせられます。
これらいずれの海岸も東京からであれば、電車で90分程度で行くことができます。2020年に開催されるオリンピックに先立ち、競技会場の海域の環境を守ってきた地域社会にも関心を持っていただければこの上ない喜びです。
なお、「砂浜社会学」とは、波打ち際から砂浜と海岸林および、それらの恩恵を受ける陸側の空間と社会を対象として、その構造や変動を総合的に把握し、海岸侵食などの人間活動に起因する問題など、砂浜の利用と保全に関する諸課題に向き合おうとするもので、私の造語です。一方で米国では、Robert B. Edgertonが、「Alone Together: Social Order on an Urban Beach」(1979)という本に社会学的アプローチの研究があります。
ビーチに関して社会学的な関心を持つ研究者がいないわけではないですが、こと日本では、伝統的に港湾都市や漁村などに目が向いており、ビーチそのもの研究はあまり活発ではありません。この記事を機会に、日本の砂浜や砂浜社会学に関心を持たれる方がありましたら、ぜひ、ご一報ください!
海洋政策チーム 塩入 同
〜参考にした主な文献〜
1. Robert B. Edgerton(1979)Alone Together: Social Order on an Urban Beach,Univ. of California Press.
2. 十和田朗ほか(1992)戦前の関東圏における別荘の立地とその類型に関する研究日本建築学会計画系論文報告集,Vol.436,pp.79-86
3. 塩入同(2016)海水浴場の汚水処理に取り組む地方自治体に見る縦割り行政の総合化に関する研究,沿岸域学会誌,Vol.29 No.3,pp.29-44
4. 塩入同(2013)海岸保安林と隣接する砂浜海岸の延長推定に関する研究,土木学会論文集B3(海洋開発),Vol.69,pp.I_814-819
5. 山縣治郎(1930)湘南地方計画と風致開発策,都市公論,Vol.7,pp.5-15
6. 一宮町役場(1964)一宮町史
7. 神奈川県湘南なぎさ事務所(1997)白砂青松:湘南海岸の保全と整備のあゆみ
8. 寳金敏明(2009)里道・水路・海浜 : 長狭物の所有と管理(4訂版),ぎょうせい
9. 千葉県農林部林務課(1979)千葉県林政のあゆみ
10.高三啓輔(2004)サナトリウム残影・結核の百年と日本人,日本評論社