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大村益次郎年表 [2016年09月12日(Mon)]
大村益次郎年譜
家は代々医を業とし、祖父村田良庵は小郡代官勘場付医者を勤む。幼名を宗太郎といい、長じて祖父名を継ぎ良庵と改め、後に蔵六とする。又長州藩の命により大村益次郎と改名す。諱を永敏という。

西歴(年 号)
 事  項

1795(寛政 7) 
父孝益、藤村源兵衛の一子として周防国吉敷郡秋穂村天田に生る。
1800(寛政 12) 
毋梅子、村田良庵(祖父)の一子として周防国吉敷郡鋳銭司村大村に生る。
1822(文政  5) 
両家談合の上、父孝益聟養子として村田家に入る。
1823(文政  6) 
祖父良庵死す。
1825(文政  8) 
宗太郎、鋳銭司村大村に生る
1827(文政 10)
父孝益、村田・藤村両家の世話不行届のため。親族示談の結果、村田家をたたみ、妻子を連れ秋穂村天田の藤村家に移る、
1829(文政 12) 
母梅子藤村家に入籍す。弟新蔵(文恭)生れ、後藤村家を嗣ぐ。
1842(天保 13) 
周防三旧尻に住む江戸の蘭学者梅田幽斎の枕流亭塾に入り蘭学と医学をを学ぶ 19
1843(天保 14) 
漢学習得のため豊後日田の大儒広瀬淡窓の咸宣園塾に入門 20
1844(弘化元年)
咸宜園を退く。   
溽び梅田幽斎の門に入る。在ること2年半、蘭学・医学大いに進む。
1846(弘化  3) 
当時大阪随一の蘭医緒方洪庵の適塾に入り蘭学・医学を学ぶ 23 この間直接オランダ人について勉学するため長崎に遊学、肥前の名医奥山静叔の許に身を寄す シーボルトの鳴滝舎を訪れ、その妾楠本滝とその娘伊篤に会う。
1849(嘉永  2) 
長崎より適塾に復帰し塾頭となる。
1850(嘉永  3) 
父母の懇望により適塾を辞して郷里鋳銭司に帰り医業を開く。祖父名、(村田良庵)を襲名す。 27
1851(嘉永  4) 
鋳銭司付鷹ノ子、高実半兵衛の長女琴子を娶り居を同村大神原に構う。琴子 18。 斬新な西洋医学と、端厳な性格は、民衆の受けるところとならず、医業を廃し、再び適塾に入る。 伊予宇和鵬藩主伊達宗城は、金剛山大降寺晦巌和尚を通し、緒方洪庵に村田良庵招へいを懇顧す。
1853(嘉永  6) 
高野長英の後任として、宇和島藩の蘭学教授兼兵学飜訳係として赴任のこととなる。
郷里鋳銭司村を出発
同藩々士となる。新知百石 30。
1854(安政元年)
藩命により村田良庵を村田蔵六と改名す。
藩命により造艦術を研究のため二宮敬作とともに長崎に出張す。 二宮敬作は1909年、ドイツの人名大辞典に掲載された唯一の日本人理学者。シーボルトが帰国の際、その娘伊篤の世話を託した人。 伊篤は夫の死後娘阿高を養育のかたわら、産科医を開業した。 二宮敬作より伊篤の指導方を頼まれた蔵六は、宇話島帰国に当りその母子を同伴し帰り後助手とする。 郷里より妻琴子を呼び寄せ、家老桜田出雲の邸内に住む。 砲台の構築、大砲、砲丸の鋳造および軍艦の雛形の作製と試運転等をなす。
1855(安政  2) 
軍艦雛形の進水式を行なう。
軍艦の製造および操縦術研究のため再び長崎に出張する。32。 幕府の長崎海軍伝習所で伝習生の勝麟太郎等に会う。 この年、二宮敬作の甥麓屋弁次郎(三瀬周三、後阿高の夫となる)二宮塾より屡々宇和島に来り教を受く。
1856(安政  3)
藩主伊達宗城の江戸参勤交代に随行し。江戸に出る。伊達家の別墅に寄寓し、蘭医の大家一槻俊斎の門に入る。
麹町一番町に転居し、私塾鳩居堂を開き、蘭学、医学、兵学を教授す。
適塾の同窓大田静馬塾頭となる。
門弟一千を超ゆという。
シーボルトの娘伊篤寄寓す。
幕府の藩書調所の教授手伝となる。
1857(安政  4) 
幕府の講武所手伝兼務を命ぜられ、難解洋兵書の飜訳に当る。
久坂玄瑞、鳩居堂に入門し、蘭学を修む。
1859(安政  6)安政の大獄起り志士の禍に罹る者百数十人。吉田松陰 30、頼三樹三郎橋本左内等刑死す。その頃外国の圧迫次第に強まり。国内では開国・攘夷の論沸騰し。革命の兆現わる。
長州藩江戸桜田邸における蘭書会読会に参加の命を受く。
シーボルト再び長崎に来る。村田蔵六宅に寄寓中の伊篤・阿高が二宮敬作に伴われ、江戸より長崎に行く、シーボルト 63。妾滝子 53。娘伊篤 35。孫阿高会す。
西洋医学所の懇請により小塚原刑場の婦人刑死者を解剖す 35。
1860(万延元年) 
長州藩士周布政之助、桂小五郎、青木周弼等協議し村田蔵六の長州藩召抱えの計画を建て、幕府および宇和島藩に折衝。従来の用務と兼務のことで了解なる。
長州藩雇士となり馬廻士に準ぜられる。年米二十五俵 37。この頃、横浜在留の米国宣教師ヘボンより英語数学を学ぶ。
1861(文久元年) 
藩名により江戸より萩に帰る。手廻組に加えられ、博習堂掛となる。博習堂においては砲術、攻城術、艦砲術等を教授し、又野戦攻守の兵学を攻究す。
藩の兵事講究の専任者となり練兵五科、博習堂の学則を制定する。
藩に進言して汽船操縦指導の外人を傭聘す。
江戸詰を命ぜられる 38。
1862(文久  2) 江戸麻布において。藩の西洋兵学会読の教授を命ぜらる。
藩は江戸麻布に土地を買入れ、ここに居を構えさせ、その事業を援助す。
1863(文久 3)
井上馨。伊藤俊輔、山尾庸三等五人の英国遊学の周旋をなす。 高杉晋作藩命により奇兵隊を編成す。
馬関で外国艦船を砲撃。 三条実美ら七郷罷免せられ周防に下る。
藩命により江戸の塾舎を閉鎖し帰国、山口明倫館教授となり、兵学寮を総管す。
山口白石の普門寺を塾として兵学を教授すると共に砲台の築き方、銃の取扱等を実地指導をなす 40。
1864(元治元年) 
三田尻附近砲台築造用地を巡検す。
小郡附近砲台築造用地巡検の外、藩内各地を踏査し、萩の沖原、小郡の福田口に銃砲工場を、三田尻の勝坂山口の天花に弾薬工場を、阿武郡川上に製鉄所の建設等を建議す。 禁門の変(蛤御門の戦)おこり、長州藩追討の勅命下り、幕府征長令を発す。 8月英、仏、米、蘭四ヶ国連合艦隊馬関を砲撃す。
博習堂用掛兼赤間応接掛なる 41。
1865(慶応元年) 
汽船壬戍丸の処分と銃器購入のため上海に渡る。
防禦掛兼兵学寮用掛となる。
木戸孝充、伊藤俊輔らと四境戦の作戦を協議す。
馬廻士となり譜代の班に列し、禄高百石を賜う。
藩命により村田蔵六を大村益次郎に改名す。 1月大田・絵堂の戦。11月幕府彦根藩以下三十一藩に征長出兵を命ず。
1866(慶応  2) 
1月薩長同盟成る。
三兵教授兼軍政用掛となる 4月藩主毛利敬親、対幕応戦の部署を定め軍令状を発す。 6月幕軍進撃四境の役(第二次長州征伐)はじまる。
石州口の諸軍参謀として益田城を攻略、引続き浜田、大森を占領す。
九月幕吏勝海舟芸州厳島に来り、長州藩士広沢兵助らと休戦を協約し、四境戦終る。
兵学寮に復帰し海軍用掛となる 43。
1867(慶応  3) 
長州藩の大隊編成を改む。
三兵教授として暫時陪臣大隊用掛となる。
諸隊の軍服を洋式に改む。 10月長薩二藩に討幕および会津・桑名両藩討伐の密勅下る。同日徳川慶喜大政を奉還す。12月王政復古の大号令発布。
1868(明治元年) 
鳥羽・伏見の戦には国許にありて、兵の振当に努む。長藩世子元徳、朝命により大兵を率い上洛す。これに従い諸隊の指揮にあたる。
討幕の大詔換発され、軍防事務局判事加勢となり。親兵を編成し兵営を伏見に設置す。
天皇大阪に行幸、天保山沖の軍艦の繰練、諸藩兵の調練を天覧、この指揮に当る。
軍防事務局判事となる。
彰義隊討伐に関する軍議において作戦上激しい論争あり。西郷隆盛も遂に大村の意見を容れる。作戦用兵の一切を一任され、上野彰義隊を一日で平定す。(靖国神社の銅像は、この時の指揮の容姿である)
従四位下に叙せられ、鎮台府民生会計掛となる。
米沢、仙台、会津等の抗戦に対し、総督府に在りて鎮圧の方略を樹て、これを平定す。
朝廷、東北平定を嘉し、太刀料三百両と天盃を下賜す。軍務官副知事となる。
1869(明治  2) 
5月、函館の戦終り軍功により永代禄千五百石賜う。木戸孝允らと図り九段に靖国神社の前身、招魂社を建立し、日本最初の招魂祭を挙行する。
政府は官政を改め、二官六省を置く。
兵部大輔(次官)に任ぜらる。郷里の老父見舞のための請暇願が許可され、東京を立つ。
木曽路を経て京都着。京阪地域の軍事施設建設箇所の踏査をなす。
宿舎で夕食中十数人の凶徒に襲われ重傷を受く。(7月26日木戸孝允は京都府大参事植村半次郎に対し大村着京後の、不逞の徒の取締りを厳にするよう指示している)
木戸孝允の意見により大阪病院雇、蘭医ボードウィンの治療を受けるため、淀川を下り舟路で大阪病院に移る。夫人琴子、郷里を立ち三田尻港より海路大阪に向う。患部切断につき、手続上勅許に時日を要し、手遅れで右大腿部を切断す。
敗血症により5日遂に逝く 45。6日、遺骸は琴子夫人その他に付添われ海路故郷に向う。墓所を長沢池近くの丸山に定め神葬す。
1872(明治  5) 
墓域に近く大村神社を建立す。
1878(明治 12) 
神社前に神道碑建設さる。
1888(明治 22) 
勲功により華族に列し子爵を授けらる。
1893(明治 26) 
東京靖国神社境内に、銅像建設さる。
1905(明治 38)
琴于夫人歿す 73。
1915(大正  4) 
「故兵部大輔大村永敏卿誕生地」碑が郷里鋳銭司大村に建つ。
1919(大正  8) 
特使を以って従二位に追陞せらる。
靖国神社で大村五十年祭執行さる。
1921(大正 11) 
墓所が国の史蹟に指定さる。
1935(昭和  9) 
京都河原木屋町に「遭難之碑」建立さる。
1939(昭和 14) 
大阪竜海寺に「埋腿骨之地」の足塚建つ。
1941(昭和 16) 
大阪病院跡に「殉難報国碑」建立さる。この年、大村神社奉賛会を設立し、大村神社改築造営のことを進む社地を長沢池畔に定め、社殿建築に着手。21年完成。
1970(昭和 45) 
「大村益次郎先生百年祭奉賛会」を設立し、全国名地よりの千五百余万円の寄付金を以って、神社の改修、環境の整備を行ない、百年祭式典を執行す。

大村益次郎先生顕彰会発行 「大村益次郎」より
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コメント
年表の出典図書を明記すべきと思います。
同時代の維新史の人物の動向も併記してはいかがですか。
Posted by: 竹内 康  at 2016年11月01日(Tue) 08:08