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2019年03月30日

三沢の要害山山頂における大仙権現

 大正8年刊行の仁多郡誌に要害山について記載がある。
 一月ほど前のこと、三沢のMさん宅でお話を伺っていた折のこと。このあたりは牛馬信仰は縄久利さんで、ダイセンさんじゃないよという流れの中で、「確か要害山にダイセンさんがありますよね」と質問したところ、「?聞いたことないけどね〜」という反応であった。
 三沢ではほかにKさんに聞いただけであるが、縄久利さんの祭りはあるが、ダイセンさんもあるということで、その場所も教えてもらい、確認したこともある。
 が、要害山にあったという記録を見た記憶があり、確かめてみたところ、仁多郡誌であったというわけだ。
 あとで、原文を引用しておこうと思うが、図面と記述があり、石像があると記されている。
 ところが、だ。Mさんもおっしゃっておられたように、私も記憶にない。何度か山頂にはあがり、そこにあるものは写真におさめたりしているのだが、記憶にも写真の記録にも、ない。
 山城祭のときにでも、現地を確認してみようとは思うが、もしないのだとしたら、誰が、なぜ、それを移したのか。そして移したものはいまどこにあるのか、ということ。
 少なくとも大正年間にはそこにあったのだから。
 また、ここで行われていた祭祀、すなわちダイセンさん=山あがりがどのようなものであったのかということ。
 そして、山頂にある「古井」の由来についても、単に放牧してあった牛が落ちたから埋めたのではない可能性がでてくる。山あがりの祭祀のときに、牛を連れてあがるということは、平成の今でも昔の思い出としてお年寄りから聞くことができる。その牛が落ちたのか、あるいはもともと井戸などなく、牛が落ちて死んだための塚としてあったものではないのか。
 このような山頂に井戸がある意味として、山城跡であったためだと合点しがちであるが、山城の山頂部分には井戸があるものなのか、どうか。
 ほか確かめたいことは多々あるが、まずはとりかかりの緒として、備忘に記すものである。

 

2019年03月26日

飢饉の記憶とカブの儀礼と

年取りカブを中心としたカブの民俗について整理してみる。

◆正月カブ(地カブ)が供物として捧げられるとき。
1. 歳神さんを迎えるに際して「吊るす」形態で→「吊るす」形での供物は、獣のそれが原型ではなかったか。神殺しとも言われるもの。
2. 稲こぎのあと、千歯こぎあるいはこぎ箸に捧げるものとして、一升枡にカブを逆さにおき、精白した米で満たして捧げる。→一升枡に入れる供物は歳神さんに供えるものとして下の写真にある形態があるほか、節分の豆を入れて供えるものとしてある。
後者について、奥出雲町横田の大呂か竹崎の郷土史に節分の豆まきを正月に行なうということが記されていたことを思い出す。
※写真については後ほど掲載。静岡県水窪のもので、

◆地カブ(正月カブ)を年中行事の中で食するとき
1. 年取り
・大晦日の夜、年取りの晩、節のとき、これすなわち、終わりと始まりが交錯するとき。
・蕪汁である。
・「カブがあがるから」などというが、もとは唱えごとがあったのではないか。カキなどと同様に。
2. 粥
・七草粥として残存しているが、古くは晩秋の行事であったはず。秋の七草が古形である。

◆大根の年取り
・平凡社「世界大百科事典」より
《東日本では,十日夜(とおかんや)を〈大根の年取り〉といい,この日に餅をつく音やわら鉄砲の音で大根は太るといい,大根の太る音を聞くと死ぬといって大根畑へ行くことや大根を食べるのを禁じている所もある。西日本では10月の亥子(いのこ)に同様の伝承があり,この日に大根畑へいくと大根が腐る,太らない,裂け目ができる,疫病神がつくといい,また大根の太る音や割れる音を聞くと死ぬともいう。…》

◆伊藤若冲・果蔬涅槃図に描かれたカブについて


 

2019年03月23日

粗々〜カブとクマゴの時間

 標題の件、図書館での資料渉猟の折、メモすらしていないことをも含めて、まず残しつつ後ほどの整理に委ねる。

◆島根県出雲地方においては近世以降、水田を有しない耕作地帯はきわめて稀である。その比率の違いはあれ、水田稲作を基軸とした農耕文化が形成されてきた、ように見える。大局的にはそう見えたとしても、個々の集落、ひとつひとつの儀礼、年中行事、それらを丁寧にみていくと、稲の儀礼にみえて、その基底に畑作があるのではないかとうかがわせたりするものがある。
◆地カブにまつわる儀礼がそうである。年取りカブ(正月カブ)と呼ばれる地カブは、文字通り、大晦日には欠かせぬものとされ、歳神さんを迎えるトシトコの飾りにはジンバソウなどと並んでこのカブをぶら下げる。また、この年取りカブは稲こぎにも米とならんで主役となる。
 すなわち、稲こぎが終わったのちに、千歯こぎなど道具にお供えをするのだが、その供物とはカブと精米した米である。カブを一升枡に逆さに(尻が上に)おき、枡にはこぎおわった稲籾を精米した白米をなみなみと満たす。これを供えるものだ。
 なぜカブなのか。なぜ米とカブなのか。
◆現在、森と畑と牛と、島根大学里山管理研究会が中心となって行っている「竹の焼畑」は、旧奥出雲町の山方地区にあたるが、その山方と斐伊川をはさんでの隣地である林原、そして岩伏山をはさんだ向かいにあたる下布施地区は、かつての畑作優先地帯であり、焼畑ふくめた畑作文化がかつて存在した。尾原ダム建設(2011年:平成23年竣工)による集落移転によって、現在は無住地帯である。
◆白石昭臣は何度か調査に訪れ、その断片が論文・資料には残されている。白石の集大成的遺作ともいえる『農耕文化の民俗学的研究』(岩田書院)、集落移転を契機とした民俗調査報告書、島根県教育委員会, 1996『尾原の民俗 : 尾原ダム民俗文化財調査報告書』。
 とりわけ「年取りカブ」に関するものとしては、前者のp.328にある一文は、後者より微妙に詳しい。ご本人に伺えないことがくやまれる。
《〔事例11〕島根県仁多郡仁多町・大原郡木次町下布施一帯の山村では、大晦日に「トシトリのカミさん」と称して、ヒゲ(根)のついた地カブ(蕪)と二叉大根を、オモテの床の間の年棚に上方から吊す。これに大根ナマス、カブの味噌汁、ソバを供える。》

先の山方地域について2,3、気になることを記しておく。
 20150530-P110060902
 ダム建設の残土置き場となったため、山中に点在していたものをここに合祀したときく。
 伝承にも山の信仰の色がこい。
 タイシコの雪隠し。馬にのってやってくる毘沙門天。尼寺の跡(姥石とも)。などなど。

ヌルデのこと

春といえば、美保関の青柴垣神事。
春は生命が芽吹くはじまりの季節。

◆青柴垣神事ではトコロイモ・里芋が重要な供物……4月1日には海でトコロイモを洗うという神事あり。いまでは他の地方からもってこられるらしいですが、かつては山の畑でつくられていました。そう、焼畑で里芋をつくっていたエリアなのです。海の色彩とともに山の神信仰の色が濃い。
◆山村塾が焼畑をしている土地(旧仁多町山方)では、かつて関講があり、御札と稲魂のやどった種籾を美保神社に詣でて受け、各家々で札は水口に祭り、種籾は用意した種籾とまぜて苗をつくったものです。
◆そして、神事に用いられる負棒。かつては「もり木」であったと。もり木は消失した民俗儀礼に多出します。花嫁を背負う木でもあり婚姻時に用いたのち大事に保管し、その嫁が死する時にともに弔うあるいは骨を拾うときに使う箸にするなど。これはおそらくアイヌの神送りにまで連なるものですが、焼畑実践者であれば、おなじみ、ヌルデの木が材として使われます。椎葉でも、そして先に焼畑フォーラムが開催された井川でもありました。焼畑のあと、最初にはえてくる木、それがヌルデです。奥出雲の佐白でもそうであることは、焼畑地の草刈り参加者にはおなじみでしょう。
◆海とヌルデの関係は「塩」ということからも
ヌルデといえば、椎葉のクニ子おばばとこんな話をしたのを思い出します。
クニ子「山にはなんでもあるから」
私「あ、でも、塩はないでしょう」
クニ子「ヌルデの実があるわね。塩の代わりになる」
ヌルデの実が白い粉をふいているのをなめると塩辛いです。粉はリンゴ酸カルシウム。塩(塩化ナトリウム)とは違うのだけれど、昔から山での塩分補給になっていました。
◆なぜ、ヌルデの木なのでしょう。生命の根源にある塩をふき、焼畑で最初に芽生える森の先導者。小正月では占いの木でもあり、魔除けの木でもある。
そう、焼畑の民にとってヌルデとは死と再生に深くかかわる木なのです。

クマゴのこと

◆クマゴの記載のみられる町史等をみるに、こらまで島根県内で確認できたのは次のもの。広島県北部をまだあたっていない。三好市の図書館にいけばある程度そろうだろうか。
赤来町史
勝部正郊氏が取材執筆されており、聞き取りの要約であっても信頼がおける。
そのままひく
《さて明治から大正にかけての食事の概況を記すと次のようになる。この記録は昭和四十四年の夏、来島地区、赤名地区、谷地区における六十才以上の老婦人が語った若き日の食生活をまとめたものである。
 主食といえば、米三分にクマゴ七分のものだった。朝はたいていが茶粥に漬物。昼は飯に漬物。ハシマには飯に漬物。夜も飯に漬物それに煮しめ。そして自家製の味噌でつくった味噌汁があった。味噌汁の中身はそれぞれ時節のものが入れられ、タカナ、ネギ、タケノコ、ナスビ、大根など……(中略)……主食の過半を占めたクマゴはこの昭和の初めまで用い、特に谷地区ではクマゴこなしの共同作業までみられた。》

大和村誌
p.638(第三章民俗慣習ー第ニ節食物)
(江戸から明治にかけての食として)主食は米三分、クマゴ(粟)七分で、時によって粟のかわりに麦、甘藷、または大根や菜葉を細目に刻んだものを混ぜて炊いた。
羽須美村誌(下)
p494
《第五項 くまご(こあわ)
麻畑の後作として、「くまご」を栽培した、これは麦と共に米の補給物として重要なものであった。
 麻刈りした畑に、ほとんどがバラ蒔きをしていたので、水田の除草や、養蚕の合い間を縫って、手入れをするのだ。手入れといっても主に、間引きと除草である。(中略)反収二石も獲れれば上作である。
 この「くまご」も年々減少して昭和十五、六年頃より極度に少なくなり、三十五、六年に至って殆ど姿を消してしまった。
 昭和の初期までは、常食として米に混ぜて、ご飯に炊いていた極めて重要な食糧であった。御飯一升について二合ー四合(二割ー四割)を混ぜて食した。炊きたての温かいうちは、黄色で香りもよく、たべ易く味も悪くはなかったが一旦冷えると、香りもなくボロボロして食べ難いものであったように記憶している。》

 ここで特筆すべきことはいくつかあるが、なんといってもくまごをこあわとしていること。

◆桜江町誌、旭町史にクマゴの記載はなし
 どちらも食生活の項目に雑穀の記載はあって、その比重の大小は地域内の差はあれど、それなりに大きい。桜江町については粟食も濃厚でウルチ粟の飯を食していた記録もあるが、その粟をクマゴとは呼んでいない。旧石見町も山間部はそうであろうから(未確認)、クマゴの境界はちょうど瑞穂町のあたりとなろうか。
 おそらくもっとも近年までくまごを食していたと思われる都賀行をあわせてみると、地カブをよく食していた地域と重なるのではなかろうか。
 さらに西の地域を資料の渉猟と、森神、大元神、地神の残存、祖霊信仰とあわせて探っていきたい。

◆クマゴ、地カブについて大浦周辺で聞いてみるも、年寄りはみんなおらんようになった。とのこと。ただ、地カブと思しきカブはそこここに点在している。

P1290107-2



2019年03月22日

灰小屋雑考

 邑南町へ在来作物調査へ行く道すがら、灰小屋の「遺構」をみる。灰小屋といっても、岡山県から広島県にかけての高原地帯、山間部から島根県石見地方東部に多くみられるものは、田畑に近いところにもうけられ、そこで土を「焼く」小屋としてある。地域によって呼称の異動はあれど、このあたりだとハンヤと呼ぶことが多いようだ。
 関心がありながらも放置してあるテーマであって、テーマは5つばかり。

1. 小屋の建築として…農夫がつくる建物という点、住ではなく機能性に特化したものとして。しかしながら中では火を扱うという点から納屋とは異なり、住に近いなにかを有するのではないか。すなわち住居の原型としてとらえてみたときに、何か大きな発見がある気がしている。

2. 再生を試みる実践…少なくとも3つの観点がある。ひとつめは焼土をつくる技法とその効果について。農学的アプローチがベースにありながら、環境民俗学をもちいねばとけぬ問題がある。どのような林野利用と農事の循環、作物栽培、複数の要因のからみあいのなかで醸成されてきたものであろうから。そして、多くは茅葺きであったことから、茅葺きの技術を小さくとも身につけることとリンクしている。安藤邦廣先生にご助言いただく予定。

3. 灰利用の文化…草木から繊維を取り出し、糸をつくる、あるいは紙をつくる、そのとき灰は書かせぬものである。麹菌を培養する際にも特定の樹種の灰が使われた。ほか、山菜の灰汁抜きに、焼き物の釉薬に、衣類の洗浄に、あげればきりがないほど。化学でどうのこうのという面をこえた感覚にせまってみたい。

4. 灰小屋の風景と環境と…田畑の中に煙がそこここからたちのぼっている風景。夢のなかであってもそれを見てみたい。灰小屋ひとつひとつは、その配置のバランスもさることながら、芝木を山から持ち運ぶ便、土を運びこむ便、できた焼土を田畑に戻す便、うまく燃焼させるための季節による風向きと強さ、などなど、多くの要因を計算にいれて合理的に設置されるものだが、それらが谷に散居しているさまは、その理ゆえに美しいものであったろうと思う。

5. 焼畑との関係はありやなしや…あっただろうと連想のまま書かれた記事はみかけるが、どうなんだろう。容易な結びつきはちょっと得られそうにないのだが。
 むしろ、建築面からみるに、たたら小屋からの連続性をみるほうが得るところが多いのでは。
 日本ではじめて、弥生時代の竪穴式住居が復元されたとき、参考にしたのが出雲地方のたたら小屋の構造であったと聞く。火を扱いながら、茅等の草葺であること、地面を掘り下げた構造であること……。ハンヤは掘っ建て柱は使わないが、その基本設計は系統を同じくするものではないか。













●関連過去記事
尊い家とは何か〜今和次郎とB.タウトと

粗朶ってなあに?



2019年03月02日

戸河内町史・民俗編にみる小正月の訪問者

 なかなか見つからないものを探すときには、ほかの気になるものをひろい集めたりするものだ。ちがうだろうか。良し悪しを問う前に、もうこれは癖のようなものだから、なるようにやるしかないのだが。開き直りつつも、これでいいのかという迷いもあるということで本題。
 頭がパンク寸前にいろんなものが渦をまいているので、忘れぬように、あちこちに記しているもののひとつとして。
 横田の図書館に、戸河内町史や東郷町史など隣接する広島の誌史があり、3分だけ見るならどれだろうと数秒迷った末、戸河内町史・民俗編を手にとった。だだっとななめ読んだらば、なんとも興味深いページが。年中行事の小正月の項だ。
 ひとつ。小正月の訪問者=来訪者は、満月の夜にやってくるということ。

《正月の14日か15日の夜のことだが、最初の満月の夜に、顔を隠し箕を着たりして家々を訪ねる、いわゆる小正月の訪問者がある》

 これまでうかつにもこのことを考えて見なかった。そう、小正月は満月の夜でなければならないのだ。旧暦の15日は満月。この意味するところによくよく気をつけて、これからみていこう。
 ふたつ。地域によって截然と、やるところとやらないところがあるということ。これは地図をみながら再確認。
《小板には「とろへい」があった。猪山では「とのへい」、本郷、上殿などでは「とろとろ」といっている》
 声は「とろへい、とろへい」とかけていたようだが、「とろとろ」もあっただろうと思われる。そして、問題はその声である。
 みっつ。神霊示現の声は奇矯なものだったこと。

《また、とのへいの声は、ふだんと違った変な声をだす。そこで猪山では、ふだんに変な浮わついたような声を出すと、「とのへい声をするな」と、親からたしなめられた》

 刊行が1997年と新しい。ひょっとしたらこの声についてまだ何か聞けるかもしれない。
 森と畑と牛と1号が終わったら、取材してみよう。