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2018年02月24日

森と畑と牛と いま・そして

 奥出雲の小さな山村は、水を蓄え、資源を育み、食やエネルギーをまちへ送る役を果たしてきた。山村とまちとの連なりが、都市を育み、世界と繋がり、今日の生活経済文化圏がある。
 村を破らず川を荒らさず山を荒らさず真の文明を築き上げてきた先人の労苦には万感横溢するを禁じ得ない。
 しかるにここ数十年来、圏域をめぐる循環を生み出す源流、山村における森の荒廃と産業の凋落には底が見えない。人的資本は減耗の一方である。
 くわえて現在、地域固有の在来作物や採集草木利用ならびにそれと連なる民俗文化はまさに消滅しようとしている。
 しかし……。
 生命現象における死は再生と同じ地平にある。より存在する為に複雑多様化しつつ、時にはそれを捨てる。私たちは、ひとつの文明の滅びのなかから、創出の道を歩もうと思う。森は、殺したり殺されたり食べたり食べられたりしながら、複雑精妙な共存共生の場をつくる力をもっている。人は、牛を飼い畑をつくることを通して森の生命場とつながってきたのだ。
 世界が向かう先は闇ではあるが、この森に集うひとりひとりが、小さくとも強く、暖かな灯りとなって、美しい野山と人の世界をつくりだす希望となろう。
 森と畑と牛と 設立趣旨より

 「森と畑と牛とβ」発刊を機に、巻末に掲載した一文をここにあげてみた。





posted by 面代真樹 at 15:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々

2018年02月20日

焼畑の終わりと始まり

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 日本における焼畑は稲作以前、縄文時代から行われていた可能性が唱えられてきた。空間的にも北海道から八重山諸島にまで広がっている。その形態や特質は多くの変貌を時間的にも空間的にもとげながら、野山に火をいれるというその一点は近代まで連綿と続けられてきたことに間違いはない。
 少なくとも数千年におよぶ焼畑という営みも、昭和三十年代に入り急速に衰退し、確実に終焉を迎えたと、野本寛一は言う。現在の80代世代が、その最期を見届けたことになり、私たちにその探求の道は閉ざされた。
 一方で、平成も終わろうとするこの時代に、焼畑の火は消えそうで消えず、もはや歴史の進みの淀みとはいえないだろう。むしろ、数千年のときをへて、やっと、私たちは焼畑の真実にたどりつけるのかもしれない。黄昏に飛び立つミネルヴァの梟をとらえるがごとく。
 繰り返し同じようなことを言う。焼畑のイメージはつねに焼畑そのものから遠ざかろうとする。裏切り、間違い、幻像。「灰が肥料になるのですか」「究極の循環農法ですね」「環境破壊では」……すべてイエスでありノーである。
 奥出雲・佐白の地で「焼畑」を試行して三年。焼畑は農法や伝統や文化というよりは、生命現象に近いなにかであると予感する。

 焼畑は通常、Slash and burnで通用するが、Shifting cultivationも捨てがたい通念だ。むしろ「移動」することが「焼く」ことよりも本質をついているだろう。通説では、焼畑が場所を移動=Shiftingするのは、地力の衰えあるいは除草の手間が増大するためだとされる。が、本当にそうなのだろうか。
 別な言い方をしてみよう。焼畑が移動をその核にすえるのは、管理から逃れるためであり、定住と集団の大規模化に抗するためであると。anti-cultivation、すなわち反文化としての焼畑。
 山の利用をめぐって、明治政府はまず自由放牧を、つぎに焼畑をしめだした。間接的にではあるが。抑圧する側としては、制御したいのであって、抑圧そのものが目的ではない。
 反文化は、文化に抗するわけだが、それは文化の側からの視点であることをことわっておく。
 
 野山に管理を徹底することで、結果としてなにが起こったのか。国は富を拡大できただろうか。人は豊かさを享受できただろうか。幼子を飢えや病気でなくす悲しみを総体として減らすことができただろうか。これもイエスでありノーである。

 「森が荒れ」「鳥がいなくなり」「山にはもう入れない」と土地の老人たちはいう。
 嘆きだろうか。いやそうではない。これは託されているのだ、まだ動ける私たちに。
 もうやらなくてもいいのだと。
 だが、やるなではなく、やってもいいというメッセージがそこにはある。
 やるなら覚悟をもっておやりなさいよ。そうやさしくはいわないだけであって。
 
 そう勝手に受け取って、私たちははじめたのだ。

 荒れた森を切り開き、火を入れ、畑をつくる。花が咲き、虫が集まり、鳥が少しずつふえ、荒地のキク科雑草の繁茂も二年目でずいぶんとおさまり、見ることのなかったスミレや柔らかな草、眠っていたチャノキが背をのばしはじめている。新しい森が成熟するにつれて、これらの生命はまた次第に消えていくだろう。
 作物の種はあつくまき、その多くは死に、生き残りもどんどん間引いていく。それでもできたりできなかったりする。
 まあ、なんとかつくりたいという一心なのだが、生と死が等価であるような生命の流れに同化することでなんとか私も生きたいと願う。

posted by 面代真樹 at 12:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 焼畑

2018年02月12日

セーター、その始原性とダーニング

 NHKのEテレとBSプレミアムで放映されている「美の壺」。その<File:435>なる回のテーマが「セーター」だというので、観た。

 気仙沼では手編みのセーターが、伝統文化としてあった。はじめて知った。セーターといえば、明治から入ってきた洋文化だと思うだろうが、伝統を形づくる時は100年もあれば十分なのだ。それが人の暮らしに根ざしているかどうかなのだ。私たちは古くさかのぼれば、長く続いたものであれば、伝統としてありがたく頂戴しがちだ。そこではないのだ。織物・服飾に限らない、建築や技芸、食文化、どんなものであれ、人が編み出し共有していくものの育み方、そのヘリテージが伝統というものなのだと、認識を新たにした。
 番組では気仙沼ニッティングが紹介されていたが、ほかにも気仙沼で編み物を扱うところがいくつがたちあがっている。
 こちらの論文※1などからもわかるのだが、編み物は「階級」や年齢、職業を問わず、田舎でも都会でも人々の間に浸透していったようだ。
 経済的、すなわち材料が低廉で供給されたことと、道具が少なく特別な技術を要しないこと、このふたつが初期からそなわっていたのだ。いや、隠れたもうひとつの条件があるだろうが、これはいまは深くはおわない。が、ひとつだけ。
 家族の衣類は自分の家でつくるものだという理念のようなものがあったのだということだろうと思う。
 
 つくろうことができるということがうえの3つともかかわる。番組の〆もそこにおいていた。
 ほどいた毛糸で編み直すこと。
 そして、ダーニング(これ、はじめて知った)。
 衣服っておもしろいなあと思うことができた。
 と、同時に。本の編集を見直す観点を与えてくれそうだ。
 このあたり、もう少しほってみたいが、また次の機会に。



そして、もうひとつ。この本を読むこと。
「編む」は「織る」よりも、その起源を古層にまでたどれるものなのだ。
滝沢 秀一『編布(あんぎん)の発見―織物以前の衣料』を読みたくなった。


※1 森理恵,櫻井あゆみ,2012「近代日本における編物の変遷の一側面―明治後期から昭和前期の編物書 24 点の分析を通して」(日本家政学会誌 Vol. 63 No. 5 225 〜 236)


2018年02月11日

タカキビ餅のぜんざい

 うまし。
 タカキビ餅と名乗っているものの、原料の8割5分ほどは餅米である。若干のモチアワも含まれている。1割2分ほどだろうかタカキビの入っている割合は。されど、しっかりとタカキビらしい味わいというか野性味というか深みというかそんなものがある。
 タカキビは今年の焼畑で収穫したもの。ミキサーで軽く挽き割って使っているが、粒のままのものが6〜7割はあるだろう。つきたてのときはほんのり紅がさしたようなきれいな色を出していた。
 タカキビ10割でつくのであれば、粉状にまで挽き割って、搗くといううよりはこねるのではなかろうか。以前、つくりかたは記したので繰り返しになるが、タカキビは水にひたすこと1週間、水は最初は毎日かえるのがよい。温度があがりすぎると腐敗するので、冬期なら土間など冷えたところに静置すること。

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 さて、小豆である。
 これは、自然栽培の小豆なのだ。
 じつは小豆を作らないかという話があって、種子もくれるし、栽培法も指導してくれるのだと。虫がつきやすいので駆除するための農薬はいろいろあるらしい。
 新しく土地を借りるのであれば、まずは雑穀でならして、土のバランスがとれたところで豆類だろうなあと考える。放棄地であっても火はいれてスタートしたい。小さな納屋がそばにあればなおよし。竹がはびこってしまった山もあるとよい。

 そんなことを、食べながら考えていたのだった。

 

2018年02月04日

「山をする」牛

◉「山をする」
「放牧することをわが地方では『山をする』といいました」
 佐藤忠吉は『自主独立農民という仕事』(森まゆみ著・バジリコ刊)のなかでそういう。昔というのがいつのころからなのかはわからない。皇国地誌に残る牛馬の頭数や昭和30年代まではいくばくかの古態を残していたであろう民俗の記録などから、少なくとも江戸時代中期からの姿であるならば大変おぼろなものではあるが想定はできる。つい60年ほど前まで、「山をする」という言葉は生きていた。
 また区域を出雲にとどまらず同類の地勢や集落形態、経済圏ともいえる鳥取県・岡山県・広島県の中国山地地帯にひろげれば、奈良時代からつづく牛馬放牧地帯であることは確かである。日本における牛馬を飼養した起源については考古学的知見がわずかにあるばかりであり、定説らしきものも不確かなようである。
 そもそもが、これ、牛馬放牧に対する国民的「無関心」に起因するようだ。稲作の起源、あるいは縄文・弥生の土器などわかりやすい形のみえるものについては、その時代を証するごく一部の断片であるのにもかかわらず、その断片から全体像をむやみに描こうとするがゆえのゆがみがあるように、このごろ思えてならない。
 同じ轍をふむことをおそれつつ、わからなくなった「牛をする」ことについて、想起をめぐらしてみよう。

 牛を山に放つことは、私たちがイメージする放牧とは違うなにかであったことは、言葉そのものからもうかがえる。
 私たちの頭は、牛を飼うことを、目的別にわけて分類して事足りることに、あまりにもなれすぎてしまった。
 牛乳(生乳)生産のための乳牛。肉にするための肉牛。このふたつのいずれかであって、古来日本の和牛は食用ではなく乳をしぼることもなかったがゆえに「役牛」と一括されていることにもよくあらわれている。
 死んだ牛はすべてではないにせよ、肉として食されていた。建前として禁じられていたがために記録に残っていないだけである。また乳を飲むこともあったらしいが、基本は小牛のためのものであった。あたりまえといえばあたりまえだが。
 そして、つい数十年あるいは現在でも牛を飼う家々のその「目的」を私たちは忘れている。いわゆるペットである。とりわけ江戸時代後期から昭和の戦後まもなくのころまでにおいて、ここ奥出雲をはじめ、鳥取、岡山、広島の山間部において牛の放牧頭数は全国屈指のものであった。しかもどの農家も一頭から数頭までの小規模でありながら、共有山野での放牧や平地への貸出(鞍下牛とこの地方では呼んでいた)といったリースもあれば、権利のやりとり、保険・金融機能との融合、市場取引などの重層的利用もからんだ、文字通りの資本財(cattle〜capital)であったのだが。。。
 だが。個々の家々の動機は、使役とともに糞の堆肥利用という合理的目的はあったにしても、女性や子供の「愛玩動物」としての価値と効果を低く見積もりすぎてはいなかったろうか。

 民俗資料ではない、老人倶楽部がまとめた「言い伝え」のような文集のなかにあらわれる、牛を飼っていたときの綴りには、牛といかに情を交わしていたか、その気持がにじみでているのだ。鞍下に出すときには、からだをきれいにふき、藁をあんだ沓をはかせ、前の日からごちそう(おからや大豆をしぼった呉汁)をとらせ、見えなくなるまで手をふって見送る。
 帰ってきたら必ず痩せていてかわいそうだったというその心はやはりこの国ならではのものであったことだろう。
 少なくとも多頭飼育をし、肉を食べる国の牛飼いの話を伝えきくに、情が移らないような飼い方をするのだという。裏をかえせば、日本においては情が移ってもよいとしていたしその利点のほうをたかくみていた可能性は高い。
 寡頭飼育であるがゆえの必然でもあろうが、「山をする」といったときのような、他のあり方とのインタラクションのよさがあったのではなかろうか。具体的にはまだみえない。

 

2018年02月01日

生ける神としての荒神

神は死んだ
そう叫ぶものがいた
私たちはそれをいくどか耳にした
二千年前に
五百年前に
百五十年前に
つい五十年ほど前に

神は死んだ
そうささやくものがいた
私たちはそのささやきを耳にする
森神をまつる大きな木の下で
稲穂たなびく平原のただなかで
道をつくり川の流れを変えるその橋のたもとで

ふたりの男がいた
ひとりはこういった
あたりまえのことではないか
死んだのでなければ、もともとなかったのだ
神がいるのならば、神がいたというのならば、教えてほしい

もうひとりの男はこういった
なにをばかなことをいうのか
神は死んだのではない、立ち去ったのだ
もう一度神の声を聞きたい
神が今どこにいるのか教えてほしい


 職場のお茶の時間に、こんな話を聞いた。
「立原といえば、道の真ん中に大きな木があるよね」
「あぁ、あれ。道がふたつにわかれているところ。夏にはよく木陰で休んでいるよ。風も通って気持いいんだろうね。ベンチもあって。小さな憩いの場にもなっているけど、不思議だよね」
「あぁ。あの木はね。切るとたたるといって、誰もさわれないんよ。地元の人も業者の人も。だから、役場の人も枝を切るのを頼むのは、遠くから呼んできて切るらしいよ」
「それ聞いたことある。あらがみさん?」
「昔、道路の計画で切ろうとしたら、その人が亡くなって。それ以来だれも切らないしどかせないから、道の真ん中にあるままなんだって」
「子どもが、頭ぶつけたり、怪我したりが続くと、まさかあんたあの木にいたずらしたりしとらんかねって、いまでも言うよ〜」
「お祭りの日も決まってるって聞いたよ。いつも掃除してきれいにしておられるし。〇〇と〇〇を供えるんだっけ」

 まさか、である。
 職場をお昼であがり、いてもたってもいられず、場所を確かめ、カメラを手にして行こうとしたそのとき、急にみぞれが降り始めた。はやる気持をおさえる。今日はもう少し周辺をおさえてみよう。地図を年代順に丹念にみなおし、古地図のデータベースから古道との照合をはかってみたり。立原は通ったことすらない地域である。旧加茂町と旧大東町の町境でもある。

 立原(たちばら)は応仁の乱の頃には、所領として文書に表れている。立原氏に由来すると地名辞典の類にあるが、たちばらの地名が先行し、在地の武力団の長が名乗ったものだろうと、推する。
 件の荒神が宿る木は、グーグルでみるとマテバシイのようにみえるが、タブノキにも見えなくはない。常緑広葉樹であることは確かで、1970年代の航空写真をみるといまよりも少し小さな樹影がみえる。それほど古い木ではなさそうだ。
 そして、この木は立原の地とは川をはさんで東岸にある。旧養賀村との境界域である。
 川を渡す橋のたもとでもある。
 橋は昭和9年の地図にはみえる。
 江戸時代にはどうであったかというと、板橋のようなものはあったかもしれない。が、宝永7年・元禄の出雲国絵図からはうかがいしれない。
 南に里山、北に水田が開ける地。
 奈良時代から一帯の開拓がすすんでいたことは、郡家の推定地である仁和寺は北に1キロほどいったところからもうかがいしれる。

 あぁ、もう少し調べてからと思いつつ、まずは記しておくのみ。
 そう。
 木の精は苦しんでいるのかもしれない。
 荒神の木は弱っているようにみえる。そうなる要因はいくつも推することができる。いずれ枯れてしまかもしれないし、そうなるだろう。近い将来、その木を切らねばならないときがくる。その前に、そこに宿る木の精を山に返してあげられたらいいと思ったのだ。

 そう。この荒神の木は養賀村そのものでもあった小さな森の西北の端にある。養賀の鎮守の神※は、千年以上前に、神殺しが在地を蹂躙していった出雲の地にあっては珍しい神である。東国の地では多く見ることができるその神の名はククノチ。
 まさか、出雲の雲南でククノチの名を見つけるとは思ってもみなかった。

 久久能智神:くくのちのかみ 
 句句廼馳神:くくのちのかみ
 屋船久久廼遅命:やふねのくくのちのみこと
 屋船神:やふねのかみ

 くくは茎。まっすぐにたつものの意であり、天と地を結ぶものとしての世界樹信仰へとつながる、神というよりは精霊と呼ぶべきものだろうが、古事記以前にその根をもつ、古い古い神であることは否定しがたい。
 記紀神学からしても興味深い存在で、古事記では、風の神の次、山や野の神の前に生まれた神であるが、書記ではその関係が変わっている。自然哲学・生態学の観点からも、少しばかり掘り下げてみたい。

 屋船、すなわち御殿の神とされるのは、木の精霊である久久能智神と、野の神である草野比売神を総称して屋船神としたことによる。(この呼称の場合の「智」は男神。「比売」の女神と対するためのご都合だけは言い切れないものがある)。

※県神社庁への届け出には、祭神は、和加男賀姫命(わかおがひめのみこと)のみあり、この神の名はない。下記由緒に残るものと、雲陽誌にあるものなどから「角川地名辞典」が採ったものだろう。いや、消えゆくものは丹念にみていかねばならぬ。
《創立年代不詳、抑々当社は和加男賀姫命、相殿神屋船句句廼智命、屋船豊受姫命、合祭神(摂神社)大己貴命之儀従来村社境内に有之侯得共格別の社祭神に付明治八年十月二十七日氏子一統協議之上村社へ合祭仕候。》