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2017年11月29日

竹の焼畑2017ーsec.35

 11月25日(土)曇り 気温10℃(11時頃)
 島根大学里山管理研究会。停滞していた竹林伐開活動が10月に入ってから活発化しています。この日は5名が参加。複数回参加するメンバーが少なく、熟練がすすまないのが、変わらぬ悩みです。



 人海パワーで突破ということですね。
 伐倒する人は、これを斜面に並べて積む人とは別な人になります。無駄とはいえないまでも、これでは切ったものを下に移動した後に玉切りし、また上にあげるしかありません。
 1〜3本切るごとに積むようにしたほうが、数倍効率的であるはず。あるいはこうして切り倒すのであれば、斜面では焼かずに下ろした竹材は下で焼いて炭にしてしまうというのも一計か。

 ここは口出し無用と心得、中山での柵作りを少しでも前に進めておきましょうぞ。
 とはいえ、この日は麦踏みだけして引き上げました。



 山を下りる途中、なんと、茶の木を発見。
 栽培していたものから、種がこぼれて、ここで生き続けいたのか。種をとってひろげてみるのも一興と思いついた次第。
 次回の活動日は、12月3日(日)です。
 


 


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政治思想としての「出雲」〜雑考#001

 まとまりがつかないまま、数年が過ぎ、忘却の波に洗われることで、跡形もなく消え失せるよりは、意味のない小石くらいのものを置いておくようなつもりで、書き記してみようと思う。

●PI-z001
テーゼ:「出雲」は神話の国ではない。
1. 記紀の出雲神話は出雲という地理的実在とは無関係なものとして読まねばならない。出雲という土地を牽強付会することで、記紀を「読む」ことが大きく損なわれてしまうことを恐れるべき。
2. 出雲大社の壮大な神殿はどうなんだといわれよう。そう、そこに錯綜しもつれたものをとく鍵があるのだ。cf.西郷信綱『古事記注釈』第3巻(ちくま文庫: p285〜294)
2-1. 順序の転倒がある。現実があり神話として残されたわけではないことに注目すべきであるのに、なぜそう考えないのか。記紀が書かれ、記紀に書かれているのだから、そこになくてはならない。この論理はあやうい。
2-2. 出雲大社本殿は現在のもの以上に高く壮大なものであったことがほぼ明らかとなっているが、まさにこれこそが、出雲神話における天日隅宮の捏造性を物語っている。
2-3. ※出雲の式内社の多さについて後述
3. 出雲がきわめて政治的土地と意味を付与され続けた場であること。ここを再び掘り出すことで、日本の政治思想を、宗教思想・宗教哲学の視座から見直すこと。これが、この雑考の意図する方向だる。

(つづく)

2017年11月22日

ホトホトと餅とダイシコの関係

 宮本常一が山口県玖珂郡高根村向峠での調査記録を著作集23に残している。
●申年ノ飢饉ー天保7年飢饉ヲ思フ
 この続きを今回。
 複写したところをふと読み返し、はたと膝を打ったので、思いつきではあるが、重要なことなので、記しておくものである。
 向峠はムカタオと読む。昭和5年時の地図をあげておく。宮本が向峠を訪れたのは昭和14年のことであり、ほぼ当時の地理を伝えていると思う。

S5向峠

 深谷川の深い谷の上にある様がわかると思うが、写真だとさらに明確。国土地理院のウェブサイトにある1947/09/19(昭22)米軍撮影空中写真の向峠周辺を下におく。
 まるで谷と山に囲まれた島のように見える。実際、谷底以上に弧立した村であったのではないかと想像する。まとまった平地はあるものの、モノと人とが行き交う道からははずれやすいのではないか。

S22向峠

 それだけに、古いものを残していたではないかと想像する。

 さて、向峠の「年齢集団と行事」としてまとめられた項のひとつトロヘエ。宮本はこう記している。

トロヘエ 正月十五日の夜、若者達は藁草履を作り、また藁で馬を作り、あるいは竹で茶柄杓などを作って手拭で顔をかくし、家に投げ込んで歩いた。するとその家では餅をくれた。そういうとき「若い衆が来た時にはかまうてやれ」といい水をかけたり、餅をもらうために家の中へ手をさし入れるとかくれていてその手をつかみ、顔を見ようとしたりした。ずるいのになると馬や草鞋に縄をつけて投げ込んでおいて、かえる時にはまたひいてかえるものもあった。
 またしみったれた家や村で人気の悪い家へは報復した。たとえばちょうど入口のところへ肥をタゴに汲んでおいたなどという話が残っている。村を一まわりすると適当な家へ集って焼いて食べた。若連中ばかりでなく、ごく貧乏なものは袋をさげて昼やって来た。入口でトロトロというと家のものは餅を一つずつやった。貧しいというほどでなくても老人仲間も夜草履など持って歩いた。老人はたいてい草履を二足出した。
 若連中がトロヘエをやめたのは明治二十七、八年頃であり、貧しい仲間は明治三四、五年までやっていた。貧しいものは村内の者だけではなく、隣村からも随分来たもので、深須村のある女の如きは大正年代までやって来たという。》


 以下、5つのポイントをあげつつ、のちほど追記することを前提としたメモであることを断りつつ記す。

●トロヘンが来訪神の系譜をもちながら、ナマハゲと違うところは、ふたつの欠如だ。
・そこに「神」はいない。だれも神も鬼も信じていない。……かのように見える。しかし、神を持ち出すことで、このパフォーマンスが成り立っている。
・恐怖の出現はそこにはない。恐怖の不在。

●ごく貧乏なものは袋をさげて昼やって来た。そこには儀礼はないようでいて、入口で訪問者は「トロトロという」ことで、家のものが餅をやるという。

●貧しいというほどでなくても老人仲間も夜草履をもって歩いた。
・これは他の地域での事例を知らない。どういうことなのか。ここで記された老人仲間とはなにか。大変重要なことだと思うのだが、、、。家を訪れるのは、3者である。共通するものは家人が餅を与えるということだ。

●来訪する3者がやめた時期は次の順序である
・若連中は明治28年頃にやめた
・貧しい仲間(老人仲間? 若連中のなかで貧しいもの?)は明治35年頃
・深須村のある女は大正年代まできていた→他村からもきていたというということである。うむう。

●餅は神に供えるものであると同時に神からの贈り物であると考えたときにこの事象をどうとらえるか。すなわち何と何が交換されるのか。
・若者連中が贈るものは「藁草履」「藁馬」「茶柄杓」。ほかでは聞かない茶柄杓とはなにか。
・老人仲間が贈るものは「藁草履」
・貧しいものは何も贈らない。


ダイシコについては、のちほど加筆するが、柳田國男の引用だけしておく

物忌と精進より
《神巡遊の信仰の今日年中行事になっているものは、旧11月23日を中心としたいわゆる御大師講であるが、この解説には仏法が干与して…………(中略)…土地によって少しずつ話はちがうが、大師の足跡隠しといってこの日は必ずゆきが降るといい、または二股大根を女が洗っている処へ来て、半分貰って食べたという類のおかしい言い伝えばかりが多い。…………(中略)…その結論だけを言ってみると、ダイシは上代に入ってきた漢語で、大子(おおいこ)すなわち神の長子の意かと思われる。大昔以来の民間の信仰では、冬と春との境に特に我々の間を巡ってあるきたまう神があって、それは天つ神の大子であるという信仰があったらしいのである。…………(中略)…日本では二十三夜待ちという信仰がど、どうやらこれと関係があるらしい》


 先日、阿井で聞いた「タイシコ」の日は餅をついて食べるのだという。年末であるが、年取りの餅とは違うというのだ。旧暦11月23日のタイシコが、新暦導入のなかで、年末に固定したものではないだろうかと推するが、どうなのだろう。

→つづきは以下
・「雲南地域におけるダイシコ(大師講)の断片」



◆追記 向峠は街道筋にあたった?
 向峠が孤立した村落だなんてとんでもなかった、の、かもしれない。
 番所を通る道筋にあたっていたようなのだ。野田泉光院の「日本九峰修行日記第2巻」。文化11年に岩国から錦町、そしてこの向峠のそばを通った記録がある。石川英輔は『泉光院江戸旅日記』で、こう記している(釈している)。
《十四日、栗栖村を発って安芸と長門(長州・山口県北西部)の境界になる峠(生山峠)を超えて大原(山口県玖珂郡錦町大原)へ出、さらにもう一つの峠(向峠)を登ると、長州と石見国津和野領の境杭があった。少し下ると番所があったが、手形を出す必要はなかった。田原村(島根県鹿足郡六日市町田野原)泊。》

 原著ではどうなっているか。
《十四日、晴天。朝辰の刻栗栖村出立。当村より二里の大峠を越え、又一里の峠を越し大原村と云うに下る、又山へ上がれば此所に石州津和野領境杭あり、下に番所あり、手形出すに及ばす津和野領田原村源治と云う宅へ宿す。》

 問題は、距離、時間、そして峠の上り下り。地図をひろげつつ、泉光院の足取りを確かめてみたい。原著と地図をみると、向峠を通っていないのようにもとれる。つまり石川が誤っているということ。峠という文字にひっかかったのだろうか? あれ? ムカタオは峠ではなかったか?
 大原→宇佐→田野原という道であれば、向峠は通らない。
 長州から津和野に入るルートはどうなっていたのか。番所があるくらいだから、古地図を確かめるのが早いのでは、とも思う。
 ちょっとあたってみよう。

 (つづく)

◆追記2 野田泉光院は向峠を通らず星坂村を通った
 古地図をみた。街道は日本輿地路程全図 をみるに、大原から星坂を通るようだ。星坂の文字があるのは意外だったので、角川歴史地名大辞典を参照したところ、あっさり結論がでた。
 表題の通りである。
《江堂の峠に周防国との境界石がたてられたが、現在は田野原の柏谷に移建されている。津和野藩より萩藩に通じる長崎街道(廿日市街道)筋で、藩主亀井氏の参勤交代の通路にあたるため慶長年間に番所が設けられ、士卒数人が常駐していた》




2017年11月20日

来年はシホウチク(カンチク)を食べるのだ〜出雲国産物帳にみる竹類

 10月のよく晴れたとある日、仕事でよく通る道路脇で筍をみた。観光客の来訪も多く、草刈りもていねいにされているところである。再生竹かなと最初は思ったのだが、いやまてまて、しっかり皮をつけていてあきらかに筍だ。温帯地域で秋に出る筍なんて相当限られていたはず、と、事典の類をひいてみれば、カンチク・四方竹であろうと見当をつけた。





 それから1ヶ月あまりたち、通るたびに気にして、数回立ち入ってみた。節から気根が出ていること。稈にイボイボがあること。稈が方形であること。秋にタケノコが出ること。ほか高さなどから、シホウチク(カンチク)である。タケノコはたいそう美味であるとの評が多いので、来年の秋には食べてやるのだ。



 さて、考えるべきことは、このシホウチク、いったいいつからどうしてここにあるのかということだ。日本国内に自生していたようだが、「ようだが」との言い方であらわしているように、用向きも地域についても、その仮説すらないようである。
 密生し、高さも3mほどまでのびるようで、境界の垣として植えたともいうが、その向きであれば、篠竹の類が防御性は高いようにも思える。
 そもそも、モウソウチク、マダケ、ハチクなどとくらべれば、出雲地域ではふつうには見かけないもので、私自身、今秋はじめて目にしたものだ。
 
 女竹、篠竹については、リサーチ中の竹の焼畑の燃材であったことから、その植生と利用の関係を調べているさなかであって、ここにシホウチクの存在が入ってくることで、また新たな展望が得られるかもしれない。

 まず、たちかえってみるべきところの古書、出雲国産物帳名疏の竹類の項には、以下のものがのっていて、カンチクは最末尾にある。

真竹 淡竹 女子竹 姫笹 箟竹(ノダケ・ヤノタケ) 篠竹 紫竹 熊笹 大明竹 小竹 シナノ竹 皮竹 カンチク

 なにを指すのか不分明なものもあり、辞書・事典をひきながら少しずつ補足を入れてみようと思う

・真竹
・淡竹
・女子竹
おなご‐だけ
女竹(メダケ)の異名として江戸時代における俳諧で用例がある。方言として残るのは以下の地域である(日本方言大辞典)。
福井県今立郡/兵庫県加古郡/和歌山県/島根県/岡山県小田郡/高知県幡多郡/長崎県東彼杵郡/熊本県玉名郡
ただし、島根県でも西部(石見)では見られないのでは?(要検証) 隠岐国産物帳の竹類は、3つをあげるのみであり、それは「淡竹・苦竹・女竹」である。女子竹ではなく女竹として記載されている。

・姫笹
・箟竹(ノダケ・ヤノタケ)
・篠竹
・紫竹
・熊笹
・大明竹→九州地方には自生し、タケノコの王様とも呼ばれるあの大名竹なのか。
・小竹
・シナノ竹
・皮竹
真竹の異名か? これはわからない。川竹であれば、川にある竹、あるいは真竹という線があるのだが。

・カンチク


●追記2017/12/19
「あれからシホウチクのことを気にしてみてたら、西日登にもありましたよ。畑の隅のほうに」と。
 大変興味深い。選択的に栽培したあとなのか。比較的近年において。とも思う。

 



2017年11月18日

カラサデさんの「実際の言い伝え」

《習俗は理由もなく消えたり生き残ったりしない……
それが生き残り続けているとすれば、機能の永続性の中にこそ”真実の理由”を見いだすことである》

レヴィストロースの言葉に引かれながら、少しずつ読んだり聞いたりしている。きょうは午後から県立図書館。郷土資料室の書庫に小さな封筒に入った冊子がある。はじめて閲覧した。酸化で茶色に風化し、めくればパラパラとくだけてしまうようで、そーっと1枚1枚をめくる。日本がまだGHQ占領統治下にあった昭和23年10月、島根民俗通信第8号(終刊号)である。
巻頭にあるのは柳田國男「ミカハリ考の試み」。
《出雲のカラサデサンなどは土地の人が率先してこれを馬鹿馬鹿しがり、実際の言い伝えを我々に教えてくれない》と嘆いている。また、柳田は祭日考のなかで、出雲の神在祭を痛烈に批判している。「まことにたわいのない俗説」「論破するまでもない」「不道徳である」(「祭日考〜出雲のいわゆる神在祭」)と。それもこれも、柳田がこの頃、もっとも気にかけていたテーマについて、出雲がもっとも多くの資料を持ち伝えているとみていたからだということが、「ミカハリ考の試み」からもわかる。
さて、その柳田の寄稿のあとに、応答ともつかない小さな報告が寄せられている。そこには、私たちがおそらく聞いたことのなかった「実際の言い伝え」が記されていた。柳田はこれを読まなかったか、無視することにしたのだろうか。

その報告は、短くはあるが、そうであったかと膝をたたきたくなる内容だ。

カラサデのサデは掻くこと。それは神が人を殺す日だった。
「この晩…、神様が人間を三人サデられる。それで昔は必ず人間の死体が三つあった」
お忌みさんの頃、冷たい風が戸口をコトコトと叩く。
餅をついて家にまつる神に供え、戸口の外には悪霊に備える餅をぶらさげ、通り過ぎていってくれるのをひたすた静かに待った時代を、いまどうやって想像したものだろう。
冬は幼い命と年をとった命が消えやすい季節である(あった)ことを、思い起こしてみるだけでは、どうもすまなさそうだ。

いまの世に、神にサデられるのは、だれなのか。その神はどこにいるのか。真実の理由を探しもとめる日がつづく。

11月24日開催
カラサデ婆の悲しき真実〜石塚尊俊『神去来』(本の話#0009)

2017年11月15日

晩秋山野渉猟

 11月14日、旧暦9月26日。朝のうち雨が降ったものの次第に晴れ。午後からは快晴となった。懸案をひとつずつ片付けるべく方々へ。

◉寺田の滝とかめんがら

 

 この奥に寺田の滝がある。手前の平地はダム建設の残土であり、かつての面影とはずいぶん異なるものだろう。かつての地形図、あるいは航空写真を重ねてみようと思いついてから半年がたつ。その図をもって、ここを祖母の背中に負われて滝まで登ったという爺さんのところへ、話の続きを聞きにいくのだ。雪が降る前に、と思っていたが、日本気象協会の予報によると、どうやら今週末には初雪らしい。
 この近辺の再生緑地にはがまずみ(地方名:かめんがら)が多く植えてある。かつてここの山には、かめんがらがたくさんあったのだろうか。そういうことも聞いてみなければならない。かめんがらがたくさんあったのであれば、地形図の履歴からはうかがいしれないこの地の植生のありようが推測できるからだ。
 時は駈けていくものだなあと、鮮やかな紅葉に心おどらされながら、先を急いだ。

◉阿井公民館にて駒原邦一郎氏のことを伺う
 家はすでに当地にはなく、子孫の方もどこへ移られたのかもわからないのだという。未刊行の原稿なり資料なりがあれば、検分したかったのだが、かなわぬことはわかった。
 ただ、この日、遅ればせながら、聞いてみたのは、虫が呼んでくれたからだろうか。『村のはなし』を現在復刻しているのだという。あぁ、よかった。価値をみておられる方がいて、骨を折っておられるのだ。お手伝いできることを申し出て、ほかいくつかの手がかりと、所蔵されている文書がまだ倉庫にあることを確かめ、日を改めて閲覧の約束をして、その場を辞した。

◉ゴロビナはこれではないのか?
阿井の山野に自生している草木でのなかで、懸案になっていたもののひとつ、ゴロビナ。その後、ギボウシ説が有力となっている(私の小さな脳内では)。だが、生えているものを阿井で見たことはなかった。なんでないのだろう。植生が変わってしまったからだろうか、などと思っていた。数週間前、木次で昔の食べもの話の会を催した際、みなさんゴロビナはわからないということだったが、ギボウシがどんなものかはおわかりのようだった。「ほら、すーっと長い茎が出て花がさくあれよ」と。
 その言葉が、阿井のそこでよみがえった。あ、これ、か、と。
 場所もあるべきところにあった。昔ながらの農法をつづけておられるところ。椎茸の原木がおいてある山の裾野だ。





 そちらのお宅にながらく借りたままだった本を返しにいくところだったのだ。当人は留守であったので、これはまた聞きにいかねばと。駒原さんが手を引いてくれただと、そう信じることにした。ありがたいことだ。



 その小さな山の横にひろがる小さな田んぼの風景。
 美しい。

★追記)2017/11/19、電話で取材した
・ギボウシは前からあったものかどうかはわからない。珍しいものなので、刈らないようにしている。
・前から採取していたかどうかはわからないが、最近ではとる人がいる。どこにでもあるものではないし、なかった。
・ゴロビナという名があるかどうかは、私はわからない。

◉焼畑のカブその後
 「竹の焼畑2017」のことではない。種をおわけし、火入れをお手伝いしたところのその後である。9月の終わり頃だったろうか、夜中に電話がかかってきて、「カブがよぅできとるよ〜」と。「それはよかったですね〜。見に行きますからよろしく〜」。そうお返事してから何度か機会を逸していた。もう収穫を終えられたのではと思っていた。
 8月の頭に火入れに行って以来だから、4ヶ月ぶりである。ここは清冽な水が山からおりてくる口にあたる地だ。下の写真、一見しても「畑」には見えないだろう。が、これが、焼畑不毛地帯と言われつづけ(たが、大きな間違い、誤解、誤謬)た島根東部の焼畑の姿だと思う。



 フォレストフォロワーではないブッシュフォロワー型の焼畑なのだ。ここでは長い時代にわたって、おそらく。休閑期間・循環も短い。



 ただ、ここの場合、ほぼ毎年同じ土地を焼いているようだ。来年は伏せ込みから手伝いつつ、2年休ませて植生を回復させるようにしたらよいだろうと、私はおもう。

◉山中の柿の園

 柿を取りにくるかと誘われとある山中へ。かつて柿団地として開かれたところ。放置されてずいぶんたつらしいが、大木となった柿の木にはたくさんの実がすずなりになっていた。
 周囲はコナラ系の雑木だが、木々は若く20年生くらいではなかろうか。下層にはいわゆるクマザサが生い茂っている。肥料も薬もつかわず、みごとななりっぷり。小ぶりな実が多いのがまたよい。市場の評価が低いのだろうが、知る人は知っているようで、ナチュラルなこうした柿の需要は少なからずあるようだ。





 ちょっとした納屋があれば、干し柿にして、こうしたものを欲する方へ届けることもできるだろうに。なにより、この柿たちが不憫だ。誘ってくれた初老の農夫は、もう年だから高くまで登られん、若いころはひょいひょい取れたのにと、言いながら、ふぅふぅ息を枯らして、きれいに実をとっておられた。頭をたれるとはこういうときなのだな。いい光景でもあるが、きたれ若人と叫びたい気持ちもある。
 が、ともあれ、希望膨らむ気持ちよい秋の一日であった。





2017年11月14日

竹の焼畑2017-sec.33

 11月12日(日)の活動記録です。
 天候は晴れ。10時時点での気温14℃。
 島根大6名(10時〜)、地元1名(10時半〜14時半)の計7名が従事しました。



◉竹林伐開。この下手くそが!と森林組合だったら怒鳴られる、のかどうかはわかりませんが、技術向上の意欲をもつように仕向けてはいます。下手くそ=危険ということでもあるのですよ。



◉冬イチゴです。ミヤマフユイチゴではないと思いますし、アイノコフユイチゴでもないと思う。よってふつうのフユイチゴ。ただ、粒の付き方で2種類にわかれるような。味も違うような。そこらへん、葉の形を次回は確かめてみます。



◉岩伏山をのぞむ放牧地にて。ことしは紅葉が鮮やかできれいです。落葉が進んで、見晴らしがよくなったところで、のぼってみましょう。雪が降る前に。

posted by 面代真樹 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々

2017年11月12日

タネは生きているのか死んでいるのか

 焼畑に挑みはじめてからというもの、タネというものが、さまざまな相貌で立ち現れては、私に問いを投げかけてくる。秋から冬に向かういまの季節に、人はタネをとり、草木は大地にそれを落とし、あるいは飛ばし、哺乳類が口をつけ、実とともに鳥たちがついばみ、タネはひろがっていく。

 タネには、発芽を抑制する機構や物質を保持している。トマトであれば、私たちがおいしく食す、種のまわりのあのジェル、稲や麦であれば、籾殻が発芽を抑制する物質を含んでいる(ようだ)。機構としては、温度、湿度、光に、一定の条件をもってさらされることで発芽のスイッチが入るというようなものだろうか。

 タネは生きているのか、死んでいるのか。話したい欲動にはかられるが、先がみえているようなきがしてくだらなくも思える。手にいれた空を飛ぶ羽を前にしてメンテナンスの仕方を思案するようなものか。問いそのものではなく、この問いそのものが無効になっていくような仕方がないものだろうか。その地点にたてば、タネは、生と死の2項対立をこえるもの、異なる地平を見せてくれるにちがいない。
 

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 そう考えるようになったのは、「死んだ」タネを何度か目にし、手にしたからだ。
 トマトの種取りの際のこと。完熟状態にまで放置し、タネのまわりのジュルを何度か水洗いするのだが、その最終過程、すなわちほぼ発芽抑制物質のジュルがとりのぞかれた状態で水にひとばんつけてしまったことがあった。取り出して、十分に吸水し乾燥させておくのを忘れていたのだ。
 やっちゃったな、きれいにとれたからいいかなどとのんきにかまえて、取り出し始めたのだが、発根をはじめているタネがいくつもあった。しかも、タネとして健康優良とみえる大きく形のよいものから。
 死産というべきなのか。どうなのか。
 タネとりは手間のかかる仕事だ。ゆえに農を業としてやっている人は自家採種などしない。自然農法栽培者は例外としてあるが、「手間がかかってしょうがないが、こればっかりは仕方がない」という嘆きを聞いたこともある。割にあわないとしかいいようがない。「割にあわない」というのは近代の人間社会スケールでみたときの話である。タネをとることで得られるものは、タネそのものだけにとどまらないのではないか。
 ラオスの、あるいはスリランカの混作農業では、百種をこえる作物を、他家受粉するものも含めて同じ地に栽培するという。それはそれは「美しい」光景だという。一度みてみたい。その美しさを。
確かめておきたい。モンシロチョウが一匹も飛んでいない一面のキャベツ畑との彼我の違いを。日本で美しいとされる、畝にいっせいに並ぶ同じ大きさ・色・形の野菜畑との違いを。
 混作農業の畑からタネをとる仕事は女性の仕事だという。女性しかできないようなある特殊な能力が介在しなければなしえないのだろうと推測する。彼女たちの動きを目を身体を、感覚が老いさらばえてしまう前に、この身で感じとっておきたい。彼女たちとタネとの間に何がかわされているのか。
 子をみごもり産むことができる存在だけが、その交感をなしえ、知ることができるのだとしても、限りなくせまってみることで、わかることがあると、私は信じる。

 タネの死産。それは水槽の中だけでなく、土の上でもある。焼畑でまいた蕎麦のタネは発根ののちの日照りで死んでいた。覆土をした家の裏の畑でも今年は何度かみた。なにがいけなかったのかと考えた。いくつかの理由・原因とその相関がわかるようになってきた晩秋、でもみにおぼえたかすかなうずきは、タネを生命あるものとして感じるものである。ま、そういう共感もあるかというほどのものかもしれない。タネという堅さのある「モノ」から、やわらかな根や芽が出る誕生と死が隣あっていることで、そこに生命を感じるのだろうし、ふつうの植物が一部を切ってもそう簡単には死なないこと、再生することとと違う点だろう。

 発芽しないタネだとて「生きている」状態にはある。発現する機会をうかがうためのなにかはいくばくかの有機性があることが条件だからだろう。アワ・ヒエのタネは長期にわたって保存が可能だという。飢饉にそなえて、俵にいれた籾を天井からつるしていたという話やその映像を何度かみたことがある。倉にしまってあった100年前のタネが発芽したということもときにきく(とはいえ発芽率は1%以下だというが)。
 十数年前のアワのタネをゆずってもらったが、数十粒をためした1年目には発芽0であり、今年はなんとしたことか実験を忘却していた。その貴重な籾を手にしても、生きている感じはしない。期待がないからだろうか。なんの反応もないからなのか。
 所詮、感情移入によって生じるとこだともいえるが、ここでいう感情とは、一個体のいっときの属性に過ぎないという、あまりに単純化されたものだ。普遍性がないというのならまだましなものだが、ノイズにすぎない、例外、特殊、……なものということに換言すべきものいいだ。
 が、ほんとうにそうなのか。

 人の生死、死生観という領域に少しふみこめば、ことはそう簡単なものではない。
 つづくとすれば、論点を整理してとりかかるべきものだ。タネの思想ともいうべきか。

 



 

2017年11月09日

竹の焼畑2017ーsec.32

 11月5日(日)の活動について簡略に。
 参加は島根大から6名、地元1名の計7名。
 今夏から島根大学里山管理研究会が中心となって取り組んでいる伐開地の整備が主です。斜面が急すぎるということで、火入れ地を上に移動させる方向で再調整することになった模様。
 カブの間引きも行いました。

 写真はその間引き菜をアマンサスとともに炒め、ムカゴにあえたものです。



posted by 面代真樹 at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々

2017年11月08日

2017年11月8日の情景




 焼畑。竹炭はこうして残る。竹の根とあわせて表土の空気層をつくりだしてくれると思う。蕎麦のあとに古代小麦。前日に芽を出したのだと思う。2日前にきたときには見ることができなかった。これで、3区画ぶんすべてで発芽しており、発芽率は7〜9割だと思う。



 つぶらなひとみ。




 三沢のUさん宅へ通じる道の林縁部。林縁で水をもつところにシダ類と笹類が繁茂し、クヌギ、コナラもあるという植生は奥出雲ではよく見かけるように思う。



 土曜豆(白豆)はさやから出して、さらに天日干しするのだな。なにごとであれ休まず小さく毎日やると楽しいものだと、教えてくれる絵。



 かめんがら(ガマズミ)と笹は競合するのかな、だとすれば、かめんがらよりもササ、あるいは竹が優先する時代にここ数十年で入っているのだと考え、人間活動との関係性を想像してみる。

posted by 面代真樹 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々