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2016年06月16日

今日の雑読断片

 昨日、6月16日のことであるが、書きとどめておくべきことして。

【ダイコン】
魚谷常吉 (著)・平野 雅章 (編)『味覚法楽』 (2003;中公文庫)
ダイコンは日本人の食物として最も広く、かつ多く用いられ、常にその恩恵に預かっているのにもかかわらず、恩に慣れてかあまり珍重がられず、その真価を認められていない傾きがあるのは、不思議といわねばならない。
(中略)
最後に、その料理法の中で特にうまいと思われる二、三について述べると、おろしダイコンをもって第一に推したい。(中略)ただ水で洗い、皮のままおろし金でおろせばよいので、そのとき汁を捨てないだけが条件で、もし水分が多すぎると思う場合にはカツオの粉を加えて加減すれば、食いやすくなり味も優れるのである。なおこれに使うしょうゆは、うま味があるものを用いるのも条件である。ぜいたくにするならば揉みノリなど加えてもよいが、そのうま味を賞するには、おろしたままの汁をしぼらないところへ、しょうゆを適宜加えるだけのものに限るようである。


『風来好日スモールライフ』の久保田昭三さんもダイコンをよく使っておられたのではと記憶する。巻頭の写真の中で畑の小さなダイコンを撮っているのだ。常食は馬鈴薯と大根と屑米と自飼いの鶏の卵であったか。そして、お元気だろうか。一筆したためてみよう。

 ダイコンの民俗については、まだ最低限の整理ができていない。平凡社・世界大百科の項で飯島吉晴はこう記しているので、引っ張っておく。整理したものはひとつ前の記事に加筆する。

大根は,かつて青森県五戸地方で,10人家族でひと冬700本用意したというほど,漬物やかて飯の材料として日常の重要な食糧とされた。一方,大根 は種々の形に細工しやすく,婚礼の宴席に男女の性器を模したものが出され,またその色が神聖感を与えるために,古くから正月の歯固めをはじめ,ハレの日の食品や神供として用いられた。

 追記すると、アエノコトにおいて、ひと組のダイコンを男女に模している再現写真があって、これは興味深い。これは奥能登のこととして後述されてもいる。

また大根は種々の俗信や禁忌を伴っている。種を土用の入りや丑の日に撒くと,葬式用や曲り大根になるといって 嫌う所が多い。また大根畑に七夕飾りの竹や桃の枝をさしておくと虫がつかないという所も多い。東日本では,十日夜(とおかんや)を〈大根の年取り〉といい,この日に餅をつく音やわら鉄砲の音で大根は太るといい,大根の太る音を聞くと死ぬといって大根畑へ行くことや大根を食べるのを禁じている所もある。西日本では10月の亥子に同様の伝承があり,この日に大根畑へいくと大根が腐る,太らない,裂け目ができる,疫病神がつくといい,また大根の太る音や割れる音を聞くと死ぬともいう。このほか,半夏生(はんげしよう),彼岸,社日,夷講などの季節の折り目や収穫祭にも大根畑にいくのを忌む。これは大根が神祭の重要な食品であり,大根畑は霊界に近い神の出現する神聖な場所と見なされていたことを示している。


 北九州では,稲の収穫祭である霜月の丑の日の前日に大黒祭が行われ,二 股大根を箕(み)にのせ,供物をして祭っている。奥能登のアエノコトでも,二股大根を田の神として丁重に扱う風がある。大黒と大根は語音が近いためか,二股大根を〈大黒の嫁御〉といっている地方は多い。また〈違い大根〉は聖天(歓喜天)の紋とされ,この絵馬を聖天にささげ,大根を絶ち,夫婦和合や福利の祈 願を行う。また,大根が聖天の持物とされることもある。




【河内とは】
奥出雲町三沢の河内と四日市の土地の履歴をたどるにあたっての知識として備えておきたく。
大塚 英志 (編) 『柳田国男山人論集成』(2013,角川ソフィア文庫)所収
「山民の生活」(下)
p73
山々の神を本居宣長は、大山祇神であろうとか大山辺の神であろうかというけれども、そうではない。民俗にはただ山の神とのみいいならわして居る。山に向かって入るところに祀るまでの神である。荒神は原野山野の神である。


「山民の生活」(第二回大会席上にて)
p76
「山口」とか「川上」とかいう村は次の時代にはすでに川下に成ってその奥にまた村が出来る。例えば若狭の南河の谷などはほとんど源頭まで民家がありまして、「奥坂本」という村の奥になお数箇の部落があります。我々の祖先はかくのごとき地形を河内(カワチ)と名づけまた入野(イリノ)とも呼びました。「我が恋はまさかも悲し草まくら多胡の入野の奥もまかなし」という万葉の歌などは、入野が盛んに開かれた時代には人を感ぜしめた歌でありましょう。
 入野では三方の山から水が流れますから、……


p88
全国を通じて最も単純でかつ最も由緒を知りにくいのは「荒神」「サイノ神」「山ノ神」であります。仏教でも神道でも相応に理由を付けて我領分へ引き入れようとはしますが。いまだ十分なる根拠はありませぬ。
「山ノ神」は今日でも猟夫が猟に入り木樵が伐木に入り石工が新たに山道を開く際に必ずまず祀る神で、村によってはその持山内に数十の祠がある。思うにこれは山口の神であって、祖先の日本人が自分の占有する土地といまだに占有しぬ土地との境に立てて祀ったものでありましょう。

荒神も三宝荒神などといって今は竈の神のように思われておりますが、地方では山神と同じく山野の神で。神道の盛んな出雲国などにも村々にたくさんあります。


20150530-P110060902

2015年11月08日

その水はどこからくるのか

 蛇口をひねれば水が出る。ありがたいことだ。感謝の気持ちを忘れようが粗末にしようがそのことの価値は変わらない。水を汲むという大仕事にかかわる時間をほかのことに振り向けることで、いまのわたしたちは、生と社会を営んでいるのだから。
 だが、どうだろう。「蛇口から注ぎ出る水、その水はどこからくるのか」という問いに、はっと立ち止まり、いずまいをたださねばと思う大人の数のへりようは、見えないだけに、そらおろしいものがある。
 ことは水にかぎらない。みずからを、家族を、地域を、国を、飢餓や差別や汚職やありとあらゆる不合理で理不尽なものにまみれながらも、成り立たせているものごとに対する「理解」が、徹底的にかけている人たちがまとめて出現するようになっていると、感じるのである。



 どこかのステージで、それが常識であり正当であるとなったときに、戻ったり、修正したりはできない。。。。わけではない。それができる、ほとんど唯一の手段が活字メディア、「本」であり「雑誌」であるところの「出版」なのである。

 さて、そうした抽象の水ではなく、具象の水たる、この水路の水。島根県雲南市木次町にある尾原農村公園の水路の水である。ときは天平の時代。この水を汲み、なにがしかの容れ物に大事にかかえて、この地から都におわす天皇のもとに、行かんとする男がいた。
 その姿をどう想像したものか。そのときの風景はいかなものであったか。思い描くために、もう少し、書をめぐってみる。

2015年09月13日

竹の樽あけ

ドキドキしながらふたをそーとあけると、赤く染まった液体。臭いはきついですが、いやではないかなあ。なれると平気。悪臭とは違うと思います。さてさて、7月初旬ごろにつけた真竹ですが、取り出してみました。水にさらすまえからさらさらとほぐれています。まだ若すぎかなあというものだったので、これは想定内。


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そして、こちら孟宗竹です。トラックの荷台に積んで運び出し、民家裏の小さな竹林に、樽をおいて漬け込んだのは約100日前。今日、樽をあけて、軽く水で洗いました。よくほどけます。流水だけでバラバラになります。よしよし。合格。
(鍋に入っていると、ほんと素麺にみえてしょうがない)
さて、これから、網に入れて、山水にさらしておきたいのですが、いまに至るも、そんな奇特な場所は見つからず。なくはないのですが、小屋でもいいので、作業ができる屋根のあるところがベター。探しています。


◎水について……今回つくづく思うのは、竹などの材料はいささか遠くにあってもよいが、水(流れる水、きれいな山水)はそばにないと無理。
◎漬けた樽の置き場について……匂いはそれほどじゃありませんので、柿の木でもなんでも日陰ができる木、もしくは庇の下でもOK。

2015年04月16日

竹紙づくりを萩で教わるの巻〜その1

3月末に山口県萩市に行ってきました。
NHKもよう観んのですが、放映中の時代ドラマの舞台になっているようですね。吉田松陰が毎日通っていたという橋のたもとから400メートルほど離れた川沿いに、その工房はありました。
萩竹紙工房綵雲の西嶋さんから、半日即席講習を受けて、今年は竹紙づくりをはじめます。

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これ、竹の繊維です。まずここまでたどりつければ、半分うまくいったようなもの。
5月〜6月にタケノコから伸びきった若竹を取ってくるところからです。
アルカリ性(重曹かなあ)液につけてほぐすのですが、失敗すると腐敗して蛆がわくのだとか。どうすりゃええのか。西嶋さんは風通しのいい屋外で屋根があるところがいいのだと。
「まずはやってみる」というのでもいいのですが、もうちょい調べてみます。
タグ:竹紙

2015年02月16日

椎茸の栽培法〜鉈目法について

 備忘として記すものなり。
 それは「タヌギなどの原木に鉈で傷をつけ(鉈目という)、自然界に浮遊しているしいたけ胞子が鉈目に付着するのを待つという極めて原始的な方法です」とある。
 私にとって、鉈目法についての関心は、いま、できる人はいるのか、が真ん中にある。
 映画「千年の一滴」の中では、宮崎県椎葉村の椎葉クニ子さんをあげていた。
 山の谷ごとに異なるような微細気候(マイクロクライメット)の読み方という点で、いま取り組んでいる竹の焼畑の可能性ともつながる。
 web辞書どまりの記述では、傷をつけて待つという、のんびりしたものだが、私が聞いたことがあるのは、胞子が飛んで付着する時期を長期で読みながら準備し、短期でよむその数日の間に、一気に原木を運ぶ(水から出す? 鉈目をいれる? それら全部?)のだというようなこと。
 文献レベルでもう少し知る必要がある。

 大分がその発祥の地とされる証左はこちら。
http://hamadayori.com/hass-col/agri/SiitakeSaibai.htm
なくなるといけないので、複写しておく。

日本特殊産業椎茸栽培業者発祥地
大分県津久見市上宮本町
JR日豊本線の津久見駅から 500mほど南西に 浄土宗の寺・長泉寺がある。
寺の土塀外側の道路脇に,古い苔の生えた大きな石碑と「由来記」と書かれた副碑が建っている。
大分県は 椎茸の大生産地で,乾椎茸では 全国で第一位,30%のシェアを有する。栽培の歴史も古く, 江戸時代初期(17世紀前半)に豊後の国で炭焼きをしていた源兵衛という人物が, 原木の残材に椎茸が生えるのを観察して 初歩的な人工栽培を始めていたという。
これは“鉈目法”と呼ばれる方法で,クヌギなどの原木に鉈で傷をつけて野外に放置し,自然に椎茸菌が 付着して繁殖するのを待つという原始的な方法であった。
江戸時代末期になると,自然に菌が付着するのを待つのでなく,積極的に種菌を植えつける方法が開発され, 椎茸栽培は大分県内に広まり,明治以降は椎茸輸出の増加に伴い 生産量も急増した。
大正時代になると,種菌を原木に打ち込む“埋ほだ法”が開発され, さらに昭和になるとくさび型の木片に椎茸菌を培養した“こま菌”を原木に打ち込む方式がが開発されて, 簡便な接種方法のため広く受け入れられ全国に普及した。

この発祥碑は,江戸時代末期に種菌を人為的に植えつける方法が行われるようになったことを記念・顕彰したもので,昭和30年に建碑された。
また,内陸の豊後大野市には「しいたけ発祥の地」という碑が建っている。

現在国内で栽培されている椎茸のうち上記のような“原木”を用いる方法を採っているのは少なくなり, 多くは“菌床法”と呼ばれる,おが屑に栄養分を混ぜ込んで固めた“菌床”で種菌を培養したもので 栽培されるようになっている。 しかし大分県での椎茸栽培は,現在もほとんどが原木を用いているのが特徴である。

なお,この発祥碑については 若干の疑問点がある。
§ 発祥碑の表面に刻まれている文字は「日本特殊産椎茸栽培業者発祥地」と読み取れ, 「産業」の「業」の文字が抜け落ちているように思われる。
「特殊産」では意味が通じないし,副碑(由来記)には 「日本特殊産業椎茸栽培業発祥之地」と書かれている ことから,「特殊産」というのは 誤記ではないかと想像される。

§ 標題の「日本特殊産業」とは何を意味するのだろうか?
椎茸栽培は 林業に分類されているので,その中の“特殊”な業態という意味であろうか。

§ 椎茸栽培の発祥地は “静岡県の伊豆半島”説がある。
伊豆は17世紀末〜17世紀にかけての話であるのに対して,大分県は 17世紀前半なので, 大分の方が若干早かったが,いずれも不確かな伝承に基づくので 断定は難しい。

日本特殊産椎茸栽培業者発祥地
(副碑)
    由来記
往昔天保の頃津久見の先覚者彦之内区三平西之内区徳蔵嘉吉平九郎
久吉等の椎茸栽培業研修に端を発し三平徳蔵は石見へ出向椎茸栽培
業を経営す是中国に於ける専門事業者の始祖なり嘉吉平九郎久吉は
九州奥地に於て創業した是九州地方の専門的事業者の始祖にて郷土
の子弟に是を継続して連綿百二十余年伝統を保つ而て本業の推移は
時恰も幕末期にて営業上幾多の支障あり従て労多く得少く継続困難
の状態なりしが明治初年日支貿易開港以来輸出椎茸旺盛となり価格
の躍進につれ本格的に事業化し此頃より業者の数も著く増加せしは
歴史が明示する九州地方百九十四名中国四国済州島地方七十余名の
専門事業者を算す斯くて日本特殊生産品として輸出市場に名声を高
揚し神戸港及長崎港を経由輸出椎茸は年々巨額に達せり其大部分は
津久見人の出先経営地の生産品である実に開港以来七十余年間何等
名聞も求めず深山に籠り孜々黙々として外貨獲得の一役を果し其余
沢は郷土の経済安定に寄与し一面着々未墾地の開拓を励行し風土に
最も適応した柑橘園の基礎を構築したのも現実が証する此先輩の貴
い伝統を子弟は能く継承し出ては貿易品増産に勤め入りては郷土の
産業を振興した其業績の偉大さは全国的に総合し椎茸栽培専門業者
として抜群的特技の存在にて是業界再興の権威日本特殊産業椎茸栽
培業者発祥之地を穣成す此国家的大産業の振興は津久見市の大なる
誇なり茲に碑を建設し過去と現時を通じ斯業に精進せる郷土人士の
敢闘精神と其業績を讃へ以て永遠不朽の記念とす
  昭和三十年五月二十一日
        一介茸山子  西郷武十 (八三翁)


 そして、大分から中国地方へこの技術が伝わる拠点となったのが、匹見町広見であるという。それについては今度。

2014年09月18日

柳田民俗学における自然観を、今、島根で問う!

 あれこれ逡巡した挙げ句、このように告知を打ちました。
いらっしゃれない方々へも、これだけは知っておいていただきたいということを2つ。ごまめの歯ぎしりとして。
●民俗学がもっている切実さに向き合う態度
・民俗学は、常に、それぞれの時点で、人々の生き方に向かい合おうとしてきた学問です。いや学問というよりは、態度であったといえましょう。意外と思われるかもしれません。古いしきたりや使わなくなった鎌を集めたり民話を集めたりする「趣味」のようなものだという認識が世の大半でしょう。イメージは一言では覆らないでしょうが、それ自体が目的ではないのです。柳田や宮本の「態度」にそって、別な言い方をすれば、その時代時点で、人々が切実な課題とすることをテーマとしてきたのです。
・素朴な言い方をすれば、「生活」を重視するということですが、昨今の人々にとって「生活」といえば「お金」のことに思えます。が、この「生活で困っていることといえばお金(が足りない)ということ」という視点こそが、民俗学が敗北した相手の視点なのです。……ここから先は本番で。レヴィストロースの「サンタクロースの秘密」の構造的見方との対比でみていこうと思っています。

●村を美しくする計画などない。良い村が自然と美しくなる

 のちほど加筆(18日夜)します。


●canpanトピックス
http://fields.canpan.info/topic/detail/12775

●ボランティアプラットフォーム
http://b.volunteer-platform.org/event/4602/

●島根いきいき広場
http://www.shimane-ikiiki.jp/events/3175

●ヤフーボランティア
http://volunteer.yahoo.co.jp/detail/3/4602/

●朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/area/event/detail/10148737.html

2014年04月09日

さくらおろち湖のサンクチュアリ

 人の波に洗われる桜並木もあれば、人が足を踏み入れることのない場所にあって、春の風に、薫る大地に祝福されるかのように、淡い花を咲かせる桜もある。



 しかし、この場所は人の手が入りかねていて、植樹された楓が葛に埋もれてしまっている。からまった葛のかたまりをみると、何かを思い出す。そう宮崎駿「風の谷のナウシカ」(書籍のほうね)で描かれるところの「闇」のイメージ。いやなもの、きたないもの、からみあったもの、要すれば人が嫌悪感をもつもの、である。
 「闇」との対話については、宿題とするとして、ここで、その手前にあるもの、腐海や蟲といった「攻撃してくるもの、おそってくるもの」への理解である。
 「怯えていただけなんだよね。こわかっただけなんだよね」
 とナウシカはいう。
 攻撃してくるものは、怯えているものである。
 怒っているものは、傷ついているものである。



 そして、人は傷つき怯えているものを理解し、共感することができる。
 ”自然はさびしい。しかし人の手が加わるとあたたかくなる。 そのあたたかなものを求めてあるいてみよう”
 そう言って、日本の村を歩いた宮本常一なら、この山野をみて、どう思うだろうか。
 理屈はともかく、まず、目の前に落ちているゴミを拾うことから始めるべきだとは思っているし、これまでそうしてきたのですが、いま少し立ち止まって考え続けてみたいと思います。