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2017年07月24日

星の名前と民俗と

 wikiで野尻抱影をひくと、天文民俗学者とある。天文民俗学、はて、初めて聞く言葉だ。JKの全文横断検索でかけてもヒットはしない。googleではいくつかのサイトが出てくるので、ある種の造語であろう。
 星の伝承研究室の北尾浩一氏が、2006年に『天文民俗学序説 ―星・人・暮らし―』を著されている。この書ならびに北尾氏が嚆矢となって、小さくとも広まっている言葉、それが天文民俗学であると思われる。
 古く”天文民俗”を調べ集めたのは、野尻抱影ひとりであるかに独見していたのは、失礼なことであった。
 北尾氏は、いまも聞き書きに全国を訪ねておられるようで、島根県では、出雲市大社町宇龍に17年ほど前にこられて、語り部の喪失を悲しんでおられる。
出雲市大社町宇龍の星の語り部
《「よんべ(ゆうべ)、いつまでおったんや」「スマリがあがるまでおったー」
そのような会話をした日々は遠い昔になってしまった。七夕も海に竹を流してはいけなくなってから行なわない家が増えた。》
 いまや七夕の竹は海にも川にも流さない(せない)のだろうか。小さく切り刻んでゴミの日に出すくらいなら(そんな世の中であるのならば)、七夕の祭りなどやめてしまうのがまっとうな感性であろう。

 さて、実はここまでが前置きのつもりであったのだが、時間切れゆえ、つづきは次回へ。
 以下、備忘として項目をあげておき、のちに加筆しよう。

・死んだら天の川へいく(漁師の聞き書きに頻出…要確認)
・野尻抱影『星三百六十五夜 夏』に「七夕雨」あり
 →旧暦で七夕をまつる地域にはこの日の雨を吉とするところがある。出歩かないこと。雨が降らないと七夕さんが作物をもっていく。降れば豊作。というような。北尾氏の聞き書きには、七夕の日には漁に出ない、出ればイカが葉や茄子に化ける、というものあり。

・野尻抱影『星三百六十五夜 夏』の6月28日「へっつい星」に、この一文あり。
《思い出して、私は、江戸時代の学者畑維竜の随筆『四方の硯』(※日本随筆大成〈第1期 第11巻〉所収)の中にある文を読み返したー
 ー具象を見ることは、農民よりくはしきはなし、大和の国は水のとぼしき処なれば、四月頃より夏中、農民夜もすがらいねずして、星象をばかり見て種おろし、あるひは夜陰の露おきたるに苗のしめりをしり、米穀の実のると、みのらざるとをあらかじめはかりしる事なり。その星に、からすきぼし、ひしぼし、すばるぼし、くどぼしなどやらの名をつけて、其の星は何時に何の位にあらはれ、何時に何方にかくるなどいひて、その目つもりにてはかること露たがわず。云々》






 

2017年07月21日

裏庭の片隅でトノサマガエルとばったり

 気温が34℃をさすような猛暑日が続いています。雨が降らないので、庭の木々がそろそろバテ気味な印象。そんななか、外流しがつまり水がたまっていたので、やれやれ掃除しますかとかがんでみたら、小さなトノサマガエルとばったり。
 国内では准絶滅危惧種に指定されていますが、島根県ではまだ普通に見ることができます。とはいえ、私が子どもの頃、30年〜40年前とくらべると、たまに見る程度であって、「ほらそこにいるでしょ」と簡単に教えることは難しいものです。そう。都市からやってくる、生き物好きの子供たちにとって、トノサマガエルを捕まえた思い出が忘れらないくらいに大きなことなのだと聞いたこともあります。島根県内ではなぜトノサマガエルが絶滅危惧に至っていないのかのついて聞いたことはないのですが、自然地形と水田の様態によるところなのかなあと思ってみたりはします。
 しかし、県という単位で自然を見るのは、本当に仕方なしの便宜であって、せめて水系単位でレッドデータは見るべきなのでしょうね。トノサマガエルでいえば、斐川平野では激減しているのではないでしょうか? たまに立ち寄る実家周辺ではまったく見なくなりましたから。
 
 そんなトノサマガエル(Pelophylax nigromaculatus)ですが、ちょっと目を話した間にいなくなりました。せっかく自分だけの小さな家(池・縄張り)を見つけたと思っていたのに、そうそうに水を抜かれて追い出されようとは思ってもみなかったことでしょう。すまん。山をこえて北に100mいけば田圃もあるのですが。水辺に乏しいわが家周辺ですので、産卵の場を得るのには労多きことだろうなあ。がんばれよ。

 さて、下の写真はそのトノサマガエルではなく、アマガエル。トノサマガエルと比べると、手足の吸盤の力が相対的に強く、U字溝のような壁面でもよじ登れることなどから、絶滅危惧からは逃れているようであります、いまのところ。繁殖時期もトノサマガエルより長いのかな。6月までの夜、裏の畑の方ではよく鳴いていました。その頃ほどではないですが、今でも夜の鳴き声はにぎやかです。
 雑食性で、虫を食べてくれるらしいので、ヤモリ同様、繁殖繁栄を願う種族です。
 

 
 一方、蟻が多すぎるのではと。畑にも家にも庭にも。バランスを取り戻す途上の過渡的なものなのかどうなのか。経過観察としたい。

【参考ページ】
◎しまねレッドデータブック
 県民必読。コウノトリでどうたら騒ぐ前にもう少し読もうよ。
◎トノサマガエルの生態や捕まえ方(HONDAキャンプ・生きもの図鑑)
◎ニホンアマガエルの生態や捕まえ方(同上)
 とてもよく編集されています。考えて丁寧につくられていますよ。クリックひとつで読むことができることに、頭が下がります。監修の長崎大学教育学部の大庭伸也准教授は、「タガメの採餌を巡る生態学的研究」のタイトルで2016年度日本昆虫学会若手奨励賞を受賞した方。

 

2017年07月12日

忘れられた高津川のアユ〜田中幾太郎『いのちの森 中国山地』#002

《今、高津川の流れには生命の輝きが見られない》

田中幾太郎さんがこう著されてから二十年あまりが経っている。私が高津川の傍に生活したのは、すでに輝きが失せた後からであり、「昔の高津川は〜」という言葉は誰もが語るセリフであった。が仕方のないことである。川としての生命はすでに絶えていたのであって、水が流れる路としての清流を、その名に冠して虚をはるのみであったかと、今ふりかえれば思う。
 しかしながら、高津川が国内に残存する数少ない「川」の姿をとどめている河川であることは確かであると思われる。
 田中さんがいうように《子どもころは春になると田んぼの溝川にまでたくさんの稚アユがのぼって》くるような川。1939年生まれの田中さんが10歳の時分だとして1950年代、昭和30年代には日本の山と川が激変していく時代であった。
 アユがあきらかにおかしくなったのはそれから十年後のこと。1960年代から”アユの高津川”がおかしくなりはじめ、琵琶湖や鹿児島産の稚鮎を放流しはじめることによるその質の変化はこう記録されている。60年間アユ漁を続けてきた、益田市高津町の川漁専業・塩田嘉助氏(76歳)の話として。
《ちかごろのアユはちごうてきた。夏んなってもゆるいところにたかまったまんまで、瀬にゃあ、あんまりのさん。そのぐらいじゃけえ、こまあのがおいいでや。そいから、昔しゃあ瀬につくなあ、十月に入ってからじゃったが、このごらあ八月の末にゃあ瀬へつくのがおる。味も変わったで。年中川が濁っとって、ええあかが付くひまがなあ。そいじゃけえ大きゅうならんし、食うても昔のような風味がなあ。うるかをとっても、どべくそうて(泥臭くて)味がちがう。高津川のアユの本物なあ、こがあなもんじゃあなあ。ことしゃ冬がぬかったけえ天然ものが、また減ろうでえのう》

 
 それでも、つい近年までは西日本有数の天然アユ漁場としてその名を馳せていた。が、もはやそれも過去のものとなりつつあるようだ。
《高津川は漁協だけのものではない。2年連続清流日本一を誇る高津川に今年はアユが少なく防府市、岩国市、広島市から来た太公望の遊魚者たちは「もう益田の高津川には来ない、鑑札料を返してほしい。何が日本一の清流か!」と不満をぶち明け帰って行った》

石西タイムス2014年06月04日

 ここ数年、不漁が続いているのは確かなようだ。※のちほどデータにあたってみたい
 石西タイムス2014年06月04日からひくと。
《自然の産卵場が荒廃し、建設機械を入れて造成しないと産卵できないほど川は傷んでいるのだが、行政は何の対応もしない。しかし、「清流日本一」だと喜んでいるが、上澄みの水だけ検査しているから何とかごまかしているようなものだ。下流域だけではなく、中流域でも少し流れのゆるやかな河床はヘドロが溜まっているから、何かのきっかけで一挙に汚染が進むだろう。
 そのうえ、河口では遡上しようとしている稚魚を網エビ漁で一網打尽に捕獲している。以前は網エビ漁はアユ稚魚の遡上時期には高津川漁協が県漁連に禁止の申しいれをしていたが、今は県漁連と高津川漁協と組合長が同人物(いずれも中島謙二県議)なのだから、何時まで経っても何の解決策も出てこないまま清流高津川の死期が近づく。
 昨年の6月、同組合は理事会を開催し、近い将来アユ稚魚の放流は止め、育魚センターは廃止し、企業合理化を進める。さらに、組合の年度決算は12月に仮決算し外部企業に経営委託するという議案が承認されたと言われている。それなら鮎稚魚放流が一昨年の半分の量になっていたとしても不自然ではない》

 と。
 稚魚放流の削減を、量の問題だけにフォーカスするのはミスリードをまねくだろうが、多くの問題を抱えているのだろう、高津川漁協。日本における漁業資源管理の稚拙さは昨今とみに指弾されているのだが、指弾はいかんと思います。
 川は漁協だけのものではないし、川が見捨てられていくその流れは、一筋縄のものではない。単純化してはならんのです。単純な問題設定、そこからは何も解決していかないから。

 今年5月の山陰中央新報の見出しにこんなものがあった。「昨年より高津川アユ増へ実証実験 益田漁協」。要点は《高津川のアユの資源量回復に向け、高津川漁協(島根県益田市神田町)は6月、成育を抑制して産卵時期を遅らせたアユを11月上旬に放流し、仔魚の生残率を高めて遡上(そじょう)増を図る実験を始める。…(略)……落ち込んでいるアユの川への回帰率を高め、漁獲量の回復につなげる》というもの。

 久しぶりに川のことを思い出して、少々頭が熱くなった。書きかけなのだが、ここらで休憩。のちほど加筆することとする。

 参照資料として以下。

寺門弘悦,村山達朗,金岩 稔2016「島根県高津川におけるアユの天然魚と放流魚の混合率の推定」島根県水産技術センター,東京農業大学生物産業学部アクアバイオ学科

古川彰, 高橋勇夫 編2010 『アユを育てる川仕事 : 漁協、市民、行政がつくりあげる、アユとの共存』(築地書館)






 
 

2017年07月05日

ツキノワグマが滅びるとき島根もまた死ぬだろう〜田中幾太郎『いのちの森 西中国山地』#001

 「あの爺さんらも、もうおらんようになった」
 田中幾太郎さんがそうつぶやいたときに感じた、いいようのない戦慄の正体に、もうすこし近づいてみたく、著書を再読することとした。『いのちの森 西中国山地』は平成7年に光陽出版社よりおそらく自費出版されたもので、古書も少ない。1000部も刷っていないのではなかろうか。県立図書館で借りてきているものから少しずつ、抜粋と注釈を重ねてみたい。
 今回はその1回目、#001である。
 田中さんとは数回しかお会いしていないのだが、つかれたようにクマのことを話されていた。5年ほど前のことだから、2010年の全国的な大量出没の後である。この著作と同様、言葉数はきわめて少ない方だ。
 ニホンツキノワグマ、そして西中国山地タイプの遺伝子を伝えるものが絶滅危惧種であり、その生息動向が世界的にも注目されている種であることを、島根県民はもっと知ってよい。そして、クマとの共存をはかる活動については頭の下がる思いである。そう島根、とりわけ西中国山地にはその素地が古くは確かにあったのだ。クマを聖獣として敬ってきた「あの爺さんら」。ヘビやタカやオオカミとも交わることのできた自然の博士たち。

『いのちの森 西中国山地』は18章。章ごとに森と川の生き物が語られる。1章のヤマネからはじまり、ゴギやオオカミをへて、最終の第18章がクマなのだ。
p156
《ニホンツキノワグマと、前に書いたホンシュウジカは、はるかな地質時代の昔から日本列島の深山にすみつき、「ブナ帯文化」の狩猟生活を支え、縄文や弥生時代を経て興る稲作文化の基調な随伴種であった意味を顧みる人は少ない。先人たちがたゆまぬ努力で豊かに築いてきた民俗とともに生きてきた”日本人の心の動物”を見失ってもよいものだろうか。金太郎の「足柄山」に代表される、数多くの民話に登場してきたかれらに打ち込まれた生命の意味は、厳しく生きてきた先人たちが伝授した、きわめて科学的な”環境観”であったように思う。》


p158
《西中国山地のクマ猟の”今昔物語”を親子二代で語ってくれたのは、美濃郡匹見町三葛に住む古老、大谷滝治郎氏(九十六歳)と息子の定氏である》
《滝治郎さんが話す昔の熊猟は「奥山ちゅうたり深山ちゅうて、木地師でなけにゃあ寄り付きゃあせんところじゃった。クマちゅうもなあ、深山にしかすまん獣で、里山の方へ下りてくるこたあ滅多にあるもんじゃあなあし、ましてや今のように里の屋敷の周りい出てくるようなもんはおりゃあせんかった。そいからシカのようにゃあ田や畑を荒らさんけえ、退治ることもなあし、わしら親らあからこんなもなあ、深山の守護神じゃちゅうて傷めんように言われよった。この辺の猟師ゃあシカあ捕ってもクマあ滅多に捕るようなこたあなかったでや。そいじゃがシカがあんまりおらんようになってきたりして、たまに捕るようなこともありよった。そがあなときゃあほかの獣たあ違うて、大事に祭りごろをしたもんじゃ。クマあ、熊野権現様が深山に遣あされた使者じゃけえ、こんなあ捕っつりゃあ、必ず罰が当たって、天気が荒れてくるんじゃ。猟師ゃあそりょう恐れて、捕ったクマの白い月の輪を天の神さまに見られんようにせにゃあちゅうて、うつ伏せに寝かあとく。そがあしてその周りにもってって、槍や火縄銃を必ず七本立てかけるんじゃ。そろわんときにゃあ木の枝でもええ。そがあしといて『天の神さま、竜宮のおと姫さまに酒菜を差し上げんと思うて、天の犬を誤って捕りました。どうかこらえて下さいませ。アブラウンケンソウ、アブラウンケンソウ』と呪文を唱えて、かしわ手を打ったもんじゃ』》


 ニホンツキノワグマの今日的な意味とはなんだろうか。
 「日本は美しい生命の森の山国である」
 田中氏の言葉の後ろには、猟師の爺さんらの声なき姿がある。届かぬ手をのばして、一滴なりともすくい取ってみたい。いのちの水を。

 島根県は2012年からWWFと共同でプロジェクトを推進している。
 いくつかの参考サイトをあげておきたい。
◉WWF:クマの保護管理についての情報
◉日本クマネットワーク



 

2017年06月22日

コンクリート護岸で失われていくもの

 ランドスケープデザイナー・廣瀬俊介の『風景資本論』を読んでいる。2011年(平成23年)の11月、すなわち3.11の年に刊行されたものだ。3〜5年ほど前に書店で手に取って贖ったような気がする。大阪だったか東京であったか。そしてしばらくは、カフェ・オリゼの書棚のしかも目立つところにありながら、じっくり時間と腰をすえて読んだことは、これまで、なかった。何度も噛みしめるように読んでいた白井隆,2004『庭の旅』(TOTO出版)の隣に並んでいたのだから、背の「風景資本論」という言葉とその存在だけの痕跡が記憶の中にとどまり続けていた。きょう、その書を手にとり机の横においたのは、いま進めている”ビレッジ”のプランで、いかに風土設計を取り入れるかに腐心しているからに他ならない。デザインを職とはしていない私がデザインをしなければならないところに追い込まれているからこその「腐心」、「苦心」であるのだが、それは理不尽なことではない。廣瀬が本書の中でいうように、デザインの本義は職能ではない。
《「design」は本来、日本で誤解されているようにあるもののかたちを作品的または商業的につくる仕事ではない。あるもののあり方を考えるところから、そのあり方に則したかたちを成すまでの仕事が、本当の「デザイン」にあたる。》

 別な言い方をすれば、デザインとは、コピー&ペーストができるものや参照するもの(今どきそれらを「アイデア」と呼ぶことが多いようである)ではないということだ。商業デザインのそれはむしろ「複製」できることがその本質であるかのように、今日の日本では、見える。みながそう感じ、とらえ、考えているように、思えるのだ。
 廣瀬の言からすれば、デザインは「あるもののあり方」を考えるところからはじまる。地域づくりやまちづくりにデザインの手法が多用されるようになってからは(山崎亮の功績は大きい、罪もあるにせよ)、馴染みあることだ。しかしながら、《資本の管理と充実は、資本の内容が確認できてはじめて行えます。しかし、日本各地で目ざされる「まちづくり」「地域おこし」には、自然科学、社会科学、人文学を基礎とした確かな「地域資源」の調査方法をもたず、当てずっぽうに行われている例が多い…。》
 心あたりのある方も多かろう。ワークショップと呼ばれる方法は「やらないよりまし」という言い方もされるし、ひょうたんからコマが出るように、当てずっぽうでも、当たるものは当たるし、当たらなくても、やること自体に意義はあるともいえる。だが、そうした「流れ」が何をもたらすかということに、もっと自覚が向いてもよい時期にきていると思わないか。

 それは「風景資本論」所収の一枚の写真とキャプションが語るものでもある。
 台風23号の災害写真で、治水を目的としたコンクリート地盤が後背地盤からの吐水の不十分さからはがれ落ち、隣接する石垣は崩れていない、その対照を映し出したものだ。とても象徴的な図絵であって、たくさんのことが思い起こされる。私的個人的な連想として。
 そのひとつが宮本常一著作集21巻「庶民の発見」に所収された、石工の話である。
 以下、引用しつつ、ひとまずとじたい。整理がつかないので。

《田舎をあるいていて何でもない田の岸などに見事な石のつみ方をしてあるのを見ると、心をうたれることがある。こんなところに、この石垣をついた石工は、どんなつもりでこんなに心をこめた仕事をしたのだろうと思って見る。村の人以外には見てくれる人もないのに……」と。》

《「しかし石垣つみは仕事をやっていると、やはりいい仕事がしたくなる。二度とくずれないような……。そしてそのことだけ考える。つきあげてしまえばそれきりその土地とも縁はきれる。が、いい仕事をしておくとたのしい。あとから来たものが他の家の田の石垣をつくとき、やっぱり粗末なことはできないものである。まえに仕事に来たものがザツな仕事をしておくと、こちらもついザツな仕事をする。また親方どりの請負仕事なら経費の関係で手をぬくこともあるが、そんな工事をすると大雨の降ったときはくずれはせぬか夜もねむれぬことがある。やっぱりいい仕事をしておくのがいい。結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、あとから来るものもその気持をうけついでくれるものだ。」》

 「そのあり方に則したかたちを成すまでの仕事」を、かつての石工たちは「行為」としては、ひとりあるいは数人でなしてきた。彼らこそ真の意味でのデザイナーであった。

 

2017年06月08日

西志和の焼土の風景

 宮本常一著作集21「庶民の発見」を借りてきて読んでいる。じつは24巻の「食生活雑考」を借りるつもりが間違えたのだ。図書館に地下書庫から出してもらい、中をみずに持ち帰ってしまった。しまったなあと思いながら読み進めると、しかし、これぞ僥倖であった。いくつもの発見があったのだが、「粗朶ってなあに?」でも書いた焼土の風景もそのひとつ。
《三月の夜の野は冷たく静かだったが、煙のすっぱいようなにおいが一面にただようていた。そして田圃のところどころから煙がたちのぼっているのが夜の目に見えた。焼土を行っているのである。夕方、田圃のそこここで大きな火をもやしているのを見かけた。その上に土をかぶせておけば土がやける。ここではそうして土を若がえらせている。そのほの白いけむりと甘ずっぱいようなにおいが私のこころにしみた》

 宮本はこの村の人物をたずねている。「丸山さん」と呼んでいる当時の村長である。「百姓の血の中には野の草のような根づよさがひそんでいる。丸山さんはそうした百姓の血をもった一人である」。その丸山さんがはじめたことなのか、その昔からあった風景なのかはわからない。「おしゃべりが大変好きだ」と自白しながら書き進める宮本はなにを、ここに感じていたのか。

 太田川の支流の奥にひろがる盆地であって、それはひどい湿田地帯だった村を、仲間とともに乾田へと「改良」していった丸山さん。それは暗渠排水の工事だというが、「その苦心はひととおりのものではなかった」という。
 竹はこの地域にはなかったようだ。であれば明治の終わりから昭和のはじめにかけて行われたその工事には粗朶をつかったのではないだろうか。焼土の煙は粗朶を燃やすものであったように思えるが、思えるだけであって、いまだ臆見にすぎない。ただ、この宮本が見た風景を、まぶたの奥にこれからなんどが浮かべながら、他の資料をあたってみようと思う。
《峠の上に立って見るとその白いけむりが平らに海のようにただようて、村の家々はその下にかくされていた。不思議にものしずかな、しかししの白さが星の光を反射してかほのあかるい風景であった》

 そう。昔あったその風景を写真ではないものから想像してみるのは、楽しく、刺激的なことなのだが、この宮本のテキストからは、絵になる前の何かを、それを絵たらしめてる何かへの思いがたちこめているのだ。
 そう。宮本がつくったというあの有名な句を思い起こしてみよう。
「自然は寂しい。しかし、人の手が加わると暖かくなる。その暖かなものを求めて歩いてみよう」
 資料にあたる。いまから数十年前には探し求めればあった「その暖かなもの」はいまはさらに少ない。いや、だからこそ、車をおりて、歩いてみようと思う。
 同じく「歩く人」であった、宇沢弘文が車を使わず走って大学まで通ったその意味とも重ねながら。

2017年05月31日

今年はチョウの姿を見ない

 5月に実をつけ、楽しみにとっていた庭のジューンベリー。昨年はヒヨドリと競争になり、けっこう負けていた。今年はそこにスズメも参戦してきたので、われら人間のとりぶんはずいぶんと減ったのだった。ヒヨドリは単独でやってきてぺろっとまるごと食べるのだが、スズメの口には実が大きすぎて、そうはいかない。よって、食べかけの食い散らかしが多くなるし、枝にとまる時間も長いので、スズメ同士でも喧嘩になるようだ。たいてい3羽くらいがせりあってチーチーと叫びあっていた。
 そんな5月も今日で終わり、ジューンベリー狂騒曲もFin.となったのか、庭がずいぶんと静かだ。今年はいろんな鳥たちの声が聞こえる。おそらく、生息域が大きく変化したせいだろう。冬の時期にすぐそばの河川の河畔林が皆伐された。サギの一大コロニーとなっていて、裏山にもずいぶんと巣をつくっていたものだが、今年はさすがに激減、というより絶滅・壊滅にひとしいありさまだ。
 どうなるかなあと思っていたのだが、他に生息地を見つけたのだろう。この地からはおそらく数百から千のオーダーでサギがいなくなったことになる。人為的改変によって。すると、当然、サギに追いやられていた他の競合種が勢力を伸ばす余地がドカンと生まれたことになる。
 私が鳥の声や種類がふえたと感じるのは、そうした変化によるものなのだろうと思う。
 一方で、減った(と感じる)ものがチョウである。もともと少なかったのだが、今年はとくに見かけない。裏の畑でモンシロチョウをみたのと、黒い羽のものを線路のそばで見たくらいではないか。鳥とどう関係するのかはわからないが。草刈りや水路の影響だろうか。降雨が少なく気温が高い今年の気象の影響だろうか。
 10年くらい住み続ければ、変化に対してもっと言えたりわかったりするのだろう。2017年・平成29年の春の終わりの感想として、端書してみた。

2017年05月25日

粗朶ってなあに?

粗朶(そだ)ってなあに?

あれだよ、あれ。川の護岸に使ったり。弥生時代からみられるというから、そりゃ由緒あるもんだよ。簡単にいってしまえば、木の枝を編みまとめた束だね。
新潟県粗朶業協同組合・若月学のテキスト

へー。木の枝なんて、今じゃゴミ扱いなのにね。燃やそうにも、いろいろめんどうだしね。

もったいない話だよ。で、その粗朶だけど、灰小屋(ハンヤ)で土と重ねて燃やしてたという記載を見つけたんだ。なんで?ばかな?と思ったんだが、まてよと。
なんらかの理由で使わなくなったものをそのままもってきて燃やしたのだと思うんだ。たとえば、壊れたもの。肥沃な土砂もからまっているのがよかったりして。運ぶ手間は相当なものだろうけど。

農文協「聞き書き広島の食事」をみてみたら、ハンヤが出てくるのは中部台地で、ため池灌漑による水田耕作地帯だ。ただ、この本の聞き書き調査が行われた頃の「焼土」は変容した形態ではないのか。こう書いてある。
《(春の行事として)冬の間に用意したやあはを使って焼土もする。灰屋か田の中で、やあはと田の土とを交互に重ねて焼きあげ、麦の肥料にする。重い土をもっこで担ぐ重労働である》

もう少し調べてみるよ。

あぁ、いいけどさ、そういうやりかけの調べもの、そうとうたまってない?

すまんすまん。いや、でもね、ぜんぶつながってるんだって。

ふーん。で、いつそれつながるの?



★【灰小屋】とは(ひろしま文化大百科)……《灰小屋とか灰焼場、ハンゴヤ、ハンヤなどと呼ばれ、県内に広く分布した草木灰、焼土などを製造する小家屋。
 安芸中南部では、水田の農道わきなどに設置され、20アールに1基の割合で存在した。広島市安佐北区、旧高田郡南部、東広島市、旧賀茂郡などの水田地帯に、最も多く、独特の田園風景となっていた。この地方では、水田の土を、粗朶(そだ)、ごみなどとともに焼いて、麦作の肥料とした。焼土法とか燻焼土(くんしょうど)法で、全国的に見ても古い自給肥料づくりの農法であった。
 備後地方では、家の周辺に設置し、主として草木灰を製造、麦や大豆、そばなどの肥料とした。
 灰小屋は、農家にとって、重要な役割を持つ施設。「灰小屋を見れば農民の腕前が分かる」といわれた。火をたくところだけに、構造は頑丈に出来ている。腰壁は、石と赤土をこねた大きな固まりで積み上げ、厚さは50センチ内外。小屋の4本柱は、「灰小屋柱」といいクリの巨木を使う。屋根は、草屋根で、9尺4方以下の灰小屋には寄棟が多い。一戸建が普通だが、大きな農家になると、連棟式4室という豪壮なものもあった。》

2017年05月23日

土地の記憶、風景の記憶-001

 正確さを期する、あるいはよけいなことを考えず誤解や混乱を避けるのであれば、「土地の記録、風景の記憶」と標すべきなのだろう。いたずらにそうしてみたという向きもなくはないのだが、確信とまではいえないまでも、こうすることで、なにかを発することができればいい、はかない望みであることを承知したうえで、浪漫主義的との謗りや、あれやこれやを引き受けつつ。
 いや、それは、一顧だにされないことへの不安の一形態に過ぎない、ともいえよう。複雑さをよそおった欺瞞であると。
 閑話休題(といってみよう)。
 風景の記憶は、一枚の写真へと還元されうる。一方、土地の記憶とはそう足り得ない、重層的なものだ。だからこそ「記憶」という表現は不適切だとふつうは考える。そして、風景の記録と言い換えたくもなるし、実際のところ、土地=地域の「履歴」「歴史」「記録」といったことでくくられることどもは「記録」という固定的であるがゆえに、複雑さを許容内包しうる概念へと集約可能だ。
 しかし、ここで私が「記憶」という一枚のイメージに還元されうる概念を使ったのは、ひとりの個人の記憶がもつ普遍性あるいは可能性へと世界をつないでみたかったからに他ならない。
 to be continued.

2017年03月07日

スリランカの"コンポストツリー"

 国立アグリパークの中にあったコンポストです。が、展示用ではなくよって説明もなにもありません。これそのものをコンポストツリーと呼ぶ人と、おそらくここで使われている木の種類をコンポストツリーと称している人がいて、おそらくどちらも正しいのかもしらん。
 この写真のものでいえば、主に家庭ごみをためていくもので、土をサンドイッチしていく。
 堆肥化が進み、嵩も高くなってくると、野菜等の種をそのまま植え込んでしまうのだという。

20170209-P115072502

 森林の教授に観ていただいたところ「これはいい」と。ひとつには「見える」こと。もうひとつには好気性発酵がすすみやすいこと。ほかにもあって、おそらく乾燥した気候には適合しているのだと思われる。
 日本の夏でどうか。試してみようではないか。