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2018年01月24日

物乞いと神人と森人〜雑考:わからないものへ向かう仕方

 私たちはいつの頃からか、日々の暮らしのなかにあった、繊細な思考を失った。それがどんなものであったかさえ、想像はおろか妄想すらできはしない。これは悲嘆ではない。希望をもたないところから見える光であるならば、あるいは真実のかけらなりとも、落としてくれるかもしれない。
 私は何を繊細な思考と呼ぼうとしているのか。どのような思考が繊細さと結びつくのか。浮かんでは消えていくイメージの連鎖に頼っている思考をそう呼ぶだけではないのか……。

 繊細な感受性、ではない、繊細な思考。
 たとえば、次の一文をよんだとき、あぁ、これは感性というよりは思考だ、と、思った。

《そして実践家であった。……(中略)……(乳牛の)搾乳が終わって夜遅く二時や三時になっても、車をとばして村の病人の相談にのる、悩む人の相談にのる。しかも生まれたときの姿のまま、自分を自分以上に大きく見せようともしない、小さくも見せない。……(中略)……大坂君の「牛が落ちつかないのは化学肥料を使う田の畦の草を食べているのが原因ではないですか」という言葉は大変なヒントになりました。硝酸塩中毒になっているというわけです。それほど彼は感性のよい、感受性のつよい男で、一九六五(昭和四十)年、隣りの農家の農薬によって汚染された田の畦の草を牛に与えたところ、瞳孔の異常、視野狭窄が起こることに気がついて私に教えてくれた。》
(森まゆみ,2007『自主独立農民という仕事』)

 まとまらない迷想のなかで、藁をつかむような感はあるが、こう言ってみる。
 「わからないもの」を考え、とらえようとするときに、思考は繊細なものとなる。
 ここから、はじめてみようと思い立った。
 先の大坂君は、繊細というより科学的なのでは? そう思う人もいるだろうし、無理もないのだが、それは科学の本質に対する誤解に起因する。科学の思考は繊細なものなのだ。

 記事カテゴリの中で、「ホトホト・カラサデ」に入れている一連のもののなかに、それはたちあらわれる。

 あるいは、「岩伏の谷の森神」でふれようとしているものに、それはある。
 荒神も石神も森神も、果たしてなんであったかについて、知ることは不可能であると、すでに何十年も前に柳田國男が記している。

 私たちの時代には、「わかる」ことが当たり前となった世界である。
 わからないことも、わかる人から教えてもらえれば、わかったことになってしまう時代。「わかる」こと、それは人であれウェブであれ、情報のデータベースとして存在し、その場所から「ダウンロード=複写」してくることでしかない。

 そのような知とは異なる相貌をもっているのが、凋落と落日を嘆かれている日本の民俗学である。
 河出文庫の宮本常一『生きていく民俗』。その解説を「無数の風景」と題して寄せている鶴見太郎は、こうときはじめる。
《民俗学とはすぐれて経験的な学問である。民俗事象が無数の人間によって積み重ねられた経験の堆積である一方、民俗学に従事する側にもまた、旅先その他における無数の出会いがある。》


 さて、本題はここからなのだが、もはや夜も明け方に向かいはじめた。睡魔にひとまずは降伏するとして、ここで、いくつかの断片をあわてて記し、自らの道しるべとしておく。

・経験的であるということは、国家的なものに抗する知を志向する。
・日本の乞食の源流に聖性あり。
・仏教のサンガ組織が物乞いによる組織運営を選び取ったことの後世的意義
・乞食する僧も職人も、山を拠点にした。そういう山とはなんであったのか

 そして、もうひとつ、宮本常一『生きていく民俗』からの引用をもって、この記事のタイトルとの関連を示しておこう。

p.40「物乞いと商売」〜
《(白山では)山地を焼いて焼畑耕作を行なっても、そこから得られる食糧だけでは半年食いつなぐのが精いっぱいで、食物がなくなると地内子たちは椀を持って牛首まで出かけたのである。牛首の親方たちの家ではヒエの粥をたいて飢えた農民にふるまった。しかし山に仕事のある間はよいが、雪が降って仕事ができなくなると、この人たちはいよいよ窮して、山を下って平野地方に出て物乞に歩きはじめる。……(中略)……雇われて働けばよさそうなものであるが、そうする者は少なく、ただ家々の門口にたって物を乞うたのは、もともとそのまえに白山の御師または強力として働いていたころの名残であったとも考えられる。そのころは白山信仰者の家をお札配りなどして歩いて金や食物を得ていたに違いない。
……(中略)……
 山奥で生活をたてることはまったく容易ではなかった。山中の者が里へ乞食に出る風習は実は白山山麓ばかりではなかった。中国地方の山中からも里の方へ乞食に出る風習があった。
……(中略)……
 (中国地方ではたたら製鉄に要する膨大な炭焼き需要があったことに言及したうえで)
 米をつくるだけではとうてい生活のたてようのない山中でも、こうして炭焼のもうけがあるということによって、山中にも人が住んだ。しかし炭焼で得られる金もたいしたことはないから、雪が深くて炭焼もろくにできないころには箕や簔をつくり、また篩などもつくって、春さきにになると里の村々へ売りに出たのである。なかなか器用につくってあって、里の人には喜ばれたが、だからといって、毎年買ってばかりはいられない。しかし、売りにくれば義理にでも買わなければならないとされた。また売る方も、相手はきっと買ってくれるものと信じていた。今日の商法からすると不合理なようであるが、山人は里人がその製品を買ってくれなければ生活をたてることができないので、ただ品物を買ってもらうというのでなく、助けてもらうような心持があった。だから買うことを拒否するようなことがあると、放火されたり、物をぬすまれたりする場合すらあった。》

(つづく)

2018年01月01日

摘み草の記憶〜#001

 野山のものを採取し食す。
 この行為を促すマインドセット※1は、食文化・食習慣の変容にさらされてなお、その原基のようなものを保持するのではないか。そう推するに足るいくつかの出来事があったので、まとまりなくも綴ってみる。

 かめんがら(cf.2016年のガマズミ)について、子どもの頃にはよく山で取って食べていたと、いま60代の方々から聞くことがあった。ここでいう「子どもの頃」という時代を、現在65歳の人が10歳だった頃とすると、昭和38年(1963年)のことだ。
 昭和38年といえば、東京オリンピックの前年である。農村には牛に代わり、トラクターをはじめとした機械が入り、トラック輸送が食品流通をかえ、日清のチキンラーメンをはじめとした食のインスタント化が進行していた。「鉄腕アトム」の放映がはじまった年でもある。ちなみに当時にあっては原子力は未来の夢のエネルギーと見られており、資本主義を打倒し民衆を解放するものとして共産主義が推するものでもあった。
 この時代、家庭で味噌をつくることが「恥ずかしい」「遅れた」ことだと見られる地域もあった。味噌や醤油は「買う」ことが進歩的だと。
 小さな経済循環を解体し大きな経済循環のなかで、社会を再形成することが「是」とされた時代である。「こんにちは赤ちゃん」がヒットしていた。ベビーブームの谷間の世代でもある。

日本の出生数と出生率1900-2010.jpg
By Mc681 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link



この項、つづく(のちに加筆)。



●2017年12月の年の瀬に、とある40代女性の会話の渦にちょっと驚いたことについて。

「今の子達でも、〇〇の実をとって食べたりするから、びっくりしたのよ。いつ覚えたんだろうと」
「へえ。そうなんだ。私たちが子どものころは、△△はよくとって食べたよね〜」
「あぁ、□□は吸うと美味しかったわ〜」

 そうした行動や嗜好が発動するのは10歳前後であって、長じるに従って失せていく。ただ、いずれは消えてなくなるかもしれない。なにより、消そう消そうとする力は強く作用しているのだから。
 ここで注目したいのは3つのことである。
1.民俗文化の断片が子どもたちの「遊び」の中に残存するということ……柳田國男が「小さき者の声」で言及していたように、それらは大きな変形を起こしながらも残る。柳田はそれを「大人の行為を真似する」ということに因を求めているが、《模倣》ではない何かがそうさせるのだと考えると、ひとつの理がそこに見いだせる。
2.採集草木の利用が社会の中で失せても、子どもの「おやつ」「遊び」の中に残存するということ……よくわからない。あえて予断をはっきりさせることで、自らの認知に注意を促そう。たとえばガマズミの実を子どもが取って食べるのは、おやつとしてであって、大型の果樹の品種導入などによって食用としての利用が駆逐されていった後でも残るのだと。
3.子どもは大人よりはるかに非合理の世界に生きているということ
子どもは「感覚の世界(養老孟司)」で生きている。子どもの存在そのものの価値を近代社会は否定しつづける。老人の存在も同様。

 こうしたことを念頭におきながら、いま40代の母にあたる人たちに残る「摘み草」の記憶をたどってみようと思う。時代でいえば、今から30年〜40年ほど前、1970年〜80年代である。

◉島根県雲南市在住・Aさんの言
 島根県川本町で生まれ育ち、小学生の頃に同県頓原へ移住。
 母は昭和20年生まれ。道の草をとって、こうやって食べるのだと教えられたり、むかごの取り方などを教わった。が、本人は山菜とりなどにあまり興味はない。

〇母のこと
・母は9人兄弟の下から2番目。上の人たちが働きに出るため、10歳頃からご飯をつくる炊事の係をしていた。まわりの人たちから、食べるものについていろんなことを教わった。
・山菜採りが好きだった。春が来るとうれしかったようだ。春になると、車にのせて連れて行ってといわれ、よく出かけた。車を運転していると、ずーっと外を見ていて、「あ、とめて」と言っては、草をとってきていた。
〇教えてもらった草のこと
・道ばたにあったイネ科っぽい、シューっとした葉がある。茎を折るようにしてしゅーっと引き抜くと白い綿みたいなものが出てきて、食べられるということを教えられた。
・味は覚えていない。おいしいとは思わなかったが、まずいとも思わなかった。
〇注:上記の草はおそらくチガヤであろう



※1 私たちの脳と心はいまだに、定住農耕よりも、狩猟採集生活への適応をいまだ強く保持している。俗説のようにきこえるが、進化心理学の定見でもある(らしい)。




2017年12月22日

冬至当夜の日に〜豆腐をつくる・食べる文化の奥にあるもの

「いまでもあそこでは草刈りの後の直会ではひとり豆腐一丁は必ず出すんだそうよ」
「あー、うちもつい最近まではそうだったみたいだよ。さすがに夏の暑い時期に、豆腐一丁はようたべんということでやめになったらしいけど」

 今日の茶飲話より。
 豆腐はハレの日の食であったことを知らない人もふえてきました。私自身、小さな頃から豆腐は日常の食事でありました。ここ島根県は雲南地域に越してきてから、ハレの日の食として豆腐があったことを知ったのです、遅ればせながら。そして、とりわけこの地域では豆腐をよく食べるし、木綿豆腐の割合が大変に高い。かつてそれぞれの家でつくっていた豆腐の名残が、そういうことをしなくなってからも色濃く残っているからなのでしょう。
 そういえばこんな話も80歳を超えたおばあちゃんから聞いたのでした。
「味噌も醤油もつくらんし、こんにゃくもつくらん。豆腐くらいは今でもつくるけど」
 全国的にみれば……、どうだろう、味噌をつくる家庭よりははるかに少ないと思いますが。
 こんにゃくとはいい勝負なくらいでしょうか。
 一度、可能であれば、悉皆調査をしてみたいものです。漬物や梅干しなどとあわせて。

 そして、冒頭にあげた話がでたときに、漂っていた疑問にひとつにちょっとした仮説を出してみたので、今日、はなはだ不備不完全ながら備忘的にあげてみるのです。
《木次ではなぜ豆腐をハレの食とする文化が今に至るまで残存しているのか》

 豆腐づくり必要なものを3つあげてみます。
・大豆
・にがり
・石臼(碾き臼)

 大豆は日本の食にとってなくてはならないものですし、どこでも栽培できるものですが、牛を飼っていたこの地域では、かなりの量を生産していたのではないかと思います。

 そう。ここで第1仮説です。
牛の放牧地で栽培するものとして、最後まで残っていたのが大豆なのではないか仮説

 わかりますでしょうか?
 ひとつの長い引用をもって、つづきは、またあらためて加筆します。
(なんと、今日は冬至だった! 出雲から伯耆にかけて冬至当夜(トージトヤ)と呼ぶ習俗があります)

 石田寛1960,「放牧と垣内」(人文地理12巻2号)より
《仁多郡鳥上地区では垣内すなわち放牧場内に畑(牧畑)があり、夏まや期間中のみに大小豆をつくり、それ以外のときは放牧場となる。
(中略)
 「藩政時代には、この一帯の奥山山地を鉄山と呼び、人家に近い山野を腰林といって、2つを区分して利用していたのである。鉄山は鉄山師の支配する山であり、腰林は農民の私的支配下に置かれた柴草山であった。田付山による採草、薪炭諸資材の採取などが自由になされていたのだる。この口鉄山では鉄師の支配権と農民の支配権とが重畳していた。
(中略)
鉄山は林間放牧地であり、それゆえにそれ(畑)は口鉄山でのみ行われるのである。牧野の中にある畑は1年1作であるわけであるが、作物は大豆または小豆に限られる。作付期間は放牧牛のこない時期に限られている。地盤所有者は自己の畑に耕作しながら、その所有権行使は放牧権を侵害しない限りでのみ許されるにすぎない》

(つづく)
 
 詳細ははぶきますが、大豆をつくる山(の畑)だけはたくさんあったということです。
 なぜ大豆・小豆に限られるか。
 それは牛が夏の暑い間、まや(小屋)にひきあげられるとき(約2ヶ月)をのぞいて栽培できるという条件にみあうものです。それが大豆であったということです。
 いや、大豆は60日じゃ無理だろうと。
 そうなのですが、それなるがゆえに仮説なのですが、
 牛は大豆が実をつければ口をつけないのです、おそらく。

 下の写真は冬至をむかえた我が家の夕食メイン。揚げ出し豆腐でござる。













2017年12月06日

野山と山あがり雑感

 コモンズというものの向かうべき方向について、70年ほど前を振り返ることの大切さを思い知る。
 「森林整備、地方へ数百億円 新税に先行、19年度から」https://t.co/9oBIHVt82なる新聞記事を見ながら鬱々とする気を払いのけるために、まとまらない断片を記す。

 昨日の取材で聞いたいくつもの言葉が頭の中をめぐっているが、とりわけこのふたつ。
《「野山(のやま)」※1には、町からも芝木を拾いに来た人がいたが、だれもそれをとがめはしなかった。おおらかというか、そういうものというか……》
《山あがり(大山さん)には、牛をもっていない人、それは農家じゃない人もおられたから、そういう人もみんな家族であがった。祭りの場所の木は切らないものだった。大きな木があるものだった。まわりの草はきれいに刈ったが。草といっても木みたいなもの※2》

 山とはなんであったのか。
 かつて「野山」と呼ばれていた山林には不法投棄禁止の看板、さもなくば、山菜採取禁止の看板かを見ることができる。
 いま、山はどうなっていくのか。
 思いは千々に乱れる。

※1)野山:出雲地方、旧松江藩領では共有地を野山(ヤサン、ノヤマ)と称していた。出雲地方では早くから消失していったが、残るところには残っていて、このお話を聞いたところでは、戦後まで存在し、小学D年生の時に終戦を迎えたこの話者(役人でも学者でもないごくふつうの市井のひとり)から、あたりまえのように「ノヤマ」という言葉を耳にしたときには、驚いた。父の記憶がほとんどないままに戦争で失い、明治4年生まれの祖父に育てられた経歴によるのかもしれない。

※2)草という言葉のなかには、鎌・鉈でとれるような低木・灌木も含まれるのだということは、今後気をつけて検分していきたい。


●追記
田中淳夫氏のblogに「東京新聞に森林環境税のコメント」
なる記事。
 二重課税も無駄遣いもいい、無駄遣いと言い切れるものは実はそれほど多くはないのだし。
 森林をどう管理・保全していくかの定見もなにもないままに、お金だけつっこめばどうなるか。自明であろうと誰しも思うだろうに。山も森も川も海も、関心のうすい分野になってしまった。いまにしておもえばもとからそうだったのかもしれない。
 あぁ。

2017年11月20日

来年はシホウチク(カンチク)を食べるのだ〜出雲国産物帳にみる竹類

 10月のよく晴れたとある日、仕事でよく通る道路脇で筍をみた。観光客の来訪も多く、草刈りもていねいにされているところである。再生竹かなと最初は思ったのだが、いやまてまて、しっかり皮をつけていてあきらかに筍だ。温帯地域で秋に出る筍なんて相当限られていたはず、と、事典の類をひいてみれば、カンチク・四方竹であろうと見当をつけた。





 それから1ヶ月あまりたち、通るたびに気にして、数回立ち入ってみた。節から気根が出ていること。稈にイボイボがあること。稈が方形であること。秋にタケノコが出ること。ほか高さなどから、シホウチク(カンチク)である。タケノコはたいそう美味であるとの評が多いので、来年の秋には食べてやるのだ。



 さて、考えるべきことは、このシホウチク、いったいいつからどうしてここにあるのかということだ。日本国内に自生していたようだが、「ようだが」との言い方であらわしているように、用向きも地域についても、その仮説すらないようである。
 密生し、高さも3mほどまでのびるようで、境界の垣として植えたともいうが、その向きであれば、篠竹の類が防御性は高いようにも思える。
 そもそも、モウソウチク、マダケ、ハチクなどとくらべれば、出雲地域ではふつうには見かけないもので、私自身、今秋はじめて目にしたものだ。
 
 女竹、篠竹については、リサーチ中の竹の焼畑の燃材であったことから、その植生と利用の関係を調べているさなかであって、ここにシホウチクの存在が入ってくることで、また新たな展望が得られるかもしれない。

 まず、たちかえってみるべきところの古書、出雲国産物帳名疏の竹類の項には、以下のものがのっていて、カンチクは最末尾にある。

真竹 淡竹 女子竹 姫笹 箟竹(ノダケ・ヤノタケ) 篠竹 紫竹 熊笹 大明竹 小竹 シナノ竹 皮竹 カンチク

 なにを指すのか不分明なものもあり、辞書・事典をひきながら少しずつ補足を入れてみようと思う

・真竹
・淡竹
・女子竹
おなご‐だけ
女竹(メダケ)の異名として江戸時代における俳諧で用例がある。方言として残るのは以下の地域である(日本方言大辞典)。
福井県今立郡/兵庫県加古郡/和歌山県/島根県/岡山県小田郡/高知県幡多郡/長崎県東彼杵郡/熊本県玉名郡
ただし、島根県でも西部(石見)では見られないのでは?(要検証) 隠岐国産物帳の竹類は、3つをあげるのみであり、それは「淡竹・苦竹・女竹」である。女子竹ではなく女竹として記載されている。

・姫笹
・箟竹(ノダケ・ヤノタケ)
・篠竹
・紫竹
・熊笹
・大明竹→九州地方には自生し、タケノコの王様とも呼ばれるあの大名竹なのか。
・小竹
・シナノ竹
・皮竹
真竹の異名か? これはわからない。川竹であれば、川にある竹、あるいは真竹という線があるのだが。

・カンチク


●追記2017/12/19
「あれからシホウチクのことを気にしてみてたら、西日登にもありましたよ。畑の隅のほうに」と。
 大変興味深い。選択的に栽培したあとなのか。比較的近年において。とも思う。

 



2017年11月15日

晩秋山野渉猟

 11月14日、旧暦9月26日。朝のうち雨が降ったものの次第に晴れ。午後からは快晴となった。懸案をひとつずつ片付けるべく方々へ。

◉寺田の滝とかめんがら

 

 この奥に寺田の滝がある。手前の平地はダム建設の残土であり、かつての面影とはずいぶん異なるものだろう。かつての地形図、あるいは航空写真を重ねてみようと思いついてから半年がたつ。その図をもって、ここを祖母の背中に負われて滝まで登ったという爺さんのところへ、話の続きを聞きにいくのだ。雪が降る前に、と思っていたが、日本気象協会の予報によると、どうやら今週末には初雪らしい。
 この近辺の再生緑地にはがまずみ(地方名:かめんがら)が多く植えてある。かつてここの山には、かめんがらがたくさんあったのだろうか。そういうことも聞いてみなければならない。かめんがらがたくさんあったのであれば、地形図の履歴からはうかがいしれないこの地の植生のありようが推測できるからだ。
 時は駈けていくものだなあと、鮮やかな紅葉に心おどらされながら、先を急いだ。

◉阿井公民館にて駒原邦一郎氏のことを伺う
 家はすでに当地にはなく、子孫の方もどこへ移られたのかもわからないのだという。未刊行の原稿なり資料なりがあれば、検分したかったのだが、かなわぬことはわかった。
 ただ、この日、遅ればせながら、聞いてみたのは、虫が呼んでくれたからだろうか。『村のはなし』を現在復刻しているのだという。あぁ、よかった。価値をみておられる方がいて、骨を折っておられるのだ。お手伝いできることを申し出て、ほかいくつかの手がかりと、所蔵されている文書がまだ倉庫にあることを確かめ、日を改めて閲覧の約束をして、その場を辞した。

◉ゴロビナはこれではないのか?
阿井の山野に自生している草木でのなかで、懸案になっていたもののひとつ、ゴロビナ。その後、ギボウシ説が有力となっている(私の小さな脳内では)。だが、生えているものを阿井で見たことはなかった。なんでないのだろう。植生が変わってしまったからだろうか、などと思っていた。数週間前、木次で昔の食べもの話の会を催した際、みなさんゴロビナはわからないということだったが、ギボウシがどんなものかはおわかりのようだった。「ほら、すーっと長い茎が出て花がさくあれよ」と。
 その言葉が、阿井のそこでよみがえった。あ、これ、か、と。
 場所もあるべきところにあった。昔ながらの農法をつづけておられるところ。椎茸の原木がおいてある山の裾野だ。





 そちらのお宅にながらく借りたままだった本を返しにいくところだったのだ。当人は留守であったので、これはまた聞きにいかねばと。駒原さんが手を引いてくれただと、そう信じることにした。ありがたいことだ。



 その小さな山の横にひろがる小さな田んぼの風景。
 美しい。

★追記)2017/11/19、電話で取材した
・ギボウシは前からあったものかどうかはわからない。珍しいものなので、刈らないようにしている。
・前から採取していたかどうかはわからないが、最近ではとる人がいる。どこにでもあるものではないし、なかった。
・ゴロビナという名があるかどうかは、私はわからない。

◉焼畑のカブその後
 「竹の焼畑2017」のことではない。種をおわけし、火入れをお手伝いしたところのその後である。9月の終わり頃だったろうか、夜中に電話がかかってきて、「カブがよぅできとるよ〜」と。「それはよかったですね〜。見に行きますからよろしく〜」。そうお返事してから何度か機会を逸していた。もう収穫を終えられたのではと思っていた。
 8月の頭に火入れに行って以来だから、4ヶ月ぶりである。ここは清冽な水が山からおりてくる口にあたる地だ。下の写真、一見しても「畑」には見えないだろう。が、これが、焼畑不毛地帯と言われつづけ(たが、大きな間違い、誤解、誤謬)た島根東部の焼畑の姿だと思う。



 フォレストフォロワーではないブッシュフォロワー型の焼畑なのだ。ここでは長い時代にわたって、おそらく。休閑期間・循環も短い。



 ただ、ここの場合、ほぼ毎年同じ土地を焼いているようだ。来年は伏せ込みから手伝いつつ、2年休ませて植生を回復させるようにしたらよいだろうと、私はおもう。

◉山中の柿の園

 柿を取りにくるかと誘われとある山中へ。かつて柿団地として開かれたところ。放置されてずいぶんたつらしいが、大木となった柿の木にはたくさんの実がすずなりになっていた。
 周囲はコナラ系の雑木だが、木々は若く20年生くらいではなかろうか。下層にはいわゆるクマザサが生い茂っている。肥料も薬もつかわず、みごとななりっぷり。小ぶりな実が多いのがまたよい。市場の評価が低いのだろうが、知る人は知っているようで、ナチュラルなこうした柿の需要は少なからずあるようだ。





 ちょっとした納屋があれば、干し柿にして、こうしたものを欲する方へ届けることもできるだろうに。なにより、この柿たちが不憫だ。誘ってくれた初老の農夫は、もう年だから高くまで登られん、若いころはひょいひょい取れたのにと、言いながら、ふぅふぅ息を枯らして、きれいに実をとっておられた。頭をたれるとはこういうときなのだな。いい光景でもあるが、きたれ若人と叫びたい気持ちもある。
 が、ともあれ、希望膨らむ気持ちよい秋の一日であった。





2017年11月12日

タネは生きているのか死んでいるのか

 焼畑に挑みはじめてからというもの、タネというものが、さまざまな相貌で立ち現れては、私に問いを投げかけてくる。秋から冬に向かういまの季節に、人はタネをとり、草木は大地にそれを落とし、あるいは飛ばし、哺乳類が口をつけ、実とともに鳥たちがついばみ、タネはひろがっていく。

 タネには、発芽を抑制する機構や物質を保持している。トマトであれば、私たちがおいしく食す、種のまわりのあのジェル、稲や麦であれば、籾殻が発芽を抑制する物質を含んでいる(ようだ)。機構としては、温度、湿度、光に、一定の条件をもってさらされることで発芽のスイッチが入るというようなものだろうか。

 タネは生きているのか、死んでいるのか。話したい欲動にはかられるが、先がみえているようなきがしてくだらなくも思える。手にいれた空を飛ぶ羽を前にしてメンテナンスの仕方を思案するようなものか。問いそのものではなく、この問いそのものが無効になっていくような仕方がないものだろうか。その地点にたてば、タネは、生と死の2項対立をこえるもの、異なる地平を見せてくれるにちがいない。
 

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 そう考えるようになったのは、「死んだ」タネを何度か目にし、手にしたからだ。
 トマトの種取りの際のこと。完熟状態にまで放置し、タネのまわりのジュルを何度か水洗いするのだが、その最終過程、すなわちほぼ発芽抑制物質のジュルがとりのぞかれた状態で水にひとばんつけてしまったことがあった。取り出して、十分に吸水し乾燥させておくのを忘れていたのだ。
 やっちゃったな、きれいにとれたからいいかなどとのんきにかまえて、取り出し始めたのだが、発根をはじめているタネがいくつもあった。しかも、タネとして健康優良とみえる大きく形のよいものから。
 死産というべきなのか。どうなのか。
 タネとりは手間のかかる仕事だ。ゆえに農を業としてやっている人は自家採種などしない。自然農法栽培者は例外としてあるが、「手間がかかってしょうがないが、こればっかりは仕方がない」という嘆きを聞いたこともある。割にあわないとしかいいようがない。「割にあわない」というのは近代の人間社会スケールでみたときの話である。タネをとることで得られるものは、タネそのものだけにとどまらないのではないか。
 ラオスの、あるいはスリランカの混作農業では、百種をこえる作物を、他家受粉するものも含めて同じ地に栽培するという。それはそれは「美しい」光景だという。一度みてみたい。その美しさを。
確かめておきたい。モンシロチョウが一匹も飛んでいない一面のキャベツ畑との彼我の違いを。日本で美しいとされる、畝にいっせいに並ぶ同じ大きさ・色・形の野菜畑との違いを。
 混作農業の畑からタネをとる仕事は女性の仕事だという。女性しかできないようなある特殊な能力が介在しなければなしえないのだろうと推測する。彼女たちの動きを目を身体を、感覚が老いさらばえてしまう前に、この身で感じとっておきたい。彼女たちとタネとの間に何がかわされているのか。
 子をみごもり産むことができる存在だけが、その交感をなしえ、知ることができるのだとしても、限りなくせまってみることで、わかることがあると、私は信じる。

 タネの死産。それは水槽の中だけでなく、土の上でもある。焼畑でまいた蕎麦のタネは発根ののちの日照りで死んでいた。覆土をした家の裏の畑でも今年は何度かみた。なにがいけなかったのかと考えた。いくつかの理由・原因とその相関がわかるようになってきた晩秋、でもみにおぼえたかすかなうずきは、タネを生命あるものとして感じるものである。ま、そういう共感もあるかというほどのものかもしれない。タネという堅さのある「モノ」から、やわらかな根や芽が出る誕生と死が隣あっていることで、そこに生命を感じるのだろうし、ふつうの植物が一部を切ってもそう簡単には死なないこと、再生することとと違う点だろう。

 発芽しないタネだとて「生きている」状態にはある。発現する機会をうかがうためのなにかはいくばくかの有機性があることが条件だからだろう。アワ・ヒエのタネは長期にわたって保存が可能だという。飢饉にそなえて、俵にいれた籾を天井からつるしていたという話やその映像を何度かみたことがある。倉にしまってあった100年前のタネが発芽したということもときにきく(とはいえ発芽率は1%以下だというが)。
 十数年前のアワのタネをゆずってもらったが、数十粒をためした1年目には発芽0であり、今年はなんとしたことか実験を忘却していた。その貴重な籾を手にしても、生きている感じはしない。期待がないからだろうか。なんの反応もないからなのか。
 所詮、感情移入によって生じるとこだともいえるが、ここでいう感情とは、一個体のいっときの属性に過ぎないという、あまりに単純化されたものだ。普遍性がないというのならまだましなものだが、ノイズにすぎない、例外、特殊、……なものということに換言すべきものいいだ。
 が、ほんとうにそうなのか。

 人の生死、死生観という領域に少しふみこめば、ことはそう簡単なものではない。
 つづくとすれば、論点を整理してとりかかるべきものだ。タネの思想ともいうべきか。

 



 

2017年11月02日

カブと小麦

 11月2日。裏の畑に、8日ばかり前であったろうか、ひとうねぶんほど蒔いた小麦が、小さな芽を出し始めている。昨秋40粒ほどからふやしたスペルト小麦。どうするどうなるなんて考えず、まずは育ててみたい、その姿を見てみたいと思う一心だったのが1年前だとすると、今年はその行く末に心を砕かねばならない。まずひとつの思案は、どうやって食べるか、ということだ。
 ひいて粉にするよりは粒のまま食せないのだろうか。製粉の労を略したい動機によるのだが、脱穀、籾摺りまでが、それなりに苦難の道となりそうなので、ゴールを少しでも手前にひいておきたいのだ。
 それにしても。
 焼畑ではじめて栽培したのはカブであった。そして今年の秋、蕎麦とカブの焼畑後作に、裏の畑にもまいた小麦を試みている。カブと小麦はおともだちだと知ったのは、1年目の焼畑でできたカブをなんとおいしいカブなんだと食した後であったし、仁多の正月カブに誘われたのはそのさらに後のことだ。

《わが国には野生に近い状態で生育しているツケナやカブが各地にある。……(略)…… 正月カブ 島根県仁多郡横田町には正月蕪と呼ぶ自生カブがある。葉は開張性で欠刻があり、有毛で根はある程度肥大する。土地の人は年末から正月にかけて採り食用にし、このことから正月カブと呼んでいる》青葉高,2000『日本の野菜』

 栽培蕪の起源には諸説あるが、地中海に自生するアブラナ類であるとすれば、小麦・大麦にまじって、中国大陸を経由し、いつの頃か日本に渡来したものには違いない。
 仁多の正月カブは、栽培種からの逸出や交配もあったやもしれないが、雑草として渡来し、今のいままで生存をつづけていると考えるのも一興であろう。三沢の地に残るそれと、海を越え、時を超え、シチリア島の麦と蕪とオリーブを思うのは、与太話としてはできのよすぎる物語だろう。

和名抄_菜

 青葉高が先の『日本の野菜』でも指摘しているとおり、『和名抄』には、蕪菁(カブ)、莱菔(ライフク・ダイコン)は園菜の項にある。一方  は蕨と同じく野菜の項にあるのだ。この関係は大変興味深い。正月カブ(年とりかぶ)のこと、この線からもっと掘っていかねば、と、思う。はい。
 なにはともあれ。古代小麦と三沢のカブの菜をオリーブオイルであえてサラダで食べることを来年の夢としよう。

※まとまりがないので、のちほど書き換える予定です。すみません。
 以下に関連記事をあげておく。

●「まかぶ」とは!?
 三沢のUさんは、地カブのことをまかぶと呼んでいたようだ。私は逆だと勘違いしていた。まかぶという標準的(平均的・全国的)カブがあり、地元にかねてからある特徴の高い自給性の高いカブが地カブだと。どうなんだろ。

●林原の焼畑でつくられていたカブとは
『尾原の民俗』の中には「地カブ」という名で出てくる。このあたり再度図書館で閲覧しよう。『志津見の民俗』は古書で購入することにした。『尾原の民俗』も手元におきたいが、市立図書館にもあるので自重。

●大根は縁起物か?
加筆がまだできていない。ここらについては、伊藤信博のいくつかの論文を参照しつつ。


●みざわの館前の「地カブ」
 そう。「地カブ」はいまの世代でも通りがよい。じゃあ「まかぶ」はどうか、「年取りかぶ」はどうかというのが聞くべきポイントなのかも。

●年取りカブの種取り

●都賀村の地カブについて

●しゃえんば




 

2017年10月30日

ススキとセイタカアワダチソウとカメンガラ

 本日快晴。
 種々の備忘を記す。

◉木次から阿井へ向かう途上
・ダムの見える牧場の春焼地で学生らがサツマイモを収穫中。土曜日に続きだったのかどうか。
・セイタカアワダチソウとススキの勢力逆転地を通過
 昨年からちょくちょく見ている地点。今年は昨年よりさらに、ススキの勢いが強いように思えた。明後日あたりに撮影しに再訪しよう。セイタカアワダチソウの背丈が低いのが目についた。
・タカキビを栽培しておられら(そこから種をわけてもらった)ところでは、今年は栽培されなかったようだ。もうやめられたのか、今年は休まれたのか、知っておきたいところ、聞きたいところ。

◉阿井にて
・手土産を用意できなかったので、道すがら目についたガマズミのなかで色形のよいものを手折っておもちしたお宅にて。
「これはこのあたりではなんと呼ばれてますか? これはなんだかご存じですか?」
※奥さんはわからないようだった。旦那さんが笑顔でこうお答えになった。
「かめがらと呼んでますよ。わたしらがこどものころは、よくとって食べたものです。いまでも山の中にはありますよ」
「そうですか。それはそれは。食べてかんでいたという話もききますが、どうですか」
「かんだりはしなかったですね、それは。この実はかめがらとは少し違いますね。大きいのでは」
「あぁ、そうですね。違う種類かもしれませんが、味はかめがらです。もう少し小さいものですね、かめがらは」
……。もっとお話を伺いたかったのだが、またの機会にということで。

下は、昨年採取したときの写真。
20161016-P114087002

◉出雲国産物帳の蕪菁について
 久しぶりに再読。
 現場百回の精神。破損したデジタルデータから生データをとりだし、解読をこころみるようなもの。痕跡からの推察にとって禁物なのは予断と願望なのだから、心を見る目を外におくようにして読むべし。
 まかぶとは何か。出雲国産物帳には記載がない。正月カブも同様。そして、正月カブあるいは年取りカブを知る2人目のばあさんは、まかぶとじかぶを分別していた。
 出雲国産物帳の大根の項には真大根がある。日本国語大辞典の記述をそのままなぞれば、この場合の「ま」とは次のような接頭辞である。
《(4)動植物の名に付けて、その種の中での標準的なものである意を添える。「ま竹」「まいわし」「ま鴨」など》

 地カブと呼ぶ際の地とは地のもの、地方固有のものの意味としてのものだろう。カブもダイコンも諸国産物帳編纂時には、換金性の高いもの、自給外のものとして域外へも出されるものであった。出雲地方においても、出雲国産物帳にある平田蕪は藩主へ献上の記録があるということ(原典未確認)のほか、全国的に多くの記録にある。
たとえば、伊藤信博,2009「メディアとしての江戸文化における果蔬」。
《『享保・元文諸国物産帳』から野菜の生産高の平均を求めると、トップは大根で、12.1%、他の野菜の上位は、蕪は3.8%、里芋類、5.5%、茄子、4.7%、瓜類、5.3%となる》

 ちなみに重量比で出せば、2010年代でも野菜のトップではなかろうか(のちほど確認)。
 また、大根が縁起物として風呂敷の藍染めにも鶴亀などとならんで使われていたことは出雲民芸館でも見ているが、大根・蕪の民俗と歴史についてはもう少し知見を得ておかねばと思った次第。







2017年08月30日

怒る大人、叱られる子供、やってはいけない事

 友達の家で、囲炉裏をひょいとまたいだら、その瞬間足を払われて鉄拳をもらった。コラとも、何が悪いとも、一言もない、大人は怒っていた。
 いま60代(とおぼしき)男性が幼少の頃の記憶を語った言葉である。
 何をしたら怒られたのか。
 そんなことも、次々と時代の波に洗われて見えなくなっていく。
 大人が何も言わずに怒ってげんこつで子供をなぐる。かれこれ50年も前のことになるのだろう。そんなことが”自然”であったのは。
 なぜやってはいけないのか。大人に言葉はない。問答無用。
 社会が今より少しは豊かさをもっていた時代。
 懐かしさや良きものをそこに想定しているのではない。1960年代、昭和30年代後半から、日本の社会はいよいよ崩壊へ向かって走っていく頃なのだから。
 しかしながら、ここで囲炉裏とはなんであったのかを、子供と大人の関係性とともに探り描くことは、とてもおもしろいことだと、私は思うのだ。
 囲炉裏に限らない。「怒られた記憶」「何をしたら怒られたのか」ーー跡形もなく洗い流される前にスケッチしておきたい。
 宿題がまたひとつ。無理のきかなくなった身体を奮い立たせるにはよい火種だ。
 さて、出かけますか。