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2019年05月20日

ウツギ断想

夕闇の道もたどらじ賤の男が山田の岨にうつぎさくころ

卯の花のuと、utの呪法に同じものを見た折口信夫が、最初に論じたテキストは、鯉幟の先端に残存する髭籠に精霊の依代を見出そうとしたものだった。

utの呪法とは撃つこと。土を敲いて土の精霊を呼び醒す事。それは杖を大地にさし、根を生じさせる技とも通じるのだが、ウツギはそれがたやすかったがために、田や畑の境界木ともなり、山のそこここにその残影がある(ように、最近みえてきた。歳をとり向こう岸に近づいてきたからだろうか)。

五月の鯉幟に、正月の門松、七夕の竹、それら杖ー柱を土地にたてることは、神に認められた占有の印として、国旗から商店街の幟まで、今でも人の心と行動をしばりつづける古層の心理であろうが、はて、鯉幟が青空に泳ぐ姿もずいぶんと減ってしまったようで。


2019年01月18日

昨年から、タカキビを見かけるようになったけど…

 今年の秋であったか、三刀屋町内、国道沿いで、高黍畑を見つけたときには、驚いた。えー、こんなに身近なところで「まだ」栽培しているんだ〜と。3年ばかり前に聞いたり見たりした限り、奥出雲町では一箇所をのぞいて皆無だった。昔はつくって食べていたという話はよく聞いたことがあるのみ。だから、車窓越しにみえ、そばに近寄り、車から降りてしげしげとながめてみるまでは心躍った。
 あぁ、しかし、飼料用であることは明白。短稈である。アメリカで品種改良されたものだろう。その後、斐川町でも小規模ながら見かけたので、種とセットで栽培奨励もされているのだろう。ゆかよろこびであった。
 タカキビ、タカキビと私は呼んでいるが、モロコシという呼び名が一般的だろう。モロコシ(蜀黍、唐黍、学名 Sorghum bicolor)である。スーダン・エチオピアといった東アフリカが原産地であり、BC3,000年頃から栽培の証がある。私がぬかよろこびした種は、ソルゴーといえば畜産農家筋にはとおりがいいと思う。

 さて、なぜタカキビなのか。
 アワ、ヒエ、キビ、(昔の)トウモロコシ、雑穀を栽培していた記憶は遠い過去のものとして、ここ出雲地方では人の記憶や体験から消え去ろうとしている。奥出雲地方ではそうしたなかで最後まで栽培されていたのがタカキビではないかと、そう仮説づけていろいろと試行錯誤しているからにほかならない。焼畑でできたタカキビとモチ米で正月モチをついたりと。

 寺領のSさんは、小さいこどもの頃に食べたタカキビモチをもう一度食べてみたい、だから種をわけてもらえないかと、そうおっしゃられた。縁側で昔話しを聞いていたときのことだ。その後、Sさんの畑にタカキビの姿が見えた。どう召し上がられたのだろう。昨年はいつもみる畑では見かけなかった。おいしく食べられただろうか。
 三沢で2年前までタカキビを育てて、モチ米といっしょにしたタカキビ粉を産直市で販売しておられた方からは、在来の種をわけていただいた。その種を継いでいま、焼畑でつづけている。三沢のおばさん方にきいても、昔はつくっていたこともあったと、モチがおいしかったと。
 そして、3年ほどか栽培してみてわかるのが、タカキビは鳥に食われないということ。西東京では食われるという栽培者の言葉をウェブでみたのだから、まったく食べないわけでもないだろう。しかしながら、キビやアワは大群でやってきて食べ尽くさんばかりにやられるともいうのに比べれば皆無に等しい。そして、これが奥出雲地方で最後の雑穀栽培としてタカキビがつくられていた大きな理由ではないかと思う。
 

 昭和9年刊行の「三成村誌」(国会図書館デジタルライブラリーにあり)。 島根県仁多郡三成村尋常高等小学校で編纂されたものだ。そこにこういう一文がある。
《時代の推移と共に自給自足は急激に廃されて行き斯くして畑作物の種類は多様性から単一へと変化し古い時代の作物は桑に依って置き換えられて其の姿を没した》

 大正から昭和のはじめにかけて、産物調査や農村調査が全国的に行われている。出雲地方のそれらを概観するに、米食が「下等」においても常食となっていることがうかがわれる。昭和30年代の食生活を聞き書き調査した農文協のシリーズ、『聞き書き島根の食事』を他の都道府県のそれと比べてみても、雑穀食の割合が低いことがわかる。とくに東部出雲地方だとそうだ。
 そうした背景もあり、早くから雑穀が「没していった」地方である。生産という面だけをみれば。ただ、食は経済や効率だけに拠って立つものではない。なにかもったいない気がする。惜しい気がする。なにか物足りない気がする。そんな「気がする」思いが細々とでもつくり続ける家を残してはいたのだろう。
 が、そうした思いをくじくのは、鳥や獣に負けてしまうということだ。アワはかっこうの餌食だ。いっせいにある程度の面積でつくれば食べつくされることはない。が、細々とつくった場合、全滅に近いことになる。実際私も昨年も今年もそれを経験した。
 そうしたなかで、タカキビだけは、20稈ほどもあればそこそこに食えるし、被害にあわない。畑の隅でもかまわない。
 が、50年もたてば世代がふたつはとぶだろう。
「子どもの頃に食べた味をもう一度」と語ったおじいさんももう70代後半ではなかったか。
 いや、いいのだ。愛惜ではない。そうではないのだが、なかなか言葉をつづれない。
 ……というわけで、つづきはまた。

2018年12月31日

大晦日と年取り

 平成30年12月31日。久しぶりに午後からの晴れ日。年の瀬も佳境をむかえた大晦日である。昨日までのところで三所の家の荷物は片付け終えていたので、少しばかりは余裕をかませるかといえばそうではない。常日頃の片付けでさえままならぬのに、やれ大掃除だの、年賀状だの、できるはずもないではないか。とはいえ年賀の葉書ばかりは午前に切手貼りなどすませ午後には投函。おくればせにすぎたしめ飾りづくりは断念していたのであとは多少の片付けか。
 まあこれとて、掃除にかまけて本当に久しぶりの晴天の機会を逃してはならぬ。雲なき空がひろがるゆえに零下3度まで気温が下がりそうだというので、とっておいた里芋や菊芋を土中深く埋めて越冬の準備をはかることを優先させた次第。里芋なんてものは外気が0℃をきったらおしまい。元来が熱帯亜熱帯の植物ゆえ種芋としては死んでしまう。細胞が壊れて腐りゆくだけの存在となってしまっては惜しいばかりか来年の畑にその姿をおがむことすらできない。なおかつ今年わけてもらって育った三刀屋のとあるお家の里芋なのだから、だいじに代をつないでいきたいもの。越冬といっても大層な口上をあげるまでもなく、畑に穴を掘って埋めるだけのことだ。それがなかなか手をつけられずにここまできてしまった。伝え聞くに20センチ下に埋めるべしと。そうするためには30センチは掘らねばならぬ。ちゃちゃっと20分もあればとは思ったものの、着替えたり場所を整えたりしていたら、あわせて小一時間はかかってしまった。
 しかし、やれやれ、これで安心がひとつふえたわけで、これも年越しの一貫ではあろう。

 さて正月を迎える飾りのほう。しめ飾りはないが、裏の軒先に新たに吊るした脱穀残りの稲束が3つ。2日ほど前からスズメたちが再来していたが、今朝ほどの賑わいは秋が帰ってきたかと思うくらいだった。あぁ、こうして鳥の子らも満足して年を越せるのだろうと思えば、今年はこれが我が家のしめ飾りだと思うことにした。
 動物たちに年越しは関係あるのかといえば、あるのだといいたい。かつてほとんどの日本に住む人々、とりわけ農村に住む人たちはそう考えていた。動物だけではない、鍬だろうが枡だろうが、ありとあらゆるものが「ひとしく」年を迎え、年をとるのが正月だったのだ。
 妻が読んでいる入江相政の『味のぐるり』を拾い読んでいたら、正月料理と題したエッセイにこんな一節を見つけた。
《子供のころには「もういくつ寝るとお正月」と歌って、胸をはずませて、正月を待った。それだけに、大みそかの庭の暮色に、特別の感慨を持ったものだった。このごろは、年を取ったせいか、それとも正月には年を取らないことになったせいか、正月というものに、昔ほどには、新鮮な味を感じないようになった。》
そう、明治三十八年生まれの入江相政であれば、《正月に年を取る》のが当たり前であった時代から、そうでない時代への様変わりをひとつ身の中に感じておられたのだ。昭和四十一年生まれの私には経験し得ないことであって、その感覚を一滴ばかりでも味わえたら。
 一滴であればこの今の時代のどこかに残っているとしよう。その雫がどこからきたのか、たどっていくこともできるかもしれない。事件現場に残された血痕をたどるようなものか。なんちゃら鑑定と称せられているような手法よりはホームズを代名詞とするような推理を範としたい。
 が、今日のところは思いつきを散りばめつつ、攻め口をさぐってみる。

 年取りカブを縁起ものであってうまいものではないという平田の爺さんの話。これには大いに首肯するものだが、年取りが縁起のよいもの、祝うべきものだということと、それがカブだろうと、鍬だろうと、乞食だろうと、身分も性別も年齢も、人も動物も、植物もそのへんに転がる石ころとさえ、享受さるべきもの、分け与えるべきものとして、ひろく認識されていたことは、おそらく江戸時代になった思想のひとつの形として、とらえておくべきだと思う。
 そう。平田の爺さんの音声を起こしていない。宿題として手帳に記しておく。春には再訪したい。
 このブログ内を「年取り」で検索すると、カブと大根についていくつかがヒットする。それらの中で、佐白の赤名さんが話した年取りのことをすっかり忘れていたので、ここに一節を再録して締めとする。
《●年取りカブ(正月カブ)
・聞かんなあ(何かひっかかる感じ)
・年取りという言葉は、年に3回だか4回だか使っていた。節分の前の日、旧正月の前の日、大晦日の日か。》
 「クマゴ、地カブ、キビ」

 年取りというコトバを使っていたのは、節目の前日。まさに今日、大晦日もそうであって、元旦の日ではないということに、まだ考えていないポイントがあると思う。しばらく考えてみる。

【参考】
◉日本国語大辞典(小学館)より
† ねずみの年取り:正月に鼠にも年取りをさせるといって、餠などを与える習俗。長野県など各地に現存。
† なべかま の 年取:小正月に炊事具や農具をみがいて並べ、餠などを供える行事。東北地方に多い。道具の年取り。
† どうぐ の 年取り:小正月などに、農具などを洗って、餠や供物を上げてまつる年中行事。
† 大根の年取り:(新潟・長野で)10月10日の十日夜(とおかんや)のこと。この日に大根畑に入ってはいけないという。大根の年越し。大根の年夜(としや)。
† おんなの年取→方言:(1)正月一四日。《おんなの年取》福島県会津《おんなのとしこし》宮城県仙台市 (2)一月一五日に女が一日休養すること。《おんなの年取》宮城県栗原郡
† 年取物:年の暮れに用意する正月の飾物や必要品。正月を迎えるのに必要な品物や費用。
† 年取餠:正月に吉例として食べる餠。*俳諧・七番日記‐文化11(1814)一月「藪陰やとしとり餠も一人づき」
→方言:正月のために、暮れの二八、九日ごろにこしらえる餠。《としとりもち》和歌山県日高郡
† 年取豆:節分に蒔く豆。自分の年齢の数だけ拾って食べるのでいう。としのまめ。
年取米正月を迎えるために用意する米。
† としとり‐ひけぎ 【年取火埋木】 「ひけぎ」は火埋(い)け木の意)→大晦日から正月にかけて、火を絶やさないために、囲炉裏にくべる太い薪を、福岡県・熊本県などでいう。
† としとりの飯(めし):大晦日の正式食事。多くの地方で大晦日の晩飯を年取りの祝膳にしている。
† 年取魚:年取りの行事の食膳に白飯とともに吉例として必ず付ける魚。塩鰤、塩鮭などを使う。
 

2018年12月29日

三年仕込み、孟宗竹の漬け樽

 三所の家を片づけている。年内にはきれいにして鍵を返すのだ。昨日からの雪で気になっていた山側の庇屋根の応急処置だが、この程度の雪なら問題ないということは確認できた。大雪でも積もれば落ちるかもしらんが、素人大工仕事を重ねるよりは気になったら様子を見にくればいいと思い切ることにした。
 それにしても雪がここまで積もるとは。30センチほどはある。四駆の軽トラでも下の写真の少し手前まできてとまった。雪をかきさえすれば家の前までつけれなくはないが、雪をあまくみてはいけない。土はぐずぐず、坂ですべって川にドボンあるいは横転という図がありえるのできっぱり断念。今日で終えるつもりだったことを、明日明後日と2回にわけてやればよい。



 今日は部屋の掃き掃除を少々と、一番重い荷物である竹を漬け込んだ樽の整理を終えた。竹は平成27(2015)年の6月に漬けたもので全部で9樽ほどか。孟宗竹が7樽、真竹が2樽。竹林においた4樽は雪の中、運ぶかどうか迷ったが、水をバケツに汲み出しなどして片付けた。冬だからこそできること。夏にやったら虫がついてしまうだろう。空気にふれることは避けたいが、昼でも道路の温度計は0℃をさしており、水を汲み出しても、蓋をしておけば問題ない。移動する場所は某所へ4つ、某所へ5つといったところか。水がそばにないと困る。春になったら洗い出して日干し、繊維の束になってしまえば、どこにでもおいておける。



 さて、驚いたのは、意外にもきれいだったこと。竹の中にいた発酵分解を行う微生物たちはうまく仕事をすると、3〜5ヶ月ほどで水を赤色に染める。3回ほどの春夏秋冬をくぐっているわけで、さまざまな腐朽菌も入り込んで、異臭を放っていることも想像されて気が重かったのだが、あれ、なんだというほどの拍子抜け。濁りの多寡はあるが、概ね黒や茶にはなっていない。水の中に浸かっており空気にふれていないことが大きいのかもしれない。
 黒ずみがあったのは下の写真のように横においたのではなく縦においた樽のもの。水の蒸発によって竹が水面から出てしまっていたのだ。竹の切口部分が黒ずんでいたし、他のものより臭くて濁っていた。他の樽ではワインかと思う透明な色のものもあったのだが、こいつはしいて言えば葡萄ネクター。
 また、3年仕込みともいえるものにもかかわらず、半年経過した段階から竹の状態すなわち繊維束のほぐれ具合は変わっていないようだ。1年半前くらいにいくつかの樽は様子をみたり、水を追加したりしていたが、それ以降はまったく見ていない。ものによっては3年開かずにいたものもある。どれがどれだかは記憶にないが。
 さて、引っ越しがおわれば、春が来る前にもうひとつふたつみっつと準備をすすめていく。ほんとやることは盛りだくさんだが、漉いた竹紙で本をつくるという、3年前にはそこまで思ってもみなかったことが近づいてきた。零下の吹雪さえもが苦にはならないほどに愉快になるわけだ。


注記:ワインのような液体の中にあったのを水洗してこの状態。気温0℃で匂わないせいか美味しそうですらある。

2018年08月03日

ウバユリの花

ウバユリの花です。これは今年ずっと観察していた斜面で撮影したもの(7月23日)。
P1280108
 山にユリの根を掘りに行き崖から落ちて…というニュースをもう聞かなくなりましたね。かつて「食糧」のひとつであったことは確からしく、いまよりはるかにたくさんのユリが山中で咲き乱れている姿を幻のように記憶しているお年寄りの話が聞けるのもあと何年か。
 が、その幻を再び現実にしてみたくなる、こともあるのです。
 そう、ことしユバユリの花が焼畑4年目の場所に一株咲こうとしていました。鱗茎が生き残っていたのでしょうか。ケモノについてどこかからやってきたのでしょうか。
ちょうど日陰の斜面もあることですし、ふやしてみたい誘惑にかられます。
 昭和53年発行の宮本巌『摘み草手帖』(山陰中央新報ふるさと文庫)には、ユリを食用としたいくつかの記録があっておもしろくおすすめです。ウバユリからつくるカタクリ粉の製法もあり。ユリは数少ない日本原産の「食用」植物なのだから、話には事欠かないようでいてそうでもないと最近知りました。
 さて、そんなことをも念頭におきつつ、明日は火入れ準備の活動をダムの見える牧場でやります。猛暑ですので、午前のうちにささっと。
汗をかいて昼には極上のビールを飲みたい方も、そうでないかたも、お気軽にぜひ、お越しください。
竹の焼畑春夏〜活動連絡頁

2018年03月30日

サクラの春、ウバユリの春

 木次の土手のソメイヨシノは今日明日で満開になるだろうか。花見に訪れる車が臨時の駐車場にも並んでいるのがみえた。平年よりも数日早い開花のようだが、確かなことはようわからん。
 古来、春の開花のタイミングというのは農事にとって重要なサインであった。指標となる花の木がいくつかはあったものだとはいくつかの民俗学の書に記されてはいるものの、個別具体的なことを耳目にしたことはない。これからもないのか、あるのか、あったらいいなとは願っている。あるいは自らがつくれればそれもうれしい。
 種を植える、苗をおろす、土を起こす、水を田に入れる、それらひとつひとつの行為は、早すぎてもならず、遅すぎてもならず、しかもその適期は短い。天候にも恵まれ、災難にもあわず、よき稔りを迎えるための、”勝負”とでもいえようか。
 そう思ってみれば、春はチューニング、音あわせの時間なのだ。舞台にはさまざまな草木がそれぞれの音を奏でるためにあがってくる。サクラもその中のひとつだが、ツクシ、ホトケノザ、ワラビ、フキノトウ、タケノコ、スミレ、……それぞれが土の中から、木の芽から、舞台にあがってくるのだ。はじけでるように。
 Spring has come!

 昨日は、この目で見ることのなかった演奏者のひとりを豆腐屋さんからの帰路、峠の崖地でみつけた。
 ウバユリである。

DSC_0039B

 その根は澱粉質を含み、食糧のひとつとして重要なものであった「らしい」。
 日本国土大辞典にはこうある。
《夏、茎を出し、その頂に緑白色で長さ七〜一〇センチメートルにもなる漏斗形の花が横向きに咲く。地下に卵形の鱗茎(りんけい)があり、良質のでんぷんがとれる。葉は楕円状心臓形で先がとがり、長さ約二〇センチメートル。若葉は食用となる。かばゆり。ねずみゆり。学名はCardiocrinum cordatum》

 
 若葉、すなわち、今土から出ているこの鮮やかな葉だが、アクが強いものの、食べられるというのだから食べてもよいのだが、なにせ量が少ない。見守りつつ、来年増えるようだったらそのぶんをとってみたい。山の谷一面にこの花が咲く景観をみることができたのはいつの時代までであったろうか。古名をがはゆり(がわゆり)と呼ぶと同じ辞典には記されている。樹陰で湿度を要する植物であるから、ギボウシ=ゴロビナ=ウルイともその生存条件は近い。
 ともあれ、これから、ゆっくりみていこう。

2018年03月29日

坊主と風は10時から出る

 3月27日、三瓶西の原の火入れにボランティアとして参加してきました。受付も含めた総員は約130名ほどでした。報道では延焼したこととか、逃げ遅れた消防車が1台焼け死んだことがとりあげられていましたね。「消防車が焼けちゃった」というのはそりゃニュースにはなる。犬が人をかんでもニュースにもならないが、人が犬をかんだらニュースになるという理屈において、ではありますが。
 なぜそうなったのかということについて、どこぞの新聞は「強風で」と書いてました。が、強風ではありませんで、「強風ということにした」のでありましょう。
 これは、強風などの自然要因であれば「不可抗力」として人的責任を問われないがためであります。
 2010年10月、静岡県御殿場市の陸上自衛隊東富士演習場での野焼き中に、男性3人が焼死した事件では、一審で責任者2名が有罪判決を受けていますが、安全対策は万全にとっていたが、「強風による不可抗力だった」というのが、被告の言い分でありました。
 いや、三瓶の一件でもだれかに責任があるということを言いたいのではありませんよ。むしろその逆。草原自然で起こることは複雑であって、個別の要因に絞り込むのは危ういことです。リスト化してチェックしていけばつぶしきれるものではないということです。

 野焼き、山焼きで事故が起こるたびに、対策、対策と叫ばれ、マニュアルが整備されたり、より多くの人員や予算や時間が割かれるようになります。
 私、これ、間違っているのでは?と考えるのです。このたび参加した三瓶の火入れでその思いをさらに深くしました。回を追って述べていきたいと思います。

 今回は、ほんのさわりとして標題のコトバがあるのです。風の動きをどうとらえるか、という話のきっかけにすぎませんで、さほど深いコトバではありません。

 火入れに際して、強風のおそれがあれば、それは当日であっても中止です。当然のこと。突発的な強風があるではないかといわれるかもしれません。それあくまで突発的で長い時間にわたるものではござらん。そもそも火入れをすれば、熱風によって風の向きや強さは複雑に変化します。

 坊主も風も10時から動くというのは、太陽熱による温度の差が生じることによる風の発生を意味しています。風は目に見えませんが、大きな動きは雲で見ることができます。ただ、火入れに際しての風はそれ以上に向きが重要なのであります。

 山野に火を入れる際の基本は、風下から点火するということ。ゆっくり火を動かすことと、しっかり焼くことがその効果です。
 しっかり焼く。これ大変重要で、灰になるまで焼けていれば、それ以上焼けることはありません。くすぶった炭が残っているとそこからまた再発火してしまうので、いかんのです。また、火入れの効果として一定温度で長く焼くことで得られることもいろいろあるのでね。

 野焼きの場合、次に重要なのが、「迎え火を打つ」ということ。風向が一定であればことは簡単で、風下から点火したあと、両脇にも火を入れ、かまぼこ状に展開した火が3分の2〜4分の3ほども進んだところで、風上から点火するというのが理想。
 そして、理想どおりいくことなどほぼありません。

 さて、どうするか。ここで安全第一を優先すると、まったく安全第一にならないという矛盾が生じることとなります。
 どういうことは、次回以降にて。

 (つづく)

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2018年02月04日

「山をする」牛

◉「山をする」
「放牧することをわが地方では『山をする』といいました」
 佐藤忠吉は『自主独立農民という仕事』(森まゆみ著・バジリコ刊)のなかでそういう。昔というのがいつのころからなのかはわからない。皇国地誌に残る牛馬の頭数や昭和30年代まではいくばくかの古態を残していたであろう民俗の記録などから、少なくとも江戸時代中期からの姿であるならば大変おぼろなものではあるが想定はできる。つい60年ほど前まで、「山をする」という言葉は生きていた。
 また区域を出雲にとどまらず同類の地勢や集落形態、経済圏ともいえる鳥取県・岡山県・広島県の中国山地地帯にひろげれば、奈良時代からつづく牛馬放牧地帯であることは確かである。日本における牛馬を飼養した起源については考古学的知見がわずかにあるばかりであり、定説らしきものも不確かなようである。
 そもそもが、これ、牛馬放牧に対する国民的「無関心」に起因するようだ。稲作の起源、あるいは縄文・弥生の土器などわかりやすい形のみえるものについては、その時代を証するごく一部の断片であるのにもかかわらず、その断片から全体像をむやみに描こうとするがゆえのゆがみがあるように、このごろ思えてならない。
 同じ轍をふむことをおそれつつ、わからなくなった「牛をする」ことについて、想起をめぐらしてみよう。

 牛を山に放つことは、私たちがイメージする放牧とは違うなにかであったことは、言葉そのものからもうかがえる。
 私たちの頭は、牛を飼うことを、目的別にわけて分類して事足りることに、あまりにもなれすぎてしまった。
 牛乳(生乳)生産のための乳牛。肉にするための肉牛。このふたつのいずれかであって、古来日本の和牛は食用ではなく乳をしぼることもなかったがゆえに「役牛」と一括されていることにもよくあらわれている。
 死んだ牛はすべてではないにせよ、肉として食されていた。建前として禁じられていたがために記録に残っていないだけである。また乳を飲むこともあったらしいが、基本は小牛のためのものであった。あたりまえといえばあたりまえだが。
 そして、つい数十年あるいは現在でも牛を飼う家々のその「目的」を私たちは忘れている。いわゆるペットである。とりわけ江戸時代後期から昭和の戦後まもなくのころまでにおいて、ここ奥出雲をはじめ、鳥取、岡山、広島の山間部において牛の放牧頭数は全国屈指のものであった。しかもどの農家も一頭から数頭までの小規模でありながら、共有山野での放牧や平地への貸出(鞍下牛とこの地方では呼んでいた)といったリースもあれば、権利のやりとり、保険・金融機能との融合、市場取引などの重層的利用もからんだ、文字通りの資本財(cattle〜capital)であったのだが。。。
 だが。個々の家々の動機は、使役とともに糞の堆肥利用という合理的目的はあったにしても、女性や子供の「愛玩動物」としての価値と効果を低く見積もりすぎてはいなかったろうか。

 民俗資料ではない、老人倶楽部がまとめた「言い伝え」のような文集のなかにあらわれる、牛を飼っていたときの綴りには、牛といかに情を交わしていたか、その気持がにじみでているのだ。鞍下に出すときには、からだをきれいにふき、藁をあんだ沓をはかせ、前の日からごちそう(おからや大豆をしぼった呉汁)をとらせ、見えなくなるまで手をふって見送る。
 帰ってきたら必ず痩せていてかわいそうだったというその心はやはりこの国ならではのものであったことだろう。
 少なくとも多頭飼育をし、肉を食べる国の牛飼いの話を伝えきくに、情が移らないような飼い方をするのだという。裏をかえせば、日本においては情が移ってもよいとしていたしその利点のほうをたかくみていた可能性は高い。
 寡頭飼育であるがゆえの必然でもあろうが、「山をする」といったときのような、他のあり方とのインタラクションのよさがあったのではなかろうか。具体的にはまだみえない。

 

2018年01月24日

物乞いと神人と森人〜雑考:わからないものへ向かう仕方

 私たちはいつの頃からか、日々の暮らしのなかにあった、繊細な思考を失った。それがどんなものであったかさえ、想像はおろか妄想すらできはしない。これは悲嘆ではない。希望をもたないところから見える光であるならば、あるいは真実のかけらなりとも、落としてくれるかもしれない。
 私は何を繊細な思考と呼ぼうとしているのか。どのような思考が繊細さと結びつくのか。浮かんでは消えていくイメージの連鎖に頼っている思考をそう呼ぶだけではないのか……。

 繊細な感受性、ではない、繊細な思考。
 たとえば、次の一文をよんだとき、あぁ、これは感性というよりは思考だ、と、思った。

《そして実践家であった。……(中略)……(乳牛の)搾乳が終わって夜遅く二時や三時になっても、車をとばして村の病人の相談にのる、悩む人の相談にのる。しかも生まれたときの姿のまま、自分を自分以上に大きく見せようともしない、小さくも見せない。……(中略)……大坂君の「牛が落ちつかないのは化学肥料を使う田の畦の草を食べているのが原因ではないですか」という言葉は大変なヒントになりました。硝酸塩中毒になっているというわけです。それほど彼は感性のよい、感受性のつよい男で、一九六五(昭和四十)年、隣りの農家の農薬によって汚染された田の畦の草を牛に与えたところ、瞳孔の異常、視野狭窄が起こることに気がついて私に教えてくれた。》
(森まゆみ,2007『自主独立農民という仕事』)

 まとまらない迷想のなかで、藁をつかむような感はあるが、こう言ってみる。
 「わからないもの」を考え、とらえようとするときに、思考は繊細なものとなる。
 ここから、はじめてみようと思い立った。
 先の大坂君は、繊細というより科学的なのでは? そう思う人もいるだろうし、無理もないのだが、それは科学の本質に対する誤解に起因する。科学の思考は繊細なものなのだ。

 記事カテゴリの中で、「ホトホト・カラサデ」に入れている一連のもののなかに、それはたちあらわれる。

 あるいは、「岩伏の谷の森神」でふれようとしているものに、それはある。
 荒神も石神も森神も、果たしてなんであったかについて、知ることは不可能であると、すでに何十年も前に柳田國男が記している。

 私たちの時代には、「わかる」ことが当たり前となった世界である。
 わからないことも、わかる人から教えてもらえれば、わかったことになってしまう時代。「わかる」こと、それは人であれウェブであれ、情報のデータベースとして存在し、その場所から「ダウンロード=複写」してくることでしかない。

 そのような知とは異なる相貌をもっているのが、凋落と落日を嘆かれている日本の民俗学である。
 河出文庫の宮本常一『生きていく民俗』。その解説を「無数の風景」と題して寄せている鶴見太郎は、こうときはじめる。
《民俗学とはすぐれて経験的な学問である。民俗事象が無数の人間によって積み重ねられた経験の堆積である一方、民俗学に従事する側にもまた、旅先その他における無数の出会いがある。》


 さて、本題はここからなのだが、もはや夜も明け方に向かいはじめた。睡魔にひとまずは降伏するとして、ここで、いくつかの断片をあわてて記し、自らの道しるべとしておく。

・経験的であるということは、国家的なものに抗する知を志向する。
・日本の乞食の源流に聖性あり。
・仏教のサンガ組織が物乞いによる組織運営を選び取ったことの後世的意義
・乞食する僧も職人も、山を拠点にした。そういう山とはなんであったのか

 そして、もうひとつ、宮本常一『生きていく民俗』からの引用をもって、この記事のタイトルとの関連を示しておこう。

p.40「物乞いと商売」〜
《(白山では)山地を焼いて焼畑耕作を行なっても、そこから得られる食糧だけでは半年食いつなぐのが精いっぱいで、食物がなくなると地内子たちは椀を持って牛首まで出かけたのである。牛首の親方たちの家ではヒエの粥をたいて飢えた農民にふるまった。しかし山に仕事のある間はよいが、雪が降って仕事ができなくなると、この人たちはいよいよ窮して、山を下って平野地方に出て物乞に歩きはじめる。……(中略)……雇われて働けばよさそうなものであるが、そうする者は少なく、ただ家々の門口にたって物を乞うたのは、もともとそのまえに白山の御師または強力として働いていたころの名残であったとも考えられる。そのころは白山信仰者の家をお札配りなどして歩いて金や食物を得ていたに違いない。
……(中略)……
 山奥で生活をたてることはまったく容易ではなかった。山中の者が里へ乞食に出る風習は実は白山山麓ばかりではなかった。中国地方の山中からも里の方へ乞食に出る風習があった。
……(中略)……
 (中国地方ではたたら製鉄に要する膨大な炭焼き需要があったことに言及したうえで)
 米をつくるだけではとうてい生活のたてようのない山中でも、こうして炭焼のもうけがあるということによって、山中にも人が住んだ。しかし炭焼で得られる金もたいしたことはないから、雪が深くて炭焼もろくにできないころには箕や簔をつくり、また篩などもつくって、春さきにになると里の村々へ売りに出たのである。なかなか器用につくってあって、里の人には喜ばれたが、だからといって、毎年買ってばかりはいられない。しかし、売りにくれば義理にでも買わなければならないとされた。また売る方も、相手はきっと買ってくれるものと信じていた。今日の商法からすると不合理なようであるが、山人は里人がその製品を買ってくれなければ生活をたてることができないので、ただ品物を買ってもらうというのでなく、助けてもらうような心持があった。だから買うことを拒否するようなことがあると、放火されたり、物をぬすまれたりする場合すらあった。》

(つづく)

2018年01月01日

摘み草の記憶〜#001

 野山のものを採取し食す。
 この行為を促すマインドセット※1は、食文化・食習慣の変容にさらされてなお、その原基のようなものを保持するのではないか。そう推するに足るいくつかの出来事があったので、まとまりなくも綴ってみる。

 かめんがら(cf.2016年のガマズミ)について、子どもの頃にはよく山で取って食べていたと、いま60代の方々から聞くことがあった。ここでいう「子どもの頃」という時代を、現在65歳の人が10歳だった頃とすると、昭和38年(1963年)のことだ。
 昭和38年といえば、東京オリンピックの前年である。農村には牛に代わり、トラクターをはじめとした機械が入り、トラック輸送が食品流通をかえ、日清のチキンラーメンをはじめとした食のインスタント化が進行していた。「鉄腕アトム」の放映がはじまった年でもある。ちなみに当時にあっては原子力は未来の夢のエネルギーと見られており、資本主義を打倒し民衆を解放するものとして共産主義が推するものでもあった。
 この時代、家庭で味噌をつくることが「恥ずかしい」「遅れた」ことだと見られる地域もあった。味噌や醤油は「買う」ことが進歩的だと。
 小さな経済循環を解体し大きな経済循環のなかで、社会を再形成することが「是」とされた時代である。「こんにちは赤ちゃん」がヒットしていた。ベビーブームの谷間の世代でもある。

日本の出生数と出生率1900-2010.jpg
By Mc681 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link



この項、つづく(のちに加筆)。



●2017年12月の年の瀬に、とある40代女性の会話の渦にちょっと驚いたことについて。

「今の子達でも、〇〇の実をとって食べたりするから、びっくりしたのよ。いつ覚えたんだろうと」
「へえ。そうなんだ。私たちが子どものころは、△△はよくとって食べたよね〜」
「あぁ、□□は吸うと美味しかったわ〜」

 そうした行動や嗜好が発動するのは10歳前後であって、長じるに従って失せていく。ただ、いずれは消えてなくなるかもしれない。なにより、消そう消そうとする力は強く作用しているのだから。
 ここで注目したいのは3つのことである。
1.民俗文化の断片が子どもたちの「遊び」の中に残存するということ……柳田國男が「小さき者の声」で言及していたように、それらは大きな変形を起こしながらも残る。柳田はそれを「大人の行為を真似する」ということに因を求めているが、《模倣》ではない何かがそうさせるのだと考えると、ひとつの理がそこに見いだせる。
2.採集草木の利用が社会の中で失せても、子どもの「おやつ」「遊び」の中に残存するということ……よくわからない。あえて予断をはっきりさせることで、自らの認知に注意を促そう。たとえばガマズミの実を子どもが取って食べるのは、おやつとしてであって、大型の果樹の品種導入などによって食用としての利用が駆逐されていった後でも残るのだと。
3.子どもは大人よりはるかに非合理の世界に生きているということ
子どもは「感覚の世界(養老孟司)」で生きている。子どもの存在そのものの価値を近代社会は否定しつづける。老人の存在も同様。

 こうしたことを念頭におきながら、いま40代の母にあたる人たちに残る「摘み草」の記憶をたどってみようと思う。時代でいえば、今から30年〜40年ほど前、1970年〜80年代である。

◉島根県雲南市在住・Aさんの言
 島根県川本町で生まれ育ち、小学生の頃に同県頓原へ移住。
 母は昭和20年生まれ。道の草をとって、こうやって食べるのだと教えられたり、むかごの取り方などを教わった。が、本人は山菜とりなどにあまり興味はない。

〇母のこと
・母は9人兄弟の下から2番目。上の人たちが働きに出るため、10歳頃からご飯をつくる炊事の係をしていた。まわりの人たちから、食べるものについていろんなことを教わった。
・山菜採りが好きだった。春が来るとうれしかったようだ。春になると、車にのせて連れて行ってといわれ、よく出かけた。車を運転していると、ずーっと外を見ていて、「あ、とめて」と言っては、草をとってきていた。
〇教えてもらった草のこと
・道ばたにあったイネ科っぽい、シューっとした葉がある。茎を折るようにしてしゅーっと引き抜くと白い綿みたいなものが出てきて、食べられるということを教えられた。
・味は覚えていない。おいしいとは思わなかったが、まずいとも思わなかった。
〇注:上記の草はおそらくチガヤであろう



※1 私たちの脳と心はいまだに、定住農耕よりも、狩猟採集生活への適応をいまだ強く保持している。俗説のようにきこえるが、進化心理学の定見でもある(らしい)。