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2018年02月01日

生ける神としての荒神

神は死んだ
そう叫ぶものがいた
私たちはそれをいくどか耳にした
二千年前に
五百年前に
百五十年前に
つい五十年ほど前に

神は死んだ
そうささやくものがいた
私たちはそのささやきを耳にする
森神をまつる大きな木の下で
稲穂たなびく平原のただなかで
道をつくり川の流れを変えるその橋のたもとで

ふたりの男がいた
ひとりはこういった
あたりまえのことではないか
死んだのでなければ、もともとなかったのだ
神がいるのならば、神がいたというのならば、教えてほしい

もうひとりの男はこういった
なにをばかなことをいうのか
神は死んだのではない、立ち去ったのだ
もう一度神の声を聞きたい
神が今どこにいるのか教えてほしい


 職場のお茶の時間に、こんな話を聞いた。
「立原といえば、道の真ん中に大きな木があるよね」
「あぁ、あれ。道がふたつにわかれているところ。夏にはよく木陰で休んでいるよ。風も通って気持いいんだろうね。ベンチもあって。小さな憩いの場にもなっているけど、不思議だよね」
「あぁ。あの木はね。切るとたたるといって、誰もさわれないんよ。地元の人も業者の人も。だから、役場の人も枝を切るのを頼むのは、遠くから呼んできて切るらしいよ」
「それ聞いたことある。あらがみさん?」
「昔、道路の計画で切ろうとしたら、その人が亡くなって。それ以来だれも切らないしどかせないから、道の真ん中にあるままなんだって」
「子どもが、頭ぶつけたり、怪我したりが続くと、まさかあんたあの木にいたずらしたりしとらんかねって、いまでも言うよ〜」
「お祭りの日も決まってるって聞いたよ。いつも掃除してきれいにしておられるし。〇〇と〇〇を供えるんだっけ」

 まさか、である。
 職場をお昼であがり、いてもたってもいられず、場所を確かめ、カメラを手にして行こうとしたそのとき、急にみぞれが降り始めた。はやる気持をおさえる。今日はもう少し周辺をおさえてみよう。地図を年代順に丹念にみなおし、古地図のデータベースから古道との照合をはかってみたり。立原は通ったことすらない地域である。旧加茂町と旧大東町の町境でもある。

 立原(たちばら)は応仁の乱の頃には、所領として文書に表れている。立原氏に由来すると地名辞典の類にあるが、たちばらの地名が先行し、在地の武力団の長が名乗ったものだろうと、推する。
 件の荒神が宿る木は、グーグルでみるとマテバシイのようにみえるが、タブノキにも見えなくはない。常緑広葉樹であることは確かで、1970年代の航空写真をみるといまよりも少し小さな樹影がみえる。それほど古い木ではなさそうだ。
 そして、この木は立原の地とは川をはさんで東岸にある。旧養賀村との境界域である。
 川を渡す橋のたもとでもある。
 橋は昭和9年の地図にはみえる。
 江戸時代にはどうであったかというと、板橋のようなものはあったかもしれない。が、宝永7年・元禄の出雲国絵図からはうかがいしれない。
 南に里山、北に水田が開ける地。
 奈良時代から一帯の開拓がすすんでいたことは、郡家の推定地である仁和寺は北に1キロほどいったところからもうかがいしれる。

 あぁ、もう少し調べてからと思いつつ、まずは記しておくのみ。
 そう。
 木の精は苦しんでいるのかもしれない。
 荒神の木は弱っているようにみえる。そうなる要因はいくつも推することができる。いずれ枯れてしまかもしれないし、そうなるだろう。近い将来、その木を切らねばならないときがくる。その前に、そこに宿る木の精を山に返してあげられたらいいと思ったのだ。

 そう。この荒神の木は養賀村そのものでもあった小さな森の西北の端にある。養賀の鎮守の神※は、千年以上前に、神殺しが在地を蹂躙していった出雲の地にあっては珍しい神である。東国の地では多く見ることができるその神の名はククノチ。
 まさか、出雲の雲南でククノチの名を見つけるとは思ってもみなかった。

 久久能智神:くくのちのかみ 
 句句廼馳神:くくのちのかみ
 屋船久久廼遅命:やふねのくくのちのみこと
 屋船神:やふねのかみ

 くくは茎。まっすぐにたつものの意であり、天と地を結ぶものとしての世界樹信仰へとつながる、神というよりは精霊と呼ぶべきものだろうが、古事記以前にその根をもつ、古い古い神であることは否定しがたい。
 記紀神学からしても興味深い存在で、古事記では、風の神の次、山や野の神の前に生まれた神であるが、書記ではその関係が変わっている。自然哲学・生態学の観点からも、少しばかり掘り下げてみたい。

 屋船、すなわち御殿の神とされるのは、木の精霊である久久能智神と、野の神である草野比売神を総称して屋船神としたことによる。(この呼称の場合の「智」は男神。「比売」の女神と対するためのご都合だけは言い切れないものがある)。

※県神社庁への届け出には、祭神は、和加男賀姫命(わかおがひめのみこと)のみあり、この神の名はない。下記由緒に残るものと、雲陽誌にあるものなどから「角川地名辞典」が採ったものだろう。いや、消えゆくものは丹念にみていかねばならぬ。
《創立年代不詳、抑々当社は和加男賀姫命、相殿神屋船句句廼智命、屋船豊受姫命、合祭神(摂神社)大己貴命之儀従来村社境内に有之侯得共格別の社祭神に付明治八年十月二十七日氏子一統協議之上村社へ合祭仕候。》


2018年01月20日

岩伏の谷の森神〜#1

 森と畑と牛と。
 森、畑、牛は三位一体ともいえる関係にあるのだが、この活動を森から考えるための断片を今日はここに記す。
 森神はいまどこにいるのか。その答えを求める試行でもある。

◉2017年の8月20日、小さな祭りをはじめた。「岩伏の谷の小さな夏祭り」
 いまや、祭りと名のついた祭りとは思えないもののなかに、私たちの世界はどっぷりつかっている。「オリジナルの不在こそが大量の模倣者を生み出す」。この小さな祭りとて世の流れとまなじりを決して対峙しているわけではない。
 しかしながら、何が祭りなのか。
 この岩伏の谷で、人がまつってきたもの、その消失を確かめることで、来るべき祭りを期したい。

◉祭りには始まりがあって終わりがある。日常を区切る非日常であり、常態であれば、それは祭りとは呼ばない。「〇〇祭り開催中」という幟がつねにあがっている店舗のそれを祭りと呼ぶことは、認知する側にとっては極めて難しくものだ。

◉森の木は倒れることに意義がある。倒木がなければ、若い木は育たない。天然林というものはそうなっている。倒れた木は微生物が分解して土となり、他の生物がそこに生きる糧となる。
 この話を最初に聞いたのは、ソシオ・メディア論の水越伸からであった。著書『メディア・ビオトープ』は、いまこそ再読してみたい。

◉現代がかかえる「問題」の核心には、倒木の価値を位置づけられないがゆえのもどかしさがある。


◉岩伏周辺に残る信仰には山伏のような流浪の民間宗教者の影響があったようだ。
・岩伏山を女人禁制としたこと。
・牛馬信仰を荒神信仰と結びつけたこと。
・大山信仰、縄久利信仰、ふたつが相争った形跡があること。
・岩伏山と素戔嗚尊の来地伝承は、出雲中世神話の影響を受けたものと考えるのが自然であること。
・隣地にある妙見信仰との関連は不明だが、妙見信仰がより古層に位置するものではなかろうか。

◉ダム建設による集落移転の際、かつての山道のあとに合祀されてものと聞く碑。脇にある地蔵尊らしきものは不明。

20150530-P110060902

◉碑のある場所から、ダムの見える牧場をのぞむ。

20150530-P1100605

◉塚神をまつる痕跡があることはこの地にあっては珍しい(これまで聞かない)。この三神について聞き取りをしておきたい。

◉三宝荒神は、ここでは地主神としての性格を色濃く有するものであったろうと推測する。
地主神。とこ=大地の主である。
・とこぬしのかみ
・じぬしがみ
・じしゅのかみ
もののけ姫のおっとこぬしは、じつは乙事主ではなく、おおとこぬしのかみ=大地主神なのだ。宮崎駿がまちがえたにすぎない。

◉この地から数キロ西にある佐白の志学荒神社は、三宝荒神を親神とする。

「今日の雑読断片」に、柳田國男の「山民の生活」に三宝荒神を「山神と同じく山野の神」と言っている箇所を引用しており、ここに再掲。

全国を通じて最も単純でかつ最も由緒を知りにくいのは「荒神」「サイノ神」「山ノ神」であります。仏教でも神道でも相応に理由を付けて我領分へ引き入れようとはしますが。いまだ十分なる根拠はありませぬ。
「山ノ神」は今日でも猟夫が猟に入り木樵が伐木に入り石工が新たに山道を開く際に必ずまず祀る神で、村によってはその持山内に数十の祠がある。思うにこれは山口の神であって、祖先の日本人が自分の占有する土地といまだに占有しぬ土地との境に立てて祀ったものでありましょう。

荒神も三宝荒神などといって今は竈の神のように思われておりますが、地方では山神と同じく山野の神で。神道の盛んな出雲国などにも村々にたくさんあります。

(大塚 英志・編『柳田国男山人論集成』(2013,角川ソフィア文庫)p.88〜)

◉塚神も意味あるようで不明なり
柳田國男「石神問答」より
《姥神もまた山中の神なり
 姥神の名には三種の起源混同せるがごとし
 山姥は伝説的の畏怖なり
 巫女居住の痕跡諸国の山中にあり
 姥神はすなわちオボ神に非ざるか
姥石という石多し》


「巫女居住の痕跡諸国の山中にあり」について。
岩伏山の麓にあった比丘尼の寺というのは、比丘尼というよりも巫女ではなかったか。

2017年11月29日

政治思想としての「出雲」〜雑考#001

 まとまりがつかないまま、数年が過ぎ、忘却の波に洗われることで、跡形もなく消え失せるよりは、意味のない小石くらいのものを置いておくようなつもりで、書き記してみようと思う。

●PI-z001
テーゼ:「出雲」は神話の国ではない。
1. 記紀の出雲神話は出雲という地理的実在とは無関係なものとして読まねばならない。出雲という土地を牽強付会することで、記紀を「読む」ことが大きく損なわれてしまうことを恐れるべき。
2. 出雲大社の壮大な神殿はどうなんだといわれよう。そう、そこに錯綜しもつれたものをとく鍵があるのだ。cf.西郷信綱『古事記注釈』第3巻(ちくま文庫: p285〜294)
2-1. 順序の転倒がある。現実があり神話として残されたわけではないことに注目すべきであるのに、なぜそう考えないのか。記紀が書かれ、記紀に書かれているのだから、そこになくてはならない。この論理はあやうい。
2-2. 出雲大社本殿は現在のもの以上に高く壮大なものであったことがほぼ明らかとなっているが、まさにこれこそが、出雲神話における天日隅宮の捏造性を物語っている。
2-3. ※出雲の式内社の多さについて後述
3. 出雲がきわめて政治的土地と意味を付与され続けた場であること。ここを再び掘り出すことで、日本の政治思想を、宗教思想・宗教哲学の視座から見直すこと。これが、この雑考の意図する方向だる。

(つづく)

2017年11月18日

カラサデさんの「実際の言い伝え」

《習俗は理由もなく消えたり生き残ったりしない……
それが生き残り続けているとすれば、機能の永続性の中にこそ”真実の理由”を見いだすことである》

レヴィストロースの言葉に引かれながら、少しずつ読んだり聞いたりしている。きょうは午後から県立図書館。郷土資料室の書庫に小さな封筒に入った冊子がある。はじめて閲覧した。酸化で茶色に風化し、めくればパラパラとくだけてしまうようで、そーっと1枚1枚をめくる。日本がまだGHQ占領統治下にあった昭和23年10月、島根民俗通信第8号(終刊号)である。
巻頭にあるのは柳田國男「ミカハリ考の試み」。
《出雲のカラサデサンなどは土地の人が率先してこれを馬鹿馬鹿しがり、実際の言い伝えを我々に教えてくれない》と嘆いている。また、柳田は祭日考のなかで、出雲の神在祭を痛烈に批判している。「まことにたわいのない俗説」「論破するまでもない」「不道徳である」(「祭日考〜出雲のいわゆる神在祭」)と。それもこれも、柳田がこの頃、もっとも気にかけていたテーマについて、出雲がもっとも多くの資料を持ち伝えているとみていたからだということが、「ミカハリ考の試み」からもわかる。
さて、その柳田の寄稿のあとに、応答ともつかない小さな報告が寄せられている。そこには、私たちがおそらく聞いたことのなかった「実際の言い伝え」が記されていた。柳田はこれを読まなかったか、無視することにしたのだろうか。

その報告は、短くはあるが、そうであったかと膝をたたきたくなる内容だ。

カラサデのサデは掻くこと。それは神が人を殺す日だった。
「この晩…、神様が人間を三人サデられる。それで昔は必ず人間の死体が三つあった」
お忌みさんの頃、冷たい風が戸口をコトコトと叩く。
餅をついて家にまつる神に供え、戸口の外には悪霊に備える餅をぶらさげ、通り過ぎていってくれるのをひたすた静かに待った時代を、いまどうやって想像したものだろう。
冬は幼い命と年をとった命が消えやすい季節である(あった)ことを、思い起こしてみるだけでは、どうもすまなさそうだ。

いまの世に、神にサデられるのは、だれなのか。その神はどこにいるのか。真実の理由を探しもとめる日がつづく。

11月24日開催
カラサデ婆の悲しき真実〜石塚尊俊『神去来』(本の話#0009)

2016年11月25日

出雲びとのみぬは〜折口『水の女』

 山あがりの文献渉猟の途上、折口の『水の女』に、1年以上寝かせたままの宿題を再発見。これも記しておく。

《神賀詞を唱えた国造の国の出雲では、みぬまの神名であることを知ってもいた。みぬはとしてである。風土記には、二社を登録している。二つながら、現に国造のいる杵築にあったのである》

 みぬはの神をまつる社が杵築に2社あるといわれても、なかなかすぐには出てこない。杵築の地とひろくとらえて旧出雲郡のなかでみてみると風土記に「彌努婆社」とあるのがそのひとつ。
 延喜式神名帳では、美努麻神社である。現在の奥宇賀神社として大正2年に社殿造営して遷合祀。
江戸期には和田大明神として、和田灘に社があったようだ。 現在の祭神は経津主神。
 また、奥宇賀神社には時を同じくして合祀された『風土記』記載の「布世社」があり、江戸期は「籠守明神」と称されていたことは興味深い。旧くは奥宇賀布施宮床鎮座。旧三沢郷内の旧平田村に鎮座する籠守明神との符合やいかに、というところだろうか。飛びすぎてはいるが。現在の祭神は息長足姫命・伏雷命・武内宿禰命・大己貴命。

参照:変若水

2016年11月06日

十二月晦日丑の刻悪鬼を逐神事あり

 近世における山神の記載がどういう分布を示しているかを知りたくなって、出雲の『雲陽誌』を眺めておりましたところ、意宇郡の揖屋に興味深い記載をみつけたので備忘に記しておきます。
●大神宮 田の中に伊勢森というあり、往古は社もありけれとも今は祭礼の時俄に竹をもって祠を作、十二月晦日丑の刻悪鬼を逐神事あり、神巫秘してあらはさす、此夜里民祭火をみる事を恐て門戸を閉て往来せす、

 「十二月晦日丑の刻悪鬼を逐神事あり」は異質でありましょう。誌をくまなく見てはいませんが、他の郷ではかような祭事を見たことはありませんし、新暦2月の節分を思わせる悪鬼退散神事を大晦日の夜に、という例を島根で見るのもはじめてでした。
 来る12月3日開催予定の「本の話」でとりあげる『サンタクロースの秘密』のこともあって、引っかかったのです。(以下出所:クロード・レヴィ=ストロース著,中沢新一訳『サンタクロースの秘密』みすず書房,1995)
フレーザーは『金枝篇』の中で、ヨーロッパで広くおこなわれているクリスマスというキリスト教の祭りが、もともとは、冬至の期間をはさんでおこなわれていた「異教の祭り」を原型としていたものであったことを、膨大な文献の裏付けをもって、あきらかにしようとした。太陽の力がもっとも弱くなる冬至の期間、生者の世界に、おびただしい数と種類の死者の霊が訪れてくる。この死者の霊のために、生者たちは、心をこめたさまざまなお供物の贈り物をしたのである。

 この伊勢森の神事については改めて追ってみましょうぞ。年神と同時に疱瘡神のような、来訪して災厄をもたらす神に供え物をする"年越しの夜"は、各地に残っているものです。出雲には雲陽誌が残された江戸時代には希であったのかもしれません。いまでも東北には多く残っていそうだし、芸北・備北には痕跡が残っているのではないでしょうか。
年越しの夜に神招く


2015年12月29日

神在祭りを調べるきっかけなどのメモ

※facebookのノートにまとめていたのだが、編集のしづらさにしびれをきらし、移転することにした。
 
・きっかけ1)「6年続けて同じお客さんを案内していて、もう行くところがない。どこかない?」と聞かれたが、こたえる間がなかった。→例)神名火山(野)をめぐればどうでしょう。万九千神社の古地である斐伊川河川の中から仏教山を仰ぎみつつ、山麓の古社を訪れるということか。雲南市であれば神原神社。松江であれば大庭の神魂神社、雑賀の売豆神社紀神社、朝酌の多賀神社。それぞれ本殿ではなく、その周辺をあたるのがよろしいかと。出雲大社でも佐田神社でも神迎祭りの斎場は本殿ではない。むしろ関係を絶っているとでもみたほうが、おもしろくなります。

・きっかけ2)「江戸時代に大社の御師がひろめたデマだろうに」という方がいらしたが、これも、ちょっと一言はさむ間もなかった。→気持はわかりますけどね。江戸のベストセラー「広益俗説弁」にも「地元出雲では神有月なんてだれも言ってませんよ」と一刀両断ですものね。とはいえ、ほつれた糸をほぐすのは骨が折れます。まずは基本をおさらい。

1.神無月の語源
藤原清輔『奥義抄』〔1135〜44頃〕上「十月 神無月 天の下のもろもろの神、出雲国にゆきてこの国に神なき故に、かみなし月といふをあやまれり」
…………これを第一にとる場合が多いのであるが、ほかに以下あり。大日本国語辞典より
(2)諸社に祭のない月であるからか〔徒然草・白石先生紳書〕。
(3)陰神崩御の月であるから〔世諺問答・類聚名物考〕。
(4)カミナヅキ(雷無月)の意〔語意考・類聚名物考・年山紀聞〕。
(5)カミナヅキ(上無月)の義〔和爾雅・類聚名物考・滑稽雑談・北窓瑣談・古今要覧稿〕。
(6)カミナヅキ(神甞月)の義〔南留別志・黄昏随筆・和訓栞・日本古語大辞典=松岡静雄〕。
(7)新穀で酒を醸すことから、カミナシヅキ(醸成月)の義〔嚶々筆語・大言海〕。
(8)カリネヅキ(刈稲月)の義〔兎園小説外集〕。
(9)カはキハ(黄葉)の反。ミナは皆の意。黄葉皆月の義〔名語記〕。
(10)ナにはナ(無)の意はない。神ノ月の意〔万葉集類林・東雅〕。
(11)一年を二つに分ける考え方があり、ミナヅキ(六月)に対していま一度のミナヅキ、すなわち年末に近いミナヅキ、カミ(上)のミナヅキという意からカミナヅキと称された〔霜及び霜月=折口信夫〕。
「陰神崩御の月」というのは、なかなかにおもしろく、クリスマスのルーツともかかわってくるところか。古事類苑の中では、もっとも字数をさいている説である。

◉1,056ページ冒頭部。ここをきちんとふまえておかないといけない。すなわち、
他国でも「神が村を出て行く」ということはいつの頃からかあったことだが、「出雲へ行く」ということになったのは、文献上では鎌倉時代以降のこと。地元出雲で「おいでになる」となったのは、昭和に入ってからか?
・平安時代後期〜鎌倉時代……藤原清輔『奥義抄』の時代がほぼ初出といえるようだが、時代とともにふえる。出雲大社へ行くとはまったく出てこない。「出雲へ」である。
・南北朝の中頃から……はじめて具体的な社名が出てくる。出雲大社ではなく佐太神社。

・戦国時代に突如、「出雲大社へ行く」となる。。
参照『日本紀 神代抄』

・以降、佐太神社より出雲大社へという記述が多くなる。が、しかし、地元伝承は別。
さて、他国でどうであったかであるけれど、餅つきや村境での葬送儀礼があった。これについては、また改めて。


◉参考資料……大日本国語辞典【解説・用例】より
〔名〕(「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。俗説には、全国の神々が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」だからという)
陰暦一〇月のこと。かんなづき。かみなしづき。かみなかりづき。《季・冬》
*万葉集〔8C後〕八・一五九〇「十月(かみなづき)しぐれにあへる黄葉(もみちば)の吹かば散りなむ風のまにまに〈大伴池主〉」
*古今和歌集〔905〜914〕雑体・一〇一〇「きみがさすみかさの山のもみぢばのいろ かみな月しぐれの雨のそめるなりけり〈紀貫之〉」
*蜻蛉日記〔974頃〕下・天祿三年「かみな月、例の年よりもしぐれがちなる心なり」
*曾丹集〔11C初か〕「なにごともゆきていのらんと思ひしを社(やしろ)はありてかみな月かな」
*色葉字類抄〔1177〜81〕「十月 カミナツキ」
*名語記〔1275〕一〇「十月をかみな月となづく、如何。これは、日本国の諸神たち、御まつりごとのために、出雲のいつきの宮へあつまり給て、都城には、かみいませずとて、公家にも御神事を、をこなはれざれば、神無月といふと、ふるく尺しをける也。この説、勿論歟」
*徒然草〔1331頃〕二〇二「十月を神無月と云ひて、神事に憚るべきよしは、記したる物なし」
*日葡辞書〔1603〜04〕「Caminazzuqi (カミナヅキ)。歌語。ジュウガチ」


ーー以上

2015年08月29日

変若水

 和田萃の「出雲国造と変若水」をやっと入手しました。
 これから読みますが、その前に、問題を整理しておきます。

image

 変若水はヲチミズと訓み、石田英一郎の見解を次にひきましょう。
万葉集に見える変若水は渡来の神仙思想より古く列島に伝えられていた月の変若水の思想によるもので、次の中に水を汲む人間の形や菟の形をみることから生じたが、その根底には月の満ち欠けを人間の復活、若返りに結びつける考え方があった

 そして、主題たる「出雲国造神賀詞」の一文がこれです。
彼方の古川岸、此方の古川岸に生い立つ若水沼間の、いや若えに御若えまし、すすぎ振るをどみの水の、いやをちに御をちまし

 和田萃氏は要旨のなかで「この部分の詞章を変若水の事例とする解釈はほとんどないが、出雲国造が天皇に変若水を奉献したと理解しうる」と述べています。
「解釈がほとんどない」のは、出雲国造の奉献のことであって、変若水とする訓みは本居宣長、そして折口信夫の功績によるのでは?と素人は思っておりました。どうなんでしょ。当該本文を読んでみるに氷解。そのとおりでした。他に脱字(旧河道とすべきところが旧道)も見つけておりますので、校閲校正ミスでしょう。

・をちは万葉集では変若なる字があてられていて、変若水の字もある。沖縄の古いシデ水の伝説に触発されて、おちみずと訓じたのは折口。
・宣長は『出雲国造神寿後釈』の中で、ここに仁多郡三澤郷条にみえる変若水が含まれているとしている。→県立図書館の開架所蔵を確認したので、またの折にみてみます
・神仙思想が夢見るのは「不老不死」、そして変若水が夢見るのは「若返り」です。
・変若水は月にあるもの、常世にあるもの、……遠くにあるものであったのですが、どこかで「この世」のとある場所に実在するものとして、語られはじめます。そのひとつが、三澤の水でだったと。

 ……和田氏の論考中、「おろちの水を探せ」として気になるところの結論を抜き出しておきましょう。
「斐伊川旧河道に残る自然堤防崖面の湧水を指す可能性があるだろう。出雲国造は神賀詞奏上に際して、三津池や刀研ぎ池ではなく、三澤郷内の斐伊川旧河道の三澤で禊したのである」

つづく。

2015年01月05日

初詣に斐伊神社と木次神社へ〜その1

 あけましておめでとうございます。
 今日は仕事はじめ。
 初詣からをふりかってみましょう。
 大晦日はカフェオリゼの年越しで深夜まで仕事のお手伝い。
 元旦は朝遅くにめざめまして、お雑煮つくって食べました。
 午後に、大原郡の郡家跡に停めている車を動かして斐伊神社と来次神社へ初詣。
 斐伊神社(月の光)
 斐伊神社wikipedia
 自宅から徒歩3分のところに郡家があったという由緒ある土地であることに改めて感心します。表示もなにもおかれていないのですが、山と川に想像をめぐらせて千年の歴史へダイブしていけるような、気持ちよい場所です。
 さて、そこから車で1分のところにあるのが、斐伊神社。
 斐伊神社は遠い昔、樋(Hi)社と呼ばれ、大宮の氷川神社はこの樋社から分霊されたというのです。が、その時代は孝照天皇三年。神武天皇からかぞえて三代目の天皇にあたるのですが、歴史の闇にあって、年代すらさだかではありません。
 後代の作文の可能性もありますが、埼玉には出雲系の氏族の色が認められるだけに、そのルーツがここ斐伊であると言いつのることも、荒唐無稽ではない。



 祭神はスサノオ命として現在、祀られていますが、はて、かの時代には、いかがであったか。
 埼玉の大宮神社では、アラハバキ神がもともとの祭神であったという説もあります。
 アラハバキ、スサノオ、2神の系譜と関係をみてみるとこから交差するものをひろってみるとおもしろいのかもしれません。
…つづく。

2014年12月08日

天が淵の今

 斐伊川の八岐大蛇伝説は右岸(東側)に著しく偏っているようです。左岸は皆無にひとしい。
 「伝説」とはいいますが、"まとめられた"のは近年で、「観光推進」の文脈でなされているので、重みがありません。ひとつひとつのルーツには興味をそそられるものもある。パワースポット狂想曲や、ご縁の国という軽い言葉に、つきあって浮かれている場合ではないと思います。
 群書類従の神祇部におさめられた『雲州樋河上天淵記』に由来する天が淵周辺は、もう少し研究があってもよさそうなのですが。
 また、他のオロチ伝承に関する神社で参照できるサイトはこちら。
・印瀬の壺神、八口神社
・八本杉、斐伊神社
 どういう伝承地があるかについては、雲南市の観光情報サイトが複数あるのだがそのひとつを。
・ヤマタノオロチ伝説/うんなん旅ネット
 そして、個人で地図におとされている方が。THANKS!
・ヤマタノオロチ伝説伝承地

 天が淵は雲南市の公園にもなっていて、訪問者もあるし、「行きたい」とおっしゃる方も多い。10月末に行ったときの写真がこちら。通勤路として毎日そばを通っておるのだが、車をとめておりてみるのは久しぶりでした。





 ずいぶんと漂着物が多いです。また流されていくものなのか、清掃すべきものなのか。目の前にあるものくらいは拾っておこうと思います。