人びとは植物と共に生きたー人類と植物の文化史―
[2008年05月15日(Thu)]
山田昌久 (首都大学東京 都市教養学部人文社会系 教授)氏の講演会が西都原考古博物館で行われました。これは、特別展「木と共に生きた人びと」(4月18日(金)〜6月22日(日)まで開催)に合わせた企画でした。
まず現代=化石資源(自然に帰さず[消費型])文化だが、縄文〜近世=植物資源(自然に帰る[再生型])の文化だったという指摘から講演がスタート。我々の生活をみると昭和30年代前までは、調理器具のまな板から洋服の服地まで木や植物製品が占めていたという事はすごく納得いく説明です。
考古学では生活でほとんどの資源として活用された自然資源(木の資源)は現存しない。
→現存しないものを調べても中々説得力がない→川の跡などの発掘から木の資料が多く発見された→新たな考古学的な発見に繋がった
以上の経緯を踏まえて講演がすすんで行ったのだが「考古学の研究方法はどのように使ったかは研究されたが、使用する事による成果については未着手だった。だから博物館に展示している道具がどのような能力を持っているのかを説明できるように研究した。」という徹底的な実証主義の研究成果の話だったので非常に説得力のある講演でした。
実は講演中に緊急の要件が入り中座したのできちんと伝える事は出来ないので、印象に残った事だけレポートします。
まずは、遺跡から発見されたさまざまな器具(鋤、鍬、など)=形としては現代まで継承された。→まぐわ=古墳時代(1500〜2000年前)から全国の遺跡で発見(教科書では中世と記述)→農業を行なう上での道具は実は古墳時代にはその原型がすでに形づくられていた。
弥生時代は建設資材として直径200pの太さを使用⇔縄文は20p以下の木を使用
↓
村の維持自体のシステムが違った
三内丸山遺跡は1500〜2000年の長期間村を作り続けていたのに対して、弥生時代は100年が上限(建築材の調達、川の流域等で調達し易い流域経済が成立した場所のみ長期化)そうです。
集落を維持するのには建設資材の入手が必要だけれど、より以上に燃料の入手が欠かせず、集落の維持には燃料としてどのくらいの木材が必要か?は大問題だったそうです。食料の入手と合わせて建築材や燃料材の入手を勘案しないと、集落発生のメカニズムを説明できない。
また、上記と関連して日本の縄文・弥生時代は新潟まで平野は杉林だっと考えてよいそうで、杉が割り易い為、500年間の間で平野杉林を伐採しつくしたとかんがえられるそうです。
昔なんかの本で読んだけど、ピラミッド建設には運搬資材等として多量の木材が必要だったが、オセアニア杉(?)の大原生林があってそれを使用したが、以後生活資源として伐採され尽して今は砂漠化してしまったという事を読んだ事がある。
洋の東西を問わず、人間の歴史は同じような道筋を描いていると思いますね・・・