CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 2015年04月 | Main | 2015年06月»
プロフィール

大野修一(日本財団)さんの画像
大野修一(日本財団)
プロフィール
ブログ
<< 2015年05月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
ブログ内の検索は
  こちらから ▼
Google 
カテゴリ
最新記事

コメント

トラックバック
犬山城 (01/18)
月別
リンク集
http://blog.canpan.info/ohno/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/ohno/index2_0.xml
帰国 [2015年05月27日(Wed)]
5月27日(水曜日)
526construction.JPG
<ヤンゴンの建設ブームはいつまで>
 
機内では朝食も断りひたすら眠るうちに、飛行機は日本に向けて飛び続け、ほぼ予定通りの6時半に羽田空港に到着。
これから、急いで自宅に帰り着替えを済ませて財団へ行かねばならない。社会的インパクト投資のG8タスクフォースの議長、ロナルド・コーヘン卿が来日中。
今日からは彼に付き添って、外務省や内閣府でのミーティングに立ち会わねばならない。
ジョクジャカルタ、バンコク、ヤンゴンと3つの熱帯の都市を巡る一週間の旅が終わった。頭と身体の切り替えが必要だ。
526ambrella.jpg
<ミャンマーでは男の日傘は当たり前>

06時20分 羽田着
バンコクの空港ホテルでミーティング [2015年05月26日(Tue)]
5月26日(火曜日)
526newterminal.JPG
<空港の新ターミナルが見えてきた>

今日も朝から日差しが強い。10時過ぎにはホテルの前の交差点の屋外温度計は、早くも32度を指していた。
今日は、ヤンゴンを出てバンコクに移動する日。
最初は、そのまま、日本へ帰国するつもりでいたのだが、スリランカの関係者から、この1月に現職のラジャパクサ大統領を打ち破り、新たに大統領に就任したばかりのシリセナさんからのメッセージを伝えたと言うので、バンコクのスワンアプーム飛行場に隣接したホテルで彼らと会うことになったので、帰国便は昼便ではなく、苦手な今夕出発の夜行便になってしまった。
空港に近付くと新ターミナルビルの骨組みがその雄姿を現した。
526newterminal2.JPG
<滑走路側から空港の新ターミナルを望む>

民主化以降の利用者の急増と言う事態を踏まえて、手狭になった空港の新ターミナル建設工事が進められているのだ。対応能力が270万人に過ぎないところへ、昨年の利用者は400万人を突破。新ターミナルが完成すると、600万人対応可能と言うが、ミャンマー政府は別のところに新しい飛行場を建設する計画だ。
ヤンゴン市の北部15キロほどのところにあるミンガラドン飛行場は、第2次大戦中は加藤隼戦闘隊の基地として利用されていた、と言われる。
私が初めてミャンマーに来た1990年代末の時点では、今、国内専用に使われている小さな建物しかなかったことを思い出す。今のターミナルが完成したのは2007年のこと。
今度の新ターミナル完成の暁にはこちらが国内専用のターミナルとなり、今の、国際線ターミナルが国内専用になるのではなかろうか。
526BKKhotel.jpg
<バンコクの空港ホテル>

ただ、今回、ミャンマーにおけるインフラ整備の遅れの深刻さを再認識させられる事態を目撃した。バンコク行きの飛行機を待つ間の空港ターミナルで、繰り返し停電に遭遇したのだ。
これまで、色々な国で空港ターミナルを利用したが、電力の配分が最優先されているはずのターミナルで停電に見舞われたことは一度もない。
バンコクに着いた。空港の前からホテル行きのシャトルバスに乗り込む。空港ホテルへ。夕食を取りながら、スリランカ大統領府の関係者とミーティング。
会議を終えて、スワンナプーム空港に戻る。さあ、帰国だ。夜行便の飛行機に乗り込むころには雨が降り出していた。
526rainyairport.jpg
<バンコクの空港で飛行機に乗り込む>

12時 ホテル出発
15時00分 ヤンゴン発
16時55分 バンコク着
18時 スリランカ大統領補佐官打合せ
19時 関係者夕食会
22時10分 バンコク発
ヤンゴン事務所を訪問する [2015年05月25日(Mon)]
5月25日(月曜日) 
朝6時半。ベッドから起き出し、カーテンの間から外を見ると、もう太陽が顔を出していた。今日も暑くなりそうだ。
昨晩、充電ケーブルを差しっぱなしにしていた携帯電話を確認する。
事態に変化無し。真っ暗な画面が居座っていた。
10時、昨日に引き続き、事業の引き継ぎのためのミーティング。森新常務、中嶋課長と3人一緒にイヤワジ州で学校建設事業をやってくれているARTIC平野さん夫妻に会う。
525bluesky.jpg
<午前の空は晴れ上がっていたのだったが>

平野さん達に会った後、森新常務に携帯の不調を説明しようと画面を見ると、電源不足の表示が出ているのに気が付いた。
今朝まではこんな表示も出ていなかったのだが、と不審に思いながらも、念のため部屋に戻り、充電ケーブルにつないでみる。
そのまま、近くのシャン料理のレストランに行き3人で食事。そこに、ヤンゴン事務所のスタッフも合流。食事を終えてホテルに戻り携帯電話をチェックすると、充電が進行中のサイン。これなら安心だ。
525rain.jpg
<雨が降って来た>

携帯を起動すると真っ先に飛び込んで来たのが埼玉県を震源とする比較的大きな地震が発生したというニュースだった。
その後、ティンニュントさんと同じように、ミャンマー政府の元高官で今は日本財団のミャンマー事業のアドバイザーであるエルウィンさんと会う。彼とも、引き継ぎの打合せ。
それを終えて財団のヤンゴンオフィスに向かおうと、外に出ると、雨が降っていた。昨日今日と、晴天に恵まれた思っていたのだが、ついに雨が降って来たようだ。
525gate.JPG
<ヤンゴン事務所のセキュリティーゲート>

日本財団ヤンゴン事務所で間遠職員らとの打ち合わせを終えて、一旦、ホテルに戻り、別のホテルに向かった。ミャンマーの地方での視察を終えて、ヤンゴンに戻って来たばかりの、日本のメーカーの皆さんと合流。
現地ではお腹を壊して大変だったとか。ミャンマーでは、過剰に使われる植物オイルのせいなのか、外国からの訪問者は、日本人のみならず、当地ではお腹を壊すことが多いようだ。
ここでも、間遠職員に森新常務、中嶋課長らも加わり、夕食を取りながらメーカーの皆さんと薬草事業について相談。

10時 ARTIC平野さん
13時 エルウィンさん
14時 ホテル出発
14時30分 ヤンゴン事務所訪問
17時半 薬草事業打合せ
18時半 ホテル出発
19時 薬草事業関係者との夕食会
引き継ぎミーティング [2015年05月24日(Sun)]
5月24日(日曜日)
朝起きて外を見ると、陽が差していた。昨日までの激しい雨はさすがに今日は小休止かと思うが、ミャンマーは雨季が始まったばかり、決して油断はできない。
午前11時から、元保健省伝統医療局長で、今は日本財団のミャンマーでの諸事業のアドバイザーを務めてもらっているティンニュント医師と、伝統医療事業の今後の進め方について打ち合わせ。
日本財団側は私の他、6月に常務理事に昇格する森部長と、中嶋課長。来月からはこの事業は私から離れ、森新常務のもとで、中嶋君が担当責任者となってミャンマー保健省と進めることになる。森さんは、元々、日本財団が一連の置き薬事業を始めるきっかけとなったモンゴルでの事業の現場責任者を務めたこともある伝統医療事業のベテランなので安心だ。
打合せを終えて、皆で昼食を取った。その席上、話題になったのは、一昨日、ミャンマー海軍が保護したというバングラデッシュからのボートピープルの話。
524unstablesky.jpg
<雨は小休止だが、、、>

いわゆる、ロヒンジャ問題である。ところで、ロヒンジャは英語ではRohingyaと書くが、そのミャンマー式発音はロヒンジャであってロヒンギャではない。丁度、アウンサンスーチー女史がSuu Kyiと表記するが、スーキーと言わずスーチーと発音するように、ミャンマー語ではKyはチの音を表わし、その有声形がgyなので、ヂとなるのである。
ところで、発音の問題は兎も角として、ミャンマー人は、彼らを決してロヒンジャとは呼ばない。それでは何と呼ぶかと言えば、ベンガリ、即ち、バングラデッシュ人というのである。そして、この問題はミャンマー国内では、現在停戦協議が進行中の少数民族問題とは別の、不法移民の問題として扱われているのである。それは、ミャンマーの知的エリート層の一員であるティンニュント博士にしても同じだ。
524boatpeople.jpg
<ボートピープル救助の記事(23日付)>

今回の拿捕事件を発表したミャンマー国軍によれば、乗船者の大部分がバングラデッシュ国籍であったと言う。これは、決して単純な「民族問題」とは一線を画す複雑な問題であるように思える。
4時半からは、元々昨日の夕方に予定されていたネーリンソー君らMILiの幹部たちとの打ち合わせと、5時半からはハッピーアワーを利用した飲み会。ネーリンソー君によると、前は飲めなかったが少しづつ飲めるようになって来たとか。以前は、「障害者は酒を飲むな」と言われたこともあったそうな。
しかし、彼は現在、障害者運転免許取得者第一号を目指して特訓中の身。酒の味を覚えてしまったようで、心配だ。
その後は、車で日本料理店へ行き、日本財団のヤンゴン駐在スタッフらと夕食会を兼ねた引き継ぎミーティング。
524happy.JPG
<再びMILI幹部とハッピーアワー>

移動の途中、ホテルの前の路上で物乞いの老女が路上をいざっているのを見た。驚いたことに、私の前を歩いていた一人の若者がさっとかがみこんでポケットから小銭を取り出し、それを老女の手に握らせたこと。本当に鮮やかな自然な動作であった。
ホテルに戻って、携帯電話のうちの一台の様子がおかしいのに気が付いた。画面が真っ暗。スイッチを入れてもボタンを押しても、うんともすんとも言わない。こんなことは初めて。
電池がなくなったのかも知れないと思い、充電ケーブルを差してみるが反応無し。携帯電話は出張中の命綱。私はそのため、海外出張中は念のためもう一台を携行するようにしているが、それでも、最新鋭機が使えなくなると大変だ。一抹の希望をもとに、充電ケーブルを差しっぱなしにしてベッドに入った。
524begger.jpg
<物乞いの老女>

11時 伝統薬置き薬事業打合せ
16時半 MILI関連事業打合せ
18時40分 ホテル出発
19時 引き継ぎミーティング
また、やってしまった、、、 [2015年05月23日(Sat)]
5月23日(土曜日)
523morning.jpg
<暗いうちに、ホテルを出る>

早朝5時半、バンコクのホテルを出て、一人空港に向かった。これから、私はヤンゴンに行かねばならないのだ。
外はまだ暗い。街灯に照らされて路面が濡れて光っていた。昨晩のうちにやはり雨が降ったのだ。
早朝のためか、交通渋滞も無く、30分余りでスワンナプーム空港に到着。
ラウンジで、現地紙The Nationを開く。私が、タイ滞在中いつも読むことにしている英字新聞だ。
今日の一面トップには、昨日の反政府デモに関する記事。記事に添えられた写真には、拘束されて連行される集会参加者の姿。そうだ、昨日が昨年の軍事クーデターから丁度一周年目の記念日であった。
523demo.jpg
<拘束された反対デモの参加者の写真がトップ>

大規模ではないが、軍政下で集会やデモが禁じられているにも拘らず、タイ各地で散発的に反クーデター活動が行われ、逮捕者が出た模様。
軍政のもと、それまでの国内を二分する激しい政治対立に基づくデモや集会は影を潜め、タイ社会は表向きは平静を保っているが、その後、軍政が約束した政治改革の歩みは鈍い。外国からの観光客は減少し、個人消費も低迷するなど経済の不振が続いている。最初は、大人しくしていた現地紙も最近は政権に対して批判的な論調を強めている。
ヤンゴンに着くと、空港着陸時こそ、曇り空だったが空港の外に出てタクシーを拾おうとすると、激しい雨が降っていた。雨季特有のスコールだった。雨の中、タクシーに乗る。
523airportskall.JPG
<ヤンゴン空港をスコールが襲う>

ホテルに着いて、スーツケースを開けると手にべとっとまつわりつく油のような手触り。生臭いことこの上ない。
一人で夕食を取る時のおかずにと、忍ばせていた魚の缶詰が破裂していたのだ。いつもは、念のためにとビニールの袋に入れて封をしておくのだが、今回に限って、むき出しのままになっていたのだ。缶切りを使わなくてもふたを開けることが出来るよう、缶詰の上蓋がプルトップ式で開けるようになっていたのだが、上から圧力がかかったために、部分的にふたが開いてしまったようだ。
愕然として、スーツケースの中身をチェック。いくつかの書類や、衣類が汚れていたが、幸いなことに、ダメージは部分的。
523can.jpg
<魚の缶詰に亀裂>

どうやら、破損してからまださほど時間が経っていなかったようだ。ふたが完全に開いた訳ではなく、隙間が出来ただけだったので、缶詰の中身が総て飛び出した訳ではなく、外に出たのは汁の部分だけ。それでも、魚の生臭さがスーツケース全体から漂って来る。
必死の思いで、衣料品を荒い、書類を処分。タオルやティッシューペーパーを総動員して、スーツケースを拭き掃除する。1時間以上格闘の末、何とか掃除終了。
漸く片付けて外へ買い物に出ようとしていると、再び凄まじいスコール。已むなく、雨がやむのを待つことにして、部屋でメールチェック。すると、3時過ぎになって、漸く雨が上がったので外に出る。
523skall.jpg
<再び凄まじいスコール>

今日の夕食はMILIの幹部たちと、ホテルでハッピーアワーの無料スナックとドリンクで一杯やることになっているので、いつものように外のサンドイッチを買う必要は無い。ティンニュント医師に教えてもらって以来、ミャンマーに行く度に買っているFame社製のノニの錠剤を買おうとしたのだ。
ショッピングセンターへ向かう路上で、名前を呼ばれて振り返った。MILIの芸術祭担当のルワンモージョーさんだった。奥さんと買い物の途中とか。初めて会う奥さんに紹介され挨拶。最後に、明日また、と言われて、そうだねと別れてはたと気が付いた。
明日は日曜日。MILIの事務所に行く予定も無いのに、また明日って何だろう。と思いを巡らし、はたと思い至ったのは今日の夕方の約束。
523cinema.jpg
<映画館の前の人混み>

そのメンバーに彼が含まれているのは知らなかったが、きっとそのことだと思い至ったのだが、何故、彼は今日ではなくて明日と言ったのだろう。
わっ、また、私が約束の日を勘違いしたのに違いない。それにしても、先月に引き続き、再び、約束の日を間違えてしまうとは。私も耄碌するにもほどがある。
慌てて、ネイリンソー君に電話するが繋がらない。もう一人の幹部、アウンコさんに電話すると話し中。もう一度電話して漸く繋がった。「今日じゃなかった」と言う私に彼は、「明日ですよね」と言うので、思わず、「OK See you tomorrow」と電話を切った。
523sky.jpg
<空模様はまだ不安定>

やはり明日だったのか。それにしてもスケジュール表にも今日と書いてある。念のため、ホテルの部屋に戻って過去のメールを確認する。すると、彼らが間違ったらしいことが判明。
それにしても、彼ら幹部3人に送ったメールを間違えられるとは。証拠のメール添付して、彼らにメッセージを送ったところ、平謝りのメッセージが届く。
それを見て、私は不満に思うより、自分がまた勘違いしたのではなく、今回は彼らが間違えたことが嬉しかった。結局、ハッピーアワーには、自分一人でワインを楽しんだ。
夕食はホテルの部屋で一人、ホテルの売店でテイクアウトして来たサンドイッチとビールで乾杯。

05時半 ホテル出発
07時55分 バンコク発
08時50分 ヤンゴン着
タイ義肢装具士養成校助成事業終了式典 [2015年05月22日(Fri)]
5月22日(金曜日) 
朝8時半、尾形理事長一行に、最近、日本財団の特別顧問に就任して頂いた渋谷さんも含めてホテルを出発、ドンムアン空港の近くにあるAPSW(女性の地位向上協会)へ。昨年に続いて2回目の女性社会起業家セミナーが開かれるのだ。
今回のテーマはハンディクラフト。メコン川沿岸諸国と呼ばれるベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ミャンマーの5カ国で活躍している女性の社会起業家が集まっている。20日に始まったセミナーの今日は最終日。APSWでまとめのセッションを行い修了式の後は、会場をバンコク中心部に移し、公開セッションが行われる。
我々が到着した時は最後のセッションの真っ最中。出身国別にそれぞれの代表が感想を述べる。セッションの後の休憩時間に、私はミャンマー人の女性社会起業家で、今は我々の伝記マンガプロジェクトのプログラムディレクターであるチーチーニェインさんを見つけて話し込んだ。
522WeTrain.JPG
<これが日本財団の寄付によって建てられた研修棟>

実は、この後の訪問地であるヤンゴンでの打合せを申し入れていたのだが、この後、彼女は自宅のあるヤンゴンに戻らず、マンダレーに行ってしまうというのだ。実は、6月の組織再編でこの事業が私の担当から離れることになっており、今後の取り組みたいせいについて彼女に説明しておくには、今しかチャンスが無いのだ。
休憩時間が終わると、尾形理事長のスピーチが始まった。しかし、私は渋谷さんと密かに席を立ち、会場を後にした。これから、クリサナさんとの昼食ミーティングが行われるバンコク市内の日本料理のレストランにいくためである。バンコク市内の渋滞は相変わらずなので、遅れてはいけない大事な約束がある時には、かなりの時間的な猶予を見ておかねばならないのだ。しかし、今回は道路はスムーズで、一時間足らずで到着してしまったのだが。
522seminar.JPG
<2回目の女性社会起業家セミナー>

クリサナさんはタイのテレビ業界では有名人物である。交通事故に遭って車椅子になったのだが、そのまま、テレビの司会者の仕事を続けている。
私はAPCDの二ノ宮所長の紹介で知り合い、これまで3回か4回ほど顔を合わせている。今回も、二ノ宮さんたちが同席してくれた。英語の出来ないクリサナさんのために、二ノ宮さんの秘書のモッタンさんが通訳してくれた。モッタンさんも車椅子である。
彼の好物だと言う日本料理を食べながら、クリサナさんが11月に企画している障害者用の機器の国際展示会「ユニバーサルデザイン・エキスポ」について話し合った。
その後、一旦ホテルに戻り、女性の地位向上協会から戻って来ていた尾形理事長一行と合流。
522Krisana.JPG
<クリサナさんと昼食>

今度は、チャオプラヤー川の向こう岸にあるマヒドン大学医学部付属シルラート病院へ向かう。タイ義肢装具士養成校事業の終了式典に出席するためである。
ここでも、想定より早めに到着出来たので、尾形理事長には義肢装具士養成校の実習設備を視察してもらった。
間違いなくシルラート病院はタイでは最も有名で権威のある病院である。この病院は東南アジアで最も古く設立された近代医学の設備を備えた病院である。同時に設立された医学校が現在のマヒドン大学シルラート医学部なのである。
最近、入退院を繰り返しておられるプミボン国王が入院される時はいつもこの病院だ。マヒドンという名前はタイの王室出身でありながら医師になったプミボン国王のお父様のマヒドン王子に由来している。
522inspection.JPG
<タイ義肢装具士養成校を視察>

そういう経緯もあって、この義肢装具士養成校の正式名称は勅許を得て、プミボン国王の娘のシリントン王女のお名前を頂きシリントン義肢装具士養成校という。
そもそも、今では総合大学になったマヒドン大学であるが、もともとは医学校であったので、ここでは医学部のステータスは別格だ。医学部長は自動的に王様の侍医長になるし、医学部長の後は学長になる。
日本財団は今では東南アジア6カ国で義肢装具士養成校を支援しているのだが、その頂点に立つのがこのマヒドン大学の義肢装具士養成校である。というのも、マヒドン大学以外は国際義肢装具士協会(ISPO)の2級の認定校であるのに対し、ここのは1級。2級と1級の違いは何かと言うと、2級でも義肢装具士としては一人前なのだが、義肢装具士学校で教員になるためには1級が必要になって来る。
522ceremony.jpg
<タイ義肢装具士養成校助成事業終了式典>

そのため、タイ以外の各国の養成校の教員候補生は、それぞれの国で学んで2級を取得した後に、ここで2年間のアップグレーディングコースを終了して国際資格審査に臨むということになる。
世界の義肢装具士学校の中で、地域の学校間でこのような相互補完のシステムが出来上がっているのは東南アジアだけで、国際的にも高い評価を得ている。
しかし、このようなシステムが一挙に出来上がったのではない。日本財団は、最初は20年程前にカンボジアで義肢装具士学校支援に乗り出し、14年前にタイ政府に、国際レベルの義肢装具士学校の設立を持ち掛けた後、長い間、試行錯誤する中でこのような国際的ネットワークに辿り着いた、と言って良い。
そのプロセスでは色々な方にお世話になったが、今回の式典には、この14年間の間に、この事業に拘ってくれた人々が数多く顔を出してくれており、私は一人感慨に耽っていた。確かに、大勢の人に支えられて事業の成功はあるのである。ピアサコール前学長しかり、田沢博士しかり。
522danse.JPG
<マヒドン大学学生による伝統舞踊が式典に彩りを添えた>

08時半 ホテル出発
09時半 APSW女性社会起業家セミナー
11時 APSW出発
13時 クリサナさん打合せ
15時 ホテル出発
16時15分 新校舎見学
17時 タイ義肢装具士養成校助成事業終了式典
20時 渋谷ご夫妻
バンコクで理事長一行に合流する [2015年05月21日(Thu)]
5月21日(木曜日)
朝、チェックアウトをしにフロントに行くとマイケルさんが待っていた。彼も、今日の午前便で、家族の待つアメリカに1ヶ月振りに帰国するのだという。にも拘らず、わざわざ、見送りに来てくれたのだという。清算を待つ間、雑談。
2006年5月27日に、ジョグジャカルタ近郊でマグ二チュード6.4の地震が発生した。死者5,800人以上。ほとんどがレンガ造りの家屋が倒壊したことによる圧死と言われる。避難民は150万人 被災家屋は15万軒、加えて、地震がきっかけになって、ムラピ山の火山活動が活発化。火砕流を恐れて1万人が避難したという。ところが、その後、2010年には136年ぶりの大噴火が起きている。
521Merabi.jpg
<5年前に噴火したムラビ山、今も噴煙が棚引いていた>

マイケルさんによると、ムラビ山の大噴火はほぼ5年の周期なのだとか。確かに、私が前回立ち寄ったのが2006年。その次が、2010年だった。「じゃあ、今年も噴火の年。大変じゃないですか」というと、彼は平然と、噴火の前には避難勧告が出ます、と言う。
後で調べてみると、確かに2006年の5月15日に火砕流が発生した時は2日前の13日に避難勧告が出ていた。それでも、2人の死者が出ている。さらに、2010年の場合は10月26日に火砕流が起きたのだが、その前日に避難勧告が出た。しかし、この時の噴火の規模は極めて大きく、何と、138年ぶりの大噴火と言われている。26日の火砕流だけで、29人が死亡。最終的には、300人以上が犠牲になった。
521plane.jpg
<ジョクジャカルタ空港では歩いて飛行機に乗り込む>

空港へ向かう道路からムラビ山が見えた。
5年前に噴火したムラビ山は今も噴煙が棚引いていた。ジョクジャカルタの中心部からは30キロしか離れていない。
ジョクジャカルタ空港を発った飛行機は、ジャカルタを飛び越し、シンガポールへ。そこでバンコク行きに乗り換える。
バンコクに着いて、ホテルにチェックインすると私は直ぐさま、近くのスーパーへ買い物に出かけた。お土産の、タイ製のお菓子を買うためである。
ところが、空模様が怪しい。確かに、今は東南アジアの北半球部分は雨季である。南半球に属するシンガポールや、インドネシアとは状況が異なるのだ。
521sky.jpg
<空模様が怪しい>

既に、西の空が真っ暗だ。よほど、部屋に置いている荷物の中にある傘を取りに戻ろうかとも考えたが面倒だ。何とかなるだろうと、そのままスーパーへ。
買い物をして、外に出ると、果たせるかなそとは雨。しかし、激しいが短く降るのが特徴の南方のスコール。そのピークは既に過ぎたもののようで、雨は小振りになっていた。小雨の中を突っ切ってホテルに戻る。
夜は、プノンペンからバンコクに着いた日本財団の尾形理事長一行と合流。APCDの二ノ宮所長ら関係者とホテル内のタイ料理店で賑やかかな夕食となった。
521raining.jpg
<雨が降り出していた>

08時 ホテル出発
10時15分 ジョグジャカルタ発
13時30分 シンガポール着
14時30分 シンガポール発
15時55分 バンコク着
19時 関係者夕食会 
車椅子の組み立て工場を見学 [2015年05月20日(Wed)]
5月20日(水曜日) 
朝8時、障害者公共政策大学院(IDPP)の卒業生ジョニさんが夫人と一緒にやって来た。ホテルのレストランの屋外スペースで、朝食を取りながら話し合った。
ASEAN諸国の障害者の若者に公共政策の修士号を取ってもらい、ASEAN各国や国際機関で、障害者に関する政策、制度作りに従事してもらおうと言う目的で5年前に設立したオンラインコース。当初はASEAN域内の大学に本部機能を担ってもらおうと計画していた。
そして、公募に応募して来てくれた障害者の中から、ジョニさんが選ばれ、シンガポール国立大学に一期生として送り込まれたのだった。その時は、オンラインコースではなく、通常の滞在型のコースであった。
彼は、視覚障害者というハンディにも拘らず、優秀な成績で卒業し、その後、暫くは、IDPPの仕事を手伝ってくれていたのだった。
520joni.jpg
<ジョニユリアントさん夫妻とマイケルさん>

その一年後に、オンラインコースが始まったが、色んな経緯から、IDPPはアメリカン大学国際関係学院のマスターコースとして発足。しかし、現在ではアメリカン大学は撤退、代わって、マレーシアのマラヤ大学とマルティメディア大学、それに、フィリピンのアテネオデマニラ大学が加わり、文字通りASEANの修士号プログラムとして運営されている。
ジョニさんに彼が去って以降のIDPP事業の様子を説明するとともに、今後の方針について説明した。すると彼からは、今はIDPPに関与していないが、いつも、名誉ある一期生としてIDPPのことは誇りに思っているし、機会ある毎に宣伝している、という言葉が返って来た。
彼自身のその後を尋ねると、帰国後は、自身が中心になって設立したSIGAB(Institute for Inclusion and Advocacy of Persons with Disabilities) という名前のNGOを中心に活動中。その間に、シンガポール国立大学から選ばれて助成金を受けたり、今年に入ってからはアジア財団のフェローに選ばれてアメリカに行ったりと大忙しだとか。
520UPC.JPG
<UCPウイールズの本部前で>

食事の後、マイケルさんも加わり、4人一緒で暫し懇談。ジョニユリアントさん夫妻と別れ、マイケルさんが運転する車でUCPの工房に向かった。道々、マイケルさんから話を聞いた。UCPの正式名称はUCP Wheels for Humanity。設立は1996年。これまでに世界70カ国で活動したが、現在、海外支部があるのはここインドネシアとエルサルバドルのみ。
UPCインドネシアの設立は6年前の2009年。マイケルさんは昨年まで責任者として奥さんと一緒にジョクジャカルタに住んでいたのだと言う。
彼によると、インドネシアには3000万人の障害者がおり、うち、200-300万人が車椅子を必要としているが、貧困者が多く、経済的に手に入れることは困難だという。
520mfg.jpg
<障害者の人たちが組み立てを行っていた>

ジョクジャカルタ州は今もスルタンが、知事という立場ではあるが州を統べているインドネシアで唯一の場所であるが、このスルタン知事は障害者支援など民生に熱心で、昨年、全土に先駆けて州独自の健康保険制度を導入、障害者の半数が加入。ジョクジャカルタ州は障害者政策ではインドネシア最先端の州なのだ。これには、ジョコビ大統領も注目しているのだとか。
UCPインドネシアの本部に着いた。副代表のヘニさんがマイケルさんと一緒に、内部を案内してくれた。事務所では5-6人のスタッフ、大きな建物は倉庫。ジャカルタを初め、上海などの部品メーカーから購入したというパーツが並んでいた。ベトナム製のものもあった。倉庫の片隅に作られた組み立て工房では3人の障害者が働いていた。車椅子以外にも、三輪車なども作る。手押し式のユニークなものもあった。
520handcar.jpg
<車椅子以外にも様々な乗り物が作られていた>

スリさんという車椅子の女性スタッフは、インドネシアでは有名人物だ。彼女は、一昨年、ジャカルタ・バリ間1200キロ走破したのに続き、昨年には、アチェからジャカルタまで2200キロを走破。インドネシアのテレビや新聞がニュースに取り上げ、大統領就任直前のジョコ・ウィドド氏に面会の機会を与えられた。そして、彼の大統領就任式にも招待された。
彼女は23歳の時に、交通事故で半身不随の身になった。その後、10年間ほどは死にたいと思っていたという。しかし、ボランティアで視覚障害者のための点字図書制作に参加したのをきっかけに、生き方を変えた。そして、その数年後、車椅子でも運転可能な改造バイクを手に入れたのをきっかけに、積極的な姿勢に転じ、今ではUCPインドネシアのスタッフとして活躍している。
520SriLestari.jpg
<愛車に乗るスリさん>

私は、マイケルさんに昨年WHOが初めて開催した障害者支援技術(Assistive Technology)関係者が集まる国際連携(Global Alliance)の会議の場で初めてマイケルさんに会ったのだが、その時まで車椅子が、丁度、義足のように一人一人のユーザーの年齢や、身長、体型にあわせてカスタマイズしないといけないということを知らなかった。
マイケルさんが、その時に私に持ち掛けたのは、日本財団が東南アジア6カ国において築き上げて来た義肢装具士の専門教育機関のネットワークを、車椅子の世界でも実現出来ないか、という観点からの協業であった。
そして、今回私は、マイケルさんのお陰で彼の話がいかに正しいか、にも拘らず、如何に理解されていないか、を学んだのであった。
520newwheelchair.jpg
<ユーザーのためにカスタマイズされた専用車が完成>

マイケルさんは、先ず最初に私を案内して、UCPの工房に隣接する車椅子のクリニックに私を案内してくれた。そこには、14歳の脳性麻痺のリンダン君という男の子が両親と一緒に車椅子専門家の説明を受けていた。聞くところによれば、生まれつきに骨の障害を負ったリンダン君の両親は、彼が7歳の時に市販品の中国製車椅子を買い与えたという。
7年間使い続けて来た訳だが、UCPの専門家によれば、市販のものをカスタマイズしないで使い続けて来た結果、無理な姿勢での装着となり、彼の内蔵には無用の負荷がかかった結果、このままでは重篤な病気になることが必須だったという。
そこで、UCPでは、彼のサイズと身体状況に合わせた車椅子を制作。今日がその初めての装着指導の日なのだとか。
520customer.jpg
<車椅子利用者の家庭を訪問>

その後、UCP制作のカスタマイズされた車椅子のユーザー家庭を2カ所訪問した。
いずれも、貧しい家庭であったが、特に最初に訪れたハルディンさんという名前の若い男性の家は、父親も先天性の身体障害者、妹はダウン症という家庭で、貧しさが胸を突いた。
私は当初、「自分の子供は見せ物ではない」と家庭訪問を拒絶されるのではないかと、密かに心配していたのだが、どの家族も至って陽気であった。
恐らくは、娯楽や息抜きが滅多に無い家庭で、外国人の訪問が珍しかったのか、我々の訪問を嫌がるどころか、楽しんでいる様子であった。
いずれの場合も、UCPのお陰でカスタマイズされた車椅子のユーザーとなり、それまでと比べると格段に生活の幅が広がった。しかも、健康面でもリスクの少ない車椅子を使うことが出来るようになった、と喜んでいた。
私にとっては、車椅子の深い世界を知った一日だった。

08時 ジョニユリアントさん
09時45分 ホテル出発
14時45分 UCPWheels本部訪問
19時 夕食会 
ジョグジャカルタへ [2015年05月19日(Tue)]
5月19日(火曜日)
今日は、ジョグジャカルタへ。先ずは首都のジャカルタへ飛ぶ7時間余りの空の旅。その行程の殆どが厚い雲の中。気流のせいで飛行機は揺れっぱなしだった。
ジャカルタ空港では、3時間の乗継ぎ時間を利用して、入国手続き。そして、一旦荷物を引き取り、それを、空港内の国内線乗継ぎカウンターに運び、ジョグジャカルタ行の手続きをした。
私にとって、ジョグジャカルタは実質的には初めて。ただ、9年前の2006年8月の初め、白内障治療の現場視察でヘレンケラーインターナショナルの人たちとロンボク島へ行った帰りに、ジャカルタ行きの飛行機が経由地としてジョグジャカルタに着陸したことがあった。
その時は直前に大きな地震があってターミナルビルが一部大破していたし、上空から見た市内のあちこちにオレンジやブルーの仮設テントが見えた。そして、ムラビ山が噴煙を吹き上げて騒然とした雰囲気に包まれていたことを思い出す。
519clouds.jpg
<行程の殆どがぶ厚い雲の上だった>

しかし、その時は市内に立ち入った訳でもなく、ジョクジャカルタを見たとは言えない。今回の旅は、その時以来なのだが、インドネシアの古都としてボロブドゥール遺跡などで有名な観光地であるだけでなく、インドネシア大学と並ぶ有名大学であるガジャマダ大学と、インドネシア・イスラム大学というIDPPのパートナー校両校の本拠地でもあることから、一度ちゃんと行ってみたいと思っていたのだった。
何年も前に訪ねたことのあるソロ(別名、スラカルタ)と同様に、ジョグジャカルタもジャワ更紗(バッティック)の産地として名高い。というのも、元々はソロと同じスルタンが治める王国に属していたという伝統のある場所だ。
ジョグジャカルタについて私が知っていたもう一つのことは、ここが、独立後のインドネシアでは例外的に世襲制のスルタンが治める国であるということ。
519mochi.jpg
<ジャカルタ空港にはなぜか日本の餅菓子を売る店が>

それは、インドネシア独立の際、他のスルタンがオランダ側についたのに対し、ジョグジャカルタのスルタン・ハメンクブオノ9世のみは独立運動側についたため、その功績から独立後も、ここだけが例外的にスルタンが州知事として統治することを認められたという経緯を持つ。ただ、最近では、スルタンに後継者がいないこともあり、今後このユニークな制度をどうして行くのか、論議されているようだ。
今回のジョクジャカルタ行きには3つの目的があった。車椅子を制作している米国のNGOであるUCPの工房を見学すること、IDPPの卒業生のジョニさんに会うこと、そして、もう一つがインドネシア最大の伝統医薬メーカー、シドムンチョルの幹部と会うことだった。シドムンチョルにはインドネシア盲人連盟に紹介を頼んでいたのだが、結局、時間までに連絡無し。
519sultan.jpg
<これがスルタンで知事のハメンクブオノ9世>

夜の8時を過ぎていたが、ジョクジャカルタ空港にはUCPのマイケルさんがわざわざ来てくれていた。
外は蒸し暑いが、暑さはそれほどでもない。インドネシアは南半球。雨季入りしたばかりのバンコクやヤンゴンとは逆に、これから乾季が始まるのだとか。
車の中で明日のスケジュールの打合せ。明日朝一番にIDPPの卒業生の視覚障害者の若者と会うのだと言うと、「ひょっとして、ジョニさん?」とマイケルさん。「えっ、彼を知ってるの?」と私。車椅子事業は障害者関連とはいえ、視覚障害者との付き合いはあるまいと思い込んでいたのだが、マイケルさんは何と、ジョニさんとは、6年前からの知りあいであることが判明。
急遽、明日の朝、三人一緒に会うことになった。
519airport.JPG
<ジョクジャカルタの小さな飛行場>

10時15分 羽田発
15時55分 ジャカルタ着
18時25分 ジャカルタ発
19時40分 ジョグジャカルタ着
ブログパーツ レンタルCGI