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大野修一(日本財団)
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帰国 スリランカ北部州の学校の写真あれこれ [2013年03月30日(Sat)]
3月30日(土曜日)
今日は帰国日。午前7時半にホテルをチェックアウト、空港へ。週末なのでさしたる渋滞もなく、8時過ぎには空港に到着。ところが、私が乗る予定便のカウンターの前には長蛇の列。様子がおかしいと思っていると、場内アナウンス。それによると、航空会社のコンピューターがダウンし、現在、修復作業中。少し搭乗手続きの開始が遅れるので暫く待つようにとのこと。
しかし、暫く経つと今度は、修復出来ないので手作業での搭乗手続きに切り替えることにしたとのアナウンス。それから更に時間が経って、ついに手作業での手続きが始まった。コンピューター故障の結果、バンコクからの乗り継ぎ便のボーディングパスは、同じタイ航空機であるにも関わらず発行出来なくなり、バンコクで再度手続きするようにとの指示。結局、出発は定刻より1時間以上遅れる事になった。
耳の状態が心配であった。ヤンゴンからの離陸時は可成り順調でティンニュントさんにもらった薬が効いたかと喜んだのだが、バンコクへの降下が始まるとやはり痛みが襲い、着陸後は耳が塞がれたような感覚で、難聴状態が深刻化していた。
飛行機の到着が大幅遅れとなったので、バンコク空港からさらに他の便に乗り越えようとしていた乗客たちは大慌てであった。幸い私の方は、バンコクで羽田行きへの乗り換え時間が当初、3時間もあったので、1時間少し遅れたところで乗り継ぎには問題なく、予定通り午後3時のバンコク発の便に乗り継ぐことが出来た。
羽田にはほぼ定刻の夜の10時半に到着。無事帰っては来たが、耳の調子は絶不調。痛みと難聴状態を抱えての帰国となった。
さて、以下にスリランカの北部州(Northern Province)で日本財団が校舎の修復を支援した事業の具体的な中身を理解して頂く為、全110校の1つであるヴェンポドゥケニ小学校で撮影した写真を数枚掲げることにする。
ご覧の通り、「修復」というよりは実態は「新築」に近いものだ。校舎の新築には厳格な規制があり、手続きやコスト面での負担が大きいという。そこで、旧校舎の跡が少しでも残されている限り、それを利用した修復にすることで経費と時間が節約出来た。現に、新築事業は国際機関のコミットにも拘わらず、ほとんど進んでいないと聞いた。
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<修復してきれいになったヴェンポドゥケニ小学校の校舎>

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<きれいになった校舎の左に見えるヤシの葉屋根の建物がこれまで使っていた仮校舎>

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<ヤシの葉で覆っただけの仮校舎には窓もドアもない>

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<黒板もない...>

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<校庭の中央に立つ木は銃弾の跡だらけ>

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<新校舎の前には落成を祝う儀式の祭壇が作られていた>

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<ヒンズー教徒のタミル人のため祭壇はヒンズー式>

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<仏教の高僧の講話に耳を傾けるヒンズー教徒のタミル人学生たち>

07時半 ホテル出発
11時 ヤンゴン発
13時 バンコク着
14時50分 バンコク発
22時30分 羽田着
モバイルクリニック事業の新体制 [2013年03月29日(Fri)]
3月29日(金曜日)
朝起きて外を見ると、昨日までのギラギラとした太陽は無い。今日は曇り空が広がる。これなら幾分、暑さが和らぐかも知れない。
朝9時、ホテルのロビーでティンニュント博士と打合せ。彼は保健省の元伝統医療局長。今は、ヤンゴン最大の私立の小児科病院で勤務する傍ら、ミャンマー医師会の幹部として社会奉仕事業にも熱心だ。日本財団のミャンマー事業のアドバイザーとしても、数多くの事業を手伝ってもらっている。
そんな訳で、私はミャンマー出張の都度、彼と打ち合わせの時間を持つことにしている。今回も、沢山の懸案について相談。また、この機会を利用して私の耳の状態についても打ち明け、アドバイスを求めた。
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<コロニアルスタイルが美しい市庁舎の中庭>

すると、彼はこともなげに、午後、ミャンマー医師会で会う時までに薬を準備しておくから心配するなと言ってくれた。「Don't worry」はティンニュントさんの口癖。どんな時にも冷静さを失わない人なのである。
ホテルでの打合せの後、中嶋君も一緒に3人でヤンゴン市庁舎に向かった。数か月前にヤンゴン市長のフラミンさんと合意した救急車用車両の寄贈問題について、市庁の担当者と打ち合わせを行うためである。
ヤンゴン市の市庁舎は、コロニアルスタイルが美しい建物である。前回は市長との面談であったので豪華な市長用来客応接室に通されたのだが、今回は廊下を通って、担当者の執務室に。市庁舎の廊下は、昔の小学校の雰囲気を漂わせ、どこか懐かしい感じがした。
市庁舎でのミーティングの後、私と中嶋君は大急ぎでホテルに戻った。日本大使館の丸山公使とお目に掛ることになっていたためである。
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<どこか懐かしい感じのする市庁舎の廊下>

途中の道すがら、警察署の前を通った。宗教暴動で少しは緊張感が漂っているかと思ったが、いつもと変わった様子はなく、肩透かしであった。
ところで、面白いことに、この警察署に限らず、ミャンマーの警察署には何故か英語で書かれたMay I help You?という看板が掲げられている。警察の民主化姿勢を示すもののように見える。しかし、実際は新体制になって始まった訳ではなく、管理国家として悪名をはせた旧体制時からのものだ。当時としては、ミャンマー国民は思わず、No thank youと言ってしまいそうになったのではないだろうか。改革派で知られたキンニュン首相の時からだと聞いたことがあるが、真相はどうだったのだろう。
さて、ホテルに戻った後、身づくろいをして私はレストランに急いだ。しかし、丸山公使はその前のスケジュールが長引いたために到着が遅れ、結果的には、公使に代わってミャンマー事情に詳しいN書記官のお話を伺うことで殆ど終始。特に、現在進行中の宗教対立の背景とその本質について、豊富な現場経験を踏まえたお話で非常に面白く大変参考になった。
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<警察署にはMay I help You?という看板が掛かる(左側のグレーのもの)>

食事を終えて立ち上がろうとして、隣のテーブルに旧知のFinancial Timesの記者のGさんが座っているのに気が付いた。挨拶すると、彼女は開口一番、「おめでとう。日本財団は素晴らしいスピードでミャンマー事業を展開しているのね」と言ってくれた。
「次回は、是非ゆっくり話を聞かせて」、という彼女の言葉を背に、中嶋君と私の二人は急いで退出。モバイルクリニックの定期協議に参加するためである。
ホテルの前から、モバイルクリニック本部の車に乗せてもらって、ミャンマー医師会へ。奥さんの病気の看病のために辞任したティンウィンチョーさんに代わって、先月、プロジェクトの責任者に就任したばかりのチーミント博士とは初顔合わせ。
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<バイルクリニックの車でミャンマー医師会へ>

彼の報告によると、責任者交代にも拘わらず、現場での事業は順調に進んでいるようで、カレン、モン両州合わせた受診者数は月間およそ3000人のペース。これまでに、約1万5000人の診察が実現した勘定。総て、この事業が始まるまでは政府の医療サービスの埒外に置かれていた人たちばかりである。
当面は、この二つの州での体制を維持するつもりだが、早晩他の州からも要請が出ることは確実で、当初からの次の予定地域であるシャン州などへの拡大が課題になってこよう。
医師会でのミーティングの際に、約束通り、ティンニュント博士は私の耳のための薬を持って来てくれていた。期待を込めて、早速、服用する。
夜は、ティンニュント博士と中古車両の手配でお世話になっているアウンリンさんを交え、中嶋君と4人でミャンマーヌードルレストランで夕食。

09時 ティンニュント博士
10時半 市庁舎訪問
12時 日本大使館丸山公使
14時 ミャンマー医師会モバイルクリニック会議
18時 ホテル出発
18時半 アウンリンさん
テインセイン大統領が国民に対し冷静を呼びかけ [2013年03月28日(Thu)]
3月28日(木曜日)
一晩ぐっすり眠れば耳の不調も治るかと期待して、昨晩は早めに床に就いたのだが、今朝になっても改善は見られず、相変わらず難聴状態が続いていた。
朝9時、チーチーさんが社会事業家のお姉さんニェインニェインさんと一緒に、ホテルにやって来てくれた。チーチーさんは、日本財団の奨学金を受けてフィリピンとコスタリカで学び、国連平和大学の修士号を獲得、卒業したあと今は国際NGOなどで活躍中の元気で溌剌とした女性である。
今回は、MILIが始めることになった福祉タクシービジネスなどについて相談。障害者に対するビジネスのための基礎知識のトレーニングなどを、彼女たちに手伝ってもらうことになった。
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<普段通りのにぎわいを見せる通り>

チーチーさん姉妹とのミーティングの後、次の予定まで珍しく時間があったので、市内の情勢を見ようと、イスラム教地区を通って、アウンサンマーケットまで行って見ることにした。私にとっては、久し振りの街歩き。アウンサンマーケットに行くのは何年振りだろう。
途中、無数の仏教旗が万国旗のようにはためく路地の前を通った。路地の入口には高僧の大きなポートレート写真も掲げられている。一昨日の満月の飾りの名残か、それとも、仏教寺院の建立のための喜捨を求めるものだろうか。
それは兎も角、この通りは大勢の人でいつも通りに賑わっていたが、モスクの前の隣の通りは全くの閑散状態。宗教対立の余波がここまで及んでいるのだろうか。
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<そのお隣の回教寺院の前の通りでは誰もいない>

アウンサンマーケットに着いて、中に入ってみて驚いた。私の知る限り、ここはいつもミャンマー人や外国人の買い物客、観光客で賑わっていたものだが、今日はガラガラ、全く閑古鳥が鳴いている状態。
近くの店の売り子に聞いてみた。私が買い物客でないのを知ると、がっかりした様子で言った。「今日もダメ。お客さんが来てくれない。これじゃ商売にならない」
安くするから買ってくれという声を尻目に、マーケットから外に出た。
市内は平静だが、とばっちりを警戒して出てこない市民が大勢いるということだろうか。昨日の夜、顔見知りのホテルの従業員がひそひそごえで言っていた言葉を思い出した。「これまで回教徒をこれほど怖いと思ったことはない。今回が今までで一番怖い。タクシーも怖がってこの地区には来てくれないので、夜になってホテルの仕事が終って、家に帰ろうと思っても足がないので困る」
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<アウンサンマーケットの中は閑古鳥が鳴いていた>

午後2時、日本財団の職員で医療事業などを担当する中嶋君と一緒にホテルを出発、飛行場に近い場所にあるMILI本部を訪問した。
中嶋君が持ってきた、中古車両の写真を示してMILIが始める福祉タクシー用の車をネイリンソーさんらMILIの幹部たちに選んでもらうためだ。
その後、昨日のチーチーさんたちとの打合せを踏まえ、福祉タクシーの事業運営体制や、そのための必要知識の研修などについて協議。
さらに、ベトナムで始まった障害者ファイナンス事業について私から報告したり、障害者芸術祭など日本財団の支援でMILIが進めている他の事業の進捗状況などについても打合せ。
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<MILI本部で打ち合わせ>

その後、MILIが最近始めた障害者用FMラジオ放送用に、本部の2階に設けられた録音スタジオでインタビューに応じた。日本財団のミャンマーでの支援活動の概要と、アジア地域、ミャンマーでの日本財団の障害者支援の取り組みについて30分ほど話した。日本語の一番上手なユヤトゥーさんが私の日本語をミャンマー語に翻訳し、ラジオ局から流すことになるそうだ。
インタビューの後は、事務所の隣に設けられた研修室で進行中の若手障害者指導者養成講座での講話を求められたので、30分ほどここでも、ユヤトゥーさんの通訳のもと、日本財団のミャンマーでの活動概要や障害者支援の取り組みについて話した。15人の参加者に日本財団の活動について聞いたことがあるかと尋ねたところ、シャン州からの参加者は学校建設を、カレン州からの参加者はモバイルクリニックを挙げた。日本財団の活動がミャンマー国内では広く認識されていることが伺われ嬉しく思った。
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<若手障害者指導者養成講座が進行中だった>

ホテルに戻り、テレビの地元チャンネルをつけると、ニュース番組では宗教暴動の跡地を警戒する警察官の姿を報じていた。やはり、宗教暴動が最大のテーマらしい。その後、高僧らしき人の説話の画面が流れたが、前後の感じからして宗教対立を戒めるものではなかったろうか。その後、今度はテインセイン大統領やが現れ、長時間にわたり何やら熱心に話していた。翌日の新聞によると、これも国民に対し暴力を戒め平静を呼びかけるものだった。
夜は、日本財団から出張中の中嶋君、4月からの当地での駐在が決まっている梅村君も交えて、身内だけ3人で夕食を取った。
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<テレビを通じて国民に平静を呼びかけるテインセイン大統領>

09時 シナジー社チーチーさん
14時 ホテル出発
15時 MILI本部訪問
19時15分 夕食 
早朝のヤンゴン到着 [2013年03月27日(Wed)]
3月27日(水曜日) 
コロンボ空港からバンコク行きの飛行機に乗り込んだ。時間は深夜1時、飛行機は暗闇の中を上昇する、幸い耳は痛くならない。食事も飲み物も断り座席を後ろに倒し横になる。
しかし、少し眠ったと思ったら、客室乗務員に起こされた。座席を元の位置に戻すよう指示される。バンコク空港への着陸態勢に入ったのだ。窓の外を見ると、既に朝焼けが始まっていた。
時刻表上はバンコク到着は朝の6時過ぎ。ただ、コロンボとバンコクの間には、1時間半の時差があるので、飛行機が空を飛んでいる時間は3時間ほどに過ぎなかった。
飛行機が下降を始めると同時に、急に耳が痛くなった。そして、バンコクで飛行機から降りても耳は詰まったまま、聞こえにくい状態がずっと続いた。
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<バンコク到着は、朝の6時過ぎ>

バンコク到着後、1時間余りでヤンゴン行きに乗り換えた。1時間ほどの短いフライトだったが、ここでも、飛行中は治まっていた耳の痛みが下降が始まると再び痛くなり、ヤンゴン到着後は耳詰まりが続いただけでなく、耳が本当に聞こえにくくなってしまった。
朝のヤンゴン市内をタクシーでホテルに向かう。いつもは、ひどい渋滞が生じる陸橋工事現場でも今朝はスムーズ。そう言えば、ミャンマーは昨日の満月の日に続き、今日も国軍創立記念日で公休日、学校も会社も連休中なのだった。
いつものホテルにチェックインして、一先ず部屋で一眠りする。コロンボから夜行便を乗り継いで早朝の到着であったので、ホテルの部屋を前日から予約してあったのだ。
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<いつもはひどい渋滞が生じる陸橋工事現場>

昼過ぎに目を覚ましたが、耳の不調は続いたままだった。テレビをつけた。音量が小さく聞きにくいので、リモコンを操作して大きくしてみてから気が付いた。音量が小さいのではなく、自分の耳が聞こえなくなっているのだ。
テレビの画面には、先週の水曜日にマンダレー州のメイッティラで生じたイスラム教徒と仏教徒の間の暴動のあとの惨状が映されていた。メイッティラでの死者は、当初の発表より8人増え40人になったようだ。しかもその後、暴動はマンダレー州以外にも飛び火したと報じている。ヤンゴン州政府も、住民に対し冷静に行動するよう異例の呼びかけを行い、煽動している者を見つけた場合は報告するよう求めている。事態は予想外に深刻化したようだ。
しかし、セイダナーの和田さんが転送してくれた在ヤンゴン日本大使館が現地駐在の邦人に呼びかけた注意情報のメールでは、暴動が飛び火したパゴー州での警戒を呼びかけてはいたものの、「ヤンゴン中心部においては,現在のところ暴動・デモ等に関する具体的な情報にはが入っていません」と述べていた。
テレビのニュースを見終わったのち、近くのスーパーへ昼食がわりの果物を買いに出かけた。気温は35度を軽く超えていたのではなかろうか。午後の日差しが強烈だった。
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<真夏の日差しが照るつける>

夕方、さっとシャワーを浴びた後、マルハン銀行のヤンゴン駐在員事務所に出掛けた。休日にもかかわらず、カンボジアの本店から出張中の大西頭取を始めとする幹部職員の皆さんが集まってくれていた。
マルハン銀行が得意とするマイクロファイナンスについて、また、障害者インクルーシブ・ビジネスに対するファイナンス・スキームについて、ベトナムのダナンで始めた事業を紹介しながら日本財団の考え方を説明し、コメントを頂くなど、大変有益なお話を伺うことが出来た。
会議の後は近くのレストランで夕食をご馳走になった。その際、ミャンマー人の幹部の方から、宗教暴動について最新の内部情報を頂いた。それによるとヤンゴンでも事態は結構深刻なようで、デマも含め色んな噂が飛び交っているという。米国大使館は米国民には市内でも十分に警戒するようアドバイスしている由。
また、ヤンゴン市当局は市内での酒場などでは夜9時以降の営業を禁止する通達を出した。私の滞在するホテルもイスラム系住民の居住地域に近いので十分注意するよう言われてびっくり。
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<マルハン銀行ヤンゴン駐在員事務所の立派なオフィス>

01時20分 コロンボ発
06時15分 バンコク着
08時00分 バンコク発
08時45分 ヤンゴン着
17時 マルハン銀行ヤンゴン駐在員事務所訪問
毎月、満月の日は休日! [2013年03月26日(Tue)]
3月26日(火曜日)
昨夜、遅い夕食を済ませると、一日の行程を付き合ってくれたマヒンダ顧問らセワランカ財団のメンバーは、研修所で宿泊せず一足先にコロンボに帰って行った。
そんな訳で、今朝はウデニさんと私の二人だけで朝食。そして、朝7時半に研修所を出発、コロンボに向かった。バブーニヤの研修所を出ると、道路の両側の湿地帯は、一昨日まで数日降り続いていたという季節はずれの雨のせいで、水で溢れていた。
バブーニヤは、内線当時は政府軍支配地区だったが、反政府武装勢力「ターミールの虎」支配地域と政府軍支配地域の最前線で、街の直ぐ北側で両軍が睨み合っていたところ。しかし内戦集結後、中央政府主導で復興工事が進み、新しい建物が沢山出来ていた。また、道路事情も格段に良くなった。道路脇ではインドの支援による線路建設も進んでいた。
ここからコロンボへは、南に260キロほどの距離。しかし、以前よりは早く行けるようになったとはいえ、車ではコロンボまでは約5時間が必要。
昨日の朝、ジャフナ空港に着いてから研修所までの間に走った距離は230キロというから、二日間で約500キロを車で移動するということになる。昨日の車中で冷房にやられ、どうやら風邪が悪化したようで、耳の不調も直らないので、車の冷房をギリギリまで緩めてもらい、私は車の後ろで横になった。
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<季節はずれの雨で湿地は水で溢れていた> 

出発して間もなく、ヒンズー教寺院の前で、タミル人の運転手が車を止め外に出た。道中の無事を祈って、お参りをしたのだった。ふと見ると、シンハリ人のウデニさんも、車の中からヒンズー寺院に向かって、祈るような仕草をしたので、「あなたは仏教徒ではなかったの」と聞くと、「いや、家内は仏教徒だが、自分はキリスト教徒」という答え。「えっ、じゃあ日曜日には教会に?」と聞くと、「毎週末ではなく、お祭りの時はね。でも、家内と一緒に仏教寺院にも行くし、ここでは、ヒンズー寺院にもお参りするよ」とけろっとしていた。
昨日の学校でのヒンズー教の儀式を仏教僧が取り仕切った事と言い、ウデニさんのヒンズー教に対するこの姿勢と言い、誰もが他の宗教にこのように柔軟に対応できるのであれば、世界の紛争のかなりの部分が無くなるのに、と思わないではおれなかった。
ジャフナからの道すがらでもあちこちで見かけた大統領と弟のバジルさんの写真を掲げた大きな看板が、ここでも至る所に掲げられていた。大統領の人気はコロンボの知識人の間では低下気味だと聞くが、素朴な田舎のシンハラ人たちの間では未だ健在だ。そこで、任期を残して、来年にも前倒し選挙に踏み切るのではないかという噂があるという。
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<大統領と弟のバジルさんの写真を掲げた大きな看板>

バブーニヤを過ぎると、ヒンズー寺院に代わり仏教寺院が増えて来た。仏教徒中心のシンハラ人地域に入ったのだ。お寺の周辺には、黄色や赤,白など5色の縞が並ぶ旗が多数掲げられていた。19世紀にスリランカで考案され、20世紀に入り世界仏教徒会議で正式に採択されたと言う仏教旗だ。
何でも、今日26日は満月なので、朝から家族でお寺に参拝しなくてはならない。マヒンダ顧問らセワランカ財団のメンバーが、昨夜遅くコロンボに帰って行ったのも、その為だったのだとか。
そう言えば、ミャンマーでも今日は満月で休日だと言っていたのを思い出した。「へえ、ミャンマーと同じだ。でも、スリランカでは休日じゃないでしょう」と尋ねると、「スリランカでも休日です」との答えが返って来た。「えっ、そうなんですか。3月の満月は特別なんですね」と聞くと、「??」暫くのやり取りの後、判明したのは、スリランカでは毎月、満月の日はお休みなのだということ。
しかも、この日は、禁酒日でもあるという。今日は、お酒の販売が禁じられているだけではなく、レストランでも酒類は提供されない、と言うではないか。「でも、外国人のいるホテルなんかは勿論例外でしょう」と私。
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<美しいコロニアルスタイルの建物が残るコロンボ市内>

いえいえ、部屋でミニバーの酒を飲むことは出来るかも知れませんが、ホテル内では外国人であろうと、仏教徒でなかろうと、一切、お酒は飲めません」というではないか。しかも、最近始まったものではなく、ずっと昔からで、以前は、日本料理店などではこっそり飲ますところもあったそうだが、最近は罰則が厳しくなり全く不可能という。
知らなかった。これまで何回もスリランカに来ていながら、私はうかつにも全く知らなかった。タイでも一年に何回かはそんな日があるのは知っていたが、スリランカでは、毎月の満月の日が、禁酒日でそれが厳格に守られている、というのは知らなかった。ふむ、今日は夜はダヤシリさんたちと、一杯やるつもりでいたのだが、、、。
コロンボ市内に到着。大統領府の建物には国旗と並んで仏教旗が翻っていた。今日はお役所はお休みなのだ。大統領府の前の海岸では、休日を楽しむ家族連れが大勢繰り出していた。上空には沢山の凧が浮かんでいた。
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<大統領府の建物には国旗と並んで仏教旗が>

午後1時、コロンボ市内のホテルにチェックイン。風邪っぽいので少し迷ったが、身体が埃だらけだったので思い切ってシャワーを浴びると清々しい気分になった。セワランカ財団のハルシャ会長との昼食は午後2時。それまで、ベッドに横になろうかと考えたが、車の中で十分休んだので、今夜の出発に備えて荷造り。
午後2時、ハルシャさんとホテルの横のショッピングモールにあるカフェでサンドイッチを取りながら打合せ。その後、大統領顧問のラリット博士と三人で打合せ。博士は普段は、大統領顧問として大統領府で働いているのだが、今日は休日とあって、私の滞在するホテルにまでわざわざ出向いて来てくれたのだった。その後、笹川トラスト前会長のダヤシリさん、サンケンランカの田原さんらと夕食を囲んだ。ホワイトワインがあれば、もっと良かったのだが、、、。
夜10時、ダヤシリさんの運転する車で、空港へ。深夜1時発の夜行便でバンコクへ飛び、そのまま乗り継いでヤンゴンへ入るのだ。だが、果たして耳は大丈夫だろうか。不安を抱えたまま飛行場に向かった。

07時半 セワランカ財団バブーニヤ研修所出発
13時 ホテルチェックイン
14時 セワランカ財団ハルシャ会長
15時 ラリット大統領顧問
19時 笹川トラスト前会長ダヤシリさん
22時 ホテル出発
北部少数民族地域での長い一日 [2013年03月25日(Mon)]
3月25日(月曜日) 
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<コロンボ市内の国内線専用空港は軍用空港>

2時間半ほど寝ただけで、4時半に起床。5時にホテルをチェックアウト。セワランカ財団のマヒンダ顧問とウデニさんとの三人で、暗い中をコロンボ市内の国内線専用空港へ。田舎の鉄道駅のような小さな待合室で7時過ぎまで待たされた後、歩いて滑走路の隅で待つ飛行機に案内される。
確か、この国内線専用空港は内戦当時は軍用空港だった筈。駐機中のスリランカ空軍の輸送機や大型ヘリを横目に向かった先には、小さな飛行機が待っていた。12人乗りのセスナ機だった。
0325sesna.jpg 
<コロンボからジャフナへ飛んだ小型のセスナ機>

満員の乗客を乗せてジャフナへ1時間半の空の旅。始めのうちこそ雲が覆っていたが、途中からだんだん晴れ間が増え、ジャフナに着くころには青空が覗きだした。しかし、下界にはいたるところに水面が広がっていた。ここ数日は大変な雨だったそうで、道路も畑もあちこちが水浸しになっていたのだ。
しかし私は外を眺める余裕は余りなく、気圧調整機能もないセスナの機内で耳の痛みに苦しんでいた。特に、着陸の直前は声を上げそうになるほどの激痛に襲われた。着陸した後も、耳の具合がおかしく人の話がよく聞こえない。 
0325airfield.jpg 
<ジャフナの飛行場は野っぱらのような佇まい>

ジャフナ飛行場では、セワランカ財団の現地スタッフに加えて、北部州(Northern Province)を統括する仏教寺院からナンバー2という偉いお坊さんが来てくれていた。今日の私たちの行程に同行してくれるのだという。はて、ここはヒンズー教地区の筈だがと思ったのだが、ここにも、仏教の聖地があり大きな仏教寺院もあるのだそうな。特に、この地を今も管理する国軍は仏教徒のシンハリ族が占めているので、お坊さんの権威は大変なものだとか。何と、偉いお僧さまがおられると言うので、我々の車は警官3人を乗せたパトカーのエスコート付きだった。
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<再建された学校を見る高僧と護衛の警官>

先ず最初に案内されたのは、空港から30分ほどのところにあるポンパラマンタ小学校。生徒数70人という小さな学校であった。今日は、新学期の初めで、11時から恒例の全校競技会だとかで、生徒達はまだ登校していなかった。
ここでは、2つの校舎が修復され、今年の1月から使っているという。きれいになった校舎のそばには、完全に屋根も窓もなくなった建物の一部の壁だけが悄然と立っていた。校庭の脇に聳え立つ大きなヤシの木の幹には、無数の砲弾の跡が残るなど、この場所が激しい戦闘の舞台になったことが窺われた。
0325school012.jpg
<学校の庭のヤシの木は弾痕だらけだった>

学校に立ち寄った後、北部州の庁舎に向かった。州知事を表敬するためである。ところが、向かっている途中に、州庁から電話が入った。知事が、大統領から急遽コロンボに来るよう指示されたため、我々とは会えなくなったとの連絡。そこで、車は方向転換。もう一つの学校に向かうことになった。 
ユニオンカレッジ付属小学校というその学校は、生徒数1200人という大きな学校であった。期初のテストの真っ最中。日本財団の支援で修復された校舎だけでは大勢の生徒を収容しきれないためか、戦闘の傷を残したまま屋根だけを応急修理しただけのボロボロの校舎で、生徒達が一心不乱にテスト用紙に向かっていた。
私達は、声を潜め足音を立てないよう気をつけながら、少し見回っただけで外に出た。
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<テスト中の校舎はまだ未修復>

次いでムハマライという小学校に案内された。学校への入り口脇の草原に地雷危険の標識があった。ここは戦闘の悪化に伴い、10年ほど前に住民が立ち退きを求められた後は、両勢力の緩衝地帯として無人の原野になっていたという。多数の地雷が埋められた為、学校の敷地内は地雷除去作業が行われたそうだが、周辺の原野まではまだ除去出来ていないという。
校庭の一歩先には地雷の所在を警告するどくろマークの付いた赤い看板と、英語、タミール語、シンハラ語で警告が書かれた黄色いテープがはられている。子供たちが、サッカーボールを誤って飛ばしてしまったらどうするのだろうかと心配になった。
先生10人生徒1200人が勢揃いして、炎天下の校庭に並んで我々を出迎えてくれた。州教育庁からお役人が来て、ヒンドゥー教に則って新校舎落成のお祓いをするというのだ。不思議なことに、儀式を執り行ったのはヒンドゥー僧ではなく、我々に同行していた例の高僧だった。ウデニさんに尋ねると、地位の高いお坊さんに敬意を表してのことだとか。仏教とヒンドゥー教の対立とは一体何だったのだろうか。
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<校庭のすぐ脇には地雷危険の標識があった>

次いで、セワランカ財団がノルウェー政府からの資金で始めようとしている大規模な養魚池事業の現場に案内された。正午を過ぎ、日差しは益々強く、気温がぐんぐん上昇する。その分、車の中は冷房を効かせているので、風邪気味の体には堪える。耳の不調も改善の兆しは見られない。
養魚池視察の後は、バラティマハ小学校というもう一つの学校に連れて行かれる。ここでは、全校生徒の前でスピーチを求められる。午後3時、セワランカ財団のキリノーチ事務所に到着。やっと、昼食にありつく。早朝コロンボを出発し、朝からあちこちを回っていたので、これが今日初めての食事だった。
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<スピーチを求められた小学校 手前の木はジャックフルーツの木>

食事の後、今度はセワランカ財団がEUなどの資金協力で始めようとしているGoing Greenという酪農プロジェクトの農場に案内される。広大な敷地に建つ建設途中の牛舎など視察しているうちに、気分が悪くなってくる。途中で勘弁してもらって、バブーニヤに向かう。
ここは、内戦を戦っていた政府軍と反政府軍の境界線があったところだ。3時間足らずの行程で、政府軍の検問所をいくつも通る。さすがにわざわざ止められることは余りなかったが、内戦が終結して3年も経った今も、政府軍が警戒を怠っていないことが印象的だった。夜の7時半、漸くセワランカ財団のバブーニヤ研修所に到着。
私が具合が悪いと言ったので心配したウデニさんの計らいで、研修所の宿泊所の部屋には、バケツ一杯のお湯が置いてあった。水しか出ないシャワーにお湯を混ぜて、埃だらけの髪と体を洗い流すと生き返った。夕食は9時半。本当に長い一日であった。

05時 ホテル出発
07時 コロンボ国内線用空港発
08時30分 ジャフナ・パライ空港着
09時  ポンパラマンタ小学校訪問
09時45分  ユニオンカレッジ付属小学校訪問
11時半 ヴェンポドゥケニ小学校(ムハマライ地区)訪問 式典
13時15分 養魚池視察
14時 バラティマハ小学校訪問 式典
15時 昼食
16時半 Going Greenプロジェクト農場視察
19時半 セワランカ財団バブーニヤ研修所到着
21時半 夕食
1年半ぶりのスリランカ経由でミャンマー [2013年03月24日(Sun)]
3月24日(日曜日)
今回の出張は、元々は一週間の日程でミャンマーに直行、直帰を考えて計画していたもの。日本財団がミャンマーで準備中の二つの事業のMOU締結式を首都のネピドーで行う話が進んでいたからだ。そして、それに合わせて、ヤンゴンでの障害者関係の事業などの打ち合わせを計画していた。
ところが、直前になってMOUの作業が大幅に遅れ間に合わないので4月の仏教正月明けに延期したいという連絡が入った。
大幅遅延の背景にあるのは、ミャンマーでの信じられないほど非効率な行政手続きだ。旧体制からの置き土産なのだろうが、煩瑣な形式的手続きを求められることが多い。契約書の文面の数回にわたる手直し、その都度の法的チェックは良いとして、NGOとのMOUまで閣議決定事項だという。これでは、いくら大統領がスピードを求めても叶うものではない。
一方、他の仕事をしようにも、26,27の両日は現地では連休だということが判明。そこで、急遽ミャンマーでの滞在を半分に圧縮、前半の3日間を予てからの懸案だったスリランカ行きに充てることにした。
日本財団は一昨年から、スリランカ最大のNGOであるセワランカ財団を現地パートナーに、内戦で甚大な被害を受けたスリランカ北部の旧反政府勢力支配地域での学校の校舎修復事業を進めてきた。計画の110校が完成したのでその確認と、今後の事業の打ち合わせに来てほしいと、現地パートナーから繰り返し要請を受けていたが、実現が延び延びになっていたもの。
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<バンコクからの便は北京発だった コロンボ空港にて>

成田からバンコクに飛び、バンコク空港でエアランカ航空便に乗り換えた。ところが、スリランカ行きの飛行機は、一旦滑走路に出たあと再びブリッジまで引き返してしまった。機体の電気系統故障だという。それまで資料に目を通したりしていた私は、改めて周りを見廻して見て、この飛行機が中国人の乗客だらけであることに気が付いた。
私の前の席には中国人の夫婦、右前のビジネスマンらしき人もそうだろう。お隣は、明らかにインド系の人だが、分厚い中国語の本に見入っている。そうだ、この便は北京発バンコク経由のコロンボ行きだったのだ。
約2時間も遅れて深夜のコロンボ空港に到着。路面が照明灯に照らされて光っている。滑走路が濡れているではないか。窓には雨粒も光る。はて、まだ、スリランカの雨季には大分早い筈なのだが、、。
荷物を受け取るためのカルーセルの周りは、旗を立てたガイドに連れられた20人ほどの団体さんも含めて中国人が目についた。以前には見られなかった光景だ。近年の外交、経済両面でのスリランカと中国の親密な関係を物語るものであった。
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<中国人の団体客がスリランカまで>

飛行場の出口には、何と深夜であるにもかかわらず笹川トラストの前会長、ダヤシリさんの姿があった。ホテルタクシーを予約さえしてもらえば出迎えはいらない、と断わってあったのに、ゆっくり話したいことがあるからとわざわざ来てくれていたのだ。
中国人客が増えましたねと言うと、丁度一週間前の今日、大統領の出身地であるハンバントータに中国政府支援による空港が開港したばかりとのこと。国際空港と言う触れ込みで、早速、中国やアラブの国を結ぶ定期便が就航したとのことだが、未開発のハンバントータだけでは乗客はいないので、260キロ離れたコロンボ空港経由なのだそうな。これでは、航空会社にとっても乗客にとっても、余計な燃料代と時間がかかるだけで、誠にもったいない話である。
ホテルにチェックインすると、もう1時。日本時間では4時半をとっくに過ぎている時間だ。
明日からの北部行きに同行してくれるセワランカ財団のウデニさんからメッセージが入っていた。朝5時にホテルを出発し、国内線で北部州(Northern Province)の州都ジャフナに飛び、明日はバブーニヤに泊り、明後日、陸路でコロンボに戻ると言う計画。少しでも寝ておかねばと、慌ててシャワーを浴びてベッドにもぐりこむ。日本を出るときから風邪気味だったのだが、飛行機に乗ったせいか耳の具合が悪く、なかなか寝付けなかった。
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<ウデニさんから送られてきた明日の行程図>

11時45分 成田発
16時45分 バンコク着
21時50分 バンコク発
23時45分 コロンボ着
帰国 私の旅の工夫(25) [2013年03月16日(Sat)]
3月16日(土曜日)
朝5時半、ホテルをチェックアウト。暗い中を空港に向かう。今回の出張も、無事終了。
私の旅の工夫(25)は、出張の途中で荷物が急に増えた時の対応策から。
私は短めのマジックテープをスーツケースなどの端に普段から巻き付けている。それは、空港でお土産を買ったりして、ビニール袋一杯の機内持ち込み荷物が出来て、それを機内の収納棚に入れる際、袋から中身が飛び出すのを防止するためのもの。マジックテープでビニール袋の口を閉じておけば安心。他の人の荷物との区別する上でも有効。
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<ビニール袋の口を閉じるのはマジックテープ>

また、出張中に書類が増えたり、壊れやすい記念品をもらったりすることはよくあること。荷物が増えても、スーツケースに余裕があり収納出来れば良いが、収納しきれない場合に備えて、折りたたみ式の布製バッグを常備している。特に、脇にベルトが付いていてスーツケースの取っ手に取り付けることが出来るものは便利で重宝している。
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<折りたたみ式の布製バッグ スーツケースの取っ手に取り付けることが出来る>

05時半 ホテル出発
08時15分 バンコク発
16時05分 成田着
会議、会議、また会議 [2013年03月15日(Fri)]
3月15日(金曜日)
APCDの二ノ宮所長とホテルで落ち合い、ホテルのすぐ前にあるタイ赤十字社本部へ。APCDの理事長でもある赤十字副総裁のテート・ブンナグさんと会う。
日本財団の笹川会長のミャンマー和平日本政府代表就任に関連し、ミャンマー少数民族問題について意見交換。キャリア外交官でありながら外務大臣にまで上り詰めた経験を持ち、今もタイ外務省に大きな影響力を持つテートさんは、大変有意義な仕事だ、自分としてもタイ外務省や、タイ赤十字を通じて協力したいと言って下さった。
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<タイ赤十字社本部>

タイ赤十字社本部での面談を終えて、二ノ宮さんと国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)事務局へ急いだ。日本財団がESCAPに資金協力して始めることになった障害者インクルーシブビジネス賞のステアリングコミティーに出席するためだ。
佐野さん、トムさん、日本財団から出向している間遠さんら先に到着していたAPCDのメンバーも加わり、社会開発局長のナンダさんのきびきびとした司会で会議が始まった。
思えば、丁度一年前、昨年3月にこちらから提案して設置で基本合意した賞であるが、色んな事情から企画の詰めが遅れ、一年後の今日になって漸く第一回目の会合となった次第。
ぴったり2時間かけて、賞の基本的な考え方を再確認し、次回会合の日取りを決めて終了。
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<国連ESCAP事務局のオフィス>

会議を終えて一階のフロアに降りると、ロビーにパネル展示があった。その中に、かつてタイの障害者組織の代表として活躍していながら過労のために急死したトッポンさんの写真を発見。
10年近く前にもなるだろうか、バンコク国際空港が今のスワンナプームに移される前のドンムアン空港の近くにあった彼の事務所を訪ねて、障害者問題について色んなことを教えてもらったことを懐かしく思い出した。
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<国連ESCAP事務局に飾られていたトッポンさんの写真>

二ノ宮さんらとESCAP事務局を出て、今度はチャオプラヤー川岸にあるFAOのアジア太平洋本部に向かった。
先月、国連コンベンションセンターで報告会議を開いた障害者農業実態調査事業の今後の進め方に付いて、事業パートナーであるAPCD、FAOと今後の進め方を協議するためである。
FAOについて、カフェテリアで昼食を簡単に済ませて、地域代表の小沼さん臨席のもと会議。実態調査を今後も暫く続行することで合意。
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<FAOのアジア太平洋本部>

FAOでの会議が終わると、APCDに直行。二ノ宮所長、佐野さん、トムさん、間遠さんらと打合せ。障害者農業実態調査の今後の進めるに当たっての細かな点の詰めを行った。
打合せをしていると、突然、外が騒がしくなった。この季節には珍しい雨。それも、本格的なスコールだ。はて、雨期はまだ何ヶ月も先の筈だったが、、、。
打合せを終えて、ホテルに戻る途中の道路は激しく降った雨を吸収仕切れず、そこかしこで冠水。
夜は、NHK山口記者らとホテルの近くの日本料理店で会食。
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<スコール一過、水浸しになった道路>

08時 ホテル出発
09時 タイ赤十字訪問
10時 国連ESCAP本部DIB笹川賞会議
13時 FAOインクルーシブアグリビジネス会議 
15時半 APCDでの打合せ
19時 NHK山口記者
バンコクへ [2013年03月14日(Thu)]
3月14日(木曜日)
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<空気も清々しい朝の公園>

今日はバンコクへ移動する日。朝のラッシュを心配して、早めに出発することにして、早朝に目覚ましをセット。荷造りは昨夜のうちに済ませていたので、ホテルの前の公園を散歩することに。こんな早い時間でも公園の中は朝の体操をする人々などで意外に賑わっていた。椰子のような大木を中心とする緑の中に鮮やかな花々が咲き乱れ、空気もまだ温まっておらずひんやりとして清々しい。
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<交差点で交通整理する警官>

それでも時間が余ってしまったので、ちょっと早いが7時にホテルの前でタクシーを拾った。乗り込もうとすると、ホテルのボーイも運転手も、早く早くと急かす。どうやら、ホテルの前の通りが駐停車禁止地域なので警察の取締りを心配したらしい。そう言えば、さっき交通警官が居丈高に客待ちのタクシーを追い払っていたっけ。
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<旧態依然とした建物を発見 警察署だった>

車が無事走り出すと、運転手はバックミラーを見ながら、何やら毒づいた。警官に文句を言っているらしい。噂によると、小さな違反に言いがかりに近い文句をつけて小遣い稼ぎをする不徳警官が少なくないらしい。ベトナムに限らず、途上国はどこでも警察官の人気は低い。
途中、古ぼけた建物の前を通った。垢ぬけたビルが増えつつあるホーチミンでは、今や少なくなりつつある典型的な社会主義時代の建物である。看板を見ると、警察署であった。政府の予算も警察署の改築にまでは廻りかねているようだ。給与水準も低いままに置かれているのかも、とちょっぴり同情。
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<社会主義国でも落書きは取り締まれないようだった>

タクシーの運転手が私に、何人かと聞く。日本人だと告げると、「日本は良い国だ」とトヨタ、ソニー、何とかと片っぱしから日本メーカーの名前を挙げ始めた。一段落すると一言、「中国は良くない」。そう言えば、昨日乗ったタクシーの運転手からも同じようなことを言われたのを思い出した。ベトナム人は総じて、日本びいきである。ただ、「中国は良くない」と付け加えるようになったのは、やはり、最近の南沙諸島を巡る中越関係の悪化を反映してのことのようだ。
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<朝のラッシュが始まった>

朝のラッシュは始まっていたが、比較的スムーズにタクシーは進み、出発予定時間より約3時間も早く空港に到着。
昼前に、バンコクに到着。午後は、APCDに出向している日本財団職員の間遠さんと打合せ。そのまま、彼と一緒にフジテレビ江藤支局長と会食。

07時 ホテル出発
10時20分 ホーチミン発
11時45分 バンコク着
18時 間遠さん打合せ
19時 フジテレビ江藤支局長
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