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大野修一(日本財団)
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最悪の旅終わる 私の旅の工夫(16) [2012年02月26日(Sun)]
2月26日(日曜日)
朝6時ホテルを出て、空港に向かう。日曜日の朝なので道路はスムース。8時15分バンコク発の便で帰国の途に。パリからナイロビを廻り、さらに、ヤンゴンも加えて丁度一週間の慌ただしい旅が終わった。今回は、私の旅の工夫(16)として、今回ヤンゴンでも使った名刺代わりのメモ用紙について。
名刺のルーツは知らないが、少なくとも、私の経験からは、一番多用するのは日本人ではなかろうか。欧米人は名前を名乗って握手して終わり、ということもそれほど珍しいことではないし、貧しい途上国の場合は、政府のお役人でも、下の人はあまり持っていなかったりもする。
しかし、大勢の人に紹介されることが多い上、現地の人の名前を聞いても直ぐに覚えられない私のようなものにとっては、名刺はとても有益。そこで、海外出張中は名刺を切らさぬよう予備の分も含めて大量に持っていくのだが、反対に、相手が切らしていたり、名刺を持っていないことがままある。そんな時に、威力を発揮するのが名刺サイズのこのメモだ。
meishifile.jpg
<名刺代サイズのメモ用紙に書いてもらう>

帰国したら、もらったばかりの他の名詞と同様に、そのまま名刺ホルダーファイルに日付順に入れて整理している。
meishifile1.JPG
<書いてもらったカードは名刺ホルダーファイルに日付順に整理>

06時 ホテル出発
08時15分 バンコク発
16時05分 成田着 
土曜日のバンコクでミーティング [2012年02月25日(Sat)]
2月25日(土曜日)
0225suzuki.jpg
<現地生産が始まったのでスズキの新車も良く見るようになった>

朝7時過ぎ、荷作りを終えた荷物をベルボーイに引き渡し、チェックアウトをするため下に降りようとしていると、ホテルの部屋の電話が鳴る。外務省の元ASEAN局長エルウィンさんだ。約束は7時半だったが、もう着いたので下で待っていると言う。
彼は昨日まで首都のネピドーでの国際会議に出席していたため、今回の出張で私と会えるのは出発直前のこの時間しかないというので、朝食を取りながら、打合せ。
それを終えて、8時過ぎにホテルを出て空港に向かう。途中で、横に並んだトラックの脇腹になにやらへんてこなカタカナ文字に気付いた。「ステリックサンシェード」? 恐らく、日本からのこの中古トラックに書いてあったものを、車体を塗り替えた後に、自分たちで再現したもののようだ。
日本の文字が書かれている車の方がかっこ良い、と見られているこの国ではよくみかける光景だ。
0225repainted.jpg
<自動車の脇腹にはお手製の日本語の文字>

バンコクでは、土曜日にも拘わらず、FAO(国際連合食糧農業機関)アジア代表の小沼さん、APCDの二ノ宮所長らに集まっていただき、障害者のための農業支援事業についての食事会を兼ねたミーティング。新たに日本財団がAPCDを加えた3者で始めることになった調査にFAOも正式パートナーとして加わってもらうことになったのだ。


07時15分 ミャンマー外務省元ASEAN局長エルウィンさん
08時10分 ホテル出発
10時55分 ヤンゴン発
12時50分 バンコク発
14時 ホテル到着
18時  APCD出向間遠さん
18時半 FAO小沼アジア代表らと夕食
ミャンマー国営テレビ・ラジオ局のスタジオへ [2012年02月24日(Fri)]
2月24日(金曜日)
0225OldCar.jpg
<凄まじいほどのオンボロ車内>

今日は久しぶりに朝寝をして、昼前に起きる。お陰で、パリ以来、悩まされていた耳の痛みもすっかり取れたようだ。エルウインさんの手配で、情報省テレビラジオ局から担当のお役人がホテルに運転手付きの車で来てくれた。とは言っても、辛うじて動いているという程度のぽんこつ車。ミャンマー政府の他の省の公用車と大差ない。情報省は軍事政権下では泣く子も黙る権力者だった筈なので、少しは贅沢をしているのかと思っていたが、どうも、誤解だったようだ。
しかし、さすがに、英語のうまい、情報省派遣のこの担当者氏、初対面なのだが、名刺は持ち合わせていないと、肩書きも、所属も教えてくれない。名前も、英語式のステイーブだと名乗ったのみ。そこで、私がいつも持ち歩いている名刺サイズのメモ用紙を出してそこに書いてもらう。普段だと、名刺代わりに有効なのだが、さすが、情報省スタッフ、何とか自分の名前と電話番号は書いてくれたが、肩書も所属部署の名前もなし。徹底して余計な情報は出さないつもりのようだ。
0224TalkShow.jpg
<国営テレビ局のスタジオではミャンマー美人によるトークショー>

彼に連れて行ってもらったのは、情報省がネピドーに移転するまで入っていたビル。その中に、ミャンマー国立オーケストラの本部があるというので案内されたのだ。話は、一月にネピドーの情報省でテレビラジオ局長に面会したことが発端だ。その時に、オーケストラの支援の要請を受けたのだ。今回は、そのオーケストラが本部で練習している様子を見せてくれるというのだ。同じ敷地内にミャンマー国立テレビ局のスタジオもあり、そちらを見学したあと、オーケストラの事務室、練習室を見て、代表者に話を聞くことが出来た。ただ、すべてはステイーブ氏の通訳を通して。都合の悪い話は、ステイーブ氏がはぐらかす。以前よりは開放的になったとはいえ、情報省の末端でのメンタリテイーは直には変わらないようである。
0224Orchestra.jpg
<ミャンマー国立オーケストラの練習場>

その次に案内されたのは、国立劇場。舞台裏から劇場の中に入ると、ステージでは何と若い女性歌手によるロックバンドがリハーサル中。国立劇場の正面入り口に回ってみると、この女性バンドのコンサートの巨大な看板が掲げられてあった。タンシュエ将軍は、大のロックバンド嫌いで有名だった筈。このような、バンドが国立劇場で公演を許されるというのは、新政権の開放政策によるものか。
0224NatTheatre.jpg
<国立劇場の前には女性ロックバンドによる公演を予告する看板が>

一旦、ステイーブ氏にホテルに送ってもらう。小休止のあとは、今度は一人で、ホテルタクシーで国際赤十字へ。前回は、彼の出張と重なり、電話で話しただけだったニニンジャーさんと、会って、国際赤十字の活動について尋ねるとともに、技師装具師養成校の設置に向けた意見交換。大変大きなニーズがあることを確認。色々、アドバイスをもらう。
夜は、国連平和大学卒業生のチーチーさんらとホテルのレストランで夕食。


12時半 ホテル出発
13時 情報省傘下MRTV訪問
16時半 国際赤十字訪問
19時 日本財団元奨学生と夕食
ミャンマー医師会を訪問する [2012年02月23日(Thu)]
2月23日(木曜日)

ドーハから、現地時間の夜9時前に乗り込んだバンコク行きのカタール航空機は、わずか6時間足らずの飛行でバンコク上空に到着。早朝のスワンナプーム国際空港に向けて降下を始める。4時間の時差があるので、バンコクはもう朝の7時。
すると、薬が切れたのか、再び、耳が塞がれた感じがして痛み出す。やれやれ厄介な耳だ。しかし、パリでもらった薬も一日に飲む回数は3錠までと決められているので、もうこれ以上は飲むことも出来ないのでひたすら耐える。
バンコクの空港では2時間弱の乗り継ぎ。リビーでヤンゴン行きを待っていると、突然、自分が疲労困憊しているのに気付いた。確かに、今回はちょっと無理のあるスケジュールだったかもしれない。
定刻通り、10時過ぎにヤンゴン空港到着。ホテルからの迎えの車に乗り込む。
0223YGNview.jpg
<パラミット病院の屋上から緑濃いヤンゴン市を俯瞰する>

ホテルにチェックインしてすぐに、一階のレストランへ急いだ。ミャンマー自立生活運動(MILI)代表のネイリンソーさん、アウンコミンさん、とユヤトウさんらいつもの三人と合流。食事をしながら、障害者芸術祭に関する打合せ。
そこへ、ASEAN事務局のスリン事務局長特別顧問のラジャさんが合流。彼をMILIのメンバーに紹介しようとすると、何と先ほどまで、スリン事務局長を囲む市民運動、NGOの代表者の会議で、一緒だったと言うではないか。
元々、ナイロビからの帰途、ヤンゴンに立ち寄ることになったのは、ラジャさんに、どうしても会いたかったからだ。このところ、彼とはすれ違いが多く、数ヶ月間もの間会えていなかった。つい数週間前も、スリン事務局長と日本に行くので会おうと言われながら、私はその時は、ミャンマー滞在中で会えずじまい。今回は、彼の方が、スリンさんと一緒にミャンマーに滞在していると言うので、この機会を逃しては何時会えるかも分からないと、やや強引なスケジュールだとは思ったが、帰国の行程を変更して、ヤンゴン行きを加えたもの。
ラジャさんは、今日はこの後、スリンさんと一緒の特別機でジャカルタに戻るというので、MILIのメンバーには芸術祭の資料を渡し、それをもとに話し合ってもらっている間に、ラジャさんと打合せ。一時間ほどで慌ただしく帰っていった。
0223Parami.jpg
<マンツーマンでの自閉症児教育が行われていた>

その後、MILIのメンバーと話の続きを済ませ、レストランの清算を済ませて、ロビーに戻ってみると、既に、ミャンマー保健省の善伝統医療局長のティンニュント博士が待っていた。彼の運転する車で、私立の有名な小児科病院であるパラミット病院へ。病院の敷地内に院長のテインアウン博士らが設立した、自閉症やダウン症などの子供たちのための教育を行うニューワールド療養訓練センターに連れて行ってもらう。この学校は、ミャンマー医師会の幹部有志がボランテイアとして運営しているもので、手狭になったことから、移転を計画中。ティンニュント博士は、ボランテイアメンバーの一人で、移転のための資金調達につき相談を受けたもの。
その後、やはりティンニュント博士の案内で、ミャンマー医師会を訪ね、幹部メンバーを紹介された。その後は、YMCA本部に行き、ニューワールド特殊学校の移転用地の提供を申し出てくれたというYMCAのタニャンソニー事務局長に会う。
YMCA本部を出てみると外は暗くなっていた。ホテルの近くのシャン料理店でティンニュント博士と二人で夕食。ホテルの部屋に戻ったのは8時。ながーい一日が終わった。あー、疲れた。
0223MMA.jpg
<ミャンマー医師会の本部建物>

07時00分 バンコク着
09時15分 バンコク発
10時05分 ヤンゴン着
12時半 ミャンマー自立生活運動(MILI)打合せ
13時 ASEAN事務局長ラジャ特別顧問
14時半 ニューワールド特殊学校訪問
16時 ミャンマー医師会訪問
18時 ミャンマーYMCA訪問
19時 ティンニュント博士と夕食
ドーハ、バンコク経由でヤンゴンへ15時間の旅 [2012年02月22日(Wed)]
2月22日(水曜日)

昨晩、UNEPのレセプションで会ったばかりだったが、当初の約束通り、笹川アフリカ協会(SAA)のルース・オニヤンゴ会長がホテルに来てくれた。アフリカでの農業事業や、一般的なケニヤの政治状況など、二人で一時間余り話し合った。普段は、SAAの理事会で顔を会わせるだけで、ゆっくり話したことがなかったが、昨日、今日と、ゆっくり話すことが出来、有益だった。
ルースさんとの面談を終えて、11時半、タクシーで空港へ。快晴、太陽がまぶしくて目を開けていられないほど日差しが強い。到着した時と同様、道路はとても混雑している。ノロノロ運転する車の間を縫って色んな物売りがやって来るのは途上国ならどこでも見られる風景だ。すると、向こうから何やら二人ずれがやって来た。近づいてみると、それは一人の盲人の乞食と、彼をガイドする役割の男性の姿だった。
0222blind.jpg
<渋滞待ちの車を縫って物乞いをする盲人>

ナイロビで乗り込んだドーハ経由のバンコク行きはカタール航空機。随分昔だが、一回、載ったことがある。イスラム教国の飛行機だが、機内では、お酒は飲める。しかし、イスラム教国の飛行機だけあって、機内の飛行情報を示すディスプレイには、メッカの方角が距離と一緒に表示されている。
ナイロビからドーハへは、東北に向かって進むことになると思い込んでいたが、実際には殆ど真北に進む格好になる。そのため、意外にも両国間に時差は無いことを発見。
ナイロビを飛び立った時は良かったが、ドーハ空港へ降下しているうちに、もう直ったと思った耳の痛みが再発。地上に降り立った後も、鋭い痛みにに悩まされる。耳も良く聞こえない。乗り継ぎの段取りを地上係員に聞くのだが、良く聞こえないので、身振りでよく聞こえないと言うゼスチャーをする。
現地時間の夜7時過ぎにドーハに到着、1時間半程の乗り継ぎの間、耳の具合を何とかしようと、パリで貰った薬を飲んだり、点耳薬を差したりして過ごす。20時45分、おっかなびっくりで再びカタール航空機に乗り込む。バンコクに早朝に到着する夜行便だ。薬が効いたのか、今回は、離陸時は耳の問題もなく、熟睡。
0222Mecca.jpg
<メッカの方角を示す機内のディスプレイ>

10時 SAAオニヤンゴ会長
11時半 ホテル出発
14時15分 ナイロビ発
19時10分 ドーハ着
20時45分 ドーハ発
国連環境計画(UNEP)の笹川賞授与式で挨拶 [2012年02月21日(Tue)]
2月21日(火曜日)
0221Airport.jpg
<ナイロビ空港に着いた>

ロンドンから約9時間のフライトでは薬のお陰で耳の痛みもほとんどなく、熟睡することが出来た。しかし、そのため、朝食をと取りはぐれる。朝9時半、ナイロビ空港に到着。
今日は、私のホテル到着に合わせて、ケニア全国聾者協会(KNDA)のニクソン・カキリ会長にホテルに来てもらって、その後、KNDA本部などを訪問することになっている。
しかし、飛行機の到着が遅れた上、空港からナイロビ市内の道路も拡張工事中で大渋滞。中国政府支援による国際協力案件であるという。近年活発化している中国のアフリカ支援の一例にすぎないのだが、日本政府や、我々日本財団にも、協力支援を求めながら、片方では、アフリカをはじめとする途上国に対しては自国の影響力増大を目指して、国際協力の手を差し伸べる中国という国の姿勢には大いに疑問を感じる。
0221congestion.jpg
<ホテルへの道路は中国政府の支援による拡張工事中>

このままでは、ニクソンさんとの約束に間に合いそうにない。そこで彼に連絡しようとするも、連絡先を書いた資料の入った鞄は車のトランクの中。そこで、携帯電話で、東京の財団本部を呼び出し、彼の持つブラックベリーにメールで連絡してもらうことに。
当初の予定より遅れること1時間、漸く、ニクソンさんとホテルで落ち合い、ケニア全国聾者協会(KNDA)に連れて行ってもらう。本部事務所でニクソン会長ら幹部メンバーからKNDAの活動状況について説明を聞く。
日本財団が少額ながら支援しているが、財政的にはなかなか大変な様子。それでも、地場企業のスポンサーを見つけてイベントを開催したり、手話ハンドブックを作って配るなど一生懸命、啓蒙活動を展開している、という。非常に熱心なメンバーの説明に、こちらも引き込まれてしまい、ふと気がつくと、2時近く。
0221Nickson.jpg
<ケニア全国聾者協会を表敬訪問>

朝から何も食べていないのでとても空腹だったが、これから、ナイロビ大学の手話研究室に案内してくれるという。みんなも、昼食抜きで、そのまま、ナイロビ大学の言語学部へ。
言語学部の入り口には、何と、「孔子学院」のプレート。中国政府肝いりの、外国人のための中国語教育機関である。大学内の掲示をみると、アラブ語やスワヒリ語と並んで中国語コースもあったのにはびっくり。担当教授や人文学部長と面談。
0221Confu.jpg
<ナイロビ大学には孔子学院が設置されていた>

一旦、ニクソンさんらと別れ、私は着替えをするために、ホテルに戻る。6時過ぎに、国連アフリカ本部へ。今夜は、日本財団が国連環境計画(UNEP)に20年前に設置した環境問題分野で活躍した個人や団体を表彰するための笹川賞の終了を記念するための式典が行われる。私は、日本財団を代表して挨拶をすることになっている。
国連アフリカ本部の広大な敷地内に設置された巨大なテントが会場だった。参加予定者は何と700人とか。その前の芝生ではカクテルパーテイーが始まっていた。笹川アフリカ協会のルース・オニヤンゴ会長らと話し込む。
0221Banquet.jpg
<参加者500人の大パーティー会場>

UNEP環境大臣会合を終えた各国の環境大臣やシュタイナー総裁が到着し、記念式典が始まったのは予定時間を30分ほど過ぎた19時半。すぐに、食事にありつけると思ったが、私自身のスピーチや、歴代総裁の挨拶、記念のビデオショーと続き、漸く食事が始まったのは8時半。昨日の夜から何も食べていなかったので、ありがたかったが余り美味しいとは思えなかった。
食事が終わって10時近くになっても終了のアナウンスもなく、シュタイナー総裁らは残って談笑していたが、気がつくと、辞去する人も少なくない。私も失礼してタクシーを拾い、一人、ホテルに戻った。時計を見ると夜の10時半。長い一日だった。疲れた。

09時30分 ナイロビ着
10時15分 ホテル到着
11時45分 ホテル出発
12時 ケニア全国聾者協会訪問
14時 ナイロビ大学訪問
17時50分 ホテル出発
18時半 国連環境計画(UNEP)本部 
19時半 笹川賞記念レセプション
22時半 ホテル帰着



深夜の羽田出発 [2012年02月20日(Mon)]
2月20日(月曜日)
深夜の羽田空港から、パリに向けて出発。ただし、今回の出張の本来の目的は、国連環境計画(UNEP)で長らく日本財団がスポンサーになって行われてきた笹川環境賞の集結に伴う記念式典への参列。折角なので、途中、パリに半日だけ立ち寄り、フランス最大の助成財団であるスクールポピュレールフランセ(Secour Populaire Francais=SPF)の本部を訪問することにした。また、帰途には、ASEAN事務局の幹部らとのミーティングが入ったのでバンコク、ヤンゴンを経由する南回りルートとしたため、極めて、行程の長く複雑な出張となってしまった。
生憎、出張の数日前から風邪気味となり、鼻が詰まり気味。何年も前になるが、同様のコンディションでブラジルに出張し、内耳炎を発症、難聴になって現地で医師のお世話になってしまったことを思い出し、いささか不安な気持ちで出発。
果たして、離陸時も、水平飛行時も耳の具合は、大丈夫だったのでほっと安心していたのだが、降下時に空気抜きが出来なくなり、どんどん耳が痛くなりだした。パリに着陸した後は、痛みはなくなったが、ホテルにチェックインした時点でも、耳がよく聞こえない状態。11時に迎えが来て、徒歩で数ブロック先のSPFへ。途中、ドラッブストアを見つけて、中に入り、耳の薬を購入。

<SPF>
<SPF本部が入るビルの入り口>

SPF本部に入ると、アスネ博士以下、国際担当のグループが待っていてくれた。私が手に持っていた薬の袋に注目が集まったので、耳の話をすると、アスネ博士が自分は耳鼻科の医者なので後でみてあげる、という。何という幸運。
ミーティングが終わると、彼は近くにあるからと、わざわざ、自分の診療所に出掛け、聴診器等の入った大きな黒い鞄を持って戻って来て、私の耳を診断。そして、何と、薬を処方し、霊の薬局でそれを手に入れてくれた。そして、彼の車で、そのまま、オルリー空港まで私を送ってくれた。フランスでの滞在時間は僅か13時間。
アスネ博士の薬のお陰で、ロンドンへの飛行機の中では、耳の痛みも全く感じることなく、短い時間だったが熟睡することが出来た。
ただ、難聴状態は続いたまま、機内のアナウンスも、空港の係員の言葉も非常に聞き取りづらい、耳に手を当てて、聞こえにくいことをポーズで知らせようとするが、怪訝な顔をされるだけ。聴覚障害者の気持ちが良くわかる。
ロンドン発ナイロビ行きの飛行機は一時間ほど遅れての出発。

01時30分 羽田発
06時20分 パリ着 
11時 スクールポピュレールフランセ訪問
12時 スクールポピュレールフランセ会長と昼食
16時 ホテル出発
19時20分 パリ発
19時40分 ロンドン着
22時10分 ロンドン発
帰国へ 私の旅の工夫(15) [2012年02月02日(Thu)]
2月2日(木曜日)
今年に入って早くも3回目という出張が終わった。いつもの、ルートで無事帰国。今月は下旬のアフリカ行きまで海外出張は無し。
さて、私の旅の工夫(15)として、ホテルのカードキーを使う上で私がしているちょっとした工夫を紹介することにしよう。
最近のホテルはカードキーで部屋に入った後、キーを差込口に入れておかないと、部屋の電気の電源が入らない仕組みになっていることが多い。それだけでなく、部屋の電源が、Don't disturbe. の表示と連動しているホテルも少なくないが、そのような場合は、食事のために空ける僅かな時間にも表示が消えてしまうので、部屋の清掃などで従業員が入室するのを防ぐ術がなく、部屋を出る場合は、いつも、それなりの心構えが必要になってしまう。また、部屋を出ると、その間、電気が切れてしまうために、携帯電話やパソコンの充電が出来なくなる。
<カードキーの形状も様々なので、一通り各種が必要になる>

こうしたときに、もう一枚カードキーを貰っておくと、一枚は差し込んだままに出来るので、「入室禁止」にしたまま部屋の外に出ることが出来る。
しかし、多くのホテルでは、カードの形状さえあっていれば電源は入るようになっていることが多いので、いちいち、カードキーをもう一枚頼まなくても、似たような形状のカードであれば、電源が入るように設計されているのが普通。従って、裏に磁気テープが付いているものであれば、クレジットカードなどでも済むことが多い。
ただ、ホテルによっては、磁気方式ではなく、チップ埋め込み式のカードだったり、細長い独特の形状のカードを使っていたりするので、このような場合は、もう一工夫が必要になる。
私の方法は、過去に泊まったホテルで貰ったカードキーを各種貯めておき、それを、各ホテルの形状に合わせて使うこと。各種と言っても、これまでの経験からは、カードキーである限り、大半のホテルが既製のシステムを使っているのでせいぜい6,7種類くらいに限られる。
これらのキーは、断っておくが、何も、わざと持ち出したのではなく、ついつい返却忘れなどで溜まってしまったもの。そこから、思いついた方法なので、念のため。


5時半 ホテル出発
8時15分 バンコク発
16時05分 成田着
ニサラートさんのお見舞いに [2012年02月01日(Wed)]
2月1日(水曜日)
午前中は昨日に引き続いて、スターレーティングシステム(SRS)について討議。
その結果、浮上したのは、来年から始まるアジア太平洋の障害者の10年(第3次)に合わせて、障害者に対するユニークな取り組みをした企業を表彰するスキーム。
バンコクに本部を持つ国連機関であるESCAP(アジア太平洋経済社会委員会)とAPCDが協力して対象となる企業の選抜を担当し、選考や表彰式などにかかわる経費については、日本財団が必要資金を負担するという構図だ。
また、スターレーティングシステム(SRS)については、表彰事業を先行させたあと、関心のある企業や障害者団体などが、ESCAP、APCDを核に集まり、運営機関を設立する。具体的な、格付けの仕組みや、評価基準については、企業も加わった運営機関でさらに詰めることになろう。

<シリントン義肢装具士養成校>

APCDでの会議を終えて、午後、私はシリントン義肢装具士養成校のスタッフであるタニットさんの運転する車で、マヒドン大学付属シルラート病院へ。
シルラート病院とは、タイ国王が入院されている病院だ。何故、シルラート病院に出向いたのかと言うと、日本財団が支援しているマヒドン大学シルラート病院医学部に併設されたシリントン義肢装具士学校の校長であるニサラート博士が事故に遭い、入院していると聞き、お見舞いをするためだ。

<用済みの無数の土嚢が積み上げられていた>

途中、シリントン義肢装具士養成校の前を通ったので、洪水の被害を見せてもらうために立ち寄った。幸い、建物は少し高くなっていたので、一階でも被害は余りなく、清潔な白い廊下はきれいに磨きられていたので安心した。
ただ、学校と医学部学生寮との間の広大な敷地には、用済みになった無数の土嚢がうず高く積み上げられて小山のようになっていた。

<入院中の国王警護の警官がエレベーターをチェック>

お見舞いに行くに当たっては、当地の習慣が良く分からなかったので、APCDのタイ人スタッフに手土産を用意してもらった。日本と同様、フルーツバスケットが良かろうということで、山盛りの果物入りのバスケットと、お見舞いカードまで準備してくれたものを渡された。ずっしり重い、果物籠の中には、リンゴや、ブドウ、みかん、柿、梨などといった日本でお馴染みのものが並んでいた。そうか、これらはすべて南国であるタイでは貴重で珍しい、エキゾチックな輸入ものなのであった。これに日本から持参したお菓子を添えて病院に向かったのだった。
<とっても清潔で近代的な病院内部>

幸い、ニサラートさんは大変元気そうだった。休暇中のチェンマイのリゾートの坂道で自転車を運転中に転倒して、坂の下の岩にぶつかり、身体のあちこちを傷つけ、何針も縫うほどの大けがをしたのだが、不幸中の幸いと言うべきか、顔の傷跡は小さく、脊髄損傷を一時は心配された背中の怪我も大したことにならず済んだ。一時は動かせなかったという右足も動かすことが出来るまでに回復していた。
お陰で、とても楽しいお見舞いになった。

<シルラート病院からの帰途は、チャオプラヤーを船で>

8時 ホテル出発
9時 Inclusive Business会議
12時 トーマスさん打合せ
13時 APCD打合せ
15時 ニサラート博士お見舞い
18時 朝日新聞藤谷アジア総局長

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